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2023年特集「大地有情、風に事情」第19回(最終回) 扇状地開拓の系譜 8月7日放送

2023年8月7日

 前の回では、源平合戦や後鳥羽上皇と鎌倉幕府が一戦をまじえた承久の乱に、加賀の武士たちが加わっていたことを紹介しました。
 ここで、武士や武士団について触れたいと思います。武士は武芸によって朝廷に仕えたのが始まりですが、ただ単に武芸に優れていただけではなく、武士が活躍し始めた中世においては特定の家柄の出身であることが条件でした。桓武天皇を祖とする桓武平氏、清和天皇の子孫である清和源氏などです。
 中世の野々市では何といっても、野々市じょんからまつりで有名な富樫氏が知られていますが、富樫氏の前と言えば、古代の手取扇状地の開拓時代から根を張って来た林氏が勢力を誇っていました。
 富樫氏と林氏の先祖は、同じ藤原利仁(ふじわらのとしひと)から出た越前斎藤氏とされています。家系図から見れば、先祖を共にする同族の武士一族、ということになります。
 加賀の武士団として一大勢力となった林氏ですが、1221年に起きた承久の乱を境に、その地位を富樫氏に譲ることになります。
 鎌倉幕府の公式記録とされる吾妻鏡(あづまかがみ)を調べると、「(承久の乱で朝廷方についた)加賀の国の住人・林次郎は降伏して北条朝時(ほうじょうのともとき)らの陣にやって来た」とあります。時は承久3年(1221年)6月8日でした。
 北条朝時は、鎌倉幕府の執権・北条義時の次男で、北陸に派遣された4万騎を率いる大将の一人です。
 北条朝時に降伏した林次郎は、林氏の家系図と照らし合わせると、林家綱(はやしのいえつな)になります。
 林家綱は息子の家朝(いえとも)と共に、承久の乱のあと、鎌倉で処刑されます。その理由は必ずしも、林氏がいくさに負けた後鳥羽上皇方についたからではなく、一族の板津家景(いたづ・いえかげ)を個人的な利益追求から殺害したのが理由、という研究者もいます。
 その裏付けとして、同族の加賀・武士団である富樫氏は林氏と同じく後鳥羽上皇方だったにもかかわらず、幕府から処罰を受けていません。
 このように、加賀で勢力を誇った林氏が没落した理由は、敗者の朝廷方に味方したからだった、とはっきりと言い切れないようですが、その時期は西暦1221年に起きた承久の乱の後であったことは事実です。
 林氏の祖とされる林貞宗(はやしのさだむね)は、11世紀半ばの康平年間に、現在の野々市市南部から白山市の鶴来地区にまたがる林郷(はやしごう)に館(やかた)を構えました。林氏をまつる林郷八幡神社が野々市市上林(かんばやし)3丁目にあるほか中林、下林といった林氏にまつわる地名が残されています。
 林氏と富樫氏はもともと先祖を同じくする同族の武士であったことを先ほど話しましたが、林・富樫両氏の歴史を語るうえで欠かせないのが手取扇状地です。「手取川七ヶ用水誌」を読むと、面白い事実がわかります。
 手取川七ヶ用水とは、その名前の通り、手取川の右岸を流れる七つの用水です。野々市市に近い北から順番に、富樫用水、郷用水、中村用水、山島用水、大慶寺(だいぎょうじ)用水、これは「だいけいじ」用水とも言います。そして、中島用水と新砂川用水の七つです。
 富樫用水には高橋川(昔の呼び名は荒川)、十人川(じゅうにんがわ)などがあり、富樫氏は高橋川沿い、現在の金沢工業大学周辺から下流の伏見川流域を拠点にしていました。これに対して、林氏は、富樫用水から一本、手取川本流に近い郷用水の上流流域を拠点にしていました。
 このほか平安時代には、郷用水の安原川下流域に横江氏、中村用水中流域に倉光氏、同じく中村用水の下流域に松任氏、山島用水下流域の海沿いに得光氏などの開発領主が勢力を持っていました。古代や中世において、川は米作りなどの生活用水だけではなく、人の移動や物を運ぶ水上交通として暮らしに欠かせない存在でした。
 そして、注目すべきは、いま紹介した領主たちがすべて林氏の一族だったということです。先ほど、承久の乱の時期に、林氏の当主が個人的な利害関係から同族の板津氏を討ち取り、それが理由で幕府から死罪に処せられた、と言いました。討ち取られた板津氏は現在の小松市南部を拠点にした領主と思われます。
 林氏は、加賀武士団の棟梁であり、その一族が金沢市から小松市に至る広い範囲で活動していたことが現在に残る地名からも分かります。
 元号が昭和から平成に変わって間もなくの頃、北海道帯広市にお住まいの林氏の子孫が先祖のことを調べるために、野々市を訪れました。林氏ゆかりの場所を訪ね、白山市に住む林氏の子孫とも感激の対面を果たしました。
 先祖を同じくするという林氏と富樫氏。林氏が13世紀初めの承久の乱のあと、急速に衰えたのに対し、跡を継ぐように台頭した富樫氏は、一向一揆と争いながらも16世紀後半の戦国時代まで生き残りました。500年近く活躍した富樫氏に比べ、林氏が歴史に登場したのは200年ほどと短く、文字資料はほとんど残っていません。同様に、古代豪族の道君も記録が少ないがために、その全体像をつかむのに苦労します。
 加賀立国1200年と白山手取川の世界ジオパーク認定を機会に、手取扇状地という大地を舞台に、汗と涙に塗(まみ)れながら興亡を繰り広げた私達の祖先である古代豪族の道君、中世武士団の林一族などの足跡をたどってみました。
 ともすれば、目の前にある暮らしに忙殺され、足元だけを見つめがちです。しかし時折、顔を上げてみませんか。頭上には過去から未来へと吹く「歴史の風」が渡っています。手取扇状地開拓の系譜を引く私達は、故郷(ふるさと)への想いを、これからも深くしたいと思います。


写真/野々市市文化会館の脇に建つ富樫家国像。富樫氏と林氏は祖を同じくし、中世の北加賀で守護として栄華を誇りました。