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2023年特集「大地有情、風に事情」第11回 無情の七重塔 6月12日放送

2023年6月12日

加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中

第11回(令和5年6月12日放送) 「無情の七重塔」

 ユネスコによる白山手取川ジオパークの世界遺産認定は、とりもなおさず扇状地流域の開拓に難題を突き付けてきた故郷(ふるさと)の苦闘の歴史も認定した、と言ってもいいのではないでしょうか。野々市市の末松廃寺建立をシンボルとして、律令政治が確立する直前に中央集権国家の意思を持って、荒涼とした扇状地の耕地化を成し遂げた記念碑的事業でもあったと思います。
 1966年/昭和41年から、国の手によって開始された末松廃寺の発掘調査は、廃寺の全貌を知るために現在も続けられています。660年/斉明6年から建立が始まった末松廃寺は7世紀の第3四半・675年頃までには完成して、8世紀の初めには一旦、廃絶しています。その後、8世紀の中頃には再建された、と見られています。
 仏教寺院の中枢伽藍は本尊を安置する金堂と、お釈迦様の骨を納める塔とされています。末松廃寺は西に金堂、東に塔を横一直線に並べた伽藍様式から法起寺(ほうきじ)式の寺院とされていますが、その中で、最大の謎とされているのが仏塔の問題ではないでしょうか。
 2009年/平成21年に発行された文化庁の発掘調査報告書「史跡 末松廃寺跡」によると、塔を乗せる基壇の大きさは一辺の長さが10.8mあります。塔の部分は方三間と言いますから、一辺の柱の数は4本で、柱の間が3カ所あるということです。柱間の広さは3.6mとなっています。単純に数字を当てはめれば七重塔の威容を示していますし、基壇も塔を乗せるには十分な大きさである、としています。予想を超える余りの大きさに、西に隣接する金堂に接近しすぎる配置となって、伽藍全体では手狭な印象を与えているのです。
 ここで、最大の謎が生まれます。古代の寺院における塔の建築方法は、まず塔の中心を貫く心柱(しんばしら)を建て、最上部に法輪と金属製の台である露盤を置きます。次に最上階の屋根から順次、心柱に取り付けて、吊り下げてゆくのです。言い換えれば、心柱一本で七重の屋根のバランスを取りながら支える構造になっています。
 高くなればなるほど、当然のように心柱はふらついてきます。このふらつきを抑えるために各屋根の上に瓦を葺いて重量を重くし、下へ抑え付ける力を増すことで安定させているのです。塔の外壁を取り巻く柱は補助的な役目でしかありません。
 末松廃寺の場合は、塔の周辺からは全くと言っていいほど瓦が出土していません。西隣の金堂周辺からは大量の瓦が発掘されているのとは対照的です。瓦がなければ七重塔は立ちません。綺麗好きな誰かが居て、周辺の瓦を片付けたのでしょうか。
 さらにもう一点、瓦に続く難問です。塔の屋根を吊り下げる心柱ですが、この柱を支えるための土台、心礎(しんそ)と呼ばれる石を塔基壇に据えます。末松廃寺の場合は手取川の転石である安山岩を使っていますが、心礎の上部を心柱の太さに合わせて穴を穿(うが)っています。穴の直径は58㎝でした。全国の塔を調査した結果から導き出されたデータは、直径の約40倍が塔の高さと言っています。つまり末松廃寺の塔の高さは23.2mにしかならず、これは三重塔の高さです。三重塔であれば瓦を葺かずに建設することは可能ですが、七重塔を支えるには細すぎます。ちなみに、現存する三重塔の中で最古のものは、末松廃寺の伽藍配置様式モデルとなっている法起寺の三重塔で、706年/慶雲3年に完成し、高さは約24mとなっています。
 また、塔の北東側から幢竿支柱(どうかん・しちゅう)の跡が検出されています。幢(どう)とは仏事に使う旗で、竿(かん)とは装飾した旗を下げる竿(さお)のことです。この旗竿を立てる時には竿(さお)の左右から支柱を添えますが、この支柱の穴が見つかったのです。仏事が未完成の寺院で執り行われる、とは考えられませんので、末松廃寺は完成していたのではないか、と思われます。つまり、中心伽藍である塔も建立されていたのです。
 ここからは、FM-N1末松廃寺取材チームの推理になりますが、塔基壇と塔の底部は七重塔の規模で、高さが三重塔の姿ではなかったか、ということです。三重塔でありながら屋根は横に大きく張り出した姿です。安定感があるというか、縦方向に押しつぶされたというか、独特な形を想像するのです。
 当初は七重塔を企てながら、結果としては三重塔にならざるを得なかった、と思うのです。では何故なのか。下手な推理が続きます。
末松廃寺の建立は西暦660年から始まり、完成が675年頃とされています。七重塔の謎を解く鍵は完成直前の672年にあります。古代における最大の内乱と言われる壬申(じんしん)の乱が起きています。時の政権は奇しくも、手取扇状地の開墾に総力を挙げていた天智朝でしたが、天智天皇の長子である第39代弘文天皇と天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのみこ)が戦い、勝利した大海人皇子が第40代天武天皇となります。
 673年/天武2年には、飛鳥の川原寺で一切経、つまり全仏典の写経事業を起こしています。各地の豪族に氏寺造営を命じています。
 天智朝との関係が深く、手取扇状地開墾に加わった江沼、加賀郡の豪族たちも好むと好まざるとを問わず、壬申の乱によって天武天皇の敵方となってしまった訳です。恭順の意志を示すため国家鎮護をうたう氏寺の造営に従ったとしても責められることはありません。
 特に江沼郡の豪族たちに注目してみましょう。江沼郡の江沼平野は柴山潟の南に広がる地域ですが、末松廃寺と同時期の白鳳寺院が三カ寺集中しています。末松廃寺と同様の瓦を使った忌浪(いんなみ)廃寺、平野の南部に位置する津波倉(つばくら)廃寺、大聖寺川東岸の保賀(ほうが)廃寺です。
 末松廃寺は、周辺に豪族の住居跡を伴わずに、扇状地開拓に特化した寺院の様な印象を与えますが、江沼の白鳳寺院は三カ所とも各豪族の拠点周辺にあり、いかにも氏寺との印象を与えています。これが天武天皇の仏教普及の政策と一致するものなら、それまで財部造(たからのみやつこ)から末松廃寺に供給されていた瓦の提供は、寺院完成を目前に、途絶えることも止むを得ません。
 瓦が無ければ七重塔は建たず、三重塔にならざるを得ないのです。手取扇状地には飛鳥から無情の風が渡って来たのです。


写真/七重塔の末松廃寺想像図。ひところは野々市市文化会館フォルテなどにこの写真が展示されていました。柱を支える塔心礎の直径からすると、高さが23メートルほどの三重塔になります。