末松廃寺ニュース:全国初、「天女」の線刻画が描かれた瓦塔片を発見
2018年10月31日
末松廃寺跡から「天女」が描かれた瓦塔片を発見
全国初
弥勒信仰の広がり示す
同廃寺の再建時期は8世紀中頃か?
伽藍の中心軸を平城京の中心軸と合わせる

末松廃寺から発見された瓦塔片に描かれた天女の線刻画
野々市市教育委員会文化課は10月30日、国史跡「末松廃寺跡」(同市末松2丁目)から、天女像が線刻された瓦塔(がとう)片を発見した、と発表した。この瓦塔は縦19㎝、横9.5㎝、厚さ1.5㎝の大きさで、向かって右側が裏の方向へL字状に屈曲しており、赤く彩色されていた。形状から箱状の角部分であると推測している。これまで、瓦塔に絵が描かれていた例はなく、今回が全国初の出土であり、瓦塔信仰の対象を知るうえで大きな意義がある、とみられている。
末松廃寺は昭和41年までの昭和の発掘調査により、手取扇状地の開発のための象徴として、斉明6年(660)頃に造営が始まった白鳳寺院であり、10年から15年後に完成したとされる北陸では最古級の寺院である。奈良時代の初めには一度、倒壊しており、その後に再建されている。
今回の発見は、同史跡を公園として整備するための寺域確認調査として、平成26年から進められていた最終年度にあたる。瓦塔があったのは平成の調査で新たに発見されていた中門とみられる遺構の南側、遺物溜まりである。
線刻画は瓦塔初層の正面、柱に当たる部分に描かれており、縦縞の裳(も)と呼ばれるロングスカート状の衣服を身に着け、爪先が上に上がった履(くつ)をはいた女性である。髪は結い上げておらず、手には払子(ほっす)とよばれる儀式用の道具を持っている。
また、瓦塔というのは木製の塔に変わり、土で塔の形を模した小塔(1.5~2m)の焼き物であり、今回の像は焼成前の柔らかな土製品に鋭利な工具で描かれていることから、戯画ではなく、瓦塔信仰に基づいた仏教画と考えられている。
使われた土は分析から、加賀地域のものと分かった。これは当時、末松廃寺から出土した土器の量では、小松産が半数を占める事と符合している。
瓦塔は奈良時代から平安時代にかけて盛行しており、仏教美術史や仏教思想史の研究などと合わせ女性像は、弥勒信仰における浄土に遊ぶ天女を描いた、と判断した。
末松廃寺の再建伽藍は、配置の中心軸を創建当時よりやや東側に振れて真北を向くように計画されている。これは奈良時代の平城京の地割りと同方向であり、中央の影響を強く受けたものと考えられていたが、今回の天女像の発見は、行政上の土木技術だけでなく思想、文化の面でも強い関連性が認められることになる。
末松廃寺の再建主体は明らかになっていないが、在地の大豪族であった越道君か、扇状地開発のために入植した近江(滋賀県)か丹波(京都府北部)の子孫が考えられる。昭和36年(1961)には廃寺跡から和同開珎(わどうかいちん)の銀銭も発見されており、再建に伴う地鎮の祭具ではないかとみられている。
天女像が描かれた瓦塔は、創建当時の塔基壇上に建てられた一間四方の建屋の中に納められていたとみられる。創建当時の塔の高さは解明されていないが、再建時には瓦塔が主流となっていた。