2023年特集「大地有情、風に事情」第12回 万葉歌人の心 6月19日放送
2023年6月19日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第12回(令和5年6月19日放送) 「万葉歌人の心」
白山手取川ジオパークの舞台である手取扇状地の開拓は、白鳳時代に始まりました。西暦660年/斉明6年の末松廃寺建立の開始により、暴れ川の原因とみる在地の水神の祟りを取り除くため、仏教に基づく新しい神を祀(まつ)ることが必要だったのです。ジオパークでは白山から日本海へ下り降りる「水の旅」と表現されますが、大自然と開拓民の間で必死の戦いが繰り広げられたのです。
そして672年/天武元年の壬申(じんしん)の乱によって、開拓を始めた天智朝側が天武天皇側に敗北したことにより、手取川開拓のその後の運命も変わっていった可能性が考えられます。
それは、遠く離れた飛鳥の地においても同様のことが言えたのではないでしょうか。
天智天皇と古代・加賀郡から天智朝の後宮に入った越道君伊羅都売(こしのみちのきみの・いらつめ)の間に生まれた志貴皇子(しきのみこ)の運命も変わっていったのです。
壬申の乱に勝利した大海人皇子(おおあまのみこ)は第40代天武天皇となりました。壬申の乱から7年後、679年/天武8年、天皇と皇后の鸕野讚良(うののさらら=後の第41代持統天皇)は、天智と天武両天皇の皇子(みこ)合わせて6人を連れて吉野に行幸し、皇后の皇子である草壁皇子を次期天皇とすることを誓わせました。6人の皇子は草壁を含めて天武系が4人、天智系が2人で、いずれも母親が違います。鸕野讚良皇后の皇子は草壁皇子だけでした。皇位継承の有力豪族となり得るそれぞれの母系を代表している、とも言え、天武・持統直系の皇統に対する忠誠を誓わせるための行幸でした。
天武天皇は皇族を中心とした政治体制、つまり皇親政治を目指していたので天智系も含まれていましたが、6人は互いに争わずに協力し合うことを求められました。いわゆる「吉野の盟約」と呼ばれるものです。しかし、7年後には草壁皇子の1歳違いの弟である大津皇子は、盟約があるにもかかわらず、鸕野讚良皇后に謀反の疑いを掛けられて死に追いやられてしまいます。
一方、天智系の皇子で盟約に加わったのは川島皇子と志貴皇子の二人です。志貴皇子の名前が歴史資料に登場するのは、吉野の盟約の場面が最初のことです。余り目立つ存在ではなかったのかもしれません。その後の持統朝でも要職につくことはありませんでしたが、大津皇子の死を思うと、それだけ身の安全が保たれたのかもしれません。
叙位ではありませんが、志貴皇子の地位を示す記録があります。吉野の盟約に参加した他の皇子5人が冠位四十八階の制定によって叙位を受けるのですが、志貴皇子だけ名前がありません。代わりに、翌年の686年/朱鳥(あかみとり)元年、給料にあたる封戸(ふこ)200戸を与えられています。
それでも、皇族としては最下級の四品(しほん)にしか当たりませんが、叙位を受けたのは封戸を受けた15年後、701年/大宝元年のことです。この年、天武系直系のひ孫になる首(おびと)皇子が生まれています。後の第45代聖武天皇です。天武直系の皇位継承者が誕生した安心感もあったのか、志貴皇子にも少し陽が当たったのかもしれません。
志貴皇子は政治家としてよりも万葉歌人としての名声を高めて行きます。万葉集には六首が選ばれています。
万葉集巻第8の巻頭歌が有名な一首です。
「石(いわ)ばしる 垂水(たるみ)の上の さ蕨(わらび)の 萌え出づる春に なりにけるかも」
冬が去り、春の到来を告げる歌、というのが定説のようになっていますが、早蕨が芽を出すのは4月の終わり頃です。春の到来と言うより春爛漫の喜びを歌っているのが自然な解釈はないでしょうか。
釈然としない気持ちでいると、以前の取材で、ある万葉研究者から「この和歌は、志貴皇子が宴席で、早蕨が描かれた屏風の絵を見て作った歌だ」という話を聞かされたことを思い出しました。改めて調べ直すと、大妻女子大の先生で、川上富吉(とみよし)さんの論考に行きつきました。2000年/平成12年に書かれたものでした。
それによると、歌が作られたのは703年/大宝3年正月のことで、吉野の盟約に加わっていた天武天皇の皇子・忍壁(おさかべ)皇子が知太政官事(ち・だじょうかんじ)に任命されたことを祝う宴席に出席した時のことだそうです。志貴皇子の正妃であり、忍壁皇子の一番下の妹である多紀(たき)皇女と一緒に祝いの席に出ていた、と結論付けています。
忍壁が官僚のトップに就いた事、つまり忍壁にとっての「我が世の春」を祝ったとも取れます。
天武・持統朝の中で生きる天智の皇子が、天武系の皇族とも血縁で結ばれながら、頭を低くして恭順の意思を示して苦労を重ねる姿が浮かび上がってくるようです。
最後に万葉集巻第1に載せられている和歌を紹介しましょう。飛鳥の宮から藤原宮(ふじわらきゅう)に遷都した後、飛鳥を訪れた時の一首とされています。
「采女(うねめ)の 袖吹きかえす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く」というものです。
「采女」というのは天皇の身近で、食事などの世話をする女官のことです。一般的な解釈でも「女官の 袖を吹きかえす」と解釈されていますが、これは志貴皇子が、母親である越道君伊羅都売(こしのみちのきみの・いらつめ)を詠んだと思えてなりません。末松廃寺建立の前、加賀郡から天智朝の後宮に入った時の身分は「宮人(めしおみな)」です。宮に人、と書きますが、采女のことです。律令が定められた後は第三夫人の地位を示す「夫人(ぶにん)」と称されることになります。
「采女であった母親が天智の下に嫁いで来た時、豪壮な宮で、艶やかな姿を見せつけるように明日香の風が衣の袖を翻させていた。藤原京へ都を移された今は古い飛鳥の宮に人影も無く、新しい都を遠く見て、風が虚しく吹いているだけです」
この和歌が、手取川開拓に賭けた朝廷と、その一翼を担った地方豪族の思惑が籠っているとするならば、手取扇状地を故郷にする私達には、また違った感慨がこみ上げてくるのではないでしょうか。
飛鳥宮(きゅう)と藤原宮(きゅう)は直線距離で3.4㌔ほどです。志貴皇子は飛鳥生まれです。わずか指呼の間、手をかざせば新しい宮殿が見える距離です。
明日香風も古代の事情を乗せ、時代を超えて白山手取川ジオパークの故郷に吹いて来るようです。
写真/平山郁夫筆の藤原京絵図(高岡市万葉記念館)。藤原京に遷都する前の旧都・飛鳥の地に立って、志貴皇子は万葉歌「采女の 袖吹きかえす 明日香風~」を詠みました。その胸の内には母への想いが流れていたのでしょうか。