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末松廃寺・第7話「なぜ手取扇状地」

2018年10月25日

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第7話「なぜ手取扇状地」

 

 末松廃寺跡(野々市市末松2丁目)における昭和の発掘調査結果は、平成21年に発行された国の報告書に詳しい。それによると、手取扇状地の開発を命じたのは天智朝(斉明、天智天皇)であるという。確かに地方の大豪族といえども近江(滋賀県)、丹波(京都府北部)から、渡来系の最先端技術を身に付けた入植者を勝手に呼びつけることは出来ない仕業であったろう。また、古代の旧加賀郡に勢力を張っていた越道君(こしのみちのきみ)が、手取川対岸となる同じく旧江沼郡の有力豪族であり、末松廃寺使用の瓦の提供者である財部造(たからべのみやつこ)氏と自発的に手を結んで寺院造営に当たることは、中央政権の存在を無視することでもあり、懲罰が加えられる恐れがあって無理筋でしょう。

 手取川の右岸における墾田開発に、左岸の豪族を手伝わせるのは両者の上に立つ天皇家をおいて他には見当たらない、という結論が導き出されたのです。この道君、財部氏が何者かについては後で触れることにして、まず天智朝がなぜ、地方における大規模な開発を目指したのかを考えてみたいと思います。

 

◇天皇親政の財政基盤固めが急務◇

 

 もう一度、中大兄皇子(天智天皇)らが飛鳥板葺宮で、蘇我入鹿(そがのいるか)の首をはねて蘇我本宗家を滅ぼし、天皇親政を図った乙巳の変(645)前後に戻ってみましょう。

 それまでの大和政権は、天皇家を中心として大和、畿内の大豪族が加わって政治を執っていました。そこへ新たに、朝鮮半島とも深い関係を持つとされる蘇我氏が登場してきました。崇仏派の蘇我氏は当然のように、渡来系の最先端技術を独占するようにして勢力を広げ、巨大な財力を蓄えます。天皇家に自らの娘を嫁がせ、外戚としての力を奮って政治を左右する大豪族となっていきました。

 半島では大陸の隋、唐の大国とせめぎ合いながら高句麗、新羅、百済が存亡をかけて権謀術策を繰り広げ、日本の勢力下にあった百済が660(斉明6)年に滅んでしまいます。丁度、末松廃寺が造営に取り掛かった頃です。

 百済が苦境に陥っていた時、天智朝は何をしていたのでしょうか。ただ手をこまぬいていただけなのでしょうか。救援軍を派遣するのは百済滅亡の翌年になります。

それは、まだ十分に天皇親政の地固めが出来ていなかったのかもしれません。斉明4年(658)には先代天皇で、斉明天皇の実弟である孝徳天皇の皇子・有間皇子を謀反の罪で処刑にしています。天皇後継者の有力候補者であった有間皇子を排除したことで中大兄皇子の立場が確固としたものになって行きます。

もう一つは、財力の強大化の問題です。天皇親政といっても、まだ律令制が敷かれているわけで

安倍(阿部)氏の氏寺である安倍文珠院山門。越道君との縁があったとみられている=奈良県桜井市

はありません。独自に天皇家の財力を確立しなければ、安定して諸豪族の上に立つことはかないません。大和や畿内の土地は既に開発が終わり、豪族らの所有が確定していた、と思われます。全国の地方における勢力圏の拡大を図り、懸命に天皇家の財力を富ませて政権基盤を安定させる時間が必要でした。勢い、向かう先は地方の未開発の土地ということになります。

 

◇阿倍比羅夫が天皇家と越道君をつなぐ◇

 

 北陸の関係でみれば、大和の古い豪族で、越国守(こしのこくしゅ)といわれた阿倍比羅夫(あべのひらふ)が斉明4年(658)から3年間をかけて、日本海側の各地、蝦夷(えみし=北海道)まで遠征軍を進めていました。

 河北潟周辺を本拠地としていた道君は、既に欽明31年(570)に大和政権に服属していました。当時の交通網は海路でしたので、阿倍比羅夫は遠征の中継基地として河北潟を利用し、道君に協力させたことは疑いのないところでしょう。同潟から水路を遡れば、末松の地に至ること、広大な未開の扇状地が広がっていて、渡来系の技術をもってすれば開発が可能であり、大規模な墾田を手に出来る、という情報が天智朝の元に届けられたのでしょう。

 道君には越道君伊羅都売(こしのみちのきみの・いらつめ)と呼ばれる娘がいました。正確な

安倍文珠院の境内に建てられた安部仲麻呂の安部氏の代表的人物の安部仲麻呂「望郷の歌」碑。唐に渡り、故郷に帰れなかった

日時は記録にはありませんが、天智天皇の采女(うねめ=女官)として後宮に入っています。天智天皇との間に、万葉歌人となる志貴皇子をもうけていることから一応、外戚としての有資格者ということになります。この件にも阿倍比羅夫が絡んでいるとするなら、阿倍比羅夫の遠征の間(658660)、あるいは直後に伊羅都売が飛鳥の都へ赴いたことになります。まさに、末松廃寺造営の前夜という時期です。

 

◇扇状地周辺では3世紀から開発が進む◇

 

 平成の発掘調査の最中に、末松廃寺跡から南東へ約2.5㎞離れた上新庄チャンバチ遺跡(野々市市新庄1丁目)で古墳が発見されました。3世紀頃の前方後方墳で、出土品から東海地方の特色を持つことが分かりました。ちなみに3世紀頃というのは、奈良県桜井市にある纏向(まきむく)遺跡の傍にある箸墓(はしはか)古墳の造営と同時期です。

 この前方後方墳の被葬者は東海地方に出自をもつ有力者ということになりますが、どのような道順をたどって当地までやって来たのでしょうか。白山や飛騨越えは、時代がもっと下らなければ無理と思えます。考えられるのは、東海方面から琵琶湖に出て、若狭(福井県)から海路で到達した、というのが自然なのではないでしょうか。

 当時の交通は海路が一番です。ただ、湖や川などの内水面と違い、外洋は高い航海術と船の構造が重要になります。誰でも海路を移動できるものではありません。一つの仮説になりますが、道君ならどうでしょうか。当時の河北潟は海とつながっていた汽水湖でした。河北潟を本拠とする道君は古くから、海上交通による交易を行い、富を蓄えた海洋性の大豪族だったとも言えます。東海地方出身の有力者を運び、自らの勢力圏の中で入植させたのかもしれません。

 

◇大開発のための労働力は備わっていた◇

 

 扇状地の開発、仏教寺院の造営と一口で言っても、入植者200人程では大事業を遂行できません。上新庄チャンバチ遺跡の有力者は、手取川とは異なる倉ヶ嶽の水系である富樫用水に拠って、末松廃寺造営時までには墾田を増やし、相当数の人口、集落を抱えていたと思われます。道君の勢力下にあったために命令され、近江、丹波の入植者の配下に組み入れられた可能性も十分あります。

 欽明31年、朝鮮半島・高句麗の使者が国書を携えて能登半島に漂着し、道君は日本の大王と偽って接遇したという事件がありました。まだ、大和政権の埒外にあったことから、大王と名乗ったことにも一理があるような気がしますが、この事件を機に政権側から軍事的に攻められて服属していくことになります。

 末松廃寺と無関係な話をした、と思われるかもしれませんが、このように古代の大豪族である道君であっても、自ら仏教文化を受け入れて古代寺院を建てることは容易な業ではありませんでした。新しい日本の形を創っていくという壮大で強固な意志を持った天智朝の関与があって初めて、扇状地開発が可能となったのです。そして、天智朝ならでは、と思わせるもう一人の豪族が関わっていたのです。(宮崎正倫)

 次回は1029日「対岸に瓦の豪族」です。