2023年特集「大地有情、風に事情」第8回 未(いま)だ大寺見えず 5月22日放送
2023年5月27日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第8回(令和5年5月22日放送) 「未(いま)だ大寺見えず」
823年/弘仁(こうじん)14年、加賀立国の直接の契機は、これまでも説明してきたように、当時の越前国司・紀末成(きのすえなり)が、配下の加賀郡司である道公(みちのきみ)が横暴で手に負えない、と朝廷に対して越前国からの分離・独立を上奏した事でした。
この立国からおよそ170年前のことになります。地方豪族・道君の一族から、越道君伊羅都売(こしのみちのきみの・いらつめ)が天智朝の後宮に入るため旅立ちました。特に文字資料が残されているわけではありませんので、ここからの件(くだり)は想像になりますが、伊羅都売は河北潟の一角、犀川河口にあった古代港湾都市の港から、船に乗って奈良・飛鳥の都に向かったのではないでしょうか。
船は、霊峰・白山を望みながら手取川の河口を過ぎて行きます。今ならば、白山手取川ジオパークとして「水の旅」「石の旅」をテーマに、ユネスコの世界ジオパーク認定を待つばかりなのですが、当時の伊羅都売の目には荒々しい水のうねりと、石くれだらけの河原しか映らなかったでしょう。
10年ほど後には天智朝の国家事業として、道君と、手取川対岸に勢力を張る財部造(たからのみやつこ)を協力させて手取扇状地の開墾に乗り出すとは想像もできなかったのではないでしょうか。海岸から直線距離で6、7キロ離れた野々市市末松には、開発のシンボルとなる大寺・末松廃寺は未(いま)だ建立の着手を見てはいませんでした。
手取川を過ぎた伊羅都売は越前国の敦賀に至って下船、古代北陸道(ほくろくどう)を進んで今立の山を越え、今はまだ設置前の愛発関(あらちのせき)から畿内に入った、と想像できます。愛発関とは、東海道は伊勢の国の鈴鹿の関、東山道は美濃の国の不破の関と並ぶ三大関所であり、奈良時代になって設置されました。
畿内に入った後は琵琶湖の水運を利用、大津からは山城の国の南部、木津川から奈良盆地に入って飛鳥に至ったのではないでしょうか。
もう一つ可能性があるとすれば、伊羅都売は敦賀で上陸せず、若狭の国まで船旅を続け、そこから琵琶湖に抜けたルートもあるかもしれません。
ともかく、越道君伊羅都売が後宮入りを果たした後、660年/斉明天皇6年ごろに、現在の野々市市末松で白鳳の大寺である末松廃寺の建立が始まるのです。660年といえば、飛鳥板葺きの宮で、後に天智(てんじ)天皇となる中大兄皇子(なかのおおえのみこ)らが乙巳(いっし)の変を起こして蘇我本宗家を滅ぼし、天皇親政の政治体制をとってからまだ15年しかたっていない頃です。その間、第36代孝徳天皇による難波宮(きゅう)への遷都、655年には再び都を飛鳥に戻すなど、新政治体制を安定させるまでの激しい動きがありました。
また660年の朝鮮半島では、日本と友好関係にあった百済が、隣接する新羅と中国の唐との連合軍に破れて滅亡した年でもあります。天智天皇の時代となった663年には、百済の復興・再建を狙った軍を派遣しますが白村江(はくすきのえ)の戦いで、一敗地に塗(まみ)れてしまいます。668年になると、高句麗がやはり新羅・唐の連合軍に破れて滅び、半島の三国時代は終わりを告げて新羅によって統一されるなど国際的にも大変動が起きました。
天智朝にとっては、権威と権力の足固めとなる事業が手取扇状地の開墾事業だったのです。しかし、白山手取川ジオパークの原型ともいえる荒々しさを留める河原を手なずけるには一筋縄ではいかないことは分かっていました。当時の国内にあった最先端技術を動員するしか方法はありません。地方豪族の手におえる話ではありません。
そして最先端技術を象徴するのが仏教寺院だったのです。開墾事業だけではなく並行して白鳳の大寺を建立することが朝廷の権威を示して、豪族を恭順させていくことにつながるのです。
しかし、時代が下るとともに壮大な開墾の事績は人々の脳裏から失われて行きました。再び脚光を浴びるのは1965年/昭和40年のことです。野々市市末松で、地の底から湧き上がってきたのは舟木一夫の「高校三年生」の歌声でした。2年前に発売され、大ヒットしていた歌謡曲です。地元のボランティアをはじめ、遺跡の発掘作業で地面を掘り進めていた人達が誰からともなく歌い始めたのです。発掘に携わった考古学の先達からお聞きした話です。つられてニッコリと頬を崩したことを思い出しました。
寺院跡であるとは分かっていましたが、まだ見ぬ白鳳の大寺が埋まっているとは知る由もない時です。
写真/白鳳の大寺・末松廃寺。現在は塔心礎と金堂の跡を残すのみですが、発掘調査が今も続けられ、新たに遺物遺構などが発見されています。