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2023年特集「大地有情、風に事情」第3回 道君デビュー 4月17日放送

2023年5月24日

加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中

 

第3回(令和5年4月17日放送) 「道君デビュー」

 823年・弘仁(こうじん)14年の加賀立国の要因となり、加賀国司を兼務していた越前国司の貴族・紀末成(きのすえなり)を悩ましていた「横暴な振る舞いをしていた加賀郡の郡司・道公(みちのきみ)」とは一体、何者なのか、ということを今回は見ていきたいと思います。
 いきなりですが、実は道君の正体を特定するには資料が少なく、はっきりとは分かっていません。謎に包まれた地方豪族と言ってもいいかもしれません。
 道君(みちのきみ)が国史の文献に登場したのは日本書紀の欽明31年(570年)のことです。簡単に言えば、加賀に高句麗使節の船が来着し、当地の豪族であった道君が大王と称して貢物を奪いました。飛鳥の欽明朝は軍隊を派遣して道君を服属させると同時に、高句麗使節を飛鳥に迎えた。朝廷と高句麗の初めての接触となった、というものです。
 ここで言う「加賀」とは加賀立国以前の加賀のことです。一般的には大王を詐称した、つまり騙(だま)したという事になっていますが、それは飛鳥の朝廷側からの見方です。道君側からみれば当時、自分は飛鳥の朝廷に服属しているわけではないので「大王」と名乗ることに違和感は無かった、とも考えられます。
 それでは、どうして道君の詐称事件が朝廷の知るところになったか、ということです。それは江沼臣(えぬのおみ)裾代(もしろ)が朝廷に報告したからです。既に江沼臣は飛鳥の朝廷に服属していたことが分かります。570年当時、手取川から南の地域は朝廷の勢力圏にあったことが伺えますが、これ以降は加賀郡も朝廷の一員となって行くのです。
 いよいよ歴史の上で、道君はデビューを果たしたことになりますが、これは朝鮮半島などを含めた極東の歴史上でも一つのエポックとなった出来事でした。
 高句麗といえば、朝鮮半島北部から中国の満州地方にかけて勢力を張っていた古代の大国です。半島南部には百済、新羅、日本府が置かれていた任那(みまな)など諸国がありました。大王詐称事件の8年前、欽明23年には任那が新羅に滅ぼされ、政治権力は百済に引き継がれます。以後、半島では三国時代に入って、飛鳥の朝廷も関係する中で、合従連衡が繰り広げられます。
 時には、百済と新羅が手を組んで高句麗に対抗しますが、高句麗の悩みは中国の南北朝などの王朝も脅威であり、軍事的には常に中国と半島南部の二正面作戦を強いられていたことです。そうした情勢の中、高句麗としては中国の王朝から独立した政治体制を取っていた飛鳥の朝廷、半島で敵対する新羅を牽制する多ために、新羅の背後に位置する飛鳥の欽明朝と手を組むことが死活問題になっていたことは想像に難くありません。
 その最初の高句麗使節を横取りする形になったのが加賀地方の豪族・道君であったわけですから、世の中、大騒ぎになったのでしょう。以後は道君も飛鳥の朝廷に組み込まれて行く事になります。
大王詐称事件の11年後には隋が中国を統一しました。598年、614年と二度にわたって隋と高句麗の間で戦争が行われています。660年には百済が中国の唐と新羅連合軍に滅ぼされ、668年には高句麗がやはり両国連合軍に滅ぼされてしまいます。残された高句麗の臣下は沿海州付近に逃れて渤海国を建国することになります。
 最後にもう一点、考え直すことがあります。加賀地方の豪族であった道君が起こした出来事を簡単に「大王詐称事件」と片付けて仕舞いがちですが、もしも道君が貧相な豪族であったとしたら高句麗使節も騙されなかったのではないだろうか、という事です。相手も一国の使節です。騙せるだけの威容を道君が誇っていた可能性も大いにあると思うのです。だとしたら、道君の力の源泉は何で、本拠地を何処に構えていたのか、という問題です。今回のメモの冒頭でお話した謎というのがこの問題なのです。
 しかし突如、目の前に現れた高句麗の使節を我が意のままにしようとした道君は、加賀地方の大地を治める豪族としては当然の実力行使であったのでしょうが、激動する極東の世界情勢の旋風が吹いているとは、知らなかったのではないでしょうか。


写真/10年ほど前まで「末松廃寺を創建したのは道君」との説が有力でした。「当時の加賀でこれほどの大寺を建てられる豪族は道君しかいない」と考えられていたからですが、最新の知見では「地域の豪族が協働して天智朝の国家プロジェクトとして建てた」が有力になっています。