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PMCで見つけた〈33〉バディ・ホリーの「ペギー・スー」

2019年1月29日

青春時代のロックンロールが始まった1

 

182㎝の長身に、眼鏡をかけてスーツ姿。こんな男がロックロールの創始者の一人に数えられるバディ・ホリーです。活動期間は1957年からわずか2年程でしたが、ザ・ビートルズなど後に続くバンドに大きな影響を与えました。ギター2本にベース1本、ドラムスを加えた4人編成で演奏を始めたのもバディ・ホリー&ザ・クリケッツでした。当時は、ロックンロールといえどもビッグバンド・スタイルでしたが、お金のなかった彼らが巡業中に、4人バンドで演奏したのです。

 

「ペギー・スー」という曲は最初、ホリーの姪の名前から「シンディ・ルウ」というタイトルでしたが後に、クリケッツのドラマーだったジェリー・アリソンの妻の名前をとって「ペギー・スー」に改題されました。歌の内容は「お前がペギー・スーのことを知っているなら 、彼女がいなけりゃ僕がどんなに落ち込むか分かるだろう。本当にペギー・スーが好きなんだ」というもの。ドラムの軽快なビートで始まり、アコースティック全盛の時代に、エレキギターを抱えて歌う青春100%に若者はひかれた。

 

19592月、ホリーは飛行機でアイオワ州からミネソタ州へ移動中、吹雪のために墜落して、同乗していた2人のロックンローラーと共に死亡した。ザ・クリケッツと活動を再開する直前だったという。ジョージ・ルーカス監督の映画「アメリカン・グラフティ」の中には「バディ・ホリーが死んでロックンロールは終った」という台詞があるという。しかし、ロックンロールはイギリスのバンドに生き続け、やがてアメリカに上陸するのです。「バス・ストップ」の曲で有名なザ・ホリーズは彼から名前をとったものです。

 

PMCから借りてきたアルバム「栄光のバディ・ホリー」には「ペギー・スー」の他、デビュー曲の「ザットル・ビー・ベイビー」、ポール・アンカが書き贈り、実質上の遺作となった「イット・ダズント・マター・エニモア」が収録されている。また、ホリーが事前にデモ録音していた曲に、彼の死後、ザ・クリケッツがオーバー・ダビングして完成させた「ペギー・スーの結婚」もある。本当に青春時代のロックンロールの血が騒ぐ一枚だった。(宮崎正倫)

 

KITPMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、245千枚を所蔵している。