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2023年特集「大地有情、風に事情」第15回 再建末松廃寺の頃 7月10日放送

2023年7月10日

加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中

第15回(令和5年7月10日放送) 「再建末松廃寺の頃」

 前回の末松廃寺取材メモ「大地有情、風に事情」では白山市横江から金沢市上荒屋にかけて広がる「東大寺領横江荘」に触れ、第50代桓武天皇の皇女・朝原内親王が所領とした荘園が東大寺に寄進され、10世紀半ばまでに消滅したことをお話ししました。それは都における道君一族の物語でしたが一方、現地である手取扇状地では、開墾開始からその300年間に何が起っていたのでしょう。
 手取扇状地の開拓は、琵琶湖周辺に居住する渡来系の技術集団を中心に、加賀立国後でいうところの能美、江沼両郡からの移住民が主力となり、道君が支配していた加賀郡からの転入者が墾田化を推進しました。通常は農業用水の取り入れ口付近に、開発成功を祈願する寺院が在地豪族の住居と接するように建てられるのが常ですが、末松廃寺では豪族の屋敷と見られるような住居跡は発掘されませんでした。
 豪族による開拓ではなく、天智朝による国家的事業であったため管理者には越道君伊羅都売(こしのみちのきみの・いらつめ)の後宮入りで天智朝と外戚関係にあった加賀郡司の道君が任命されていた、と思われます。道君の本拠地は河北潟周辺であったため、末松廃寺近くに住居は構えなかったのでしょう。収穫された稲は全量、現地で保管、管理され、税に相当する石高だけを朝廷に送っていたのでしょう。
 当時の輸送網は水運が主流でしたので、運河や犀川支流を経由して犀川河口まで運ばれ、海上輸送の積み出し港になっていた河北潟沿岸の港湾都市に保管倉庫が置かれていた可能性が出て来ます。
 従って、日常的に末松廃寺の管理、運営は道君ではなく、扇状地開発に直接関わり、最新技術を持った渡来系の移民であった可能性が高いと思われます。
 末松廃寺が完成したのは672年/天武元年に起きた内乱・壬申(じんしん)の乱前後とみられています。中央政権の権力を握った天武天皇は、全国の豪族に対して、仏教普及を図るために氏寺の建立を命じます。事情は能美郡の財部造(たからのみやつこ)も同様で、後の加賀立国にあたって国府が置かれた小松市国府台地の西南に当たる江沼平野を中心に、領主層の居宅と隣接する形で次々と白鳳寺院が建立されて行きます。
 寺院ブームの到来は当然のように瓦不足を招きます。天智朝の命令で末松廃寺用の瓦を生産していた財部造からの供給は絶たれてしまったのでしょう。末松廃寺の夢のような七重塔の構想も泡となって消えたのではないか、というのが私達、末松廃寺取材チームの推測でした。
 一方、手取扇状地開拓の監督官だった道君は、壬申の乱後の700年頃、時代は第41代持統天皇の治世、飛鳥京から藤原京への遷都が行われた時に当たりますが、広坂廃寺を建立しています。現在の金沢21世紀美術館から金沢市役所あたりになりますが条里制に基づいた寺院を建てています。方1.5町と言いますから約163m四方の敷地を掘立柱塀で囲み、金堂、仏塔、講堂、門を備えた白鳳寺院だったとみられています。
 越道君伊羅都売の皇子(おうじ)・志貴皇子(しきのみこ)が「采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く」の和歌を詠んだ直後にあたります。
 さらに、都が平城京に遷った730年代から740年代頃にかけて平城宮式の瓦当文(がとうもん)で飾った軒丸瓦で広坂廃寺を葺き替え、威容を増しています。立地場所が小立野台地の先端にあたり、現在の香林坊、片町のビル群が無いと想像してください。日本海までが見渡せ、まさに郡司・道君にとっては領地を一望できる国見の丘に建つ氏寺となります。
 では、氏寺になり得なかった末松廃寺の運命はどうだったのでしょうか。2009年/平成21年、文化庁発行の「発掘調査報告・末松廃寺跡」によると、理由は分かりませんが末松廃寺は8世紀初頭までに一旦、廃寺となっていたようです。奈良では藤原京から平城京に遷る頃です。
 末松廃寺が再建されるのは8世紀半ば、奈良時代に入ってからです。金堂は茅葺きか板葺きかは分かりませんが瓦の乗らない主堂となり、その東側には小ぶりな堂舎を配置する伽藍様式になっています。堂舎の中に塔をかたどった陶器製の瓦塔とよばれる模型が置かれていました。仏舎利の信仰様式から本尊信仰へと変わっていった、と発掘調査報告書に書かれています。日本で初めての発掘となりますが、天女像を掘った瓦塔の破片も見つかっています。創建時と変わらずに、手取扇状地開拓民の心の拠り所としての寺院の役割を果たしていたと思われます。
 奈良・正倉院に、加賀立国前の731年/天平3年の「越前国正税帳(えちぜんのくに・しょうぜいちょう)」が残されています。正税とは税金のことで当時は稲の石高で表されていました。律令制のもと、中央官僚である国司に従って郡の行政、税の徴収にあたる地方官が郡司の役割になっていました。
 郡司の身分は四等官(しとうかん)と言って4階級に分かれ、上から順に「大領(だいりょう)」「少領(しょうりょう)」「主政(しゅせい)」「主帳(しゅちょう)」と呼ばれていましたが、正税帳には大領として道君、主政として道君五百嶋(いおしま=読みは不正確かもしれない)と大私部(おおきさきのみやつこ)上麻呂(うえまろ?)の二人、主帳として道君安麻呂(やすまろ?)と丸部臣(わにべのおみ)人麻呂(ひとまろ)の2人が記録されています。
 郡司5人のうち3人が道君であって、大私(おおきさき)と丸部(わにべ)両氏が道君傘下の小豪族であることを思えば、加賀立国以前の加賀郡における道君の勢力の強さの一端が窺い知れるのではないでしょうか。


写真/女子像が線刻された瓦塔が2018年に末松廃寺跡から発掘されました。全国初の発見で、一度は廃れた大寺が8世紀半ば以降に再建されたことを物語っています(写真は野々市市教育員会所蔵のレプリカ)。