2023年特集「大地有情、風に事情」第10回 開発の決意 6月5日放送
2023年6月5日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第10回(令和5年6月5日放送) 「開発の決意」
先月5月24日、ユネスコの執行委員会が開催され、白山市から申請されていた「白山手取川ジオパーク」が世界ジオパークとして登録されました。テーマが「水の旅」「石の旅」とロマンチックな響きがありますが、その実、自然の猛威にさらされてきた人々の営みの苦労でもありました。
この加賀立国1200年と手取川ジオパークに寄せて~というメモを書いている私の亡くなった母から、昔話を聞いたことがあります。母は旧松任市生まれの松任育ちでしたが、「小学生の頃に手取川が大氾濫して、学校の屋上に上がってみたら、目の前一面に石ころだらけの原っぱが広がっていた」というものでした。年齢などから推測すると、それは昭和9年7月11日未明に起こった手取川大水害の話のようでした。
いくら大洪水と言っても、松任あたりまで被害が及ぶというのは大袈裟ではないかと思って話を聞いていた覚えがあります。
しかし、国土交通省金沢河川国道事務所のホームページを開くと、記載されているデータからも大袈裟な話ではないことが実感できました。例年にない大量の雪解け水と400㎜を超える豪雨が重なり、発生した崩壊土砂が下流河川へ土石流となって流れ下った。上流から河口までの流域のほとんど全域にわたって被害が発生した、と紹介されていました。
氾濫地域は白山市・松任の南側から小松市の梯川にまで広がっています。手取川の上流部分では河床が最大で12m上昇したとも記載されています。何しろ白山市白峰にある百万貫の岩が上流の宮谷川から転石となって流れ出した程なのです。
こうした場合の百万貫というのは概数であって、人を驚かすためか印象付けるため実際よりは大きめに言われる場合が多いのですが、実際の重量は129万貫・約4800㌧あり、高さは約16m、周囲は約52mもあって、さすがに世界ジオパーク、と変に感心したりしました。
この手取扇状地に、最初の治水事業を施し、耕作地に開発しようとしたのが7世紀中頃の斉明天皇・天智天皇、いわゆる天智朝の頃でした。この事業には二つの側面がありました。一つは、660年に建立が始まった末松廃寺の建築事業であり、もう一つは、地下水位が低くて乾燥しがちな扇状地に灌漑施設を巡らす土木事業の面です。
飛鳥・白鳳時代ではどちらか一つの事業をとっても大事業なのですが、文化の先進地である都を遠く離れた地方において、寺院建立、扇状地の灌漑事業を並行して実施するには困難が予想されます。当時の先端技術が地方に集積されているわけでもなければ、二つの大事業を推進するための人出、人口が多数有り余っていることも想像できません。
まして、開発地である手取川北側の扇状地が在地豪族・道君の支配も徹底せずに権力の空白地域であったと思われます。
2009年/平成21年に発刊された文化庁の発掘調査報告書「史跡 末松廃寺跡」によれば、江沼郡など隣接地域からの移民のほか、渡来系を含む遠方からの移民を主体とする開拓村がつくられ、依存した比率が高いと記されています。
渡来系の移民とは、当時の最先端を行く灌漑技術を持った秦(はた)氏などを含む琵琶湖周辺からの移民を指しています。特に灌漑技術を伴う開拓の本丸と言える旧石川郡内の扇状地に痕跡が多く残るとされています。
また前回の「不思議の瓦」でお話したように寺院建立の建築技術や製鉄技術を持つと思われる移民も渡来系の人達であって、手取扇状地の開拓に先立って琵琶湖周辺から江沼郡の三湖台(小松市木場潟の西側)に移住してきています。そして末松廃寺の周辺で発掘される須恵器などの生産地が加南地方つまり、江沼、能美郡が圧倒的に多いことは、多くの開拓移民が江沼、能美郡から来ていることの証明になります。
肝心の、地理的に近い道君の勢力圏からは、犀川河口付近の古代港湾都市辺りからは少ない数の移民でしかなかった、という表われではないでしょうか。
こうした状況から、手取扇状地の開拓は在地豪族によるものではなく、加賀の国の立国前、越国(こしのくに)石川郡を対象にして、天智朝が全力を傾けて行った国家的大事業であったといえます。新しい政治形態である天皇中心とした政治、天皇親政の遂行を保証する乾坤一擲の事業であったと言えます。
この頃、646年の大化の改新による詔(みことのり)、これは後年になって編纂されたという説が有力ですが、その第3条で戸籍作成が命じられています。670年/天智9年には、日本最初の戸籍となる「庚午年籍(こうご・ねんじゃく)」が完成していますから、手取扇状地の大規模開発の移民管理を徹底するため、律令的集落の単位である五十戸を一里(いちり)あるいは一郷(いちごう)とする体制をとっていたのかもしれません。
私達のふるさと・手取扇状地は既に律令制の集落として運用されていたのかもしれません。そして7世紀後半から8世紀初めにかけて人口大爆発の時期を迎えるのです。
写真/百万貫の岩(白山市文化課提供)。左下に写る人の小ささから岩の巨大さがわかります。白山市白峰地区にあり、重さは約4800トン。手取川が氾濫して暴れ川となる、そのすさまじいエネルギーを感じます。