末松廃寺・第1話「状況証拠ばかり」
2018年10月3日
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺・第1話「状況証拠ばかり」
「6GSM」。この数字が何かご存知でしょうか。最近のネット社会に否応なく付き合わされていると何かのパスワードに見えますが、もちろん違います。これは野々市市末松2丁目に在る国史跡「末松廃寺跡」に付けられた固有記号です。同市が勝手につけたのではなく奈良国立文化財研究所の遺跡記号表示表に基づいています。
「6」は奈良時代を、「G」は遺跡の種類と所在地を指しますから、中部地方の寺院であることを表します。「S」と「M」は末松の頭文字を採ったものです。ですから、国内に多々ある膨大な遺跡の中にあっても、ただ一つ末松廃寺跡を指しているのです。
◇調査報告書が発刊されるまで41年◇
末松廃寺跡は元が水田でした。江戸時代から唐戸石(からといし)と呼ばれる巨石が在り、寺院の遺跡ではないかと口の端に上っていました。昭和12年に行われた最初の調査では金堂跡の石敷き、塔跡の根石群が確認され、次いで同38年の予備調査を経て、同41年に第1次、翌42年に第2次の国の手による本格的な調査が行われました。これら一連の調査(以降は昭和の調査)の成果は、41年間の時を費やして平成21年、ようやく調査報告書としてまとめ上げられました。
最近になり、廃寺跡を史跡公園に整備する構想が浮上してきました。このため、平成26年からの4カ年計画で再調査(以降は平成の調査)を行い、今年度末までに報告書をまとめることになっています。
◇少なかった考古学的資料◇
それでは何故、昭和の発掘から報告書が刊行されるまでに多くの時間を要したのでしょうか。そこには、地方の古代遺跡に付きまとう宿命のような事情があったからです。
この地は石川県の穀倉地帯として長年、水田が営まれ、地中深くまで繰り返し、繰り返して耕作されてきたため、地中の遺跡が破壊され、発掘による考古学的資料が少ない、という困難さがありました。そのうえ、中央と比較して地方の歴史学的な文献資料は現代まで残り難いのが常で、中央などに末松廃寺に関する記載でもあれば事実を裏打ちしてくれる手掛かりになるのですが、多くありませんでした。
加えて当時としては、時代の先端技術の粋を集めた古代寺院であるからには、遺跡のすぐ近くに権力を持った地方の大豪族が居て当たり前なのですが、末松廃寺の場合は、かなり離れた河北潟周辺まで行かなければ越国(こしのくに)の大豪族であった道君に行きつきません。扇状地の真ん中に、空から舞い降りたようにポツンと建つ同廃寺の特殊性がありました。直接的な証拠が少なく状況証拠ばかりでは廃寺の由来も分からず、誰が言うともなく「謎の大寺」と称されるようになりました。
◇最大の手掛かりは斉明6年(660)◇
状況証拠の中でも、昭和の発掘で最大の成果は、造立年が斉明6年(660)を上限とし、それより古くは遡らない、という事実でしょう。西に金堂、東に塔を配置した「法起寺(ほうきじ)式」の伽藍配置であることも分かりました。創建時の伽藍は一度倒壊し、8世紀の初め、奈良時代(710年遷都)に再建されていることも分かりました。
ただ、廃寺跡の周辺に大豪族の痕跡がなかったことから、誰が発願して建立されたのか、目的は何だったのかについては、昭和の調査当時には確定することが出来ませんでした。
ところが、野々市市は僥倖(ぎょうこう)に恵まれました。農村地帯に都市化の波が押し寄せ、同市内のいたるところで開発が始まったのです。開発に当たっては、埋蔵文化財の調査のための発掘が義務付けられるようになっていました。同市全域から、と言っても過言ではないくらいの遺跡が出土してきました。その中に、廃寺が建立された時期の近いもの、地理的に関連性があるものが拾い上げられ、国の調査報告書へと集約されていったのです。
◇天智朝の意志で手取扇状地を大開発◇
状況証拠から導き出された結論は「天智朝」が「国家的事業」として「手取扇状地開発」に乗り出し、その象徴となる「白鳳の大寺」を建てた、というものでした。末松から遠く離れた大和(奈良県)に成立していた政権が造立の主体であった、とは推理小説の謎を解いていくような展開でした。地方の大豪族では出る幕がないほどの稀有壮大な規模でした。
それでもまだ、未解明な部分が多く残る廃寺跡です。史跡公園の整備のため平成の調査が行われることになりました。大きな目的は▽廃寺の中心伽藍の範囲を確定する▽昭和の調査で不十分な資料を補足する-などが挙げられました。結果としては、新たな遺構の発見や、昭和の調査で立てられた仮説を否定する知見も得られ、真実の姿に迫る大きな成果があったと言えます。
平成の調査の正式な報告書は30年度末まで待たなくてはなりません。が、地元に本社を置くコミュニティ放送局として、これまでも大寺の謎に迫る努力をしてきましたが改めて、謎の大寺の誕生から途絶までの400年間にわたる素顔に迫ってみたいと思います。
考古学、歴史学については全くの素人であります。余計な口を挟むな、というお叱りの声が聞こえてくるような気もしますが、住民の関心も高く、地域に密着した情報を伝えるコミュニティ放送局でありたい、という責務と捉えています。平成が終わって新しい時代を迎えますが、今後も更なる解明が続くことを期待しています。
これまでも機会があるごとに特別番組を編成して放送してきましたが、音声に頼るラジオでは説明の限界性と感じています。ここで一度、文字による伝達を試みることにしました。題して「石塊(いしくれ)の荒野(あらの)睨(にら)む白鳳の塔~加賀百万石の原風景・末松廃寺」を始めます。(宮崎正倫)
次回は10月8日「鉄製農具の一撃」です。