末松廃寺・第5話「条里説が強まる」
2018年10月18日
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺・第5話「条里説が強まる」
平成27年度から4カ年計画で進められた末松廃寺跡の発掘調査は、昭和の発掘調査で明らかに出来なかった寺域の確定、補充の調査が主な目的でした。また、同廃寺から東の方角にあたる8世紀の下新庄アラチ遺跡(野々市市新庄)や、西の方角1.5㎞にある三浦遺跡(白山市)が条里制を思わせる遺構であることから、同廃寺との関連性についても、当初から大きな関心が寄せられていました。
そんな期待が寄せられる中、平成の発掘調査は大きな成果を上げた、と見ることが出来ます。
◇廃寺遺跡のすぐ西側に手取川が迫る◇
末松廃寺の寺域について、昭和の調査では金堂西側と南側から出土した回廊代わりの土塀の基

末松廃寺跡の西縁を深く発掘したら自然の河底が出てきた
盤遺構から、また塔跡東側から出土して、回廊代わりの掘立柱塀と見立てていた遺構までの長さは東西幅が約78.4m、南北が約53mとされていました。
ところが、西側の土塀跡を詳しく調査したところ、幅約2mの基盤には人工的に突き固めた版築の痕跡がなく、土塀跡の外側を、昭和の発掘調査より深く掘ってみたところ、自然の河川の跡が出てきました。同廃寺の西側は手取川の分流に面して、落ち込んでいた可能性が高まりました。
また、塔東側の掘立柱塀についても補充調査をしました。二基の柱穴が出たことで塀跡と解釈されていたのですが、塀と想定される南北の延長線上を発掘しても他の柱穴は見つかりませんでした。柱が続かなければ塀になりません。結局、柱穴は祭事、行事の際に立てる幟(のぼり)の支柱穴、幢竿(どうかん)支柱跡であると分かりました。
寺院の中でも一番神聖な区域とされる中心伽藍を囲む結界である回廊・土塀が消えてしまったのです。寺域が不明確になる重大事です。
◇東門が出土し寺域は東西92mに拡大◇
ところが、がっかりしたのも束の間。この幢竿支柱より更に東側約17mから大溝が出土したの

平成の発掘調査で分かった末松廃寺の伽藍配置
です。大溝の中には直径30~40㎝の柱穴が一対、出てきました。大溝は土塀跡で、柱穴は塀に設けられた東門の柱跡であるとみられています。ただ、この土塀が中心伽藍を囲む回廊の役割を果たすのか、寺域を外界と画す外郭の塀なのかは判断がつきません。大溝の外側は、国が指定している遺跡の範囲からはみ出すため調査が出来ないからです。
更に驚くべきことが判明しました。金堂跡、塔跡、幢竿支柱、東門の中心がそれぞれ、東西に延びる一直線上に並んでいるのです。末松廃寺の造営に当たっては綿密な都市計画の下に地割りと土地利用が行われていたことが窺えます。西側の河川跡に面した廃寺の縁からこの大溝までの幅は92mになります。
条里制の基本は一辺が109mの正方形に地割りを行います。寺院の西側は無理やり、河川によって千切られたように欠けています。また東の大溝の外側には道路が走っていなければなりません。大溝が外郭ではなく回廊に相当するとすれば、土塀の外側には七堂伽藍のうち、まだ未発見の僧房などがある可能性もあります。末松廃寺の寺域は限りなく109mに近づくことになります。
また、塔の北東から1間×2間の長方形の建物跡が検出されました。再建時の遺構とみられますが、中心伽藍の中にあることから鐘楼、経蔵の可能性があります。ただ正方形でないのが難点で、周辺の追加調査も必要かもしれません。
この他にも出土した遺構があります。塔跡の南側から、再建期のものとみられる中門の柱穴が3基並んで発掘されました。ただ、中門に屋根を乗せると仮定すれば、3基と対になる柱穴がもう一列か二列、並行して出土しなければなりませんが、確認できませんでした。中門の構造は、掘立柱と、それに前後した置石による柱の組み合わせの可能性も指摘されています。
◇墾田開発に必要な条里制の地割り◇
ここで、条里制について少し考えてみたいと思います。「制」という文字が付くところから、これまでは平城京や平安京の整然とした区画割りを思い浮かべ、律令制に伴う政治的な制度と思われてきましたが実態は違うのではないでしょうか。
仏教寺院に代表される渡来系の最先端技術。つまり墾田開発のための土木技術、治水技術、集団農法を駆使するための効率性、公平性が求められた結果ではなかったのでしょうか。 土地利用のための計画的な地割り、都市計画的な考え方、と言ってもいいでしょう。
農作業の面から言えば、作付けする稲の種もみは入植者の所有ではありませんでした。開発を企図した権力者のものでした。墾田管理者などから、春になると作付け用として、農作業に従事する田部(たべ)個々人に貸し付けられます。秋の収穫が終わると田部は、決められた歩合で利息をつけた分量の稲穂を返却しなければなりません。誰それが、何処の区画で、どれだけ作付けて、どれだけ収穫があったかを管理する必要があったからです。戸籍という田部の登録も必要になります。
石ころだらけの扇状地の荒れ野を拓き、墾田化するには共同作業が必要になります。乾田化によって従来の単収とは比較にならないほどの大幅な増収が実現します。共同作業である限り、墾田分配に際しても公平性が求められます。
律令制より実体的に先行していた条里制に基づく墾田開発が、律令制の時代になって国の制度として追認されていったのではないでしょうか。
◇近江、丹波から200人ほどが移住◇
昭和の発掘調査報告書の中には、聖武天皇の天平15年(743)に墾田永年私財法が発布されて条里制がとられたと仮定するなら、近江(滋賀県)南部の研究事例を挙げて、天平の地割り軸とは異なる地割りの墾田が存在することから、同私財法に先行する耕作地区が見られる、と指摘しています。
手取扇状地の開発、末松廃寺の造立に際しては近江(滋賀県)、丹波(京都府北部)からの入植者が200人程いた、と指摘されています。もちろん近江という地方名が同一であるだけで、研究事例に上げられた地区からの入植者と、単純に言えないことはもちろんです。それでも、墾田永年私財法が発布される以前に、末松廃寺では、周辺集落の建物を含めて地割り軸を同方角とした条里制を想定することもできます。
つまるところ、こういう事ではないでしょうか。
斉明6年(660)の少し前、近江、丹波からの入植者200人程が末松に入植してきました。彼らは、水位の低い、乾燥した荒れ野の開発に不可欠な灌漑のため、まず手取川からの取水口の適地を選び、畔(ほとり)に一辺109mの正方形の区画を設定して、当地では見たこともない威容を誇る仏教寺院・末松廃寺を造立した。これまで、不可能と思われてきた扇状地開発を、渡来の最先端技術で切り開くための決意表明でもありました。また同廃寺を中心に、周辺の土地でも地割りを行い、先住の人達を支配下に組み入れ、指導しながら勢力を伸ばしていきました。(宮崎正倫)
次回は10月22日「塔は建ったのか」です。