2023年特集「大地有情、風に事情」第5回 古代港湾都市 5月1日放送
2023年5月25日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第5回(令和5年5月1日放送) 「古代港湾都市」
野々市市の国指定史跡である末松廃寺。その創建年代は7世紀の第3四半期、西暦660年から670年ごろと見られています。時は白鳳時代、ここ加賀の地で活躍していた豪族が道君(みちのきみ)です。
前回では、道君の本貫地(本拠地、活動拠点)が、現在の金沢市北部の森本地区で、河北潟や日本海の水上交通を活用した古代港湾都市の指導的な役割を担ったことを見てきました。
一族の娘が天智天皇との間に子をもうけ、中央と結びついた道君が古代の加賀で大きな力を付けたことから、森本地区からかなり離れた野々市で、道君が大きな寺を建てたとしても決して不思議ではありません。
しかし、最新の考古学的な知見から、この「道君単独創建説」は否定されるようになりました。
その根拠のキーワードは、手取川です。
FM-N1では、これまで末松廃寺の特集番組をシリーズで放送する一方で、発掘や研究の新しい成果が発表される度にお伝えしてきました。
10年以上前、私たちが取材をし始めた時は、「末松廃寺の塔心礎は戸室石で作られた」が通説になっていました。戸室石とは、犀川上流にある医王山(いおうぜん)連峰の戸室山から採れる石です。史跡公園を訪れて末松廃寺の塔心礎をご覧になった方はわかるでしょう。長さが2メートルを超える巨大な石を、およそ20キロメートルも離れた戸室山から運び込む作業は、大変な労力が必要です。
ところが、最近になって、塔心礎の成分を分析した結果、石が手取川にある安山岩であることがわかったのです。「手取川から末松廃寺までの距離は遠いじゃないか?」と、思われる方も多いでしょう。
しかし、古代の手取川は今よりもずっと北寄りに流れていて、現在の手取七ケ用水の一つである大慶寺用水あたりを流れていました。なんと、末松廃寺から3キロほどの近い距離のところに手取川が流れていたのです。
末松廃寺の塔心礎は、手取川の安山岩だった、というわけで、末松廃寺と手取川の強い結びつきがわかります。
もう一つ、「末松廃寺を建てたのは道君だった」という説に以前から疑問が呈されていたのは、瓦です。末松廃寺から発掘された瓦は、現在の能美市、旧辰口町にあった「湯屋古窯跡(ゆのやこようせき)」で焼かれました。
手取川の右岸に勢力を持っていたのが道君。そして、古代の手取川左岸では、財部造(たからべみやつこ)などの有力豪族がいました。道君がわざわざ手取川を越えて、勢力範囲の外である左岸から、寺の瓦を調達することに疑問があったのです。
では、末松廃寺は誰が何のために建てたのか、についてですが、「手取扇状地を開拓する国家プロジェクトのシンボルとして末松廃寺が建てられた」というのが最新の知見です。当時の政治の中枢・天智朝が主導して末松の大寺を建立したわけで、この国家プロジェクトに道君や財部造といった地方豪族も協力したと思われます。
そして、手取扇状地開拓の目的は米づくりです。米作は、水はけの良い乾田の方が湿田よりも生産性が高く、野々市市のある手取扇状地の扇央部はまさにそうした乾田に適していました。
こうした豊穣の土地である手取扇状地の恵みと、日本海と河北潟の水上交通のネットワークを生かした古代港湾都市が、道君の力と富のみなもとになったのでした。
写真/郡家神社(金沢市吉原町)近くの高台から河北潟を眺める。戦後に干拓される前の河北潟は今より五倍以上の広さでした。最新の研究から、その河北潟と日本海、北陸道の水陸交通が一体になった古代港湾都市の全体像が明らかになってきました。それは、まさしく加賀百万石より千年も前に栄えた大都市でした。