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末松廃寺・第3話「蕃神が産業革命」

2018年10月11日

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第3話「蕃神が産業革命」

 

 国史跡「末松廃寺跡」(野々市市末松2丁目)を論じる時に、一番基になるのは、同廃寺の造立年が斉明6年(660)頃よりは古くはならないということでした。歴史的な事件、出来事の年表に当てはめることで、同廃寺の置かれていた時代的状況を理解することが可能だからです。それではなぜ、660年が分かったのか、ということです。国の調査報告書からみてみましょう。

 

◇塔跡の下から住居跡と須恵器が見つかる◇

 

 昭和の調査で、塔跡の発掘をしていた時です。塔基壇の東南隅に当たる地盤の直

塔基壇跡の東南角。基壇跡の更に下から住居跡が発掘され、造営年が660年以降と割り出された

ぐ下の地層から、東西方向の長さが3.6mある四角形の住居跡が出土し、床面からは須恵器が発見されました。須恵器の製作年代は、全国規模での調査研究の蓄積があり、研究者の手にかかれば試料を比較することで特定が可能なレベルにまで達しています。その結果、出土した須恵器の年代が割り出されたのでした。住居遺跡の直ぐ上で塔、すなわち同廃寺の造立が行われた訳ですから660年というのが基準となります。

 この660年という時代は、日本という国家が成立する激動期にあたります。中大兄皇子(天智天皇)が、飛鳥板葺宮(あすかいたぶきのみや=奈良県明日香村)で、蘇我入鹿(そがのいるか)の首をはね、天皇親政の政治を計った乙巳(いっし)の変から、まだ15年しか経っていません。生々しい歴史の大きなうねりの渦中で末松廃寺の造営事業が起こされていくのです。

 白鳳寺院と言いますから、もちろん仏教寺院です。この仏教であるということが末松廃寺の謎を解く上で大きな手掛かりになってきます。北陸では最初期の仏教布教ということになります。そこで回り道になるようですが、古代の仏教について少し思い出してみたいと思います。

 

◇半島から仏教と一緒に最新技術も伝わる◇

 

 いくつか説あるようですが、仏教が朝鮮半島にあった百済(くだら)から日本に正式に持ち込まれた仏教公伝(こうでん)は欽明29年(552年)のことです。それ以前の538年には既に、私的に持ち込まれ、豪族が帰依していた、という見方もあります。

 古代の日本には古神道が存在していました。自然の中に神々が存在して、人は自然・神と共に暮らしている、という考え方です。そこへ、国外で生まれた仏教が入って来た訳です。外国・異国から、その土地へやって来た神を蕃神(ばんしん)と呼びますが、仏教の本尊であるお釈迦様は、当時の人々からみれば蕃神ということになります。

 仏教伝来と聞くと、何か経典だけが入ってきて、人々が学問として学ぶ教養のように考えがちですが様相は大きく異なっていたようです。精神、思想性の面は否定しませんが、仏教を護持する人達と共に最先端の技術が導入され、一種の産業革命や生産性向上に伴う生活様式の大変革が起きていたのです。大規模な土木技術と治水の技術、高度な高層建築の技術、須恵器や瓦にみられる焼成技法など、日本の人達に衝撃を与えるものばかりでした。

 末松廃寺の造営年代を特定できたのも出土した須恵器からでした。これまで低温で焼かれていた従前の土器と比べ、轆轤(ろくろ)で成形し、高温を得られる登り窯で焼くため硬質に仕上がります。

 

◇崇仏派の蘇我氏が寺院造営を独占◇

 

 仏教公伝後の用明2年(587)に丁未(ていびん)の乱が起きます。崇仏派である大臣(おおおみ)の蘇我馬子と廃仏派である大連(おおむらじ)の物部守屋が仏教の受容を巡って争い、蘇我氏側が勝利します。蘇我氏の陣営には聖徳太子が加わっていました。

これは単なる仏教という信仰に関して争ったのではなく、政権の基盤を支える経済、生産活動に従事する工人達の支配権をどちらの派が握るか、という争いでもありました。効率性、生産性は渡来系の先端技術の方が優れているわけですから、歴史の「もしも」が許されて物部氏の勝利に終わっていたとしても、紆余曲折を重ねながら渡来系の文化を取り入れた社会へ変貌していったことは想像に難くありません。

しかし、歴史的事実は蘇我氏の勝利でした。あるがままの自然を尊重しながら墾田の拡張を図ってきた手法から、大胆な土木、治水事業によって自然を大改造し、墾田を拡大する営農に変わって行きます。まさに蕃神が、自然に宿る神々を駆逐するようではありませんか。

この乱の後、推古2年(594)に「三宝興隆」の詔が発布され、仏教は国の公認となります。聖徳太子は四天王寺、斑鳩宮(いかるがのみや)、法隆寺を建立していきます。蘇我馬子は飛鳥寺を建立します。一気に造寺の機運が高まっていきます。

特に、推古17年(609)に蘇我馬子が蘇我氏の本拠地とした飛鳥・甘樫丘の東の方角に氏寺として建立した飛鳥寺は、飛鳥大仏(釈迦如来)を本尊とし、広大な敷地に瓦葺の伽藍が立ち並びました。五重塔を中心に北側の中金堂、東西金堂の3金堂が取り囲み、南門から伸びた回廊がこれらの中心伽藍を取り囲んで、見る者を圧倒する聖域を形成しています。回廊の外側には西門が甘樫丘を望むように正対しています。

 

◇国家が初めて建てた百済大寺(吉備池廃寺)◇

 

先に、蘇我入鹿が殺害されたのは飛鳥板葺宮(皇極天皇=後の斉明天皇=の宮)と述べまし

乙巳の変の舞台となった伝飛鳥板葺宮遺跡。写真右後方に飛鳥寺があった=奈良県明日香村

た。飛鳥寺の完成から36年後の事件でしたが、天皇の宮といえども文字通り板葺きであったことを思えば、いかに瓦葺の寺院建築は人心を掌握する上でも荘厳な建物であったかが理解できると思います。この技術を蘇我氏が一手に握り、天皇家と比肩する力を誇示していたのです。

一方、三宝興隆の詔が発布された後、国が建立した寺院に百済大寺(吉備池廃寺=奈良県桜井市)があります。飛鳥寺から北東の方へ直線で約3㎞の地点です。東に金堂、西に塔を配置した大規模伽藍で、塔の高さは九重であったと言います。天智天皇の父である舒明天皇が舒明11年(639)に発願し、後を引き継いだ皇后の皇極天皇が完成させました。造立工事には近江、越の人達が動員された、と記されています。

 

◇乙巳の変からわずか15年後◇

 

当時の政権運営は天皇を中心とした大豪族の合議制だったと言われますが、渡来系の先端技術を掌握し、聖徳太子を含む蘇我一族が次から次へと寺院を造営していく様子を眺めると、爆発的な財力の蓄積を背景に政権運営の実権を握り、思うがままに力をふるう蘇我氏の姿が浮かび上がってきます。

天皇の座をも左右しかねない権力を、天皇家に取り戻すために、中大兄皇子を中心に計画、実行されたのが乙巳の変だといえます。渡来系の先端技術によって築かれた生産体制そのものを国営に移管した、と言っても過言ではないでしょう。

板葺きの宮で起きた乙巳の変のわずか15年後、政治、文化の中心地であった飛鳥から遠く離れた野々市市末松に、石ころだらけで耕作不可能だった手取扇状地に、時代の先端をいく瓦を用いた白鳳寺院が造営され始めるのです。周辺には単独で仏教を受容し、独力で寺院を造営できるだけの在地大豪族は見当たりません。この謎を、昭和の調査、平成の調査が解き明かしていくのです。(宮崎正倫)

次回は1015日「どの寺が手本?」