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2023年特集「大地有情、風に事情」第18回 北陸戦線異状あり~中世・加賀武士団の盛衰~ 7月31日放送

2023年7月31日

加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中

第18回(令和5年7月31日放送) 「北陸戦線異状あり~中世・加賀武士団の盛衰~」

 石川県から車で国道8号線を富山県方面に走ると、県境は倶利伽羅トンネルの中にあります。トンネルは標高277メートルの砺波山を貫いています。トンネルができる前の国道や古代の北陸道は倶利伽羅峠を尾根沿いに通る山越えの道でした。
 この山で、中世において大きな戦いが二つありました。一つは平安時代末期の源平合戦における倶利伽羅峠の戦い、またの名を砺波山の戦いと言います。もう一つは鎌倉時代になってからの承久の乱における、幕府軍と京方の官軍との戦いです。
 10年ほど前に、この旧北陸道の倶利伽羅峠を歩いてみたことがあります。木曽義仲が平家の軍勢を崖から追い落として勝ったとされる「火牛(かぎゅう)の計」が、本当にあったのかどうか確かめたかったのです。牛の角に松明(たいまつ)を取り付け、その松明に火をつけて走らせた、というゲリラ戦法です。
 結論は、「火牛の計はあくまでも伝説で、実際はなかったのだろう」です。倶利伽羅峠を歩いてみると、思っていた以上に道が狭く、登り下りの勾配もきつく、たくさんの牛を動かすことは難しい、と感じたからです。
 さて、加賀の国が越前の国から分離独立したのは、弘仁(こうじん)14年、西暦823年でした。この頃になると、古代豪族・道君の名前は史料などから姿を消します。絶頂期を誇った者もいつかは力が衰えるという栄枯盛衰の歴史です。
 そして、12世紀末の中世になると、加賀に富樫氏や林氏といった武士団が台頭します。野々市の歴史で有名なのは、じょんから祭りでもおなじみの守護・富樫氏ですけれども、富樫氏の前に大きな勢力を誇ったのが林氏です。野々市市に現在、上林、中林、下林といった林の付く地名が残っているように、野々市市の南部から白山市の旧鶴来町にかけて、林氏の領地「拝師(はやし)郷」が広がっていました。
林六郎光明(はやしのろくろう・みつあきら)や富樫入道仏誓(とがしにゅうどう・ぶっせい)らの名は平家物語に登場します。時は寿永2年、西暦1183年。平家追討に立ち上がった源氏の武将・木曽義仲に味方して、光明らは越前の「火打ちが城」に立てこもりましたが味方の裏切りに遭って、城が落ちたため、光明らは加賀の地に退いた、とあります。
 この時はまだ信濃にいた木曽義仲が都を目指して北陸路に入り、越中と加賀の境にある倶利伽羅峠と、その後の篠原(加賀市片山津温泉の近く)の合戦などに勝利して京に入り、平家を都から追い出しました。
 加賀武士団の林六郎光明(はやしのろくろう・みつあきら)や富樫入道仏誓(とがしにゅうどう・ぶっせい)も木曽義仲に従って、都に入っています。
 平家物語の冒頭にある「盛者必衰」「諸行無常」の言葉通りに、平家を京から追いやった木曽義仲でしたが、源頼朝の命を受けた源義経に討たれます。その義経も頼朝に倒されます。頼朝も鎌倉幕府を開いたものの、狩りから帰る途中に不慮の死を遂げます。
 時は流れ、源頼朝の死から20年ほど過ぎた承久3年、西暦1221年に、再び国を二分する大きな戦いが起きました。承久の乱です。後鳥羽上皇は五畿七道の国々に対し、敵対する鎌倉幕府の執権・北条義時追討の宣旨(せんじ)下したのです。受けて立った幕府は東海道10万騎、東山(とうさん)道5万騎、北陸道へ4万騎を向かわせます。
 合わせて19万騎もの大軍を前に、後鳥羽上皇の京方は敢え無く敗戦。後鳥羽上皇は隠岐に流されます。
鎌倉幕府の公式文書である吾妻鏡その6月8日の条によると、北陸道に向かった4万騎を前に、「官軍の加賀の国の住人である林次郎(はやしのじろう)らが降伏した」とあります。林次郎らが加わった官軍と幕府軍が合戦を行ったのは、現在の砺波市から倶利伽羅峠にかけての地点です。40年ほど前の源平合戦で木曽義仲と平家軍が戦った場所でもあります。野々市に勢力を持った豪族の林氏が倶利伽羅峠で、中世の二大決戦に参戦して勝利の勝鬨(かちどき)と敗戦の憂き目を見たことは、何か歴史の因縁を感じざるを得ません。
 倶利伽羅峠の源平合戦では林氏とともに富樫氏が加わっていましたが、承久の乱では富樫氏の名前が見えません。ここから、加賀で勢力を誇った二つの豪族の分かれ道になります。俗に、「林氏が官軍の後鳥羽上皇側に付いたため鎌倉幕府から罰せられ、富樫氏との立場が逆転した」と言われていますが、このことを明確に記した史料はないようです。
 専門家によると、中世に編集された家系図である「尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)」という史料には、「承久の乱の折に、(官軍に組みした林次郎と言われる)林家綱・家朝(いえとも)親子が一族内の対立で遠縁にあたる板津家景を殺害。これが私的な戦い、利益追求に当たるとして鎌倉幕府から死罪にされた」とあります。
 この処分によって、林氏が没落する一方で、富樫氏が台頭し、室町時代には加賀の守護として権勢をふるうようになります。


写真/倶利伽羅峠を歩くと、源平合戦の古戦場跡をはじめ、北陸を訪れた松尾芭蕉の句碑などを目にします。「あかあかと 日は難面も あきの風」。芭蕉も北国街道を通って加賀を往来しました。