末松廃寺余聞・第2話「皇統つなぐ皇子」
2018年11月15日
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺余聞・第2話「皇統つなぐ皇子」
天智朝が斉明6年(660)ごろから、手取扇状地に末松廃寺(野々市市末松2丁目)を創建し、大規模開発に乗り出した歴史の流れの中で、大和・飛鳥の都に一人の皇子(みこ)が誕生しました。天智天皇と、後宮に采女(うねめ=女官)として出仕した越道君の娘・伊羅都売(いらつめ)の間に生まれたのです。志貴皇子と言います。
生年は明らかになっていませんが、665年説を唱える研究者もいますが概ね、その前後と思ってよいのでしょう。磯城(しき)郡(奈良県桜井市)に勢力を張っていた阿部氏の元で養育されたため磯城皇子とも言います。第26代継体天皇が大和入りして宮を構えた磐余(いわれ)地方で、大神(おおみわ)神社のご神体である三輪山の麓に広がる一帯です。
皇統を継ぐ資格のある皇子ですが、政権を巡る激流に翻弄され、政治の表舞台には立ちませんでしたが、万葉歌人として「石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」の代表的な歌と名前を残します。
◇皇位継承の有資格者◇
志貴皇子を見舞った歴史の激流とは762年に起きた壬申(じんしん)の乱です。天智天皇の弟で

大神神社の社標

ご神体の三輪山を背に建つ大神神社の拝殿=奈良県桜井市
ある大海人(おおあま)皇子、後の天武天皇が、天智天皇の子であった大友皇子(弘文天皇)を攻め滅ぼした内乱で、天武朝を開いていきます。
幾人もの有資格者がいる中で誰が皇統を継ぐべきか、という基準ですが、ここからは一つの推理をしてみます。もちろん、私は研究者ではありませんので、眉に唾しながらお聞きいただければ幸いです。
少し時代を遡ってみたいと思います。継体天皇は507年、58歳の時に、河内国樟葉(くすば)宮で即位しています。それまでは応神天皇五世の孫として越前国にいたとされています。先代の武烈天皇が後嗣を定めていなかったため、男系を遡って、白羽の矢が立てられました。
当初はなかなか、大和国入りが出来ませんでした。そこで、新たに皇族であった手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に迎えることで、ようやく大和の地に入ることができました。大和政権発祥の地とも言われ、山がご神体である神奈備の三輪山の裾に広がる磐余(いわれ、奈良県桜井市)に宮を定めることができました。
◇皇族としての皇后を重視◇
男系とされながら、なぜ継体天皇は当初、大和入りが出来なかったのでしょう。それは当時、大和政権という存在が、奈良盆地の中だけの世界だけで回っており、実力があっても地方豪族を相手にしない「格」があったからではないでしょうか。手白香皇女を得ることで、傍系といえども男系に加えて、大和の一員としての資格を整えたのでしょう。
継体天皇には大和入りする前に、安閑天皇、宣化天皇という二人の子がいましたが最終的には、手白香皇女との間に生まれた欽明天皇が皇統をつなげていきます。
この皇統継承の形が崩れてきたのが、蘇我氏が政治の中枢を握った時代でした。一族の娘たちを天皇家に嫁がせ、豪族が外戚の力を存分に奮い、天皇家の政治権力に迫りました。しかし、女帝であった推古天皇の後は、蘇我氏と血のつながりがない舒明天皇、舒明の皇后である皇極天皇(後の斉明天皇)へと受け継がれ、中大兄皇子(天智天皇)が645年、乙巳(いっし)の変で蘇我本宗家を倒し、外戚を排除したのです。天皇家中心の親政を意図したことは天智、天武の両兄弟とも共通の意識を持っていたように思われます。
このような、大和における中央政権の展開の中で、手取扇状地の開発、末松廃寺の造営が行われたのです。そして、壬申の乱が起こるのです。
◇地方豪族の子女の悲哀◇
問題は天智天皇の後継者です。末松廃寺の場合と同様、天皇家の財政基盤を確立するためなのか、天智天皇は地方豪族との結びつきが多く、子は全て地方豪族の子女との間に生まれました。大海人皇子と争った弘文天皇は第一皇子だったのですが、母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめの・やかこのいらつめ)で、志貴皇子と同じように皇族ではありません。天武天皇は自分こそが正当な後継者の最上位の資格がある、と確信していたのに違いありません。
そして、壬申の乱の後の白鳳8年(679)、天武天皇、鸕野讃良(うののさらら)皇后(天智天皇の皇女、後の持統天皇)は吉野へ行幸しました。天武の皇子では草壁、大津、高市(たけち)、忍壁(おさかべ)の4人、天智の皇子では川島、志貴の2人だけが同行しました。
当時の皇位継承の有資格者であると見做されていたのでしょう。皇位を巡る壬申の乱の後であり、天武天皇は自らが考える皇位継承の在り方を話し、皇子たちに優先順番を付け、これを遵守するよう誓いを立てさせたのでしょう。これは「吉野の盟約」と呼ばれています。天武系の4人が優先され、天智系の2人が冷遇されたのは当然の成り行き、と思われます。
天武系の中でも、壬申の乱の最大の功労者であり、最年長は高市皇子でしたが、母は筑紫国宗像(むなかた)郡の豪族の出身である尼子娘(あまこのいらつめ)であったため皇族である鸕野讃良皇后の皇子であった草壁が皇太子の地位を得ました。
あと、母が皇族なのは皇后の同母姉である太田皇女(天智の長女)の大津だけでしたが、天武天皇崩御の後、謀反の罪に問われ亡くなります。さらに、皇太子であった草壁は早逝したため、鸕野讃良皇后が持統天皇として即位して、草壁皇子の子供達だけで皇統を引き継ぐように図っていくのです。
◇越道君伊羅都売の孫が即位◇
一方、志貴皇子は、政治的には出来るだけ目立たぬように一生を終えていきます。その皇子に白壁王がいます。同王は770年、62歳という高齢でしたが即位して、光仁天皇となります。天武朝の皇位継承者が絶えたためで、思いもしない事でした。天智天皇の孫、言い換えれば越道君伊羅都売の孫が天皇になったのです。
壬申の乱から100年の後、天智朝が復活して、皇位は光仁天皇の皇子であった桓武天皇に引き継がれます。平城京から長岡京への遷都(784年)、10年後には平安京への遷都を行い、現在に至るまで天智朝の皇統が続いていることになります。
末松廃寺と手取扇状地の大開発が天智天皇と越道君との縁を結び、皇統継承に関わった事は覚えておくべきことでしょう。来年は譲位により、新天皇が生まれるのです。(宮崎正倫)
次回は11月19日、末松廃寺余聞・第3話「時空の断絶結ぶ」です。