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末松廃寺余聞・第1話「なぜ瓦が少ない」

2018年11月12日

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺余聞・第1話「なぜ瓦が少ない」

 

 末松廃寺(野々市市末松2丁目)にはまだまだ謎が多い。それは、研究のための直接的な資料が少ない、ということです。

 例えば、瓦の問題をみてみましょう。仏教の受容に伴う新しい技術によって手取扇状地を開発するため、これまで体験したことのない農法、予想も出来なかった収穫量を上げることができます。集落の形も変貌を遂げていきます。その象徴的なものが権力の在り処を誇示できるのが瓦葺(ぶき)の古代寺院だったでしょう。同廃寺の場合は金堂にしか用いられていません。塔をはじめ遺跡の他の遺構からは出土していません。

 もし、瓦があったなら塔は、五重塔以上の高さがあったかもしれません。高層の塔は屋根に乗せる瓦の重量で建物を抑えつけて安定させているのです。瓦がなければふらついて、倒壊を招きます。末松廃寺の場合は、塔基壇が大きく、柱間が3.6m、三間の建物ですから全体で10.8mあります。七重塔でも可能だったかもしれません。では何故、塔の心柱(しんばしら)を支える礎石、つまり塔心礎(とうしんそ)は三重塔の大きさしかないのでしょうか。

 

◇建築途中で七重塔計画を変更?◇

 

 末松廃寺第6話では、末広がりの三重塔の姿を描いてみました。しかし、当初からこんな姿の

平成25年に能美市湯屋で発掘された登り窯跡。末松廃寺の補修用瓦を焼いていた

塔を思い描いていたのでしょうか。一歩進めて、こんな推理はどうでしょうか。最初の構想では七重塔であったが、建築途中で瓦の入手が困難となり、高さを三重塔に変更した。

 手取扇状地の開発は天智朝の国家的事業であり、手取川右岸の地方豪族・越道君と左岸の豪族・財部(たからべ)氏が協力した、と考えられています。寺院の瓦は、左岸の旧能美郡にあった古窯群で焼かれたことが分かっていますので、財部氏が提供していたのでしょう。

 同廃寺の位置が野々市市であることから、私達は道君が中心になって天智朝に協力した、と思いがちですが、それは正しいのでしょうか。もしかして財部氏が中心であった可能性はないのでしょうか。

 ここで財部氏について、もう一度振り返ってみましょう。「たから」という名前の呼び方からして、これは古代、直接的に皇族に仕えて産物を貢納し、労働力を提供する名代・子代(なしろ・こしろ)の一族に指定されていた。その皇族とは年代を考え合わせれば、幼年に宝皇女と呼ばれていた斉明天皇が有力になっています。

 財部氏の勢力範囲は旧能美郡と言いますが、現代で言うと、手取川から左岸から加賀市の動橋川流域までと考えられます。加賀三湖、JRの加賀温泉駅辺りまで含みます。また手取川左岸と言っても、同川が流れを変える前ですから、扇状地全体の三分の一を占めていた、とされます。また5つの古墳群からなる能美古墳群を抱えています。造営期間は弥生時代から古墳時代後期の400年間に及び、多種多様の副葬品が出ています。北陸最大級の前方後円墳である秋常1号墳もあります。江沼臣(旧江沼郡)と道君の間に挟まれて見落とされがちですが、遜色のない大豪族と言っても差し支えない、と思います。

 

◇財部氏が先に古代寺院を建てていた◇

 

 末松廃寺の造営開始は斉明6年(660)ですから、天智朝と言っても斉明天皇の頃です。天皇親政という新しい政治を行うために天皇家の財政力を強くする意図を持った扇状地開発であれば尚の事、末松に先立って財部氏が左岸で、古代寺院を建てて開発を進めていた、とするのが自然な流れのようにみえます。

 この技術の蓄積を持って、古代加賀郡であった末松を中心に墾田開発、屯倉(みやけ)の開発に乗り出したのではないでしょうか。

 古代加賀郡は道君の領地です。財部氏のように名代・子代ではありませんから、屯倉の管理、財力の源である稲の運搬、田を耕す農民である田部(たべ)の確保を任すには一工夫が必要になります。それが道君伊羅都売を天智天皇の采女(うねめ=女官)として宮に入れ、懐に取り込んだのではないでしょうか。

 

◇末松廃寺に瓦の供給が絶たれる?◇

 

 末松造営が始まった翌年、斉明天皇は崩御されます。治世は天智天皇の代に移りますが、それでも同一王朝ということで事業は続けられます。しかし、代替わりをすれば財部氏は斉明天皇の奉仕集団、名代・子代から離れて一地方豪族に性格が変わり、旧能美郡の経営に専念せざるを得ません。そうであれば、末松廃寺から手を引いて瓦の供給が絶たれることになります。

加えて、造営開始から12年が経った672年になって壬申(じんしん)の乱が起き、天智朝は、弟の天武朝に交代します。

その頃、末松廃寺では金堂が完成し、塔の建設に着手していました。中央にも比肩するくらいの塔基壇は出来上がっていましたが、瓦の供給は途絶えます。やむなく、塔心礎を取り替えて三重塔を建立することになりました。

推理に推理を重ねれば、瓦の少ない末松廃寺と塔の謎をこの様に解くことも出来るのではないでしょうか。(宮崎正倫)

 次回は1115日、末松廃寺余聞・第2話「皇統つなぐ皇子」です。