2023年特集「大地有情、風に事情」第1回 加賀立国 4月3日放送
2023年5月23日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
~末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
■はじめに■
人は皆、幸せな人生を願って故郷(ふるさと)の大地の上で、喜怒哀楽の波に押し流されながらも営みを続けています。私たち・末松廃寺取材チームは、時には先人の想いに学び、後に続く人達のために道を拓いてゆく助けとなるように、との思いを込めて野々市にある古代・北陸地方最古の仏教寺院とされる末松廃寺に注目してきました。ちょうど今年令和5年は、故郷(ふるさと)が中世の加賀立国から1200年の節目に当たるほか、足元の手取扇状地は世界ジオパーク認定が実現しようとしています。この機会に、誇れる故郷(ふるさと)の姿をメモとして残してみたいと思っています。
第1回(令和5年4月3日放送) 「加賀立国」 ■末松廃寺取材チーム・メモ■
ことし2023年、令和5年は中世における「加賀国(かがのくに)」が出来て1200年の節目となります。第52代嵯峨天皇の時で、823年・弘仁(こうじん)14年の事です。日本では最後の立国となり、これ以後では新しい国立(くにだ)てはありません。
加賀の国が出来るまでは、私達の故郷(ふるさと)石川県は越前の国の一部でした。能登地方は加賀地方より一足早く能登の国として立国されていました。したがって、弘仁(こうじん)14年時点の加賀の国の範囲とは現在のかほく市の大海(おうみ)川から南、加賀市・大聖寺から北の範囲という事になります。
国の政治・祭祀の中心となる国府は小松市の古府台地あたりに置かれていた、とみられていますが、諸説が取りざたされているようです。例えば、当時でも経済の中心地であったとされる金沢市から小松市に移された、というのも一例でしょう。
しかし、私達「末松廃寺取材チーム」は当初から、小松市の古府台地に国府が置かれていたのではないか、と考えています。古代以来の律令制における国府の所在地は必ずしも、その国の地理的中心地と限らないからです。
加賀の国や能登の国が独立する前の北陸地方にあった国と言えば、越前・越中・越後の三か国ということになります。石川県が含まれていた越前の国の範囲は、と言えば福井県嶺南のうちの敦賀市と嶺北地方、そして石川県ということになります。この広い領域を治めていた越前国府がどこにあったかと言えば、福井・嶺北地方でも最も南寄りの旧武生市、現在の越前市です。
考えようによっては、日本の都であった京都市に近い地理的条件を優先したと、思えなくもありません。都を守るための軍事的側面からみれば合理的な選択と言えます。加賀立国に際しての国府が、小松市古府台地付近に置かれたとしても同様の観点から不思議ではないのです。
それではそもそも、越前の国から分離してまで加賀の国を立てなければいけなかった理由とは何だったのでしょう。
中世以前、古代における地方支配の仕方は、その土地に住む有力な豪族、在地豪族と言いますが、この豪族を支配して郡司、つまり郡の長官に任命することで地方支配をしていたものが、701年・大宝元年、第42代文武(もんむ)天皇の時に完成した大宝律令によって中央集権的な統治機構に置き換わりました。中央政府から貴族が国司として派遣され、地方の国府で政治(まつりごと)を執り行ったのです。
越前の国で言えば、貴族の中でも優秀とされていた紀末成(きの・すえなり)が国司として派遣されていました。有能な官僚である紀末成(きの・すえなり)の目には、越前国府から遠い加賀郡では見回りも十分できず、民の訴えも聞くことが出来ない。古代からの有力な在地豪族でもある郡司の道公(みちのきみ)らが横暴な振る舞いで収奪を繰り返している、という風に映ったのでしょう。たまりかねて、加賀立国を朝廷に奏上したのでしょう。
優秀な官僚である紀末成の有情(うじょう)、悩みや感情が北陸の大地で芽生えたことによるのですが一方では、古代から続く加賀の国の事情が空を渡る風となって流れていたのです。
そして皮肉なことに、やっと分離した加賀の国の初代国司には、紀末成が越前国司と兼任することになるのです。
写真/小松市古府町の石部(いそべ)神社。かつて加賀国府が所在した地域とされ、現在、境内が発掘調査されています。