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手取川左岸のもう一人の豪族

 FM-N1では、これまで末松廃寺(野々市町末松、国指定遺跡)の建立の謎を追いかけてきた。
 現時点の答えは、天智王朝が手取川右岸の扇状地を開拓して屯倉とするため、人心掌握を図る文化的象徴であった。同王朝によって近畿地方から送り込まれた秦氏らの渡来系の人たちが指導者となり、廃寺の建設、扇状地の開拓に当たったほか、手取川左岸を本貫地としていた財部氏が協力させられた、というものである。
 もちろん、末松廃寺の謎が全て解けているわけではない。しかし、廃寺金堂の瓦を作ったとされる財部氏の謎の解明なくして、古代の加賀(越前国江沼郡、同加賀郡)の興隆衰退を知ることは不可能と思っていた。
 そんな折り、3月7日に、能美市教育委員会の主催による「秋常山古墳群」と「西山古墳群」の現地説明会があり、仕事を抜け出して出かけた。
 両古墳群は、「和田山古墳群」「末寺山古墳群」「寺井山遺跡」の古墳群と一体となって能美古墳群を形成している。平野部に近接する丘陵地に古墳が営まれている。弥生時代末期から古墳時代後期までの約400年間に渡り、方形周溝墓、方墳、前方後方墳、前方後円墳、円墳など様々な54基をかぞえるという。
 現地で、同市教委の職員に質問したところ、これらは一つの氏族によって営まれた可能性が高い、という。
 答えは予想していたが、実際に現地を歩き、秋常山1号墳の墳頂から望んだ扇状地は雄大な規模であった。

 この秋常山古墳は全長約140メートルの前方後円墳であり、石川県内では最大の大きさである。西暦400年ごろの築造という。
 当然、末松廃寺の創建より古く、260年ほど前のことである。古代における北陸では、もっとも古くから栄えた豪族、という趣がある。古墳の副葬品などからも、その権勢が偲ばれるのである。
 古代の江沼郡には日本書紀にも登場する江沼臣(えぬのおみ)がいたが、江沼臣より、歴史の上では存在感の薄い財部氏の方が力をもっていたのではないかと思ってしまう。
 能美古墳群の主が、実は江沼臣ということもなさそうである。
 越前国江沼郡は、弘仁14年(823年)に越前から独立して加賀国が誕生した際、南半を江沼郡とし、北半を能美郡としたことからも古墳群の主は財部氏とみるのが適当であろう。
 そしてまた、謎が一つ生まれた。古代豪族は、その土地の名前を付けられるという。が、加賀郡の豪族が道君であったように、能美郡の豪族も能美氏ではなく財部氏なのである。手取川扇状地は右岸も左岸も特別な地域なのだろうか。
 財部というのは、古代の部民制(べみんせい)に由来する名前である。
 歴史学者の門脇禎二さんによると、財部の名は、古代キビ(吉備)王国の中に制度として現れてくる、という。ヤマト(近畿)の王権成立より以前のことである。備前の上道氏の勢力圏であり、一族の財力や財源(稲)の確保を担っていたらしい。
 つまり、能美古墳群を営んだ一族も、手取川左岸で稲作を行い、力を蓄えていった過程が想像される。主従関係ではないが、能美一族は土地の名前よりも、その社会的な機能の特徴によって近畿地方の勢力によって認識されていたのではなかろうか。
 それが道君と同様であれば、手取川扇状地を中心とした古代・加賀の国(越国の一部)は近畿地方の王権を支える穀倉の役割を果していたのかもしれない。
 現地説明会からの帰り際、能美市教委の職員から驚くべき話を聞いた。
 能美古墳群からやや離れた周辺に点在する古墳も、発掘調査が進むにつれて、能美古墳群と同一視されるようになったという。そうすれば古墳数は54基から百を超す数に膨れ上がるという。
 帰り道、車で手取扇状地を走りながら、両岸に広がる屯倉の風景を想像してみるとハンドルは軽かった。

Permalink | 2009年3月12日 16:02 | 宮崎正倫
末松廃寺の所在地
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ののいちガイドマップ


末松の大寺
末松廃寺の塔心礎


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出土した和同開珎の銀銭


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単弁六葉蓮華紋の軒丸瓦


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塔心礎遠景


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