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2023年特集「大地有情、風に事情」第13回 二代の光陰 6月26日放送

2023年6月26日

加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中

第13回(令和5年6月26日放送) 「二代の光陰」

 先週は、万葉歌人としての誉れが高い志貴皇子の和歌のうち、万葉集巻第1に収められている「采女(うねめ)の 袖ふきかへす 明日香風 都を遠み いたずらに吹く」を紹介しました。歌の中の「采女」とは天智天皇に嫁いで志貴皇子を産んだ越道君伊羅都売(こしのみちのきみ・いらつめ)ではないか、とお話をしました。694年/持統8年に藤原京に都を移した後、遷都前の都であった飛鳥浄御原宮(あすか・きよみがはらのみや)に立ち寄った志貴皇子が、母親を思って読んだ、という解釈をしました。
 時代の趨勢は天智系から天武天皇系に移りましたが、皇族を中心とした政治を行いたい、とした天武の意志によって、天智系であった志貴皇子ら2人も政権に加わることになりました。しかし、他の皇子達と比較して志貴皇子の位階は低く、出世も遅れていましたが、歌人としての名声は上がる一方でした。
 これにより、天武系の皇族達による後継天皇をめぐる争いには巻き込まれず、命脈を保つことができたのかもしれません。
 志貴皇子が亡くなったのは、藤原京から更に平城京へと遷都された6年後の716年/霊亀2年のことです。生まれた年が不詳ですので享年はわかっていません。
 660年/斉明6年、天智朝の強い意志によって、白鳳の大寺・末松廃寺建立事業と共に開始された手取扇状地の開拓は、天武天皇が天智朝側を破った672年の壬申(じんしん)の乱によって何か変化が起きたのでしょうか。この問題を考える前にもう一度、奈良時代の都・平城京に戻って、越道君伊羅都売から志貴皇子へと続いた家系、子孫はどの様に生き抜いて行ったのかを、見てみましょう。
 志貴皇子には二人の妻がいました。一人は託基皇女(たきのひめみこ)と言い天武天皇の皇女でした。もう一人は紀橡姫(きのとちひめ)と言って飛鳥時代末期から奈良時代にかけての豪族の娘でした。紀橡姫の子で志貴皇子の第六皇子に当たるのが白壁王(しらかべおう)でした。白壁王は8歳の時に志貴皇子を亡くし、ただでさえ出世が遅かった父という後ろ盾さえ失ったからか、皇族として位階を受けたのが29歳の時と、非常に遅い時期でした。
 また父と同様、天武系の政権内で繰り広げられる皇位継承に絡む政変から身を護るためか、竹林に入り込んで酒浸りになる姿を見せつけ、権力への無関心を装っていました。
 結婚も白壁王45歳の時で、後の皇后となる正妻には第45代聖武天皇の皇女で、既に38歳になっていた井上内親王を迎えます。皇位も聖武天皇の皇女であった第46代孝謙天皇に移り、権力争いも落ち着きを見せていたこともあったのでしょう。50歳の時に、井上内親王との間に他戸(おさべ)親王が生まれます。天智系と天武系の両方の血を引く親王と言うことになります。
 770年/神護景雲(じんごけいうん)4年、第48代称徳天皇(孝謙天皇が重祚=ちょうそ=)が亡くなると、これまでの度重なる政変によって天武天皇嫡流の男系皇族が少なくなっており天武系、天智系の両方の血を受け継ぐ他戸(おさべ)親王が後継天皇の候補の一人に上がって来ました。そんな思惑が働いたのか、白壁王を他戸親王が成人するまでのつなぎ役とするためか、第49代天皇の座が回って来たのです。
 白壁王は光仁(こうにん)天皇として即位、62歳になっていました。歴史上も最高齢での即位となります。光仁天皇はその後、天武天皇の血を引く皇后の井上内親王と皇太子の他戸親王を共に、大逆の罪を図った、との密告を受けて、廃位してしまいます。
 替わりの皇太子には山部親王が立てられます、母は百済の渡来系豪族の一族の娘で、光仁天皇の妃(ひ)となっていた高野新笠(たかの・にいがさ)です。山部親王は後の第50代桓武天皇となります。
 672年の壬申の乱から約100年、皇統は天武系から再び天智系へと戻ります。越道君伊羅都売の子の志貴皇子、そして光仁天皇はおよそ1世紀の間、天武系の政争の嵐に耐え、頭を低くして難を避けて来ました。桓武天皇は、光仁天皇の一周忌の法要「光仁会(こうにんえ)」を奈良・大安寺(だいあんじ)で執り行いました。この祭は、光仁天皇が白壁王時代に、竹林の中で酒を飲んで周囲の目を欺いてきた故事に倣って今も「光仁会(癌封じ笹酒祭り)」として大安寺に受け継がれています。
 志貴皇子は光仁天皇即位の後、春日宮御宇天皇(かすがのみやに・あめのしたしらしめす・すめらみこと)の追尊(ついそん)を受けることになります。実質的に男系はつながっていても、天皇の子が天皇になる、という不文律の伝統を守るための追尊でした。こうして天智系の男系が現在の皇室につながっているのです。このドラマを生み出したのが白山手取川ジオパークの舞台でもある手取扇状地の開拓にあったことは、この故郷(ふるさと)に生きる私達も記憶に留めておきたい事の一つではないでしょうか。
 世界ジオパークの大地に、歴史の哀歓を乗せた風が吹き渡っているからです。


写真/志貴皇子を祀る奈良豆比古神社(奈良市)。毎年10月8日、氏子が集まって宵宮祭が開かれ、翁舞(国指定重要無形民俗文化財)を上演しています。