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2023年特集「大地有情、風に事情」第16回 古代の金融事情 7月17日放送

2023年7月17日

加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中

第16回(令和5年7月17日放送) 「古代の金融事情」

 奈良時代の731年/天平6年、第45代聖武天皇の頃で、加賀が立国される92年前です。加賀四郡のうち最北に位置する加賀郡では、当時の税金である稲を徴収する地方役人の国司は5人いて、最上位の大領を含めて3人が道君一族でした。
 国家的事業としての手取扇状地開拓にあって当初から、開拓事業の管理を任されていたと思われる地方豪族・道君は、律令制の政治体制に替わっても、石川郡における最大の権力者、実力者として他の追随を許さない存在だったことが分かります。
 権力者としての力の源泉は、圧倒的な税の徴収能力にあったと思われます。当時の稲作の最大の特徴は、全ての種もみを郡司が管理していることでした。農作業にあたる開拓民一人ひとりには法律で定められた一定の広さの墾田が割り当てられ、春になると郡司から貸し付けられた種もみを受け取ります。秋になると郡司は収穫された稲から3%分を税として徴収します。
 当然、貸し付けた稲より多くの量が収穫されれば、税や来年分の種もみ、開拓民の食料などを差し引いても、余剰の米は郡司の手元に残ります。これを利息としての稲、利稲(りとう)と言いますが、利稲は郡の行政運用費用、地方役人の給与、食料などになっていきます。この制度を出挙(すいこ)と呼びます。稲がお金とするならば、現代で言えば銀行業務に似ています。お金を貸し付けて利息を取り、増えたお金でまた貸し付ける。金融機関です。
 ここで注目すべき点は手取扇状地の墾田では単収が高かった可能性があることです。
暴れ川・手取の流域は元来、玉石などが敷き詰められたように広がって、その上に薄い表土が乗っているため水はけが良すぎて保水力が低く、稲作には向いていませんでした。そこで当時の最新技術を導入して河に堰堤(えんてい)を築き、取水口から引いた水を墾田に張り巡らせ、必要な時だけ水を流せる灌漑設備を整えることで耕作が可能となりました。
 それまで、扇状地の稲作は水が湧き出る扇端部分や中小河川の周辺の湿田が中心でしたが、灌漑用水が出来たことで墾田は乾いた田、つまり乾田化することで肥沃度が高まり、単収が飛躍的に上がったと思われます。
 出挙(すいこ)制度の元となる班田収受(はんでんしゅうじゅ)の法で言えば、6年に一度の戸籍作成、田地の計測では帳簿の数字と収穫の実態が合わなくなります。次回の調査までの6年間は必然的に、郡司の手元に残る利稲が増えることになります。朝廷に送る税収である稲の量を管理するのは郡司の仕事ですから、正確な数字を報告しなければ更に利稲は増えるばかりです。道君がこの利稲を利用して、戸籍から外れた農民を集め、帳簿に載らない新田を開拓すれば、稲を私物化することが出来ます。朝廷の公の出挙を公出挙(くすいこ)と呼ぶのに対して、郡司が私の立場で稲を貸し付けることを私出挙(しすいこ)と呼ぶのです。
 今度は加賀立国の62年前、天平宝字5年/761年の石川郡の様子です。前に説明した加賀郡司5人のうち3人が道君だった時から30年が経っています。奈良時代の正史を伝える「続日本紀(しょくにほんぎ)」によれば、郡司の次官である少領だった道君勝石(かついわ)が自分の持つ稲6万束を利用して私出挙を行ったことが判明して、利稲3万束を没収されています。ここで言う1束とは両手でつかめる稲の量です。稲6万束といえば加賀郡の公出挙と同量の稲になります。現在では米約180㌧に匹敵する量ですが、郡司の次官レベル1人で公出挙と同量ですから郡司5人分ではどれだけの量になっていたのでしょう。恐ろしい数字ではないでしょうか。
 しかし、これだけの罪を犯しながら罰金だけの軽い罪で済んだことは、反対に道君の存在の大きさを示すには十分、と言えるかもしれません。
 遂に823年/弘仁(こうじん)14年がやって来ます。越前国の国司・紀末成(きのすえなり)が「道君の横暴が続き、収奪を繰り返している。加賀郡は国府(現在の福井県越前市)から遠くて巡検もままならない。民の訴えも聞くことができない」と朝廷に訴えます。道君はますます実力を蓄えていたのでしょう。たまりかね、日本では最後の立国となる加賀の国が誕生したのです。
 実態と合わなくなってきた班田収授の法は衰退し、土地の一部は郡司や開拓民の私有地となり、また皇族、貴族、寺社などの荘園に姿を変え、在地の有力者が荘園の管理者となっていきます。今風に言えば「公的金融機関の崩壊」です。中央政権の支配から離れた私土地が増えれば増えるほど、公(おおやけ)の権限も縮小して行きます。
 手取扇状地でいえば、公の威光を背にして勢力を伸ばしてきた道君も、私有地の横行によって管理する土地の面積が押され始め、勢力が衰えていく運命をたどったようです。次第に歴史上から名前が消えて行きます。
 東大寺領横江荘の荘園も10世紀に入る頃には姿を消してしまいます。荘園の地頭として頭角を現してきた在地勢力の支配下に置かれたのかもしれません。


写真/野々市市末松から望む白山。末松地区は古くから米の産地として栄えてきました。手取扇状地を開拓してきた先人たちの努力の賜物です。