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末松廃寺・第10話「鄙に地の利あり」

2018年11月5日

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第10話「鄙に地の利あり」

 

 末松廃寺(野々市市末松2丁目)が建立された頃、当地は越(高志)国(こしのくに)に含まれていました。越国とは今でいう福井県嶺北から秋田県に至る広大な範囲です。大和政権の支配下にありましたが、一つの国というより福井・嶺北から以北の日本海側地方という十把一絡げの扱いだったのではないでしょうか。

国府のある武生(福井県越前市)は越国の中央に位置するのではなく、一番都に近い土地に置かれていました。これでは、国府にいる国守にとって、越国の隅々までの実情、情報を十分に把握するには不利な状況にあったことになります。大和・飛鳥の都からみれば地方の国のさらに田舎、つまるところ鄙(ひな)としての感覚が強かったのでしょう。

 

◇越道君は鄙の起点に居る大豪族?◇

 

 越道君(こしのみちのきみ)の名前の由来は定かではありません。名前は地名から採るのが一般的ですが、越道という地名が存在しないために謎に包まれたままになっています。

古代の福井県はもとより石川県内の旧江沼郡までの地域は、早くから中央政権に服属していたので、隣接する旧加賀郡が鄙の始まりということになります。そこから延々と続く鄙の道の起点にいた豪族という意味で、越道君と呼ばれたのかもしれません。

末松はその旧加賀郡に属していました。同郡の範囲は北が大海川(現かほく市)から南は手取川までの範囲で、郡司は在地の大豪族である道君が務めていました。当時とすれば、国府と旧加賀郡の間の距離は十分に離れており、支配下にあるとしながらも日常的な政治的圧力は少なかったのではないでしょうか。

 支配の目的は、税として水稲を納めさせるなど物産の貢納、労働力の提供などです。当時の稲作は墾田を拓いた権力者が、自ら所有している稲穂を出挙(すいこ)と称して田部(たべ=農民)に貸し付け、耕作させます。そして収穫時に、貸し付けた稲穂の量のほか一定の歩合で利息となる利稲(りとう)を合わせて納めさせます。末松の場合は、土地の所有が朝廷ですので、道君が代理人として税を徴収、納めていたものと思われます。

 

◇税として稲穂の申告は正確だったのか◇

 

 天智朝が興した末松廃寺造営から約30年間は、墾田を天皇家の屯倉(みやけ)として、実質的は道君が管理をしていました。武生に居る国守の出番は余りありません。扇状地開発は順調に進み、墾田は急速に拡大してい

現在の手取扇状地を潤す七ヶ用水の取水口になっている安久濤ヶ淵の大門=白山市

きます。水位の低い乾燥地に治水技術を駆使した乾田の圃場は予想を超える収穫量をあげていきます。田部の数、耕作地面積、収穫高を、ごまかすとまでは言いませんが、少なめに申告をすればするほど、現地の道君に残る水稲の歩合は多くなっていきます。鄙であるが故の利得とも言えます。

 手元に残った稲穂は、公の帳簿外として、私的に貸し出すことも出来るようになりなります。「闇の貸付」、「私腹を肥やす」ことになりますが、これを私出挙(しすいこ)と呼んで、二重帳簿を作ることになります。田部は本来、国の所有として戸籍で管理されますが、私出挙における田部は戸籍を離れ、在地権力者の私有状態となります。開発された墾田も私有への道が開かれます。

 時代は新しくなりますが、奈良時代の天平宝字5年(761)に、加賀郡の少領(郡司の2番目の位)道君勝石が、当時の加賀郡の公出挙(くすいこ=正式の貸付)の量に匹敵する6万束の私出挙を行い、利稲3万束を得ていた事件が記録されています。末松廃寺を創建し、扇状地開発に乗り出してから100年後のことです。耕作不可能地という常識を打ち破るような勢い、収量を確保できた一つの証のようです。

 ともかく、どちらの場合も墾田の正確な面積、田部の数を把握していなければ利稲を含む税収をあげ、拡大再生産につなげることはできません。稲穂を貸し付ける営農の姿が続く限り、国の制度としての条里制が整わなくても実態として、条里の考え方に基づく地割りが必要だったわけです。これが土木技術、治水技術、建築技術、文字による管理能力と一体となった渡来系の最先端技術であり、新文化の象徴として仏教寺院があったわけです。

 

◇加賀立国で税の管理が厳しくなる◇

 

 しかし、国による管理態勢は次第に整えられていきます。越国が越前、越中、越後となるのは、天武朝が天智朝を倒した壬申(じんしん)の乱(672)の後のことで、持統6年(692)年頃までには三国に分割されてしまいます。国の律令制度として完結するのは、藤原京に都が置かれていた文武天皇の時代、大宝2年(702)に大宝律令が制定された時になります。開拓地の墾田は、班田として明確に国の所有と位置付けられます。

 藤原京から平城京に都が移った元正天皇の723年に「三世一身の法」が、聖武天皇の743年には「墾田永年私財法」が施行され、国の班田を実態に合わせた後付けの論理で、一部の私有を追認します。新規開発の墾田の荘園化に追い風となります。在地勢力は、都に住む荘園領主のために荘園管理を行うことで地位の保全、地域勢力の扶植を図ることになります。

 末松廃寺造営から160年程を経た頃、中央の支配体制に大きな変化が起こります。弘仁14年(823)に、越前国に含まれていた加賀、江沼両郡を新たに加賀国として立国されたのです。武生に居た国司が、越国を三分割した越前国でもまだ、領地が広すぎて徴税管理の目が届かないため、態勢を細分化したことが一因とも言われています。

 

◇立国2年後には中国から上国に格上げ◇

 

拝師郷長が住んだ下新庄アラチ遺跡。拝師郷の中心地だった。今は再開発を経て、野々市市の新しい中心地の一つとなっている

 それまでの旧加賀郡は河北、石川の2郡に、旧江沼郡は能美、江沼の両郡となりました。制度として1国4郡制をとっていたからです。全国では66番目の国で、最後の立国となりました。

 66カ国は生産力(税収)の多寡によって大国、上国、中国、小国の4階級に分けられていました。加賀国は最初、中国とされましたが立国からわずか2年で上国に格上げされています。急に墾田が拡大して税収が増えた、というよりも、稲穂の石高が以前よりも正確に把握されたというべきでしょう。国司の狙いは当たったと言えますが、それでも十分であったかどうかは、また別の話です。

 

◇律令制で拝師郷が生まれる◇

 

 流れを整理すれば、660年頃、末松ダイカン遺跡、末松福正寺遺跡辺りに入植した渡来系の人達は、墾田開発が軌道に乗るのに合わせ、末松廃寺の東側430mに拠点を移し、末松A、清金アガトウ遺跡として集落を拡大していきます。この後、更に東側770mにあった上林新庄遺跡(冨樫用水系)付近に、推古朝の時代から先行して進出していた入植者を取り込んでいきます。

 702年には大宝律令が施行され、行政組織は国郡里制に整備されます。養老元年(715)に「里」は「郷」と改められます。末松廃寺周辺にあった複数の集落を束ねて「拝師(はやし)郷」が成立します。

 いったんは縮小した上林新庄遺跡は再編され、製鉄工房を伴う集落になります。さらに北側に接するように下新庄アラチ遺跡が出現し、建物の大型化、戸数増大が見られます。首長宅とみられる最大規模の建物を囲むように大型建物が並び、硯(すずり)、小刀などの出土物から行政機能を併せ持っていたことがわかりました。拝師郷の中心地とみて間違いありません。

また、下新庄アラチ遺跡の建物や出土物には末松ダイカン遺跡で見られた渡来系の特徴を引き継いでおり、入植してきた渡来系の一族が開発の指導者として継続的に地位を保ってきたのでしょう。首長つまり拝師郷長は渡来系の子孫ということになります(宮崎正倫)

 次回は118日「寺院から神社へ」です。