2023年特集「大地有情、風に事情」第14回 朝原内親王の田 7月3日放送
2023年7月3日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第14回(令和5年7月3日放送) 「朝原内親王の田」
7世紀中頃、手取扇状地の開拓と引き換えるように越道君伊羅都売(こしのみちのきみの・いらつめ)は天智天皇の後宮に入りました。しかし672年/天武元年に起きた古代最大の内乱・壬申(じんしん)の乱によって子供の志貴皇子(しきのみこ)や孫の白壁王(しらかべおう)らは天武系の政権から圧迫を受けぬよう細心の注意を払いながら身を守りました。そして壬申の乱からおよそ100年後に、白壁王は即位して光仁(こうにん)天皇となり、天智系の血脈が皇統に蘇えることになったのです。
それでは、天智朝が国家的事業として開始した手取扇状地の墾田は一体、誰の手に渡っていったのでしょうか。
ここに手掛かりとなる東大寺正倉院文書(もんじょ)があります。818年/弘仁(こうじん)9年の日付から、加賀の国が越前の国から分離されて立国され、加賀国府が小松市南部の古府台地に置かれる5年前の古文書(こもんじょ)ということになります。
内容は、光仁天皇の子に当たる第50代桓武天皇の妃(ひ)・酒人(さかひと)内親王が、桓武天皇との間にできた朝原内親王が亡くなった際に、朝原内親王の遺言に従い、墾田186町余り、今でいえば約186㌶を東大寺に寄進した、というものです。
手取扇状地の墾田開発は、660年/斉明6年に始まった末松廃寺建立と期を一にしているので国の所有となるべきものですが、その一部は約150年後には皇族の荘園へと変貌を遂げていたことを意味しています。この818年に寄進された荘園もおよそ130年後の950年/天暦(てんりゃく)4年における東大寺荘園帳には名前が見当たらず、経営が放棄されたものとみられています。
1970年/昭和45年、松任市(現在の白山市)横江町で、掘立柱建物6棟と「三宅(みやけ)」と墨文字で書かれた須恵器が出土したため、これは朝原内親王の所領となっていて死後に東大寺へ寄進された荘園を管理する荘家(しょうけ)跡と断定されました。
この後、荘家跡の周辺からは稲穂を管理するため条里制に基づいて配置された倉庫群、土地を区画する溝跡、小型の舟が入ることのできる運河跡と倉庫跡、管理する荘家跡、大量の墨書土器や木簡、まじないに使う人形(ひとがた)などが発掘され上荒屋遺跡と呼ばれました。
2008年/平成20年になると、荘家(みやけ)跡と上荒屋遺跡の中間点で、南北両側に約50mの回廊を伴い、南側に門を構えた建物跡と新たな倉庫群が発掘されました。建物は中央に庇(ひさし)をもった7間×2間の規模で、五重塔を模した陶器や高級な香炉、鉄鉢(てっぱつ)などの仏器も見つかっています。現在は、この中央地区の遺跡と上荒屋遺跡、横江の荘家(みやけ)跡の3カ所を合わせて国指定史跡「東大寺領横江荘遺跡」と呼ばれるようになっています。
しかし、東大寺領横江荘も750年/天暦(てんりゃく)4年、第62代村上天皇の時代までに東大寺は経営を放棄してしまうのです。荘園領主が都に居たまま、在地の郡司、有力豪族などを荘官(しょうかん)として荘園管理に当たらせ、年貢を納めさせていても実態としては、郡司や荘官の意のままにならざるを得ないのが世の中、というものかもしれません。
鎌倉時代になると、郡司、荘官は地頭(じとう)と呼ばれるようになり、源氏の棟梁で征夷大将軍だった源頼朝が任命権を持つことになって行きます。
この村上天皇という方は、中世の武士団・村上源氏の祖にあたり、村上源氏は以後の宮廷政治に大きな影響力を持つことになります。
ここまでは、手取扇状地が7世紀半ばから、天智朝の手によって墾田開発が行われ、その一部が天智天皇と越道君伊羅都売の子である志貴皇子を経て、光仁天皇、桓武天皇という天智系の皇族が所有する横江荘園となり、3世紀後の10世紀半ばには東大寺領横江荘が消滅してしまった事実を振り返ってきました。
志貴皇子の孫・桓武天皇の皇女である朝原内親王の所領となっていた横江荘が東大寺に寄進されたのは加賀立国の5年前とお話ししてきました。そこで、加賀立国の理由として当時、越前国の国司・紀末成(きのすえなり)が挙げた内容を思い出すと「加賀郡は越前国から遠いため郡司や郷長による恣意的な収奪が行われている」というものでした。
つまり、少なくとも朝原内親王の荘園を除く手取扇状地のほかの墾田は、越道君伊羅都売の後宮入りによって天智朝と強い紐帯で結ばれた道君一族が、在地豪族として管理していたことを示しています。これは、壬申の乱によって中央政権が天武朝に代わっても、律令制の下で形を変えながら郡司としての力を蓄え、継続してきたことをうかがわせます。
これが手取扇状地開拓と末松廃寺建立から始まり、東大寺領荘園の消滅に至るまでの300年間の出来事だったのでしょう。その後は、道君の名前も歴史の上からは消えて行き、いよいよ手取扇状地にも武士団が登場してくるのです。
写真/東大寺領横江荘遺跡(白山市横江町)。大型商業施設「白山イオン」の真向かい、横江工業団地の一角にあり、史跡公園も整備されています。