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末松廃寺余聞・第3話「時空の断絶結ぶ」

2018年11月19日

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

末松廃寺余聞・第3話「時空の断絶結ぶ」

 「石塊の荒野睨む白鳳の塔」の物語は、斉明6年(660)頃から始まった末松廃寺造営が手取扇状地の大規模開発につながり、七カ用水の整備と加賀百万石の穀倉に成長していった道筋を述べたい、というものです。全体像としては、まだまだ未解明な点も多く、新事実の発掘や学問的な論争が現在でも続いています。
 この物語は別の観点から見れば、末松廃寺が墾田地の拡大と共に、手取川からの灌漑取水口が中流域から上流域へと移動するに連れて、取水口を護る象徴としての寺社も同時に移動せざるを得ず、最終的には白山比咩神社になっていった、という変遷史です。

墾田開発の拡大と共に灌漑の取水口は上流へ

 10月3日から始めたブログですが、構想の段階では加賀百万石の原風景と言いながら実は、途中で時間軸が切れてしまい、白山比咩神社まではつながっていなかったのです。本編の方では、平安時代中期には野々市市末松2丁目から白山市安養寺付近まで取水口と寺院が移ったのではないかと記しました。ただ、安養寺付近からは直接結び付く遺跡が発掘されているわけではありません。また、安養寺の平安時代中期から、室町時代の白山比咩神社まで一気に時代が飛び、中継点が見つかっていなかったのです。

白山宮の遺跡から平安時代後期の地層を発見

 そうした中、10月19日に、石川県教育委員会から、白山比咩神社の前身とされる「白山宮」があったとされる古宮(ふるみや)

白山比咩神社・旧社地の古宮遺跡。安久濤ヶ淵の岩場上にある。上方の川が手取川。旧社地の下が発掘調査区(県埋蔵文化財センター資料から)

遺跡(白山市白山町)の発掘結果について発表がありました。その中で、最も興味が惹かれたのは4面の地層が確認出来て、最も古い時代は平安時代後期~末期のものでした。末松廃寺の物語で、切れていた時間軸が一気に結びつく可能性が出てきたのです。10日後の10月29日、現地の説明会に行って来ました。
「古宮遺跡」は手取川が山間から扇状地へと迸(ほとばし)り出る地点の右岸、昔から「安久濤ヶ淵(あくどがふち)」と呼ばれる切り立った岩山の頂上にある遺跡で、白山宮がありました。白山比咩神社の記録によると、室町時代の1480年に火災に遭い、現在地に移転したとされています。京で応仁の乱が勃発した直後に当たります。
今回の調査は、古宮遺跡東側に当たる北陸鉄道石川総線の旧加賀一の宮駅付近で、線路跡を自転車専用道路「手取キャニオンロード」に整備するための事業に伴うものです。

祭祀に使われた大量の素焼き土器皿が出土

古宮遺跡で発掘された4層の遺構面。穴の中にある最下部が平安時代後期~末期のもの

古宮遺跡で発掘された石列遺構。区画石とみられている

 県埋蔵文化財センターの説明によれば、発掘された地層は、表層に近い第1面が「室町~戦国期」、2面が「鎌倉~室町期」、3面が「平安末期」で最下層の第4面が「平安後期~末期」となっています。建物の礎石、石列を持つ区画溝、石畳状の敷石遺構、石段状遺構などを検出。火災後の整地層や遺構面が確認できたことは、文献史料から知られている白山宮の火災や自然災害の度に繰り返えされた神殿の再建を裏付けるもの、としています。
遺物としては、大量出土のカワラケ(素焼きの土器皿)、中国製の青磁、白磁の碗(わん)・皿、瀬戸焼の製品、加賀焼、珠洲焼、越前焼のすり鉢、甕(かめ)など2万点以上が出土し、特に平安時代の地層から出土したカワラケは遺物の九割以上を占めています。中には意図的に割られたと思われる皿も多く、繰り返し祭祀が執り行われた証拠、とみています。

1068年に焼失した白山社はどこにあった?


 また、同センターの説明によると、白山宮の火災に関する文献史料として、当時の学者などが白山宮の火災について調査、報告した鎌倉時代の文永六年(1269)付吉田兼文勘文(かんもん)に「後三条天皇の治暦四年(1068)、加賀白山社の神殿ならびに御躰等が焼失し、再び造立がなされた」と引用されている、という。
 治暦四年といえば、末松廃寺が廃絶した直後頃にあたり、同廃寺の南方向(手取川上流)となる安養寺付近に取水口が移った頃になります。しかし、地名に付く「寺」の文字から推察すると、取水口付近にあった寺院は安養寺廃寺であって、神社とは思えません。可能性の第一としては、安養寺廃寺が火災に遭い、再建された寺院が、鎌倉時代には白山宮と呼ばれていたのかも知れません。
 もう一つの可能性としては安養寺付近に寺院と神社の二つが建立されていた、ということです。以後、寺院は寺院として、神社は神社としてそれぞれの道を歩んだ、ということですが、建立の主体についての考察が必要になります。最後の可能性は、安養寺とは別の地域に神社が建立されていた、ということです。

「白山宮の下流1㎞に“原・白山宮”があった」

 一方で、同センター職員から、このような言及がありました。白山宮の前身についてです。「伝承によると、古宮遺跡に白山宮が建てられる前は、1㎞ほど下流に前身の神社がありました」というものです。安養寺と古宮遺跡の中間に“原・白山宮”があったことになります。古宮遺跡の最下層が平安後期~末期であるということは、その時期までには原・白山宮があったことを意味します。
 古宮遺跡は安久濤ヶ淵の岩山の頂上にあって、現在は、手取川七カ用水白山管理センターの存在が示すように、全域の取水口となって一元管理されています。しかし、白山宮が建立された平安後期~末期の頃は、同遺跡は取水口ではありませんでした。それでは、一体どうして、この地に建立されたのでしょう。
 もしも原・白山宮が存在するとするならば、その比定地は、手取川の形状から考えて、最後の取水口ではないような気がします。最後の取水口はさらに下流かもしれません。白山宮がそうであるように原・白山宮もむしろ白山宮と同様の性格を帯びていたのではないでしょうか。


暴れ川を征服した記念碑的な神社

 大胆に推理するならば、越道君の勢力下にあった右岸のみならず、財部(たからべ)氏の勢力下にあった左岸の開発も最終段階に入り、川幅が狭く、両岸の合流点とみなされる地に開発完成記念の証として白山宮が建てられた可能性もあるのではないでしょうか。そして、何かの原因で安久濤ヶ淵の上に移ったとしたら、どうでしょう。
古代から中世にかけての扇状地開発は、平安時代後期から末期の間には完了していたことになります。前述したように、白山宮が建つ安久濤ヶ淵は手取川が山間部から平野部に流れ出す位置にあります。同淵の上から手取川を見下ろす絶景です。水墨画の題材としても一幅の画となります。それは名うての暴れ川をついに征服したという充実感を味わうには最適の地です。白山宮とは、そんな記念碑的建物だったのではないでしょうか。


新しい世界を生み出した水の神・菊理媛尊

 白山比咩神社の祭神は菊理媛尊(くくりひめのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)です。この三神は日本書紀の中に出てきます。死んで、黄泉(よみ)の国に居るイザナミに逢いに行ったイザナギが現世に帰る時、黄泉平坂(よもつひらさか)まで追いかけてきたイザナギと言い争いになります。その前に現れたのが菊理媛です。二人をなだめ、イザナギはこの世に帰ります。直後に穢(けがれ)を払うために水中に入って禊(みそぎ)を行い、その際に生まれたのが天照(あまてらす)大神、月読命(つくよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)です。禊によって新しい世界を生み出したと言ってもいいでしょう。
 菊理媛とは、新しい世界を生み出す場面に登場する神です。そして黄泉の国で穢に触れたイザナギを現世に帰すことで穢れが広がることを恐れ、帰すまいと迫るイザナギの間に立って、水を潜(くぐ)って禊をすれば穢を払える、と教えた水の神である、と思っています。「くくりひめ」の名前の由来ではないでしょうか。
 暴れ川の水を治め、手取扇状地という新しい世界を生み出した水の神・菊理媛ほど白山宮の祭神として似合う神はいないのではないでしょうか。(宮崎正倫)(おわり)