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2023年特集「大地有情、風に事情」第6回 一衣帯水の手取川 5月8日放送

2023年5月26日

加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中

第6回(令和5年5月8日放送) 「一衣帯水の手取川」

 一衣帯水(いちいたいすい)という言葉を覚えたのは昔、中学校の社会の時間だった。九州と朝鮮半島の間に横たわる対馬海峡を指していました。海峡を挟んで向かい合う両岸の地域や国同士の関係を示す言葉である、と教わりました。古代は風俗、習性が似た人々が住んでいる、という事のようでした。
 今、血液型の研究などが進み、日本列島に人が最初に住み始めたのは旧石器時代の3万年以上も前という説が有力です。シベリアのイルクーツク辺りから南下し、一つは韃靼海峡、つまり間宮海峡を渡ってサハリンから北海道へ渡るルート。もう一つは沿海州を経由して朝鮮半島から対馬海峡を渡って九州に至るルートが主な道筋であるとされる。その後、縄文時代の海水面上昇に伴って、列島と大陸との交流が疎遠になっていたとされます。
 旧石器時代に海を渡って来て日本人となった人達を想うとき、いつも一編の詩が頭をよぎっていきます。安西冬衛(あんざい・ふゆえ)の「春」です。「てふてふ(読み=ちょうちょう)が一匹韃靼海峡を渡って行った」。一行詩なのですが、日本の始まりを示唆しているようで、強い印象を与えてくれます。
 対馬海峡で言えば、九州に渡って来た人達と朝鮮半島の南部に残った人達がいたのではないかと思います。旧石器時代の後、縄文時代を通して半島を下って来た人の痕跡がほとんど見られないことから、古代に半島南部にあった任那(みまな)などの伽耶諸国は同じルーツを持つのかもしれません。
 一衣帯水という四文字熟語の語源が中国の隋の時代の故事から生まれた事を知ったのは最近になってからです。それによると「帯水」とは海峡だけでなく幅の狭い河川などにも使われる、ということです。
 身近なところ、石川県内で探せば差し詰め手取川が該当するでしょうか。よく耳にするのは手取川の北側・金沢方面と南側の小松方面では住民の気質が違う、ということです。私はそんなには感じない、というのはいささか鈍いのかもしれません。ただ、それぞれの土地柄に誇りを持っているのは感じます。
 例えば、手取川とは関係なく能登と加賀でも違うでしょうし、小松と加賀市の大聖寺ではまた違います。金沢市と旧の石川郡では対抗意識があるようにも思います。これは戦国時代の一向一揆を起こした側と、鎮圧した側の因縁だと、まことしやかに語られたりもします。
 しかし、暴れ川が両岸の人々の行き来を妨げていた古代にあって、在地の豪族が協力し合う歴史もありました。823年/弘仁14年の加賀立国以前の物語です。まだ石川郡や能美郡はなく、加賀郡と江沼郡の二郡に分かれていた頃です。
 加賀郡側の豪族は、汽水湖(海水と淡水が混じり合った潟)である河北潟を中心に古代港湾都市を形成しつつあった道君(みちのきみ)。河川が流入する河北潟周辺は低湿地であっても耕作地が広がっていた可能性が高く、犀川左岸や手取川扇状地の扇端には縄文時代から大規模な集落遺跡の御経塚遺跡、その出村で環状木柱根列の出土で有名なチカモリ遺跡があるなど人口が集中していた地域です。
 一方の手取川左岸・江沼郡側の豪族は財部造(たからのみやつこ)として知られる野身氏です。能美市内の丘陵地一帯に展開する古墳群、とりわけ北陸最大級の前方後円墳である「秋常山(あきつねやま)古墳」の存在は古墳時代から飛鳥時代まで、この地で強大な力を誇って来た一族であることを証明しています。
 古代港湾都市を築いて海上交通に卓越した道君と、陸の覇者たらんとした財部造。一見、独立した存在とで共通点がないようでしたが、実は思わぬ縁で結ばれていたのです。日本の歴史を揺るがすような激風が奈良・飛鳥の都から吹いて来ていたのです。
 天皇を中心としながらも実際は、蘇我氏など飛鳥地方の大豪族が政治の実権を握るヤマト政権から、天皇親政の政治体制に移行しようとする激動の舞台が幕を開けようとしていたのです。
 女帝であった第35代皇極(こうぎょく)天皇の時、その皇子(みこ)であった中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は、645年に起こした乙巳(いっし)の変で、権力を振るっていた蘇我本宗家(ほんそうけ)を滅ぼし、大化の改新を断行し、天皇親政を成し遂げました。飛鳥地方の大豪族に頭を抑え付けられていたかのような天皇家が頼りにしたのが地方の大豪族の力だったのです。その中に加賀郡の道君、江沼郡の財部造(たからのみやつこ)がいたのです。


写真/獅子吼高原上空から手取川(左)と七ケ用水を眼下に。いにしえの加賀の人々は左岸、右岸を問わず、力を合わせて暴れ川を開拓し豊穣の扇状地に変えたのです。