末松廃寺・第11話「寺院から神社へ」
2018年11月8日
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺・第11話「寺院から神社へ」
末松廃寺(野々市市末松2丁目)は創建から間もなく、理由は分からないものの、伽藍が倒壊しています。木造建築の修理が必要になる目処は約60年とも言われますので、完成した670年頃から40年程しか経ない奈良時代初頭では、早々に、という表現になります。昭和の発掘調査結果から、再建されたのが8世紀の第2四半期(726~750年)とされています。
天智朝が始めた手取扇状地の開発事業は、象徴的建造物である末松廃寺が完成した直後に壬申の乱(672年)が起き、天智朝は天武朝に交代しています。天武天皇は全国に寺院建立を勧めたため各地で造寺の動きが盛んになります。扇状地開発の現地責任者の立場にあった越道君も氏寺の広坂廃寺(金沢市役所、21世紀美術館)を建てています。遺跡からは藤原京様式の瓦が出土しています。
また、天武5年(676)には全国の寺で「金光明経」「仁王経」を説かせているので、末松廃寺でも同様の光景が繰り広げられたに違いありません。
◇末松廃寺の護持は開発指導者の手に◇
国分寺などが設置されるようになると、末松廃寺の管理責任は中央の政権でもなければ郡司である道君の手も離れ、現地の入植者、墾田開発の指導者層に移って行ったのでしょう。
天武天皇の孫である文武天皇の大宝2年(702)に大宝律令が施行され、国内の政治体制は律令制へと移行していきます。仏教伝来からこちら、最先端技術と結びついて権力と富を生み出してきた仏教寺院は全国的な普及とともに、権力の中枢である天皇家を支える役割から律令国家を精神的に支える国家仏教へと変貌を遂げていきます。また、東大寺の大仏にみられるように、現生利益を求める信仰になったのです。
そこで、天皇家は国家の上に立つための新たな権威を求めるようになります。仏教の代わりに選ばれたのが神道ではなかったでしょうか。仏教伝来までの、あるがままの自然を重視した神道ではなく、天皇は神の子孫であるという物語性に裏打ちされた論理的な神道に衣替えをしたのです。
◇神道に基づく古事記、日本書紀編纂◇
天武天皇が編纂を命じた「古事記」「日本書紀」は神代から始まっています。それぞれ、元明5

林郷八幡神社の鳥居。奥に拝殿が見える=野々市市上林
年(712)、元正4年(720)に完成しています。
そうした中央政権の神道の動きとは別にして、奈良時代の養老7年(723)に「三世一身の法」、天平15年(743)に「墾田永年私財法」が施行され、土地は全て国の口分田という考え方から墾田の私有に道が開かれます。古代寺院の末松廃寺を中心とした開発地は律令体制の下でも着実に拡大し、末端の行政単位である「拝師郷(はやしごう)」を形成していきます。扇状地の乾田は単収も高いうえに未開発の土地も多く、私有地がまだまだ拡大する余地は十分あったとみられます。
墾田管理の中枢は、末松廃寺造営時の末松A遺跡から、拝師郷が成立する律令制の時代に下新庄アラチ遺跡へと移り、斉明6年(660)の近江(滋賀県)、丹波(京都府北部)からの入植者の末裔が郷長となっていきます。この時期に、奈良時代の初頭には倒壊した同廃寺が再建されているのも、私有地拡大で力をつけた拝師郷長の出現があったからでしょう。
末松廃寺では、金堂跡の西側用水から昭和36年(1961)に古代の貨幣である和同開珎(わどうかいちん)の銀銭が見つかっています。和同開珎が発行されたのが和同元年(708)ですから、創建当時に持ち込まれたものではありません。もしかすると末松廃寺の再建に当たり、地鎮の儀式で埋設された宝物の可能性も濃くなってきます。
◇末松廃寺の廃絶で林郷八幡神社を創建◇
昭和の発掘調査によって、末松廃寺跡で確認される一番新しい遺構は11世紀中頃と考えられる溝状遺構です。建物ではなく桑畑などの畝間として掘られた溝跡と考えられています。平安時代の半ばには末松廃寺が完全に消滅していたことになります。400年に満たない命運だったことになります。

祭神として三条天皇の名前が刻まれた林郷八幡神社の由緒碑文
末松廃寺再建の後、拝師郷の政治的な中枢であった下新庄アラチ遺跡の集落は、末松A遺跡群などと共に9世紀半ば以降、と言いますから平安時代に入って50年程経った頃に急速に衰退していき、10世紀には本拠地としての終焉を迎えます。
これは扇状地開発の終わりを意味するのではなく、開発の中心地が末松から、手取川の水源である白山寄りの安養寺遺跡(白山市)辺りへ移っていったため、と考えられます。灌漑のための取水口を更に上流に求め、墾田地を拡大させるために指導者層が移動したのでしょう。末松廃寺の護持者がいなくなったために同寺は歴史の舞台から消えて行きました。
しかし、集落の全員が移住したわけではありません。これまでの墾田を守るために残った人達は、古代寺院の代わりに神社を建てます。天皇家の権威が仏教から神道へと変わったように、です。
神社の名前は林郷八幡神社(野々市市上林)です。同神社由緒によると、祭神は応神天皇、神功皇后、三条天皇となっています。平安時代の長和2年(1013)創建です。末松廃寺が廃絶する頃と重なります。
◇祭神は藤原道長が擁立した三条天皇◇
祭神として勧請された三条天皇が即位したのは、同神社落慶の2年前です。在位期間は1011年7月16日で、1016年3月10日に退位しています。百人一首に「心にもあらでうき世に長らへば恋しかるべき夜話の月かな」の歌を残しています。同八幡神社は、三条天皇即位とともに宮の造営に取り掛かり、祭神として勧請したことになります。
当時の権力者は太政官の首席である左大臣の藤原道長でした。「この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」の歌が示すように、権力の絶頂期を迎えていました。また紫式部や清少納言が宮中で健筆を奮っていた頃です。三条天皇は一条天皇の後を受けて即位しましたが、道長の力がなければ及ばなかった、と言われています。
つまり、三条天皇を勧請するには道長の許しが必要になります。開発した墾田の一部を荘園として寄進したことも考えられます。道長の威光によって、荘園管理者として地位を安堵してもらい、自らは地頭の役割を果たすことで勢力を伸ばしていったのではないでしょうか。
白鳳時代の古代寺院を扇状地開発の守護者としてきた時代が終わり、神道に基づく神社が土地の守り神になっていったのです。応神天皇、神功皇后は武人の神です。しばらくして、手取扇状地には武士団としての林一族が姿を現します。都に上って宮中警護も担うようになり、中央政権との関係を築いていきます。自らの墾田を実質的に領地としていたところが、同じ武士団でも後の鎌倉武士団、御家人とは違うところかもしれません。(宮崎正倫)
次回は11月12日、末松廃寺余聞・1「なぜ瓦が少ない」です。