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2023年特集「大地有情、風に事情」第2回 加賀四郡 4月10日放送

2023年5月24日

加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集

「大地有情、風に事情」~末松廃寺取材チーム・メモ~から

「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中

 

第2回(令和5年4月10日放送) 「加賀四郡」 

 先週は末松廃寺取材チーム・メモの①として「加賀立国」についてお話しましたが、今日は2回目を「加賀四郡」と題して話を続けます。

 1回目は823年・弘仁(こうじん)14年に、越前国司であった貴族の紀末成(きの・すえなり)が、支配下にあった加賀郡司の道公(みちのきみ)らが横暴なうえ、旧・福井県武生にあった国府からも遠くて目が行き届かない、ことを理由に、越前の国から加賀の国を分離して新しい国を立て、小松市古府台地あたりに加賀国府を設置した、という事をお話しました。

 中世の国府所在地は、その国に地理的中心地というより、都(京都)に近い地に偏って置かれることが多い、という話もしました。加賀の国府にしても、経済の中心地であった河北潟周辺から小松市古府台地に移って来た、という説についても触れてきました。今日は別の観点から眺めてみることで、国府の所在地はやはり最初から、小松の古府台地であった、という可能性を探ってみます。

 823年・弘仁(こうじん)14年に加賀の国が立てられた時、支配下にあった郡は加賀郡と江沼郡の二つしかありませんでした。当時の律令制度から言えば、一国は四郡制をとっていたので郡の数が足りないことになります。ただ、例外がなかったわけではありません。

 今の福井県の一部である若狭の国、三重県の一部である志摩の国は二郡しかありませんでした。両国とも、皇室や朝廷に海産物など食物を献上する御食国(みけつくに)とされ特別扱いでした。若狭の国はその後、二郡から三郡に数が増えています。

 従って、加賀の国も四郡に増やす必要に迫られ、加賀郡の南半分を石川郡とし、江沼郡の北半分を能美郡とすることで律令制度の整合性を取ることになりました。加賀郡は後に河北郡となって行き、現在の自治体区分の原型が出来上がっていったのです。

 どうにか四郡になったとはいえ、問題は郡内を治める郡司である在地豪族の力が尋常ではない大きさであった可能性があるのです。古代の日本の姿を振り返れば、奈良県纏向(まきむく)を中心とした中央豪族の連合体であったヤマト政権から、天皇に権力が集中した中央集権体制に移り、古代最大の内乱である672年の壬申の乱(じんしんのらん)を経て、律令を基とした律令国家に変貌して行くのです。

 加賀四郡は、古代国家が成立して行く過程のうち、天皇に権力が集中する中央集権体制が確立する中で、奈良・飛鳥の豪族たちとの結びつきを強めたからです。当時の政権中枢を強くバックアップしたのです。

 加賀郡の郡司である道君(みちのきみ)が注目されるのは、第38代天智(てんじ)天皇の後宮、江戸時代で言えば大奥に当たる後宮に、道君の一族である娘を入れたことにあります。越道君伊羅都売(こしの・みちのきみの・いらつめ)と日本書紀に書かれています。天智天皇との間に志貴皇子(しきのみこ)が生まれます。何よりも、この結びつきによって、手取川の石くれで耕作不能であった手取川扇状地に、中央の最先端の土木・灌漑技術が取り入れられ、また道君(みちのきみ)の財政力にバックアップされて、耕作地が急拡大して行くのです。

 こうした皇室と関係する在地豪族の勢力を考えれば、加賀立国当時の朝廷といえども、簡単には国府を置くための土地を割譲させることは困難と考えた方がいいのではないでしょうか。立国の奏上文に「横暴な振る舞い」と書いた裏の意味が、この事だったのでしょう。

 加賀郡の次に石川郡の事情を見てみましょう。白山市横江から金沢市上新屋にかけて東大寺領横江荘(よこえのしょう)遺跡があります。古代の荘園跡です。この荘園は元々、第50代桓武(かんむ)天皇の妃(ひ)、つまり皇后に次ぐ地位にある妃(きさき)であった酒人内親王(さかひと・ないしんのう)の荘園でしたが、娘である朝原内親王が早世したことを受け、供養の為に東大寺に寄進された土地でした。ここにも加賀国府が入り込む隙間はないように思われます。

 次に能美郡です。ここには北陸最大級の前方後円墳である秋常山古墳があることなどから長年にわたって大豪族が支配してきた土地であることがうかがえます。また、能美郡の豪族として財部国造(たからの・みやつこ)が挙げられる。天智天皇の母である皇極・斉明天皇は宝皇女(たからのひめみこ)とも呼ばれており、天皇に仕える一族であった、という説もあります。

 このように、皇室ゆかりの土地で占められる加賀の国にあって、能美郡の南部の一角である小松市古府台地に、かろうじて国府の用地を確保できた、と見ることはできないでしょうか。

 律令国家の苦悩の選択を尻目に、古代中央政権の風が吹いているようです。

写真/手取川上流から望む天狗橋。左岸は能美市(旧能美郡)、右岸は白山市(旧石川郡)と古代から手取川は行政区域の境になりました。