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末松廃寺・第6話「塔は建ったのか」

2018年10月22日

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第6話「塔は建ったのか」

 

 北陸最古級の仏教寺院である末松廃寺(野々市市末松2丁目)は、平成の発掘調査(平成27年~同30年)で、7世紀第4四半期の創建当時の様子が少し詳しく分かるようになってきました。

寺域は、西側縁が手取川の分流にギリギリまで迫って建てられ、西に金堂、東に塔が配置されています。講堂や他の伽藍は見つかっていません。中心伽藍を囲む回廊、または築地塀も見つかっていません。塔の東側、遺跡の指定範囲ぎりぎりの所で、土塀の跡とみられる大溝が確認され、溝の中から東門の柱跡が出土しました。この土塀が外郭との境界線なのか中心伽藍を囲む結界としての塀なのかは、今のところ判断できません。塔と東門の間には幢竿(どうかん)支柱がありました。

建物の中心軸は南北方向で、磁北からやや西方向へ振れています。東西方向では金堂、塔、幢竿支柱、東門の中心軸が一直線上に並んでいることから、都市計画の意図をもって造営されたことが分かってきました。創建当時の講堂など他の伽藍は出ていません。東西92m、南北53mの広さです。南北、東西とも寺域が拡大される余地は残されています。

 

◇塔横に祭事に用いる幢竿支柱があった◇

 

それでは、末松廃寺は完成したのでしょうか。塔は本当に建ったのでしょうか。これまでも、何

大きさが釣り合わない塔基壇跡と塔心礎。心礎の向こう側の基壇下に幢竿支柱がある=末松廃寺跡

度も疑問が頭をもたげてきたことはありました。

しかし、仏教寺院の建立を機に、手取扇状地の開発が爆発的に進捗したことを考えれば未完のままに、この大事業が成し遂げられたとは考え難いのではないでしょうか。そして、幢竿支柱の存在です。寺院の祭事、行事の際に掲げられる幟(のぼり)を立てる施設ですので、寺院は完成して、祭事が執り行われたと解釈するのが妥当と思われます。未完の塔の横に幟をあげている図は想像できません。

問題は塔の存在です。江戸時代から、塔の心柱(しんばしら)を支える心礎(しんそ)は唐戸石(からといし)と呼ばれて、存在が知られていました。柱を受け入れる穴は直径58㎝あります。塔の高さは直径を40倍するという研究結果があります。この公式を適用すれば塔の高さは約23mとなって三重塔になります。

 

◇釣り合わない塔心礎と基壇の大きさ◇

 

しかし一方で基壇の大きさは、昭和の調査によれば、塔の基壇表面や周縁部の破壊が激しくて確認できませんでしたが、心礎や柱の根石群から復元され、塔は一辺が10.8mで方3間、柱間は3.6mあることが分かりました。同時期の地方古代寺院としては特筆すべき大きさであって、中央政権があった飛鳥地方(奈良県)と比較しても、蘇我馬子が建立した飛鳥寺の塔基壇の大きさに匹敵するものであり、五重塔とも七重の塔とも推測されるには十分でした。

末松廃寺を誇りとする地元の人々からみれば、天を衝く七重塔が脳裏に浮かぶことでしょう。野々市市文化会館フォルテの展示室には、丹塗りの七重塔の模型が飾られています。

発掘結果は相反する資料を後世の私達の前に並べています。どちらも動かしがたい事実です。もう一点、重要な観点があります。瓦の問題です。第4話「どの寺が手本?」の中で、塔跡周辺から川原寺式の軒丸瓦の欠片が1点発見された、と言いましたが、それ以外には塔跡周辺からは瓦が出土していないのです。

 

◇裾広がりの三重塔ならばどうか◇

 

古代の塔の建築方法は、土台から組み上げていく現在の建物とは異なります。塔の建築に当たってはまず、心柱を立て、相輪部分を取り付けた後、上層部から順次、心柱にぶら下げるような構造で、各部材を組み立てていきます。七重塔であれば七階部分から始めると言われています。高い塔は不安定であり、倒壊防止のために屋根に瓦を葺き、重量で抑えつけて安定させます。三重塔の高さであれば、屋根は瓦を使用しない檜葉(ひば)などの杮葺(こけらぶき)でも可能です。

もしそうであれば、塔跡の周辺から瓦が発掘されなかったことを、どう解釈すればいいのでしょうか。末松廃寺というのは、瓦の少ない古代寺院遺跡とされています。瓦が使用されていたのは金堂だけです。他の遺構からは瓦が出土していないのです。

先に、寺院は完成していた、という見方を示しました。塔も完成したということを前提に、これらの事実を当てはめれば、塔は三重塔であったが、一層は七重塔並みの規模で豪壮さを演出し、二層、三層目は柱の数を減らした二間の構造であれば整合性がとれます。一層目の屋根は勾配を緩やかにして、優美さを出していたのかもしれません。法隆寺の五重塔のように裾広がりで、どっしりした感じが出ます。

 

◇発掘調査では空中の事まで分からない◇

 

ここで、一つ思い出したことがあります。第2話「鉄製農具の一撃」で紹介しました石川県金沢城調査研究所の木越隆三所長(野々市市在住)の警句です。

「発掘調査では地上の平面のことは分かるが、空中のことは分からない」です。

あくまでも、今述べた三重塔の姿、形は想像の産物です。ただ七重塔でなくとも、渡来の技術によって建てられた寺院の威容は、在地で生活していた人々にとっては驚き以外の何物でもなかったでしょう。渡来の技術によって繰り広げられる扇状地開発の新しい形、次第に米の収量が増えていく事実を目の当たりにすれば、入植者の指導に従わざるを得なくなります。

末松の地は標高が37mあります。そこに三重塔であったとしても23mの塔が建つのです。標高で60mを超える塔は、手取扇状地の至る所から仰ぎ見られるようになります。塔の内部構造は人が登るようには出来ていませんが、眼下には新世界が広がっていることを十分知らしめる役割を果たすことができたのです。(宮崎正倫)

 次回は1025日「なぜ手取扇状地」です。