末松廃寺・第4話「どの寺が手本?」
2018年10月15日
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺・第4話「どの寺が手本 ?」
末松廃寺(野々市市末松2丁目)は斉明6年(660)以降に造営が開始され、天智9年(670)頃には一応完成したのではないかと見られています。
昭和の発掘調査によれば、同廃寺は西に金堂、東に塔を配置し、学問上の分類は法起寺(ほうきじ)式様式ということになります。寺院の建物を総称して七堂伽藍と呼ぶこともあります。金堂、塔、講堂、鐘楼、経蔵、僧房、食堂(じきどう)を言います。この中でも一番神聖な場所とされるのが金堂、塔のある中心伽藍・塔院で、周囲には結界の意味で回廊が巡らされ、南に面して中門が設けられます。更にその外側には築地塀と南大門が寺域全体を取り囲んで外界とは異なる宗教空間を作り出しています。
昭和の発掘調査報告書によると、末松廃寺から出土した七堂伽藍の遺構は、創建当時のものでは金堂跡、塔跡だけでした。金堂の西側からは周囲の地盤より固い幅2m程の地層が見つかり、回廊の役割を果たす築地塀の基壇跡と推測されました。塔の東側からはやはり、掘っ立て柱の柱穴が見つかり、築地塀とは構造が異なるものの、掘っ立て柱の回廊が続いていると見做されました。
また、金堂跡に重なりながら、少し向きを東側に振られた再建金堂跡も確認されました。奈良時代の初め頃に一度、倒壊したために建て替えられたとみられ、再建金堂跡と建物軸を同方向にした建物跡も数棟出土しました。再建期の講堂と付属建物ではないかと思われます。この他にも11世紀中頃(平安時代中頃)までの遺構が続き、以後は途絶えます。
◇法起寺式を真似たのではない末松廃寺◇

話は同廃寺の創建当時に戻ります。先に、西に金堂、東に塔の伽藍配置は法起寺様式に分類されると言いましたが、実は法起寺の完成は末松廃寺の後になるのです。
法起寺は舒明(天皇)10年(638)に金堂の建立が始まります。塔については、発願そのものが天武(天皇)13年(684)と金堂から半世紀が過ぎていて、末松廃寺の完成後になります。塔の完成は文武天皇の慶雲3年(706)まで待たなくてはなりません。
法起寺の金堂造営時に、既に寺院全体の伽藍配置が決まっていて、同寺を手本に末松廃寺の伽藍計画を立てたというには無理があるような気がします。そうならば、末松廃寺は大和にあったどの寺に倣って造営されたのでしょうか。地方の白鳳寺院が国内で最初の独自型式を採ったとは思えません。
そこで、第3話「蕃神が産業革命」でお話した仏教伝来の話を思い出してみましょう。
廃仏派の物部氏を破って政治の実権を握った蘇我氏一族はその後も、次々と寺院を建立していきます。代表的な寺院としては、聖徳太子が四天王寺と法隆寺を。蘇我馬子が飛鳥寺を、という具合です。これらの寺院の伽藍配置をみていきましょう。
四天王寺は中門、五重塔、金堂、講堂それぞれの建物中心が一本の直線状にくるように並んでいます。中門と講堂を結んで回廊が取り囲んでいます。法隆寺では、中門と講堂が一直線に並び、回廊の中には西に五重塔、東に金堂が配されています。
蘇我馬子の飛鳥寺もやはり、四天王寺のように中門と五重塔、中金堂、講堂が一直線上に並びます。更に、五重塔の東西にもそれぞれ金堂を配するという荘厳な造りとなっています。回廊は中門から延びて、中金堂と講堂の間を抜けて塔院を囲んでいます。従って講堂は完全に中心伽藍の外側に置かれます。
◇伽藍配置は川原寺に近い◇
もう一つ、推古天皇が「三宝興隆の詔」を発布して仏教を公認した後に、国が建立した大寺があります。推古の次の代である舒明天皇が発願した百済大寺(吉備池廃寺、奈良県桜井市)です。舒明の皇后であった皇極天皇(後の斉明天皇)が造営事業を引き継いで完成させました。平成9年に予備調査が始まり、まだ全ての発掘は終わっていませんが、法隆寺と同様に、西に塔、東に金堂が置かれています。塔は基壇の大きさから九重の高さがあった、と言われています。工事には「近江と越」の民が動員された、という記録が日本書紀にあります。
ここまで、代表的な大和地方の寺院を眺めても、末松廃寺のように法起寺式の伽藍配置はありません。
西に金堂、東に塔という配置が現れるのは、更に時代が新しくなった天智天皇の代になってからです。奈良・飛鳥の川原寺(かわらでら)です。斉明7年(661)に薨去された斉明天皇の冥福を祈るために670年代までに天智天皇が発願したとされています。
伽藍配置は中門と中金堂、講堂が一直線上に並んで、塔は線上から外れます。中門と中金堂を結ぶ回廊に囲まれた中心伽藍には西に金堂、東に塔の新しい配置が初めて現れます。
明らかに、蘇我氏中心の飛鳥時代の様式から百済大寺を経て、蘇我氏本宗家を倒した皇極4年(645)の乙巳(いっし)の変を境に、新しい構想に転換していくようです。これを後に、法起寺式と呼ぶようになったのでしょう。
◇塔跡周辺から川原寺様式の瓦が出土◇
川原寺と末松廃寺の造営時期は全くと言っていいほど重なります。天智天皇の発願に際しては川原寺の様式は決まっていたと思われ、簡略ながら末松廃寺に適用されたとしても、あながち無理な推測とばかりは言い切れない、と感じています。川原寺を手本としたならば両寺院は同時並行的に造営されたことになります。
昭和の発掘に際して、実は川原寺式の軒丸瓦片が1点、末松廃寺の塔跡付近でぽつんと見つかっています。持ち込まれた時期や目的は分かりませんが、偶然の産物だったのでしょうか。(宮崎正倫)
次回は10月18日「条里説が強まる」です。