末松廃寺・第9話「東門からの眺め」
2018年11月1日
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺・第9話「東門からの眺め」
現在、手取川扇状地の灌漑は扇頂に当たる鶴来(白山市)の安久濤ヶ淵(あくどがふち)に造られた取水口から引かれています。富樫、郷、中村、山島、大慶寺、中島、新砂川の7本の用水が3市1町の4,700㌶以上の圃場を潤しています。水は高きから低きに流れるのです。
白鳳時代に始まった石ころだらけの扇状地開発の第一歩は、扇央部の野々市市末松2丁目に取水口を定め、畔(ほとり)に末松廃寺を造営する都市計画の元で始まりました。当然、水は低きに流れるため、ここから下流域が当初の開発対象でした。
渡来の技術をもった近江(滋賀県)、丹波(京都府北部)からの入植者は、同廃寺から北東100mほどに当たる末松ダイカン遺跡や末松福正寺遺跡をはじめ、東へ約430m離れた末松A遺跡、清金アガトウ遺跡に居を定めたものとみられています。建物の特徴から分かりました。同廃寺が建立された7世紀末の竪穴建物数は20棟前後を数えることから入植者数は200人前後が想定されているのです。
◇物資の運搬用に運河を掘削◇
末松A遺跡と清金アガトウ遺跡は、現在の地籍は異なりますが同一の遺跡です。特徴的なのは、

末松廃寺の東門跡付近から見た末松の集落方向
集落が20~50mの間隔で7つの建物群に別れ、南北約1,240mにわたって一直線上に並んでいることです。末松A遺跡の北端からは人工的に掘削された大溝跡も発掘されました。長さが97m、深さ1m、上部の幅が4m前後という大きさです。船着き場とみられる護岸施設も発掘されました。物資や人員を運んだ運河なのですが、その先がどこへ続くかは分かっていません。竪穴建物群と主軸が同じことから7世紀末に掘られたものです。
末松A、清金アガトウ遺跡は現在、石川県立大学に沿うようにして国道157号(鶴来バイパス)の下にスッポリ収まっています。
末松ダイカン遺跡は直径で100mほどの広がりを持っていますが、鞴(ふいご)の羽口、鉄滓が少量出土していることから小規模な小鍛冶が行われていたことが分かります。石ころだらけの扇状地開発に鉄製農具は欠かせません。また末松福正寺遺跡からは乗馬に用いられる鐙(あぶみ)か腹帯の馬具が出土し、農民でも有力な戸主層が馬を所有していたことが分かります。広い扇状地の墾田を馬に乗って、指導に当たっていたのかもしれません。

末松廃寺を造営した渡来人たちが住んだ末松A遺跡は国道の下になっている=野々市市の県立大学前
これら、廃寺造営当時の遺跡群にある建物の変遷を調査していくと8世紀後半から9世紀(奈良時代~平安時代中頃)を通して、次第に集落を拡大しています。出土の遺跡、遺物からみても扇状地開発の指導者層の集落に間違いありません。
◇廃寺から指導者の集落まで東へ一直線◇
末松廃寺の平成の調査で、新たに東門の柱跡が見つかりました。少し、当時を想像してみましょう。東門の前に立ち前方を眺めると正面に、指導者層の集落が1,240mにわたって、墾田の中に広がっています。もし、条理制の考え方に基づき、綿密な都市計画の上で開発を推し進めたならば東門の前から一直線に、指導者層の集落に向かって道路が延びているはずです。今度は反対に、集落の方から廃寺の方向を見やると、道路の先に東門があり、後ろには祭事の幟(のぼり)が翻り、塔がそびえています。背後には手取川の流れが迫ります。こんな風景だったのでしょうか。
末松廃寺の造営、扇状地開発の立案、事業主が天智朝で、都から離れた屯倉(みやけ)を現地で管理する責任者が河北潟を本拠とする郡司の越道君。末松で開拓、営農を指導するのが近江、丹波からの移住者です。末松周辺では、3世紀頃から営農が始まり、同廃寺の造営までの400年の間に、労働力の田部(たべ)となる多くの人が居住していました。
◇推古朝から小規模に扇状地開発◇
3世紀頃というのは、第7話「なぜ手取扇状地」で紹介した上新庄チャンバチ遺跡(野々市市新庄1丁目)の前方後方墳が築かれた時です。古墳を造るまでの力を持った小豪族に率いられた集落が存在し、倉ヶ嶽に水源を持つ高橋川(木呂川)水系に沿った開発が先行していました。また、末松廃寺から東へ1.2㎞にある上林新庄地区には、7世紀前半代の集落遺跡があります。同地区南西部から近接する上林テラダ遺跡に古墳と小集落が確認されます。末松地区でも末松古墳のほか、「塚」の地名が残るように数基の古墳が存在した可能性があります。墾田が拡大していった証となるでしょう。
従って、周辺には相当数の人口が推定され、扇状地開発に動員されたのでしょう。もちろん、道君の勢力圏の他の地域からも労働力が徴発された可能性も残されています。
実は、手取扇状地の開発というのは小規模ながら、7世紀前半から手掛けられていたのです。聖徳太子が摂政を務めた推古天皇の時代の開発拠点と思われます。
昭和の発掘調査の報告書によれば、同廃寺塔跡の南東隅の下から建物跡が1棟発掘されていました。造営時期が660年頃と特定できたあの遺構です。この建物と同一の集落を形成するとみられる建物10棟が南東方向で確認されています。同廃寺造営以前の集落で、当時も既に、手取川近くまで営農の波が迫っていたことを表しています。まさに末松廃寺の開発前夜にあたります。
そこへ渡来系の最先端技術を持った指導者が乗り込んできて、全ての要素がそろいました。扇状地開発の大事業が爆発的に進展していったのです。
天皇親政という新しい国の形を早急につくらなければならないのですから悠長に構えているわけにはいきませんでした。寺院造営も必要最小限の伽藍に留めたのかもしれません。(宮崎正倫)
次回は11月5日「鄙に地の利あり」です。