末松廃寺・第2話「鉄製農具の一撃」
2018年10月8日
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺・第2話「鉄製農具の一撃」
北陸新幹線が平成27年3月14日に開業して3年が経ちます。初めは東京へのストロー現象が心配されていましたが、金沢市への誘客は順調で、昨年度の観光客数は1,022万人を超えたとかで人気は衰えを知りません。
その魅力は、江戸時代の加賀百万石が育んできた城下町文化、先の大戦による被害を免れた町家や小路の街並み、藩政期の茶屋街などが情緒を醸し出しているからに他なりません。また、兼六園、これに接する金沢城が復元されつつあり、歴史の深みが背骨の様に芯を通しています。
◇加賀藩の財政支えた手取扇状地◇
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵」と言ったのは戦国武将の武田信玄だそうです。加賀藩も加賀八家と呼ばれる家老衆と、石垣の博物館とも称される城があったからこそ繁栄したのかもしれません。
加賀藩は、徳川幕府の外様でありながら石高は加賀、能登、富山を合わせて122万石にのぼり、全国でも一頭群を抜く財力が背景にあって武家文化を支えてきました。その中でも足元とも言える石川郡が18万石、能美郡が12万石を数えます。言い替えれば石川県最大の穀倉地帯である加賀平野、手取川の右岸、左岸扇状地で総石高の四分の一に当たる30万石を生み出していたことになります。FM-N1のある野々市市も右岸の扇央部に在って、旧石川郡の一角を占めています。
◇手取川の石から戸室の石へ◇
末松廃寺跡(野々市市末松2丁目)の調査の元となった「唐戸石(からといし)」として地元では親しまれてきた塔の心礎(しんそ)は当初、金沢城と同じく戸室石(金沢市戸室産)ではないかとも見られていました。が、調査結果から、手取川の転石である安山岩と判明しました。ともかく、加賀百万石は手取川の石から始まり、戸室の石に行きついたことになります。
◇金沢城を歩いてみた◇
今年の四月に機会があり、石川県金沢城調査研究所の木越隆三所長(野々市市在住)を案内役に、金沢城などを駆け足で巡ってきました。
スタート地点は金沢市下新町。金沢城の防御のために城外に張り巡らされた二重の土居の一つ、東内総構跡を見るためでした。他人様の敷地・駐車場でしたが、駐車場の端が総構の縁とあってやむを得ない仕儀と相成りました。縁から見下ろすとかなりの高低差があり、堀の名残りである用水が流れていました。町家が続く小路を西へ。旧町名が復活した袋町を抜けて市媛(いちひめ)神社の境内に入り、延びてきている総構の段差を確認。今度は国道159号を渡って近江町市場へ着きました。
総構跡の段差に沿うようにして市場の裏へ入り込み、更に進んで途中から営業中のスーパーの店内へ。買い物客の間をすり抜けるようにして裏口から出ました。近江町市場を後にした歩みは十間町から西町藪ノ内、同三番丁、尾崎神社を経て、やっと金沢城黒門に到着しました。石川門は、漆喰(しっくい)壁の色から白門とも呼ばれますが、黒門は白門とは正反対の方角になります。ちなみに、東京大学の赤門は江戸時代の前田家上屋敷跡になります。
到着した黒門から城外の尾張町方向を眺めると、今歩いて来た総構跡の高低差が一望の下に見て取れます。
木越所長がここでつぶやきました。「私的な思いだが、加賀百万石の藩祖前田利家が金沢城に入ったのは大手門ではなく黒門ではなかったのかな」。定説を覆すような貴重な発言だったかも知れないが、その場は聞き流すだけにしておいて、いよいよ城内へ。
◇石垣の博物館と最古の文禄石垣◇
大手堀、大手門、三の丸広場、河北門の順に進んで石川門裏へと。ここには、石垣の博物館と異名を
取る同城でも最古の石積みとなる文禄石垣と対面。野面(のづら)積みという自然石の姿のままに組み上げられた荒々しさが特徴です。更に鶴丸倉庫、橋爪門の脇から二の丸御殿の石垣へ。石に彫られた多種の刻印も楽しみながら、大奥の外周を回って、玉泉院丸庭園へと下りました。
下りの道が今度は一気に上りとなって本丸跡へ。これまでは裏側しか見ていない三十間長屋の正面に回って広坂合同庁舎を見下ろす斜面の際へ。三カ所の破風造りを確認して本丸園地へ。城跡の最高地点である東南角の辰巳櫓跡を巡って、蜂にまとわりつかれながらもゴールの石川門へと下った。
◇石から始まったもう一つの歴史◇
3時間余りの行程を終えてみれば、余り好きでなかった前田様も何か憎めない人物に思えてきました。これも金沢城調査研究所などの長年に渡る発掘、調査、研究があってのことだと実感させられました。
もう一つの発見は我が体力の衰え。それほど歳の差があるわけではない木越所長の健脚に比べて、なんと足腰の弱い事か。帰宅すると文字通り、崩れるように倒れ込んだ。老体をいたわるように、金沢城の巨大な建築物を支えた石積みに想いを巡らせていると、もう一つの「石」が脳裏を横切りました。近世の金沢城と比して、文献の少なさから息の長い調査、研究を余儀なくされている末松廃寺の心礎・唐戸石の事です。
飛鳥時代と奈良時代をつなぐ白鳳時代に創建された末松廃寺の象徴的建造物、塔の中心を貫く心柱(しんばしら)を支えた礎石です。
廃寺造営の目的は、先にも触れたように加賀百万石を支えた穀倉である手取扇状地の開発にあったことは昭和の調査で解明されています。
日本一の急流である手取川が右岸、左岸に形作った石ころだらけの荒れ地を稲穂の頭が垂れる田圃に開発するため、白鳳時代の人々が末松に入植しました。土地は石ころに覆われています。木製の農具では歯がたちません。最先端の鉄製刃先を取り付けた鍬を最初に、乾燥した荒れ野に打ち込んだ人々の想いはどの辺りにあったのだろうか。確信、希望に燃えた一撃だったのだろうか。それとも、営々と続くであろう墾田開拓を引き継ぐ子、孫達の運命を思い浮かべた一撃だったのだろうか。
少なくとも、この地が加賀百万石の礎になるなどとは夢にも思わなかったはずである。天正11年(1583)に前田利家が金沢城に入る1千年近く前の原風景ではなかったろうか。(宮崎正倫)
次回は10月11日「蕃神が産業革命」です。