末松廃寺余聞・第3話「時空の断絶結ぶ」
2018年11月19日
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺余聞・第3話「時空の断絶結ぶ」
「石塊の荒野睨む白鳳の塔」の物語は、斉明6年(660)頃から始まった末松廃寺造営が手取扇状地の大規模開発につながり、七カ用水の整備と加賀百万石の穀倉に成長していった道筋を述べたい、というものです。全体像としては、まだまだ未解明な点も多く、新事実の発掘や学問的な論争が現在でも続いています。
この物語は別の観点から見れば、末松廃寺が墾田地の拡大と共に、手取川からの灌漑取水口が中流域から上流域へと移動するに連れて、取水口を護る象徴としての寺社も同時に移動せざるを得ず、最終的には白山比咩神社になっていった、という変遷史です。
墾田開発の拡大と共に灌漑の取水口は上流へ
10月3日から始めたブログですが、構想の段階では加賀百万石の原風景と言いながら実は、途中で時間軸が切れてしまい、白山比咩神社まではつながっていなかったのです。本編の方では、平安時代中期には野々市市末松2丁目から白山市安養寺付近まで取水口と寺院が移ったのではないかと記しました。ただ、安養寺付近からは直接結び付く遺跡が発掘されているわけではありません。また、安養寺の平安時代中期から、室町時代の白山比咩神社まで一気に時代が飛び、中継点が見つかっていなかったのです。
白山宮の遺跡から平安時代後期の地層を発見
そうした中、10月19日に、石川県教育委員会から、白山比咩神社の前身とされる「白山宮」があったとされる古宮(ふるみや)

白山比咩神社・旧社地の古宮遺跡。安久濤ヶ淵の岩場上にある。上方の川が手取川。旧社地の下が発掘調査区(県埋蔵文化財センター資料から)
遺跡(白山市白山町)の発掘結果について発表がありました。その中で、最も興味が惹かれたのは4面の地層が確認出来て、最も古い時代は平安時代後期~末期のものでした。末松廃寺の物語で、切れていた時間軸が一気に結びつく可能性が出てきたのです。10日後の10月29日、現地の説明会に行って来ました。
「古宮遺跡」は手取川が山間から扇状地へと迸(ほとばし)り出る地点の右岸、昔から「安久濤ヶ淵(あくどがふち)」と呼ばれる切り立った岩山の頂上にある遺跡で、白山宮がありました。白山比咩神社の記録によると、室町時代の1480年に火災に遭い、現在地に移転したとされています。京で応仁の乱が勃発した直後に当たります。
今回の調査は、古宮遺跡東側に当たる北陸鉄道石川総線の旧加賀一の宮駅付近で、線路跡を自転車専用道路「手取キャニオンロード」に整備するための事業に伴うものです。
祭祀に使われた大量の素焼き土器皿が出土

古宮遺跡で発掘された4層の遺構面。穴の中にある最下部が平安時代後期~末期のもの

古宮遺跡で発掘された石列遺構。区画石とみられている
県埋蔵文化財センターの説明によれば、発掘された地層は、表層に近い第1面が「室町~戦国期」、2面が「鎌倉~室町期」、3面が「平安末期」で最下層の第4面が「平安後期~末期」となっています。建物の礎石、石列を持つ区画溝、石畳状の敷石遺構、石段状遺構などを検出。火災後の整地層や遺構面が確認できたことは、文献史料から知られている白山宮の火災や自然災害の度に繰り返えされた神殿の再建を裏付けるもの、としています。
遺物としては、大量出土のカワラケ(素焼きの土器皿)、中国製の青磁、白磁の碗(わん)・皿、瀬戸焼の製品、加賀焼、珠洲焼、越前焼のすり鉢、甕(かめ)など2万点以上が出土し、特に平安時代の地層から出土したカワラケは遺物の九割以上を占めています。中には意図的に割られたと思われる皿も多く、繰り返し祭祀が執り行われた証拠、とみています。
1068年に焼失した白山社はどこにあった?
また、同センターの説明によると、白山宮の火災に関する文献史料として、当時の学者などが白山宮の火災について調査、報告した鎌倉時代の文永六年(1269)付吉田兼文勘文(かんもん)に「後三条天皇の治暦四年(1068)、加賀白山社の神殿ならびに御躰等が焼失し、再び造立がなされた」と引用されている、という。
治暦四年といえば、末松廃寺が廃絶した直後頃にあたり、同廃寺の南方向(手取川上流)となる安養寺付近に取水口が移った頃になります。しかし、地名に付く「寺」の文字から推察すると、取水口付近にあった寺院は安養寺廃寺であって、神社とは思えません。可能性の第一としては、安養寺廃寺が火災に遭い、再建された寺院が、鎌倉時代には白山宮と呼ばれていたのかも知れません。
もう一つの可能性としては安養寺付近に寺院と神社の二つが建立されていた、ということです。以後、寺院は寺院として、神社は神社としてそれぞれの道を歩んだ、ということですが、建立の主体についての考察が必要になります。最後の可能性は、安養寺とは別の地域に神社が建立されていた、ということです。
「白山宮の下流1㎞に“原・白山宮”があった」
一方で、同センター職員から、このような言及がありました。白山宮の前身についてです。「伝承によると、古宮遺跡に白山宮が建てられる前は、1㎞ほど下流に前身の神社がありました」というものです。安養寺と古宮遺跡の中間に“原・白山宮”があったことになります。古宮遺跡の最下層が平安後期~末期であるということは、その時期までには原・白山宮があったことを意味します。
古宮遺跡は安久濤ヶ淵の岩山の頂上にあって、現在は、手取川七カ用水白山管理センターの存在が示すように、全域の取水口となって一元管理されています。しかし、白山宮が建立された平安後期~末期の頃は、同遺跡は取水口ではありませんでした。それでは、一体どうして、この地に建立されたのでしょう。
もしも原・白山宮が存在するとするならば、その比定地は、手取川の形状から考えて、最後の取水口ではないような気がします。最後の取水口はさらに下流かもしれません。白山宮がそうであるように原・白山宮もむしろ白山宮と同様の性格を帯びていたのではないでしょうか。
暴れ川を征服した記念碑的な神社
大胆に推理するならば、越道君の勢力下にあった右岸のみならず、財部(たからべ)氏の勢力下にあった左岸の開発も最終段階に入り、川幅が狭く、両岸の合流点とみなされる地に開発完成記念の証として白山宮が建てられた可能性もあるのではないでしょうか。そして、何かの原因で安久濤ヶ淵の上に移ったとしたら、どうでしょう。
古代から中世にかけての扇状地開発は、平安時代後期から末期の間には完了していたことになります。前述したように、白山宮が建つ安久濤ヶ淵は手取川が山間部から平野部に流れ出す位置にあります。同淵の上から手取川を見下ろす絶景です。水墨画の題材としても一幅の画となります。それは名うての暴れ川をついに征服したという充実感を味わうには最適の地です。白山宮とは、そんな記念碑的建物だったのではないでしょうか。
新しい世界を生み出した水の神・菊理媛尊
白山比咩神社の祭神は菊理媛尊(くくりひめのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)です。この三神は日本書紀の中に出てきます。死んで、黄泉(よみ)の国に居るイザナミに逢いに行ったイザナギが現世に帰る時、黄泉平坂(よもつひらさか)まで追いかけてきたイザナギと言い争いになります。その前に現れたのが菊理媛です。二人をなだめ、イザナギはこの世に帰ります。直後に穢(けがれ)を払うために水中に入って禊(みそぎ)を行い、その際に生まれたのが天照(あまてらす)大神、月読命(つくよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)です。禊によって新しい世界を生み出したと言ってもいいでしょう。
菊理媛とは、新しい世界を生み出す場面に登場する神です。そして黄泉の国で穢に触れたイザナギを現世に帰すことで穢れが広がることを恐れ、帰すまいと迫るイザナギの間に立って、水を潜(くぐ)って禊をすれば穢を払える、と教えた水の神である、と思っています。「くくりひめ」の名前の由来ではないでしょうか。
暴れ川の水を治め、手取扇状地という新しい世界を生み出した水の神・菊理媛ほど白山宮の祭神として似合う神はいないのではないでしょうか。(宮崎正倫)(おわり)
末松廃寺余聞・第2話「皇統つなぐ皇子」
2018年11月15日
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺余聞・第2話「皇統つなぐ皇子」
天智朝が斉明6年(660)ごろから、手取扇状地に末松廃寺(野々市市末松2丁目)を創建し、大規模開発に乗り出した歴史の流れの中で、大和・飛鳥の都に一人の皇子(みこ)が誕生しました。天智天皇と、後宮に采女(うねめ=女官)として出仕した越道君の娘・伊羅都売(いらつめ)の間に生まれたのです。志貴皇子と言います。
生年は明らかになっていませんが、665年説を唱える研究者もいますが概ね、その前後と思ってよいのでしょう。磯城(しき)郡(奈良県桜井市)に勢力を張っていた阿部氏の元で養育されたため磯城皇子とも言います。第26代継体天皇が大和入りして宮を構えた磐余(いわれ)地方で、大神(おおみわ)神社のご神体である三輪山の麓に広がる一帯です。
皇統を継ぐ資格のある皇子ですが、政権を巡る激流に翻弄され、政治の表舞台には立ちませんでしたが、万葉歌人として「石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」の代表的な歌と名前を残します。
◇皇位継承の有資格者◇
志貴皇子を見舞った歴史の激流とは762年に起きた壬申(じんしん)の乱です。天智天皇の弟で

大神神社の社標

ご神体の三輪山を背に建つ大神神社の拝殿=奈良県桜井市
ある大海人(おおあま)皇子、後の天武天皇が、天智天皇の子であった大友皇子(弘文天皇)を攻め滅ぼした内乱で、天武朝を開いていきます。
幾人もの有資格者がいる中で誰が皇統を継ぐべきか、という基準ですが、ここからは一つの推理をしてみます。もちろん、私は研究者ではありませんので、眉に唾しながらお聞きいただければ幸いです。
少し時代を遡ってみたいと思います。継体天皇は507年、58歳の時に、河内国樟葉(くすば)宮で即位しています。それまでは応神天皇五世の孫として越前国にいたとされています。先代の武烈天皇が後嗣を定めていなかったため、男系を遡って、白羽の矢が立てられました。
当初はなかなか、大和国入りが出来ませんでした。そこで、新たに皇族であった手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に迎えることで、ようやく大和の地に入ることができました。大和政権発祥の地とも言われ、山がご神体である神奈備の三輪山の裾に広がる磐余(いわれ、奈良県桜井市)に宮を定めることができました。
◇皇族としての皇后を重視◇
男系とされながら、なぜ継体天皇は当初、大和入りが出来なかったのでしょう。それは当時、大和政権という存在が、奈良盆地の中だけの世界だけで回っており、実力があっても地方豪族を相手にしない「格」があったからではないでしょうか。手白香皇女を得ることで、傍系といえども男系に加えて、大和の一員としての資格を整えたのでしょう。
継体天皇には大和入りする前に、安閑天皇、宣化天皇という二人の子がいましたが最終的には、手白香皇女との間に生まれた欽明天皇が皇統をつなげていきます。
この皇統継承の形が崩れてきたのが、蘇我氏が政治の中枢を握った時代でした。一族の娘たちを天皇家に嫁がせ、豪族が外戚の力を存分に奮い、天皇家の政治権力に迫りました。しかし、女帝であった推古天皇の後は、蘇我氏と血のつながりがない舒明天皇、舒明の皇后である皇極天皇(後の斉明天皇)へと受け継がれ、中大兄皇子(天智天皇)が645年、乙巳(いっし)の変で蘇我本宗家を倒し、外戚を排除したのです。天皇家中心の親政を意図したことは天智、天武の両兄弟とも共通の意識を持っていたように思われます。
このような、大和における中央政権の展開の中で、手取扇状地の開発、末松廃寺の造営が行われたのです。そして、壬申の乱が起こるのです。
◇地方豪族の子女の悲哀◇
問題は天智天皇の後継者です。末松廃寺の場合と同様、天皇家の財政基盤を確立するためなのか、天智天皇は地方豪族との結びつきが多く、子は全て地方豪族の子女との間に生まれました。大海人皇子と争った弘文天皇は第一皇子だったのですが、母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめの・やかこのいらつめ)で、志貴皇子と同じように皇族ではありません。天武天皇は自分こそが正当な後継者の最上位の資格がある、と確信していたのに違いありません。
そして、壬申の乱の後の白鳳8年(679)、天武天皇、鸕野讃良(うののさらら)皇后(天智天皇の皇女、後の持統天皇)は吉野へ行幸しました。天武の皇子では草壁、大津、高市(たけち)、忍壁(おさかべ)の4人、天智の皇子では川島、志貴の2人だけが同行しました。
当時の皇位継承の有資格者であると見做されていたのでしょう。皇位を巡る壬申の乱の後であり、天武天皇は自らが考える皇位継承の在り方を話し、皇子たちに優先順番を付け、これを遵守するよう誓いを立てさせたのでしょう。これは「吉野の盟約」と呼ばれています。天武系の4人が優先され、天智系の2人が冷遇されたのは当然の成り行き、と思われます。
天武系の中でも、壬申の乱の最大の功労者であり、最年長は高市皇子でしたが、母は筑紫国宗像(むなかた)郡の豪族の出身である尼子娘(あまこのいらつめ)であったため皇族である鸕野讃良皇后の皇子であった草壁が皇太子の地位を得ました。
あと、母が皇族なのは皇后の同母姉である太田皇女(天智の長女)の大津だけでしたが、天武天皇崩御の後、謀反の罪に問われ亡くなります。さらに、皇太子であった草壁は早逝したため、鸕野讃良皇后が持統天皇として即位して、草壁皇子の子供達だけで皇統を引き継ぐように図っていくのです。
◇越道君伊羅都売の孫が即位◇
一方、志貴皇子は、政治的には出来るだけ目立たぬように一生を終えていきます。その皇子に白壁王がいます。同王は770年、62歳という高齢でしたが即位して、光仁天皇となります。天武朝の皇位継承者が絶えたためで、思いもしない事でした。天智天皇の孫、言い換えれば越道君伊羅都売の孫が天皇になったのです。
壬申の乱から100年の後、天智朝が復活して、皇位は光仁天皇の皇子であった桓武天皇に引き継がれます。平城京から長岡京への遷都(784年)、10年後には平安京への遷都を行い、現在に至るまで天智朝の皇統が続いていることになります。
末松廃寺と手取扇状地の大開発が天智天皇と越道君との縁を結び、皇統継承に関わった事は覚えておくべきことでしょう。来年は譲位により、新天皇が生まれるのです。(宮崎正倫)
次回は11月19日、末松廃寺余聞・第3話「時空の断絶結ぶ」です。
末松廃寺余聞・第1話「なぜ瓦が少ない」
2018年11月12日
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺余聞・第1話「なぜ瓦が少ない」
末松廃寺(野々市市末松2丁目)にはまだまだ謎が多い。それは、研究のための直接的な資料が少ない、ということです。
例えば、瓦の問題をみてみましょう。仏教の受容に伴う新しい技術によって手取扇状地を開発するため、これまで体験したことのない農法、予想も出来なかった収穫量を上げることができます。集落の形も変貌を遂げていきます。その象徴的なものが権力の在り処を誇示できるのが瓦葺(ぶき)の古代寺院だったでしょう。同廃寺の場合は金堂にしか用いられていません。塔をはじめ遺跡の他の遺構からは出土していません。
もし、瓦があったなら塔は、五重塔以上の高さがあったかもしれません。高層の塔は屋根に乗せる瓦の重量で建物を抑えつけて安定させているのです。瓦がなければふらついて、倒壊を招きます。末松廃寺の場合は、塔基壇が大きく、柱間が3.6m、三間の建物ですから全体で10.8mあります。七重塔でも可能だったかもしれません。では何故、塔の心柱(しんばしら)を支える礎石、つまり塔心礎(とうしんそ)は三重塔の大きさしかないのでしょうか。
◇建築途中で七重塔計画を変更?◇
末松廃寺第6話では、末広がりの三重塔の姿を描いてみました。しかし、当初からこんな姿の

平成25年に能美市湯屋で発掘された登り窯跡。末松廃寺の補修用瓦を焼いていた
塔を思い描いていたのでしょうか。一歩進めて、こんな推理はどうでしょうか。最初の構想では七重塔であったが、建築途中で瓦の入手が困難となり、高さを三重塔に変更した。
手取扇状地の開発は天智朝の国家的事業であり、手取川右岸の地方豪族・越道君と左岸の豪族・財部(たからべ)氏が協力した、と考えられています。寺院の瓦は、左岸の旧能美郡にあった古窯群で焼かれたことが分かっていますので、財部氏が提供していたのでしょう。
同廃寺の位置が野々市市であることから、私達は道君が中心になって天智朝に協力した、と思いがちですが、それは正しいのでしょうか。もしかして財部氏が中心であった可能性はないのでしょうか。
ここで財部氏について、もう一度振り返ってみましょう。「たから」という名前の呼び方からして、これは古代、直接的に皇族に仕えて産物を貢納し、労働力を提供する名代・子代(なしろ・こしろ)の一族に指定されていた。その皇族とは年代を考え合わせれば、幼年に宝皇女と呼ばれていた斉明天皇が有力になっています。
財部氏の勢力範囲は旧能美郡と言いますが、現代で言うと、手取川から左岸から加賀市の動橋川流域までと考えられます。加賀三湖、JRの加賀温泉駅辺りまで含みます。また手取川左岸と言っても、同川が流れを変える前ですから、扇状地全体の三分の一を占めていた、とされます。また5つの古墳群からなる能美古墳群を抱えています。造営期間は弥生時代から古墳時代後期の400年間に及び、多種多様の副葬品が出ています。北陸最大級の前方後円墳である秋常1号墳もあります。江沼臣(旧江沼郡)と道君の間に挟まれて見落とされがちですが、遜色のない大豪族と言っても差し支えない、と思います。
◇財部氏が先に古代寺院を建てていた◇
末松廃寺の造営開始は斉明6年(660)ですから、天智朝と言っても斉明天皇の頃です。天皇親政という新しい政治を行うために天皇家の財政力を強くする意図を持った扇状地開発であれば尚の事、末松に先立って財部氏が左岸で、古代寺院を建てて開発を進めていた、とするのが自然な流れのようにみえます。
この技術の蓄積を持って、古代加賀郡であった末松を中心に墾田開発、屯倉(みやけ)の開発に乗り出したのではないでしょうか。
古代加賀郡は道君の領地です。財部氏のように名代・子代ではありませんから、屯倉の管理、財力の源である稲の運搬、田を耕す農民である田部(たべ)の確保を任すには一工夫が必要になります。それが道君伊羅都売を天智天皇の采女(うねめ=女官)として宮に入れ、懐に取り込んだのではないでしょうか。
◇末松廃寺に瓦の供給が絶たれる?◇
末松造営が始まった翌年、斉明天皇は崩御されます。治世は天智天皇の代に移りますが、それでも同一王朝ということで事業は続けられます。しかし、代替わりをすれば財部氏は斉明天皇の奉仕集団、名代・子代から離れて一地方豪族に性格が変わり、旧能美郡の経営に専念せざるを得ません。そうであれば、末松廃寺から手を引いて瓦の供給が絶たれることになります。
加えて、造営開始から12年が経った672年になって壬申(じんしん)の乱が起き、天智朝は、弟の天武朝に交代します。
その頃、末松廃寺では金堂が完成し、塔の建設に着手していました。中央にも比肩するくらいの塔基壇は出来上がっていましたが、瓦の供給は途絶えます。やむなく、塔心礎を取り替えて三重塔を建立することになりました。
推理に推理を重ねれば、瓦の少ない末松廃寺と塔の謎をこの様に解くことも出来るのではないでしょうか。(宮崎正倫)
次回は11月15日、末松廃寺余聞・第2話「皇統つなぐ皇子」です。
末松廃寺・第11話「寺院から神社へ」
2018年11月8日
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺・第11話「寺院から神社へ」
末松廃寺(野々市市末松2丁目)は創建から間もなく、理由は分からないものの、伽藍が倒壊しています。木造建築の修理が必要になる目処は約60年とも言われますので、完成した670年頃から40年程しか経ない奈良時代初頭では、早々に、という表現になります。昭和の発掘調査結果から、再建されたのが8世紀の第2四半期(726~750年)とされています。
天智朝が始めた手取扇状地の開発事業は、象徴的建造物である末松廃寺が完成した直後に壬申の乱(672年)が起き、天智朝は天武朝に交代しています。天武天皇は全国に寺院建立を勧めたため各地で造寺の動きが盛んになります。扇状地開発の現地責任者の立場にあった越道君も氏寺の広坂廃寺(金沢市役所、21世紀美術館)を建てています。遺跡からは藤原京様式の瓦が出土しています。
また、天武5年(676)には全国の寺で「金光明経」「仁王経」を説かせているので、末松廃寺でも同様の光景が繰り広げられたに違いありません。
◇末松廃寺の護持は開発指導者の手に◇
国分寺などが設置されるようになると、末松廃寺の管理責任は中央の政権でもなければ郡司である道君の手も離れ、現地の入植者、墾田開発の指導者層に移って行ったのでしょう。
天武天皇の孫である文武天皇の大宝2年(702)に大宝律令が施行され、国内の政治体制は律令制へと移行していきます。仏教伝来からこちら、最先端技術と結びついて権力と富を生み出してきた仏教寺院は全国的な普及とともに、権力の中枢である天皇家を支える役割から律令国家を精神的に支える国家仏教へと変貌を遂げていきます。また、東大寺の大仏にみられるように、現生利益を求める信仰になったのです。
そこで、天皇家は国家の上に立つための新たな権威を求めるようになります。仏教の代わりに選ばれたのが神道ではなかったでしょうか。仏教伝来までの、あるがままの自然を重視した神道ではなく、天皇は神の子孫であるという物語性に裏打ちされた論理的な神道に衣替えをしたのです。
◇神道に基づく古事記、日本書紀編纂◇
天武天皇が編纂を命じた「古事記」「日本書紀」は神代から始まっています。それぞれ、元明5

林郷八幡神社の鳥居。奥に拝殿が見える=野々市市上林
年(712)、元正4年(720)に完成しています。
そうした中央政権の神道の動きとは別にして、奈良時代の養老7年(723)に「三世一身の法」、天平15年(743)に「墾田永年私財法」が施行され、土地は全て国の口分田という考え方から墾田の私有に道が開かれます。古代寺院の末松廃寺を中心とした開発地は律令体制の下でも着実に拡大し、末端の行政単位である「拝師郷(はやしごう)」を形成していきます。扇状地の乾田は単収も高いうえに未開発の土地も多く、私有地がまだまだ拡大する余地は十分あったとみられます。
墾田管理の中枢は、末松廃寺造営時の末松A遺跡から、拝師郷が成立する律令制の時代に下新庄アラチ遺跡へと移り、斉明6年(660)の近江(滋賀県)、丹波(京都府北部)からの入植者の末裔が郷長となっていきます。この時期に、奈良時代の初頭には倒壊した同廃寺が再建されているのも、私有地拡大で力をつけた拝師郷長の出現があったからでしょう。
末松廃寺では、金堂跡の西側用水から昭和36年(1961)に古代の貨幣である和同開珎(わどうかいちん)の銀銭が見つかっています。和同開珎が発行されたのが和同元年(708)ですから、創建当時に持ち込まれたものではありません。もしかすると末松廃寺の再建に当たり、地鎮の儀式で埋設された宝物の可能性も濃くなってきます。
◇末松廃寺の廃絶で林郷八幡神社を創建◇
昭和の発掘調査によって、末松廃寺跡で確認される一番新しい遺構は11世紀中頃と考えられる溝状遺構です。建物ではなく桑畑などの畝間として掘られた溝跡と考えられています。平安時代の半ばには末松廃寺が完全に消滅していたことになります。400年に満たない命運だったことになります。

祭神として三条天皇の名前が刻まれた林郷八幡神社の由緒碑文
末松廃寺再建の後、拝師郷の政治的な中枢であった下新庄アラチ遺跡の集落は、末松A遺跡群などと共に9世紀半ば以降、と言いますから平安時代に入って50年程経った頃に急速に衰退していき、10世紀には本拠地としての終焉を迎えます。
これは扇状地開発の終わりを意味するのではなく、開発の中心地が末松から、手取川の水源である白山寄りの安養寺遺跡(白山市)辺りへ移っていったため、と考えられます。灌漑のための取水口を更に上流に求め、墾田地を拡大させるために指導者層が移動したのでしょう。末松廃寺の護持者がいなくなったために同寺は歴史の舞台から消えて行きました。
しかし、集落の全員が移住したわけではありません。これまでの墾田を守るために残った人達は、古代寺院の代わりに神社を建てます。天皇家の権威が仏教から神道へと変わったように、です。
神社の名前は林郷八幡神社(野々市市上林)です。同神社由緒によると、祭神は応神天皇、神功皇后、三条天皇となっています。平安時代の長和2年(1013)創建です。末松廃寺が廃絶する頃と重なります。
◇祭神は藤原道長が擁立した三条天皇◇
祭神として勧請された三条天皇が即位したのは、同神社落慶の2年前です。在位期間は1011年7月16日で、1016年3月10日に退位しています。百人一首に「心にもあらでうき世に長らへば恋しかるべき夜話の月かな」の歌を残しています。同八幡神社は、三条天皇即位とともに宮の造営に取り掛かり、祭神として勧請したことになります。
当時の権力者は太政官の首席である左大臣の藤原道長でした。「この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」の歌が示すように、権力の絶頂期を迎えていました。また紫式部や清少納言が宮中で健筆を奮っていた頃です。三条天皇は一条天皇の後を受けて即位しましたが、道長の力がなければ及ばなかった、と言われています。
つまり、三条天皇を勧請するには道長の許しが必要になります。開発した墾田の一部を荘園として寄進したことも考えられます。道長の威光によって、荘園管理者として地位を安堵してもらい、自らは地頭の役割を果たすことで勢力を伸ばしていったのではないでしょうか。
白鳳時代の古代寺院を扇状地開発の守護者としてきた時代が終わり、神道に基づく神社が土地の守り神になっていったのです。応神天皇、神功皇后は武人の神です。しばらくして、手取扇状地には武士団としての林一族が姿を現します。都に上って宮中警護も担うようになり、中央政権との関係を築いていきます。自らの墾田を実質的に領地としていたところが、同じ武士団でも後の鎌倉武士団、御家人とは違うところかもしれません。(宮崎正倫)
次回は11月12日、末松廃寺余聞・1「なぜ瓦が少ない」です。
末松廃寺・第10話「鄙に地の利あり」
2018年11月5日
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺・第10話「鄙に地の利あり」
末松廃寺(野々市市末松2丁目)が建立された頃、当地は越(高志)国(こしのくに)に含まれていました。越国とは今でいう福井県嶺北から秋田県に至る広大な範囲です。大和政権の支配下にありましたが、一つの国というより福井・嶺北から以北の日本海側地方という十把一絡げの扱いだったのではないでしょうか。
国府のある武生(福井県越前市)は越国の中央に位置するのではなく、一番都に近い土地に置かれていました。これでは、国府にいる国守にとって、越国の隅々までの実情、情報を十分に把握するには不利な状況にあったことになります。大和・飛鳥の都からみれば地方の国のさらに田舎、つまるところ鄙(ひな)としての感覚が強かったのでしょう。
◇越道君は鄙の起点に居る大豪族?◇
越道君(こしのみちのきみ)の名前の由来は定かではありません。名前は地名から採るのが一般的ですが、越道という地名が存在しないために謎に包まれたままになっています。
古代の福井県はもとより石川県内の旧江沼郡までの地域は、早くから中央政権に服属していたので、隣接する旧加賀郡が鄙の始まりということになります。そこから延々と続く鄙の道の起点にいた豪族という意味で、越道君と呼ばれたのかもしれません。
末松はその旧加賀郡に属していました。同郡の範囲は北が大海川(現かほく市)から南は手取川までの範囲で、郡司は在地の大豪族である道君が務めていました。当時とすれば、国府と旧加賀郡の間の距離は十分に離れており、支配下にあるとしながらも日常的な政治的圧力は少なかったのではないでしょうか。
支配の目的は、税として水稲を納めさせるなど物産の貢納、労働力の提供などです。当時の稲作は墾田を拓いた権力者が、自ら所有している稲穂を出挙(すいこ)と称して田部(たべ=農民)に貸し付け、耕作させます。そして収穫時に、貸し付けた稲穂の量のほか一定の歩合で利息となる利稲(りとう)を合わせて納めさせます。末松の場合は、土地の所有が朝廷ですので、道君が代理人として税を徴収、納めていたものと思われます。
◇税として稲穂の申告は正確だったのか◇
天智朝が興した末松廃寺造営から約30年間は、墾田を天皇家の屯倉(みやけ)として、実質的は道君が管理をしていました。武生に居る国守の出番は余りありません。扇状地開発は順調に進み、墾田は急速に拡大してい

現在の手取扇状地を潤す七ヶ用水の取水口になっている安久濤ヶ淵の大門=白山市
きます。水位の低い乾燥地に治水技術を駆使した乾田の圃場は予想を超える収穫量をあげていきます。田部の数、耕作地面積、収穫高を、ごまかすとまでは言いませんが、少なめに申告をすればするほど、現地の道君に残る水稲の歩合は多くなっていきます。鄙であるが故の利得とも言えます。
手元に残った稲穂は、公の帳簿外として、私的に貸し出すことも出来るようになりなります。「闇の貸付」、「私腹を肥やす」ことになりますが、これを私出挙(しすいこ)と呼んで、二重帳簿を作ることになります。田部は本来、国の所有として戸籍で管理されますが、私出挙における田部は戸籍を離れ、在地権力者の私有状態となります。開発された墾田も私有への道が開かれます。
時代は新しくなりますが、奈良時代の天平宝字5年(761)に、加賀郡の少領(郡司の2番目の位)道君勝石が、当時の加賀郡の公出挙(くすいこ=正式の貸付)の量に匹敵する6万束の私出挙を行い、利稲3万束を得ていた事件が記録されています。末松廃寺を創建し、扇状地開発に乗り出してから100年後のことです。耕作不可能地という常識を打ち破るような勢い、収量を確保できた一つの証のようです。
ともかく、どちらの場合も墾田の正確な面積、田部の数を把握していなければ利稲を含む税収をあげ、拡大再生産につなげることはできません。稲穂を貸し付ける営農の姿が続く限り、国の制度としての条里制が整わなくても実態として、条里の考え方に基づく地割りが必要だったわけです。これが土木技術、治水技術、建築技術、文字による管理能力と一体となった渡来系の最先端技術であり、新文化の象徴として仏教寺院があったわけです。
◇加賀立国で税の管理が厳しくなる◇
しかし、国による管理態勢は次第に整えられていきます。越国が越前、越中、越後となるのは、天武朝が天智朝を倒した壬申(じんしん)の乱(672)の後のことで、持統6年(692)年頃までには三国に分割されてしまいます。国の律令制度として完結するのは、藤原京に都が置かれていた文武天皇の時代、大宝2年(702)に大宝律令が制定された時になります。開拓地の墾田は、班田として明確に国の所有と位置付けられます。
藤原京から平城京に都が移った元正天皇の723年に「三世一身の法」が、聖武天皇の743年には「墾田永年私財法」が施行され、国の班田を実態に合わせた後付けの論理で、一部の私有を追認します。新規開発の墾田の荘園化に追い風となります。在地勢力は、都に住む荘園領主のために荘園管理を行うことで地位の保全、地域勢力の扶植を図ることになります。
末松廃寺造営から160年程を経た頃、中央の支配体制に大きな変化が起こります。弘仁14年(823)に、越前国に含まれていた加賀、江沼両郡を新たに加賀国として立国されたのです。武生に居た国司が、越国を三分割した越前国でもまだ、領地が広すぎて徴税管理の目が届かないため、態勢を細分化したことが一因とも言われています。
◇立国2年後には中国から上国に格上げ◇

拝師郷長が住んだ下新庄アラチ遺跡。拝師郷の中心地だった。今は再開発を経て、野々市市の新しい中心地の一つとなっている
それまでの旧加賀郡は河北、石川の2郡に、旧江沼郡は能美、江沼の両郡となりました。制度として1国4郡制をとっていたからです。全国では66番目の国で、最後の立国となりました。
66カ国は生産力(税収)の多寡によって大国、上国、中国、小国の4階級に分けられていました。加賀国は最初、中国とされましたが立国からわずか2年で上国に格上げされています。急に墾田が拡大して税収が増えた、というよりも、稲穂の石高が以前よりも正確に把握されたというべきでしょう。国司の狙いは当たったと言えますが、それでも十分であったかどうかは、また別の話です。
◇律令制で拝師郷が生まれる◇
流れを整理すれば、660年頃、末松ダイカン遺跡、末松福正寺遺跡辺りに入植した渡来系の人達は、墾田開発が軌道に乗るのに合わせ、末松廃寺の東側430mに拠点を移し、末松A、清金アガトウ遺跡として集落を拡大していきます。この後、更に東側770mにあった上林新庄遺跡(冨樫用水系)付近に、推古朝の時代から先行して進出していた入植者を取り込んでいきます。
702年には大宝律令が施行され、行政組織は国郡里制に整備されます。養老元年(715)に「里」は「郷」と改められます。末松廃寺周辺にあった複数の集落を束ねて「拝師(はやし)郷」が成立します。
いったんは縮小した上林新庄遺跡は再編され、製鉄工房を伴う集落になります。さらに北側に接するように下新庄アラチ遺跡が出現し、建物の大型化、戸数増大が見られます。首長宅とみられる最大規模の建物を囲むように大型建物が並び、硯(すずり)、小刀などの出土物から行政機能を併せ持っていたことがわかりました。拝師郷の中心地とみて間違いありません。
また、下新庄アラチ遺跡の建物や出土物には末松ダイカン遺跡で見られた渡来系の特徴を引き継いでおり、入植してきた渡来系の一族が開発の指導者として継続的に地位を保ってきたのでしょう。首長つまり拝師郷長は渡来系の子孫ということになります(宮崎正倫)
次回は11月8日「寺院から神社へ」です。
末松廃寺・第9話「東門からの眺め」
2018年11月1日
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺・第9話「東門からの眺め」
現在、手取川扇状地の灌漑は扇頂に当たる鶴来(白山市)の安久濤ヶ淵(あくどがふち)に造られた取水口から引かれています。富樫、郷、中村、山島、大慶寺、中島、新砂川の7本の用水が3市1町の4,700㌶以上の圃場を潤しています。水は高きから低きに流れるのです。
白鳳時代に始まった石ころだらけの扇状地開発の第一歩は、扇央部の野々市市末松2丁目に取水口を定め、畔(ほとり)に末松廃寺を造営する都市計画の元で始まりました。当然、水は低きに流れるため、ここから下流域が当初の開発対象でした。
渡来の技術をもった近江(滋賀県)、丹波(京都府北部)からの入植者は、同廃寺から北東100mほどに当たる末松ダイカン遺跡や末松福正寺遺跡をはじめ、東へ約430m離れた末松A遺跡、清金アガトウ遺跡に居を定めたものとみられています。建物の特徴から分かりました。同廃寺が建立された7世紀末の竪穴建物数は20棟前後を数えることから入植者数は200人前後が想定されているのです。
◇物資の運搬用に運河を掘削◇
末松A遺跡と清金アガトウ遺跡は、現在の地籍は異なりますが同一の遺跡です。特徴的なのは、

末松廃寺の東門跡付近から見た末松の集落方向
集落が20~50mの間隔で7つの建物群に別れ、南北約1,240mにわたって一直線上に並んでいることです。末松A遺跡の北端からは人工的に掘削された大溝跡も発掘されました。長さが97m、深さ1m、上部の幅が4m前後という大きさです。船着き場とみられる護岸施設も発掘されました。物資や人員を運んだ運河なのですが、その先がどこへ続くかは分かっていません。竪穴建物群と主軸が同じことから7世紀末に掘られたものです。
末松A、清金アガトウ遺跡は現在、石川県立大学に沿うようにして国道157号(鶴来バイパス)の下にスッポリ収まっています。
末松ダイカン遺跡は直径で100mほどの広がりを持っていますが、鞴(ふいご)の羽口、鉄滓が少量出土していることから小規模な小鍛冶が行われていたことが分かります。石ころだらけの扇状地開発に鉄製農具は欠かせません。また末松福正寺遺跡からは乗馬に用いられる鐙(あぶみ)か腹帯の馬具が出土し、農民でも有力な戸主層が馬を所有していたことが分かります。広い扇状地の墾田を馬に乗って、指導に当たっていたのかもしれません。

末松廃寺を造営した渡来人たちが住んだ末松A遺跡は国道の下になっている=野々市市の県立大学前
これら、廃寺造営当時の遺跡群にある建物の変遷を調査していくと8世紀後半から9世紀(奈良時代~平安時代中頃)を通して、次第に集落を拡大しています。出土の遺跡、遺物からみても扇状地開発の指導者層の集落に間違いありません。
◇廃寺から指導者の集落まで東へ一直線◇
末松廃寺の平成の調査で、新たに東門の柱跡が見つかりました。少し、当時を想像してみましょう。東門の前に立ち前方を眺めると正面に、指導者層の集落が1,240mにわたって、墾田の中に広がっています。もし、条理制の考え方に基づき、綿密な都市計画の上で開発を推し進めたならば東門の前から一直線に、指導者層の集落に向かって道路が延びているはずです。今度は反対に、集落の方から廃寺の方向を見やると、道路の先に東門があり、後ろには祭事の幟(のぼり)が翻り、塔がそびえています。背後には手取川の流れが迫ります。こんな風景だったのでしょうか。
末松廃寺の造営、扇状地開発の立案、事業主が天智朝で、都から離れた屯倉(みやけ)を現地で管理する責任者が河北潟を本拠とする郡司の越道君。末松で開拓、営農を指導するのが近江、丹波からの移住者です。末松周辺では、3世紀頃から営農が始まり、同廃寺の造営までの400年の間に、労働力の田部(たべ)となる多くの人が居住していました。
◇推古朝から小規模に扇状地開発◇
3世紀頃というのは、第7話「なぜ手取扇状地」で紹介した上新庄チャンバチ遺跡(野々市市新庄1丁目)の前方後方墳が築かれた時です。古墳を造るまでの力を持った小豪族に率いられた集落が存在し、倉ヶ嶽に水源を持つ高橋川(木呂川)水系に沿った開発が先行していました。また、末松廃寺から東へ1.2㎞にある上林新庄地区には、7世紀前半代の集落遺跡があります。同地区南西部から近接する上林テラダ遺跡に古墳と小集落が確認されます。末松地区でも末松古墳のほか、「塚」の地名が残るように数基の古墳が存在した可能性があります。墾田が拡大していった証となるでしょう。
従って、周辺には相当数の人口が推定され、扇状地開発に動員されたのでしょう。もちろん、道君の勢力圏の他の地域からも労働力が徴発された可能性も残されています。
実は、手取扇状地の開発というのは小規模ながら、7世紀前半から手掛けられていたのです。聖徳太子が摂政を務めた推古天皇の時代の開発拠点と思われます。
昭和の発掘調査の報告書によれば、同廃寺塔跡の南東隅の下から建物跡が1棟発掘されていました。造営時期が660年頃と特定できたあの遺構です。この建物と同一の集落を形成するとみられる建物10棟が南東方向で確認されています。同廃寺造営以前の集落で、当時も既に、手取川近くまで営農の波が迫っていたことを表しています。まさに末松廃寺の開発前夜にあたります。
そこへ渡来系の最先端技術を持った指導者が乗り込んできて、全ての要素がそろいました。扇状地開発の大事業が爆発的に進展していったのです。
天皇親政という新しい国の形を早急につくらなければならないのですから悠長に構えているわけにはいきませんでした。寺院造営も必要最小限の伽藍に留めたのかもしれません。(宮崎正倫)
次回は11月5日「鄙に地の利あり」です。
末松廃寺ニュース:全国初、「天女」の線刻画が描かれた瓦塔片を発見
2018年10月31日
末松廃寺跡から「天女」が描かれた瓦塔片を発見
全国初
弥勒信仰の広がり示す
同廃寺の再建時期は8世紀中頃か?
伽藍の中心軸を平城京の中心軸と合わせる

末松廃寺から発見された瓦塔片に描かれた天女の線刻画
野々市市教育委員会文化課は10月30日、国史跡「末松廃寺跡」(同市末松2丁目)から、天女像が線刻された瓦塔(がとう)片を発見した、と発表した。この瓦塔は縦19㎝、横9.5㎝、厚さ1.5㎝の大きさで、向かって右側が裏の方向へL字状に屈曲しており、赤く彩色されていた。形状から箱状の角部分であると推測している。これまで、瓦塔に絵が描かれていた例はなく、今回が全国初の出土であり、瓦塔信仰の対象を知るうえで大きな意義がある、とみられている。
末松廃寺は昭和41年までの昭和の発掘調査により、手取扇状地の開発のための象徴として、斉明6年(660)頃に造営が始まった白鳳寺院であり、10年から15年後に完成したとされる北陸では最古級の寺院である。奈良時代の初めには一度、倒壊しており、その後に再建されている。
今回の発見は、同史跡を公園として整備するための寺域確認調査として、平成26年から進められていた最終年度にあたる。瓦塔があったのは平成の調査で新たに発見されていた中門とみられる遺構の南側、遺物溜まりである。
線刻画は瓦塔初層の正面、柱に当たる部分に描かれており、縦縞の裳(も)と呼ばれるロングスカート状の衣服を身に着け、爪先が上に上がった履(くつ)をはいた女性である。髪は結い上げておらず、手には払子(ほっす)とよばれる儀式用の道具を持っている。
また、瓦塔というのは木製の塔に変わり、土で塔の形を模した小塔(1.5~2m)の焼き物であり、今回の像は焼成前の柔らかな土製品に鋭利な工具で描かれていることから、戯画ではなく、瓦塔信仰に基づいた仏教画と考えられている。
使われた土は分析から、加賀地域のものと分かった。これは当時、末松廃寺から出土した土器の量では、小松産が半数を占める事と符合している。
瓦塔は奈良時代から平安時代にかけて盛行しており、仏教美術史や仏教思想史の研究などと合わせ女性像は、弥勒信仰における浄土に遊ぶ天女を描いた、と判断した。
末松廃寺の再建伽藍は、配置の中心軸を創建当時よりやや東側に振れて真北を向くように計画されている。これは奈良時代の平城京の地割りと同方向であり、中央の影響を強く受けたものと考えられていたが、今回の天女像の発見は、行政上の土木技術だけでなく思想、文化の面でも強い関連性が認められることになる。
末松廃寺の再建主体は明らかになっていないが、在地の大豪族であった越道君か、扇状地開発のために入植した近江(滋賀県)か丹波(京都府北部)の子孫が考えられる。昭和36年(1961)には廃寺跡から和同開珎(わどうかいちん)の銀銭も発見されており、再建に伴う地鎮の祭具ではないかとみられている。
天女像が描かれた瓦塔は、創建当時の塔基壇上に建てられた一間四方の建屋の中に納められていたとみられる。創建当時の塔の高さは解明されていないが、再建時には瓦塔が主流となっていた。
末松廃寺・第8話「対岸に瓦の豪族」
2018年10月29日
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺・第8話「対岸に瓦の豪族」
古代における手取扇状地の墾田開発は、乙巳(いっし)の変(645)で蘇我本宗家を倒し、政治の求心力を天皇家の元に取り戻した天智朝が、政権の基盤を確固たるものにするために全国各地で展開した勢力圏の拡大、墾田開発による富国策の一つ、と捉えることができます。同じ頃、北陸でも仏教寺院が現れてきます。
ところがまた一つ、首を傾げたくなる事実に遭遇します。手取扇状地の開発を考えれば、末松廃寺のある右岸(旧加賀郡)と同様に、左岸(旧江沼郡)でも寺院を建立して、墾田開発事業が始まったとしても不思議ではないからです。というのも、左岸には地方の有力豪族である財部造(たからべのみやつこ)氏がいたからです。
そして財部氏は天智朝の意向に従い、道君と協力するように末松廃寺の造営に携わっているのです。同廃寺に使用されていた瓦は財部氏の勢力圏にあった登り窯で生産されて、末松まで運ばれて来たのです。
◇財部氏は斉明天皇に仕えていた豪族◇
財部氏というのは一体、どんな氏族だったのでしょうか。大化の改新以前で、「造」の文字が入っていることから、財部は一族に与えられた「姓」であったと思われます。一族の名前は居住する土地の名前からとることが普通であったために本来なら「野身(能美)」となるはずです。野身氏に「財部造」の姓が与えられていたと考えれば、「たから」と名乗る皇族に直接仕える地方豪族に指定されたのではないでしょうか。名代・子代(なしろ・こしろ)の制度です。
「たから」に相応する皇族は、何人かの候補者の中でも、時代を考えれば宝皇女(たからのひめみこ)が有力とされています。敏達天皇の孫で、舒明天皇の后になった人物、後の斉明天皇その人です。
◇秋常山古墳が明かす大豪族の力◇
左岸には斉明天皇に仕える財部氏、右岸には越道君伊羅都女(こしのみちのきみのいらつめ)

北陸最大級の前方後円墳・秋常山1号墳。後円部から前方部の眺め=能美市
を通じて天智天皇と姻戚関係を結ぶ越道君がいることになります。天智朝の「母と息子」を財政的に支えた大墾田、屯倉(みやけ)となったのが手取扇状地であった、ということになります。
財部氏の勢力圏には県内最大、北陸でも最大級の前方後円墳(全長140m)である秋常山古墳をはじめ、弥生時代末期から古墳時代後期に至る400年間に連続して、5つの古墳群が造られた能美古墳群があります。鉄剣などのほか多種多様、一級の副葬品が出土しています。古墳群の末期にあたる西山古墳群からは馬具(馬鐸=ばたく)も出土しており、権力の大きさを示しています。この首長らの末裔が財部氏につながるとみられ、斉明天皇に仕えていたのです。
◇補修用の瓦窯が見つかる◇
話を末松廃寺に戻しましょう。同廃寺の金堂は瓦葺(かわらぶき)の建物です。それ以前は茅葺(かやぶき)や草庵などが住居の形でしたが、瓦葺は最先端の、また権力の所在を示す工法でした。実は、この瓦が突然、想像もできない財部氏の勢力圏である能美市湯屋の古窯跡から出土したのです。末松廃寺とは別の調査であったことから大きな驚きが関係者の中に広がりました。
瓦は平瓦、丸瓦、軒丸瓦で、様式が同一のものでした、特に軒丸瓦は独特の単弁六葉蓮華紋(たんべんろくようれんげもん)です。全国寺院の瓦を調べてみても似た物はありません。どこの瓦工の流れをくむのか不明で、紋の作りも素朴な感じがします。

末松廃寺の補修用瓦を焼いた登り窯跡。丸い瓦は単葉六弁蓮華紋の軒丸瓦=能美市湯屋
湯屋で発掘された窯の規模などから察すれば、瓦は末松廃寺の補修用に使われた、とみられています。本窯はいまだに見つかっていませんが、同市湯屋地区から辰口地区へと向かう能美窯跡群の丘陵地帯に存在すると想定されます。また、末松廃寺用の瓦は、同廃寺の後に造営された加賀市弓波の忌波(いんなみ)廃寺にも使用されていることが分かりました。
末松廃寺は瓦の使われ方が少ない寺院という見方が一般的です。金堂にしか使われていないからです。塔跡からの出土がなかったことから、屋根に瓦を乗せない塔であったことが分かっています。平成の発掘で発見された塔東側の大溝(土塀跡)からも瓦は出土していません。この瓦の少なさについては、能美窯跡群の調査が進んで本窯の規模が分かってくれば、その理由の手掛かりになるのかも知れません。
◇財部氏が姉妹寺院を持っていた可能性◇
ここで、大きな疑問が頭をもたげてきます。能美古墳群の成り立ちからも分かるように、同一地域で400年間も勢力を張って力を蓄え、早くから天智朝(斉明天皇)と深い関係を持っていた財部氏であれば、手取扇状地の墾田開発の一番手は旧能美郡側ではなかったか、ということです。開発を企図した朝廷側からすれば両岸の開発が理想ではないでしょうか。時間的に近接、あるいは同時並行的に末松廃寺とは別の古代寺院が造営されていた可能性が残ります。
しかし今のところ、遺跡らしいものは見つかっておりません。あるとすれば、末松廃寺と同様に、手取川の流れぎりぎりの地点に造営されたことが予想されます。当時の手取川の流れは、現在より北側へ大きく離れていた、というのが通説です。扇状地の三分の一は旧能美郡に含まれていた、と考えられています。手取川は氾濫を繰り返し、現在のように南へと移って行く過程で遺跡は呑み込まれていったのかもしれません。
姉妹寺的な存在ですが寺院の豪壮さより、簡略的であっても一応の形式を整えて、墾田開発を急ぎたい。中央政権の財政力を強化したい。蘇我本宗家を討ち、天皇親政を目指すなか、朝鮮半島では日本と近い関係にあった百済(くだら)が存亡の危機に瀕していました。救援より、国内基盤を固める必要性が優先したのかもしれません。
結果として、斉明6年(660)に百済は滅びます。翌年に、斉明天皇は救援軍を率いて半島へ向かいますが、途上で筑紫(福岡)の朝倉宮で崩御します。代は天智天皇に引き継がれます。(宮崎正倫)
次回は11月1日「東門からの眺め」です。
末松廃寺・第7話「なぜ手取扇状地」
2018年10月25日
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺・第7話「なぜ手取扇状地」
末松廃寺跡(野々市市末松2丁目)における昭和の発掘調査結果は、平成21年に発行された国の報告書に詳しい。それによると、手取扇状地の開発を命じたのは天智朝(斉明、天智天皇)であるという。確かに地方の大豪族といえども近江(滋賀県)、丹波(京都府北部)から、渡来系の最先端技術を身に付けた入植者を勝手に呼びつけることは出来ない仕業であったろう。また、古代の旧加賀郡に勢力を張っていた越道君(こしのみちのきみ)が、手取川対岸となる同じく旧江沼郡の有力豪族であり、末松廃寺使用の瓦の提供者である財部造(たからべのみやつこ)氏と自発的に手を結んで寺院造営に当たることは、中央政権の存在を無視することでもあり、懲罰が加えられる恐れがあって無理筋でしょう。
手取川の右岸における墾田開発に、左岸の豪族を手伝わせるのは両者の上に立つ天皇家をおいて他には見当たらない、という結論が導き出されたのです。この道君、財部氏が何者かについては後で触れることにして、まず天智朝がなぜ、地方における大規模な開発を目指したのかを考えてみたいと思います。
◇天皇親政の財政基盤固めが急務◇
もう一度、中大兄皇子(天智天皇)らが飛鳥板葺宮で、蘇我入鹿(そがのいるか)の首をはねて蘇我本宗家を滅ぼし、天皇親政を図った乙巳の変(645)前後に戻ってみましょう。
それまでの大和政権は、天皇家を中心として大和、畿内の大豪族が加わって政治を執っていました。そこへ新たに、朝鮮半島とも深い関係を持つとされる蘇我氏が登場してきました。崇仏派の蘇我氏は当然のように、渡来系の最先端技術を独占するようにして勢力を広げ、巨大な財力を蓄えます。天皇家に自らの娘を嫁がせ、外戚としての力を奮って政治を左右する大豪族となっていきました。
半島では大陸の隋、唐の大国とせめぎ合いながら高句麗、新羅、百済が存亡をかけて権謀術策を繰り広げ、日本の勢力下にあった百済が660(斉明6)年に滅んでしまいます。丁度、末松廃寺が造営に取り掛かった頃です。
百済が苦境に陥っていた時、天智朝は何をしていたのでしょうか。ただ手をこまぬいていただけなのでしょうか。救援軍を派遣するのは百済滅亡の翌年になります。
それは、まだ十分に天皇親政の地固めが出来ていなかったのかもしれません。斉明4年(658)には先代天皇で、斉明天皇の実弟である孝徳天皇の皇子・有間皇子を謀反の罪で処刑にしています。天皇後継者の有力候補者であった有間皇子を排除したことで中大兄皇子の立場が確固としたものになって行きます。
もう一つは、財力の強大化の問題です。天皇親政といっても、まだ律令制が敷かれているわけで

安倍(阿部)氏の氏寺である安倍文珠院山門。越道君との縁があったとみられている=奈良県桜井市
はありません。独自に天皇家の財力を確立しなければ、安定して諸豪族の上に立つことはかないません。大和や畿内の土地は既に開発が終わり、豪族らの所有が確定していた、と思われます。全国の地方における勢力圏の拡大を図り、懸命に天皇家の財力を富ませて政権基盤を安定させる時間が必要でした。勢い、向かう先は地方の未開発の土地ということになります。
◇阿倍比羅夫が天皇家と越道君をつなぐ◇
北陸の関係でみれば、大和の古い豪族で、越国守(こしのこくしゅ)といわれた阿倍比羅夫(あべのひらふ)が斉明4年(658)から3年間をかけて、日本海側の各地、蝦夷(えみし=北海道)まで遠征軍を進めていました。
河北潟周辺を本拠地としていた道君は、既に欽明31年(570)に大和政権に服属していました。当時の交通網は海路でしたので、阿倍比羅夫は遠征の中継基地として河北潟を利用し、道君に協力させたことは疑いのないところでしょう。同潟から水路を遡れば、末松の地に至ること、広大な未開の扇状地が広がっていて、渡来系の技術をもってすれば開発が可能であり、大規模な墾田を手に出来る、という情報が天智朝の元に届けられたのでしょう。
道君には越道君伊羅都売(こしのみちのきみの・いらつめ)と呼ばれる娘がいました。正確な

安倍文珠院の境内に建てられた安部仲麻呂の安部氏の代表的人物の安部仲麻呂「望郷の歌」碑。唐に渡り、故郷に帰れなかった
日時は記録にはありませんが、天智天皇の采女(うねめ=女官)として後宮に入っています。天智天皇との間に、万葉歌人となる志貴皇子をもうけていることから一応、外戚としての有資格者ということになります。この件にも阿倍比羅夫が絡んでいるとするなら、阿倍比羅夫の遠征の間(658~660)、あるいは直後に伊羅都売が飛鳥の都へ赴いたことになります。まさに、末松廃寺造営の前夜という時期です。
◇扇状地周辺では3世紀から開発が進む◇
平成の発掘調査の最中に、末松廃寺跡から南東へ約2.5㎞離れた上新庄チャンバチ遺跡(野々市市新庄1丁目)で古墳が発見されました。3世紀頃の前方後方墳で、出土品から東海地方の特色を持つことが分かりました。ちなみに3世紀頃というのは、奈良県桜井市にある纏向(まきむく)遺跡の傍にある箸墓(はしはか)古墳の造営と同時期です。
この前方後方墳の被葬者は東海地方に出自をもつ有力者ということになりますが、どのような道順をたどって当地までやって来たのでしょうか。白山や飛騨越えは、時代がもっと下らなければ無理と思えます。考えられるのは、東海方面から琵琶湖に出て、若狭(福井県)から海路で到達した、というのが自然なのではないでしょうか。
当時の交通は海路が一番です。ただ、湖や川などの内水面と違い、外洋は高い航海術と船の構造が重要になります。誰でも海路を移動できるものではありません。一つの仮説になりますが、道君ならどうでしょうか。当時の河北潟は海とつながっていた汽水湖でした。河北潟を本拠とする道君は古くから、海上交通による交易を行い、富を蓄えた海洋性の大豪族だったとも言えます。東海地方出身の有力者を運び、自らの勢力圏の中で入植させたのかもしれません。
◇大開発のための労働力は備わっていた◇
扇状地の開発、仏教寺院の造営と一口で言っても、入植者200人程では大事業を遂行できません。上新庄チャンバチ遺跡の有力者は、手取川とは異なる倉ヶ嶽の水系である富樫用水に拠って、末松廃寺造営時までには墾田を増やし、相当数の人口、集落を抱えていたと思われます。道君の勢力下にあったために命令され、近江、丹波の入植者の配下に組み入れられた可能性も十分あります。
欽明31年、朝鮮半島・高句麗の使者が国書を携えて能登半島に漂着し、道君は日本の大王と偽って接遇したという事件がありました。まだ、大和政権の埒外にあったことから、大王と名乗ったことにも一理があるような気がしますが、この事件を機に政権側から軍事的に攻められて服属していくことになります。
末松廃寺と無関係な話をした、と思われるかもしれませんが、このように古代の大豪族である道君であっても、自ら仏教文化を受け入れて古代寺院を建てることは容易な業ではありませんでした。新しい日本の形を創っていくという壮大で強固な意志を持った天智朝の関与があって初めて、扇状地開発が可能となったのです。そして、天智朝ならでは、と思わせるもう一人の豪族が関わっていたのです。(宮崎正倫)
次回は10月29日「対岸に瓦の豪族」です。
末松廃寺・第6話「塔は建ったのか」
2018年10月22日
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺・第6話「塔は建ったのか」
北陸最古級の仏教寺院である末松廃寺(野々市市末松2丁目)は、平成の発掘調査(平成27年~同30年)で、7世紀第4四半期の創建当時の様子が少し詳しく分かるようになってきました。
寺域は、西側縁が手取川の分流にギリギリまで迫って建てられ、西に金堂、東に塔が配置されています。講堂や他の伽藍は見つかっていません。中心伽藍を囲む回廊、または築地塀も見つかっていません。塔の東側、遺跡の指定範囲ぎりぎりの所で、土塀の跡とみられる大溝が確認され、溝の中から東門の柱跡が出土しました。この土塀が外郭との境界線なのか中心伽藍を囲む結界としての塀なのかは、今のところ判断できません。塔と東門の間には幢竿(どうかん)支柱がありました。
建物の中心軸は南北方向で、磁北からやや西方向へ振れています。東西方向では金堂、塔、幢竿支柱、東門の中心軸が一直線上に並んでいることから、都市計画の意図をもって造営されたことが分かってきました。創建当時の講堂など他の伽藍は出ていません。東西92m、南北53mの広さです。南北、東西とも寺域が拡大される余地は残されています。
◇塔横に祭事に用いる幢竿支柱があった◇
それでは、末松廃寺は完成したのでしょうか。塔は本当に建ったのでしょうか。これまでも、何

大きさが釣り合わない塔基壇跡と塔心礎。心礎の向こう側の基壇下に幢竿支柱がある=末松廃寺跡
度も疑問が頭をもたげてきたことはありました。
しかし、仏教寺院の建立を機に、手取扇状地の開発が爆発的に進捗したことを考えれば未完のままに、この大事業が成し遂げられたとは考え難いのではないでしょうか。そして、幢竿支柱の存在です。寺院の祭事、行事の際に掲げられる幟(のぼり)を立てる施設ですので、寺院は完成して、祭事が執り行われたと解釈するのが妥当と思われます。未完の塔の横に幟をあげている図は想像できません。
問題は塔の存在です。江戸時代から、塔の心柱(しんばしら)を支える心礎(しんそ)は唐戸石(からといし)と呼ばれて、存在が知られていました。柱を受け入れる穴は直径58㎝あります。塔の高さは直径を40倍するという研究結果があります。この公式を適用すれば塔の高さは約23mとなって三重塔になります。
◇釣り合わない塔心礎と基壇の大きさ◇
しかし一方で基壇の大きさは、昭和の調査によれば、塔の基壇表面や周縁部の破壊が激しくて確認できませんでしたが、心礎や柱の根石群から復元され、塔は一辺が10.8mで方3間、柱間は3.6mあることが分かりました。同時期の地方古代寺院としては特筆すべき大きさであって、中央政権があった飛鳥地方(奈良県)と比較しても、蘇我馬子が建立した飛鳥寺の塔基壇の大きさに匹敵するものであり、五重塔とも七重の塔とも推測されるには十分でした。
末松廃寺を誇りとする地元の人々からみれば、天を衝く七重塔が脳裏に浮かぶことでしょう。野々市市文化会館フォルテの展示室には、丹塗りの七重塔の模型が飾られています。
発掘結果は相反する資料を後世の私達の前に並べています。どちらも動かしがたい事実です。もう一点、重要な観点があります。瓦の問題です。第4話「どの寺が手本?」の中で、塔跡周辺から川原寺式の軒丸瓦の欠片が1点発見された、と言いましたが、それ以外には塔跡周辺からは瓦が出土していないのです。
◇裾広がりの三重塔ならばどうか◇
古代の塔の建築方法は、土台から組み上げていく現在の建物とは異なります。塔の建築に当たってはまず、心柱を立て、相輪部分を取り付けた後、上層部から順次、心柱にぶら下げるような構造で、各部材を組み立てていきます。七重塔であれば七階部分から始めると言われています。高い塔は不安定であり、倒壊防止のために屋根に瓦を葺き、重量で抑えつけて安定させます。三重塔の高さであれば、屋根は瓦を使用しない檜葉(ひば)などの杮葺(こけらぶき)でも可能です。
もしそうであれば、塔跡の周辺から瓦が発掘されなかったことを、どう解釈すればいいのでしょうか。末松廃寺というのは、瓦の少ない古代寺院遺跡とされています。瓦が使用されていたのは金堂だけです。他の遺構からは瓦が出土していないのです。
先に、寺院は完成していた、という見方を示しました。塔も完成したということを前提に、これらの事実を当てはめれば、塔は三重塔であったが、一層は七重塔並みの規模で豪壮さを演出し、二層、三層目は柱の数を減らした二間の構造であれば整合性がとれます。一層目の屋根は勾配を緩やかにして、優美さを出していたのかもしれません。法隆寺の五重塔のように裾広がりで、どっしりした感じが出ます。
◇発掘調査では空中の事まで分からない◇
ここで、一つ思い出したことがあります。第2話「鉄製農具の一撃」で紹介しました石川県金沢城調査研究所の木越隆三所長(野々市市在住)の警句です。
「発掘調査では地上の平面のことは分かるが、空中のことは分からない」です。
あくまでも、今述べた三重塔の姿、形は想像の産物です。ただ七重塔でなくとも、渡来の技術によって建てられた寺院の威容は、在地で生活していた人々にとっては驚き以外の何物でもなかったでしょう。渡来の技術によって繰り広げられる扇状地開発の新しい形、次第に米の収量が増えていく事実を目の当たりにすれば、入植者の指導に従わざるを得なくなります。
末松の地は標高が37mあります。そこに三重塔であったとしても23mの塔が建つのです。標高で60mを超える塔は、手取扇状地の至る所から仰ぎ見られるようになります。塔の内部構造は人が登るようには出来ていませんが、眼下には新世界が広がっていることを十分知らしめる役割を果たすことができたのです。(宮崎正倫)
次回は10月25日「なぜ手取扇状地」です。