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末松廃寺・第8話「対岸に瓦の豪族」

2018年10月29日

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第8話「対岸に瓦の豪族」

 

 古代における手取扇状地の墾田開発は、乙巳(いっし)の変(645)で蘇我本宗家を倒し、政治の求心力を天皇家の元に取り戻した天智朝が、政権の基盤を確固たるものにするために全国各地で展開した勢力圏の拡大、墾田開発による富国策の一つ、と捉えることができます。同じ頃、北陸でも仏教寺院が現れてきます。

 ところがまた一つ、首を傾げたくなる事実に遭遇します。手取扇状地の開発を考えれば、末松廃寺のある右岸(旧加賀郡)と同様に、左岸(旧江沼郡)でも寺院を建立して、墾田開発事業が始まったとしても不思議ではないからです。というのも、左岸には地方の有力豪族である財部造(たからべのみやつこ)氏がいたからです。

 そして財部氏は天智朝の意向に従い、道君と協力するように末松廃寺の造営に携わっているのです。同廃寺に使用されていた瓦は財部氏の勢力圏にあった登り窯で生産されて、末松まで運ばれて来たのです。

 

◇財部氏は斉明天皇に仕えていた豪族◇

 

 財部氏というのは一体、どんな氏族だったのでしょうか。大化の改新以前で、「造」の文字が入っていることから、財部は一族に与えられた「姓」であったと思われます。一族の名前は居住する土地の名前からとることが普通であったために本来なら「野身(能美)」となるはずです。野身氏に「財部造」の姓が与えられていたと考えれば、「たから」と名乗る皇族に直接仕える地方豪族に指定されたのではないでしょうか。名代・子代(なしろ・こしろ)の制度です。

 「たから」に相応する皇族は、何人かの候補者の中でも、時代を考えれば宝皇女(たからのひめみこ)が有力とされています。敏達天皇の孫で、舒明天皇の后になった人物、後の斉明天皇その人です。

 

◇秋常山古墳が明かす大豪族の力◇

 

 左岸には斉明天皇に仕える財部氏、右岸には越道君伊羅都女(こしのみちのきみのいらつめ)

北陸最大級の前方後円墳・秋常山1号墳。後円部から前方部の眺め=能美市

を通じて天智天皇と姻戚関係を結ぶ越道君がいることになります。天智朝の「母と息子」を財政的に支えた大墾田、屯倉(みやけ)となったのが手取扇状地であった、ということになります。

 財部氏の勢力圏には県内最大、北陸でも最大級の前方後円墳(全長140m)である秋常山古墳をはじめ、弥生時代末期から古墳時代後期に至る400年間に連続して、5つの古墳群が造られた能美古墳群があります。鉄剣などのほか多種多様、一級の副葬品が出土しています。古墳群の末期にあたる西山古墳群からは馬具(馬鐸=ばたく)も出土しており、権力の大きさを示しています。この首長らの末裔が財部氏につながるとみられ、斉明天皇に仕えていたのです。

 

◇補修用の瓦窯が見つかる◇

 

 話を末松廃寺に戻しましょう。同廃寺の金堂は瓦葺(かわらぶき)の建物です。それ以前は茅葺(かやぶき)や草庵などが住居の形でしたが、瓦葺は最先端の、また権力の所在を示す工法でした。実は、この瓦が突然、想像もできない財部氏の勢力圏である能美市湯屋の古窯跡から出土したのです。末松廃寺とは別の調査であったことから大きな驚きが関係者の中に広がりました。

 瓦は平瓦、丸瓦、軒丸瓦で、様式が同一のものでした、特に軒丸瓦は独特の単弁六葉蓮華紋(たんべんろくようれんげもん)です。全国寺院の瓦を調べてみても似た物はありません。どこの瓦工の流れをくむのか不明で、紋の作りも素朴な感じがします。

末松廃寺の補修用瓦を焼いた登り窯跡。丸い瓦は単葉六弁蓮華紋の軒丸瓦=能美市湯屋

湯屋で発掘された窯の規模などから察すれば、瓦は末松廃寺の補修用に使われた、とみられています。本窯はいまだに見つかっていませんが、同市湯屋地区から辰口地区へと向かう能美窯跡群の丘陵地帯に存在すると想定されます。また、末松廃寺用の瓦は、同廃寺の後に造営された加賀市弓波の忌波(いんなみ)廃寺にも使用されていることが分かりました。

末松廃寺は瓦の使われ方が少ない寺院という見方が一般的です。金堂にしか使われていないからです。塔跡からの出土がなかったことから、屋根に瓦を乗せない塔であったことが分かっています。平成の発掘で発見された塔東側の大溝(土塀跡)からも瓦は出土していません。この瓦の少なさについては、能美窯跡群の調査が進んで本窯の規模が分かってくれば、その理由の手掛かりになるのかも知れません。

 

◇財部氏が姉妹寺院を持っていた可能性◇

 

 ここで、大きな疑問が頭をもたげてきます。能美古墳群の成り立ちからも分かるように、同一地域で400年間も勢力を張って力を蓄え、早くから天智朝(斉明天皇)と深い関係を持っていた財部氏であれば、手取扇状地の墾田開発の一番手は旧能美郡側ではなかったか、ということです。開発を企図した朝廷側からすれば両岸の開発が理想ではないでしょうか。時間的に近接、あるいは同時並行的に末松廃寺とは別の古代寺院が造営されていた可能性が残ります。

 しかし今のところ、遺跡らしいものは見つかっておりません。あるとすれば、末松廃寺と同様に、手取川の流れぎりぎりの地点に造営されたことが予想されます。当時の手取川の流れは、現在より北側へ大きく離れていた、というのが通説です。扇状地の三分の一は旧能美郡に含まれていた、と考えられています。手取川は氾濫を繰り返し、現在のように南へと移って行く過程で遺跡は呑み込まれていったのかもしれません。

 姉妹寺的な存在ですが寺院の豪壮さより、簡略的であっても一応の形式を整えて、墾田開発を急ぎたい。中央政権の財政力を強化したい。蘇我本宗家を討ち、天皇親政を目指すなか、朝鮮半島では日本と近い関係にあった百済(くだら)が存亡の危機に瀕していました。救援より、国内基盤を固める必要性が優先したのかもしれません。

 結果として、斉明6年(660)に百済は滅びます。翌年に、斉明天皇は救援軍を率いて半島へ向かいますが、途上で筑紫(福岡)の朝倉宮で崩御します。代は天智天皇に引き継がれます。(宮崎正倫)

次回は111日「東門からの眺め」です。