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2023年特集「大地有情、風に事情」第4回 河北潟と郡家神社 4月24日放送

2023年5月25日

加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中

第4回(令和5年4月24日放送) 「河北潟と郡家神社」

 FM-N1末松廃寺取材チームの一人が古代豪族・道君を取材するため、考古学者の話を聴いていた折のことです。
 「古代豪族の道君の本貫地(ほんがんち)、つまり、活動拠点は金沢市北部の森本周辺と思われます。加賀郡の郡と家と書いて、郡家(ぐうけ)神社という名前の神社があることからも加賀郡のなんらかの施設があったと考えられます」。
 大げさではなく、体に電気が走ったような衝撃が走りました。
 実は、取材者は金沢市の森本地区に生まれました。もっとも生まれた時はまだ森本地区は河北郡の一部で、金沢市に編入されたのは、昭和38年(1963年)のことです。
 生まれ育った家のすぐ近くに郡家神社があり、その境内は子どもたちには格好の遊び場でしたし、春と秋の神社の祭りは何よりの楽しみでした。今は住宅が建ち並んでいる神社の一帯は昔の面影は全く残っていませんが、昔は田圃や畑が広がっていて、学校から帰ってよく走り回っていました。その田圃などで時折、赤茶色に錆びた鉄の塊を見つけました。後年、それが矢じりであることを知りました。
 そのことを考古学者に伝えると、偶然の縁に驚き、森本地区にはかつて古墳がいくつかあり、なぜ森本地区が道君の本貫地(ほんがんち)だったのかを教えてくれました。
 その答えは、河北潟に面する森本地区が「交通の要衝」だったことです。河北潟は現在では4キロ平方メートルほどの面積ですが、60年前の1960年代に干拓が完了する前までは、今より5倍以上もある広さでした。そして、この広大な河北潟を囲むように、南は現在の野々市市、白山市から、金沢市を含め、北はかほく市、津幡町に至る古代の港湾都市があったことがわかってきました。
 古代のここ加賀は、日本海を通じて大陸や半島と交流し、河北潟の水運や越前、越中をつなぐ北陸道(ほくろくどう)と併せて、海と湖、川の水上交通と陸上交通が一体になって多くの人が行きかって栄えた土地だったのです。
 車や電車が発達した現代では想像しにくいのですが、古代や中世で人やモノの移動は水上交通が大きな役割を果たしていたことを忘れてはなりません。そして、加賀の古代港湾都市を押さえ、国内外の交易をもとに富を蓄え、力を持った古代豪族が道君でした。
 道君がどのような豪族だったのかは、いまだにわからないことが多いのですが、道君の名が史料に初めて登場するのは日本書紀です。日本書紀には、「欽明31年(570年)、越の国に高句麗からの使者が着いた時に、郡司(ぐんじ)の道君が大王と偽って使者をもてなし、貢物を受け取った」との記録があります。さらに、時は下って、天智(てんじ)7年(668年)には、同じく日本書紀に「天智天皇と越道君伊羅都売(こしのみちのきみのいらつめ)との間に志貴皇子(しきのみこ)をもうける」と記されています。
 伊羅都売(いらつめ)というのは、固有名詞ではなく「娘」の意味です。越の国の道君から宮中に入った女性が天智天皇との間に男の子を産み、その子・志貴皇子は万葉歌人として名高く、さらに時は下って、志貴皇子の子が第49代天皇の光仁(こうにん)天皇になります。
 さきほど話した「欽明31年、高句麗からの使者の貢物を自分は大王だと偽って横取りした」という日本書紀の記録について補足します。この出来事は加賀の国ができる250年も前のことです。道君はその当時、飛鳥朝廷に組み込まれているわけでもなく、あくまでも独立した地方の代表者でした。その道君に対して、高句麗の使者が大王(天皇)だと信じてしまうほどに道君のもてなしが豪華で、権力を持っている人物に映ったということです。
 その後、7世紀後半に一族の女性が天智天皇と結ばれて子を産み、中央と直結して加賀の地でさらに力をつけた道君ですから、同じく7世紀後半に創建された末松廃寺の建て主は道君に違いない、と想定されても当然と言えば当然でしょう。

写真/金沢市北部の吉原町に所在する郡家神社。森本地区のこの地域は、古代豪族・道君の本貫地があった地域とされています。確かに、北陸道と河北潟に面して、国内外の交易には最適の場所です。