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2023年特集「大地有情、風に事情」第7回 運命の二豪族 5月15日放送

2023年5月26日

加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中

第7回(令和5年5月15日放送) 「運命の二豪族」

 突然ですが、あなたはベートーベンの交響曲第5番「運命」の出だしを知っていますか。ジャジャジャジャーンという、あの音です。通説ではベートーベンが「このように運命は扉をたたく」と言ったという事ですが、別の説もあるそうです。
 歌謡曲で言えば、1951年/昭和26年に発売された菅原都々子の「憧れは馬車に乗って」を思い出します。いささか古くなって恐縮ですが歌詞はこのようです。「春の馬車が来る/ 淡い夢をのせて/花のかおる道を/はるばると/おどる胸を寄せて/行こう山のかなた/わたしのあなた/あなたのわたし…」と続いてゆきます。
 予期せぬ運命とはどのような形をとって人々の前に姿を見せるのかは、当事者にとっては想像もつかないのは当たり前のことでしょう。古(いにしえ)のふるさと、暴れ川である手取川がちょっとやそっとで人々を近づけないように猛威を振るい、川の左右両岸にいた古代豪族は扇状地を前に、為す術もなく頭を悩ませていた頃、その頭上遥かには、奈良・飛鳥から運命的な天皇親政の風が吹いているとは、知る由もありませんでした。
 運命が先に訪れたのは、左岸に本拠地を構えていた野身氏でした。同じ江沼郡にありながら、地理的にも都に近い江沼臣(えぬのおみ)は、飛鳥で最大の権力を振るっていた大豪族の蘇我氏を先祖に持つ、という系図を主張していました。言い換えれば、ここまでが蘇我氏の勢力圏にあり、隣接する野身氏までは影響力が及んでいなかった、とも考えられます。
 それでは、と言うと、野身氏は皇族の一員であった宝皇女(たからのひめみこ)に奉仕する豪族として財部造(たからのみやつこ)と名乗っていました。第30代敏達(びたつ)天皇のひ孫に当たり、蘇我氏全盛の時期にあって蘇我氏の血筋を引かない皇族として知られていました。後に第35代皇極天皇、重祚(ちょうそ)して二度目の第37代斉明(さいめい)天皇となる方です。
 もう一人の豪族は手取川の右岸、河北潟を中心とした古代港湾都市に依って勢力を養っていた道君(みちのきみ)です。何よりも重要なのは、道君の一族の娘である越道君伊羅都売(こしの・みちのきみの・いらつめ)が皇極天皇の皇子(みこ)である中大兄皇子(なかのおおえのみこ)、つまり第38代天智(てんじ)天皇の後宮に入り、志貴皇子(しきのみこ)をもうけた事でしょう。つまり、道君は皇室における外戚の地位を得たことになるのです。
 道君が国史の上に登場したのが欽明31年/西暦570年。高句麗の使節に対して「自分がこの国の王である」と偽った詐称事件を起こしてヤマト政権に服属してから80年程で皇室の外戚にまで上り詰めるとは、運命のいたずら、という他にはないのかもしれません。
 宝皇女(たからのひめみこ)であった皇極天皇と中大兄皇子は645年、乙巳(いっし)の変によって蘇我蝦夷(えみし)、当時の大臣(おおおみ)であった入鹿(いるか)の親子を討って天皇を中心とした政治体制を築きました。朝鮮半島では唐と新羅の連合軍に滅ぼされた百済(くだら)の国を回復するために663年/天智2年、日本と百済遺民の連合軍は朝鮮半島に出兵しましたが白村江(はくすきのえ)の戦いで敗れてしまいます。
 こうした内外情勢の中、斉明天皇と天智天皇の二代に渡る治世、これを便宜的に天智朝とするならば、天智朝はまだ、飛鳥の大豪族に抑えられていない地方豪族と手を結んで勢力拡大を図ったのではないでしょうか。
 そうした一面がのぞくのが天智天皇の皇后、妃(ひ)、皇子(みこ)、皇女(ひめみこ)の顔触れです。皇后の倭姫王(やまとひめの・おおきみ)は皇族ですが子供がいません。有名な皇女であり後に持統天皇となる娘らの多くは母が蘇我一族の出身です。長男である大友皇子(おおとものみこ)は第39代弘文天皇となりますが母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)で、伊賀郡の地方豪族の娘です。
 また、第七皇子にあたる志貴皇子(しきのみこ)の母は越道君伊羅都売(こしのみちのきみの・いらつめ)と系図に記されていますが、何を隠そう、私達のふるさとである加賀郡の郡司・道君の一族の娘です。弘文天皇の母と同様に、采女(うねめ)として天智朝の後宮に入ったものと思われます。
 律令体制が整う前の采女というのは、食事も含めて天皇・皇后の身辺の世話をするものであって、子を生(な)すこともありました。越道君伊羅都売は皇后、妃(ひ)に次ぐ第三番目の地位にあたる夫人(ぶにん)とされていたようです。
 また、采女の性格としては地方豪族が朝廷に服属する証でもあり、人質的な側面も持ち合わせていたようです。
 そしていよいよ、天智朝と深いかかわりを持つ道君と財部造(たからのみやつこ)は協力して、暴れ川であった手取川の耕作地開拓に乗り出してゆくのです。


写真/秋常山古墳(能美市)は全長140メートル、北陸最大級の前方後円墳です。埋葬されているのは、手取川左岸を代表する古代豪族・財部造(たからべのみやつこ)が有力視されています。