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末松廃寺・第7話「なぜ手取扇状地」

2018年10月25日

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第7話「なぜ手取扇状地」

 

 末松廃寺跡(野々市市末松2丁目)における昭和の発掘調査結果は、平成21年に発行された国の報告書に詳しい。それによると、手取扇状地の開発を命じたのは天智朝(斉明、天智天皇)であるという。確かに地方の大豪族といえども近江(滋賀県)、丹波(京都府北部)から、渡来系の最先端技術を身に付けた入植者を勝手に呼びつけることは出来ない仕業であったろう。また、古代の旧加賀郡に勢力を張っていた越道君(こしのみちのきみ)が、手取川対岸となる同じく旧江沼郡の有力豪族であり、末松廃寺使用の瓦の提供者である財部造(たからべのみやつこ)氏と自発的に手を結んで寺院造営に当たることは、中央政権の存在を無視することでもあり、懲罰が加えられる恐れがあって無理筋でしょう。

 手取川の右岸における墾田開発に、左岸の豪族を手伝わせるのは両者の上に立つ天皇家をおいて他には見当たらない、という結論が導き出されたのです。この道君、財部氏が何者かについては後で触れることにして、まず天智朝がなぜ、地方における大規模な開発を目指したのかを考えてみたいと思います。

 

◇天皇親政の財政基盤固めが急務◇

 

 もう一度、中大兄皇子(天智天皇)らが飛鳥板葺宮で、蘇我入鹿(そがのいるか)の首をはねて蘇我本宗家を滅ぼし、天皇親政を図った乙巳の変(645)前後に戻ってみましょう。

 それまでの大和政権は、天皇家を中心として大和、畿内の大豪族が加わって政治を執っていました。そこへ新たに、朝鮮半島とも深い関係を持つとされる蘇我氏が登場してきました。崇仏派の蘇我氏は当然のように、渡来系の最先端技術を独占するようにして勢力を広げ、巨大な財力を蓄えます。天皇家に自らの娘を嫁がせ、外戚としての力を奮って政治を左右する大豪族となっていきました。

 半島では大陸の隋、唐の大国とせめぎ合いながら高句麗、新羅、百済が存亡をかけて権謀術策を繰り広げ、日本の勢力下にあった百済が660(斉明6)年に滅んでしまいます。丁度、末松廃寺が造営に取り掛かった頃です。

 百済が苦境に陥っていた時、天智朝は何をしていたのでしょうか。ただ手をこまぬいていただけなのでしょうか。救援軍を派遣するのは百済滅亡の翌年になります。

それは、まだ十分に天皇親政の地固めが出来ていなかったのかもしれません。斉明4年(658)には先代天皇で、斉明天皇の実弟である孝徳天皇の皇子・有間皇子を謀反の罪で処刑にしています。天皇後継者の有力候補者であった有間皇子を排除したことで中大兄皇子の立場が確固としたものになって行きます。

もう一つは、財力の強大化の問題です。天皇親政といっても、まだ律令制が敷かれているわけで

安倍(阿部)氏の氏寺である安倍文珠院山門。越道君との縁があったとみられている=奈良県桜井市

はありません。独自に天皇家の財力を確立しなければ、安定して諸豪族の上に立つことはかないません。大和や畿内の土地は既に開発が終わり、豪族らの所有が確定していた、と思われます。全国の地方における勢力圏の拡大を図り、懸命に天皇家の財力を富ませて政権基盤を安定させる時間が必要でした。勢い、向かう先は地方の未開発の土地ということになります。

 

◇阿倍比羅夫が天皇家と越道君をつなぐ◇

 

 北陸の関係でみれば、大和の古い豪族で、越国守(こしのこくしゅ)といわれた阿倍比羅夫(あべのひらふ)が斉明4年(658)から3年間をかけて、日本海側の各地、蝦夷(えみし=北海道)まで遠征軍を進めていました。

 河北潟周辺を本拠地としていた道君は、既に欽明31年(570)に大和政権に服属していました。当時の交通網は海路でしたので、阿倍比羅夫は遠征の中継基地として河北潟を利用し、道君に協力させたことは疑いのないところでしょう。同潟から水路を遡れば、末松の地に至ること、広大な未開の扇状地が広がっていて、渡来系の技術をもってすれば開発が可能であり、大規模な墾田を手に出来る、という情報が天智朝の元に届けられたのでしょう。

 道君には越道君伊羅都売(こしのみちのきみの・いらつめ)と呼ばれる娘がいました。正確な

安倍文珠院の境内に建てられた安部仲麻呂の安部氏の代表的人物の安部仲麻呂「望郷の歌」碑。唐に渡り、故郷に帰れなかった

日時は記録にはありませんが、天智天皇の采女(うねめ=女官)として後宮に入っています。天智天皇との間に、万葉歌人となる志貴皇子をもうけていることから一応、外戚としての有資格者ということになります。この件にも阿倍比羅夫が絡んでいるとするなら、阿倍比羅夫の遠征の間(658660)、あるいは直後に伊羅都売が飛鳥の都へ赴いたことになります。まさに、末松廃寺造営の前夜という時期です。

 

◇扇状地周辺では3世紀から開発が進む◇

 

 平成の発掘調査の最中に、末松廃寺跡から南東へ約2.5㎞離れた上新庄チャンバチ遺跡(野々市市新庄1丁目)で古墳が発見されました。3世紀頃の前方後方墳で、出土品から東海地方の特色を持つことが分かりました。ちなみに3世紀頃というのは、奈良県桜井市にある纏向(まきむく)遺跡の傍にある箸墓(はしはか)古墳の造営と同時期です。

 この前方後方墳の被葬者は東海地方に出自をもつ有力者ということになりますが、どのような道順をたどって当地までやって来たのでしょうか。白山や飛騨越えは、時代がもっと下らなければ無理と思えます。考えられるのは、東海方面から琵琶湖に出て、若狭(福井県)から海路で到達した、というのが自然なのではないでしょうか。

 当時の交通は海路が一番です。ただ、湖や川などの内水面と違い、外洋は高い航海術と船の構造が重要になります。誰でも海路を移動できるものではありません。一つの仮説になりますが、道君ならどうでしょうか。当時の河北潟は海とつながっていた汽水湖でした。河北潟を本拠とする道君は古くから、海上交通による交易を行い、富を蓄えた海洋性の大豪族だったとも言えます。東海地方出身の有力者を運び、自らの勢力圏の中で入植させたのかもしれません。

 

◇大開発のための労働力は備わっていた◇

 

 扇状地の開発、仏教寺院の造営と一口で言っても、入植者200人程では大事業を遂行できません。上新庄チャンバチ遺跡の有力者は、手取川とは異なる倉ヶ嶽の水系である富樫用水に拠って、末松廃寺造営時までには墾田を増やし、相当数の人口、集落を抱えていたと思われます。道君の勢力下にあったために命令され、近江、丹波の入植者の配下に組み入れられた可能性も十分あります。

 欽明31年、朝鮮半島・高句麗の使者が国書を携えて能登半島に漂着し、道君は日本の大王と偽って接遇したという事件がありました。まだ、大和政権の埒外にあったことから、大王と名乗ったことにも一理があるような気がしますが、この事件を機に政権側から軍事的に攻められて服属していくことになります。

 末松廃寺と無関係な話をした、と思われるかもしれませんが、このように古代の大豪族である道君であっても、自ら仏教文化を受け入れて古代寺院を建てることは容易な業ではありませんでした。新しい日本の形を創っていくという壮大で強固な意志を持った天智朝の関与があって初めて、扇状地開発が可能となったのです。そして、天智朝ならでは、と思わせるもう一人の豪族が関わっていたのです。(宮崎正倫)

 次回は1029日「対岸に瓦の豪族」です。

PMCで見つけた〈8〉ロス・マルチェロスの「アンジェリータ」

2018年10月23日

ノルマンディー上陸作戦の裏口でも物語

 声優の田中信夫さんが10月17日に、83歳で亡くなった。永らく忘れていた名前だったが、すぐに思い出されたのがアメリカの俳優ヴィック・モローが演じたサンダース軍曹の顔だった。テレビ・ドラマ「コンバット!」の主役であり、日本でも昭和37年(1962)から放送され、人気を集めていた。中学生のテレビっ子だった私も同級生もファンだった。田中さんはサンダース軍曹の吹き替えを担当しており、声優という仕事があることを知った最初の人物だった。

 「コンバット!」は第二次世界大戦のヨーロッパ戦線で、連合国軍がノルマンディーに上陸作戦を決行するところから始まり、フランスを舞台に闘う姿を描いている。ノルマンディー海岸とは、ドーバー海峡を挟んだイギリスの対岸ということは、「PMCで見つけた」〈2〉ヴェラ・リンの「ドーバーの白い崖」の舞台の対岸でもある。ノルマンディー上陸作戦はアメリカ映画「史上最大の作戦」の題材となり、「コンバット!」の日本放映開始と同年の12月、国内でも封切られている。

 ノルマンディー上陸作戦の5カ月前、ヨーロッパ戦線の地中海側では、イタリアのローマを攻略するため、同市南方のアンツィオ海岸でも連合国の上陸作戦が展開された。その際、海岸にいた少女アンジェリータの死の実話を基に作られた曲がロス・マルチェロスの「アンジェリータ」です。イタリア語は分かりませんが何とも物悲しい旋律と「アンジェリータ」という歌詞の繰り返しが印象に残る曲です。

 「コンバット!」にはユピテル・レコーディング・オーケストラの演奏が、「史上最大の作戦」にはポール・アンカの同名の曲があります。「アンジェリータ」は、これまでも探していたのですが、今年の7月19日にPMCでようやく見つけました。LPのオムニバス盤とシングル盤が1枚ずつありましたが、昭和40年(1965)4月新譜ハイライト盤と記されていました。当時、レコードを買い求め、ジャケットも覚えていました。一時は諦めていたのですが、これもPMCのお陰です。田中さんの訃報を聞く3カ月前の事でしたが、これも何かの縁だったと思えてなりません。(宮崎正倫)

 ◇KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、24万5千枚を所蔵している。

末松廃寺・第6話「塔は建ったのか」

2018年10月22日

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第6話「塔は建ったのか」

 

 北陸最古級の仏教寺院である末松廃寺(野々市市末松2丁目)は、平成の発掘調査(平成27年~同30年)で、7世紀第4四半期の創建当時の様子が少し詳しく分かるようになってきました。

寺域は、西側縁が手取川の分流にギリギリまで迫って建てられ、西に金堂、東に塔が配置されています。講堂や他の伽藍は見つかっていません。中心伽藍を囲む回廊、または築地塀も見つかっていません。塔の東側、遺跡の指定範囲ぎりぎりの所で、土塀の跡とみられる大溝が確認され、溝の中から東門の柱跡が出土しました。この土塀が外郭との境界線なのか中心伽藍を囲む結界としての塀なのかは、今のところ判断できません。塔と東門の間には幢竿(どうかん)支柱がありました。

建物の中心軸は南北方向で、磁北からやや西方向へ振れています。東西方向では金堂、塔、幢竿支柱、東門の中心軸が一直線上に並んでいることから、都市計画の意図をもって造営されたことが分かってきました。創建当時の講堂など他の伽藍は出ていません。東西92m、南北53mの広さです。南北、東西とも寺域が拡大される余地は残されています。

 

◇塔横に祭事に用いる幢竿支柱があった◇

 

それでは、末松廃寺は完成したのでしょうか。塔は本当に建ったのでしょうか。これまでも、何

大きさが釣り合わない塔基壇跡と塔心礎。心礎の向こう側の基壇下に幢竿支柱がある=末松廃寺跡

度も疑問が頭をもたげてきたことはありました。

しかし、仏教寺院の建立を機に、手取扇状地の開発が爆発的に進捗したことを考えれば未完のままに、この大事業が成し遂げられたとは考え難いのではないでしょうか。そして、幢竿支柱の存在です。寺院の祭事、行事の際に掲げられる幟(のぼり)を立てる施設ですので、寺院は完成して、祭事が執り行われたと解釈するのが妥当と思われます。未完の塔の横に幟をあげている図は想像できません。

問題は塔の存在です。江戸時代から、塔の心柱(しんばしら)を支える心礎(しんそ)は唐戸石(からといし)と呼ばれて、存在が知られていました。柱を受け入れる穴は直径58㎝あります。塔の高さは直径を40倍するという研究結果があります。この公式を適用すれば塔の高さは約23mとなって三重塔になります。

 

◇釣り合わない塔心礎と基壇の大きさ◇

 

しかし一方で基壇の大きさは、昭和の調査によれば、塔の基壇表面や周縁部の破壊が激しくて確認できませんでしたが、心礎や柱の根石群から復元され、塔は一辺が10.8mで方3間、柱間は3.6mあることが分かりました。同時期の地方古代寺院としては特筆すべき大きさであって、中央政権があった飛鳥地方(奈良県)と比較しても、蘇我馬子が建立した飛鳥寺の塔基壇の大きさに匹敵するものであり、五重塔とも七重の塔とも推測されるには十分でした。

末松廃寺を誇りとする地元の人々からみれば、天を衝く七重塔が脳裏に浮かぶことでしょう。野々市市文化会館フォルテの展示室には、丹塗りの七重塔の模型が飾られています。

発掘結果は相反する資料を後世の私達の前に並べています。どちらも動かしがたい事実です。もう一点、重要な観点があります。瓦の問題です。第4話「どの寺が手本?」の中で、塔跡周辺から川原寺式の軒丸瓦の欠片が1点発見された、と言いましたが、それ以外には塔跡周辺からは瓦が出土していないのです。

 

◇裾広がりの三重塔ならばどうか◇

 

古代の塔の建築方法は、土台から組み上げていく現在の建物とは異なります。塔の建築に当たってはまず、心柱を立て、相輪部分を取り付けた後、上層部から順次、心柱にぶら下げるような構造で、各部材を組み立てていきます。七重塔であれば七階部分から始めると言われています。高い塔は不安定であり、倒壊防止のために屋根に瓦を葺き、重量で抑えつけて安定させます。三重塔の高さであれば、屋根は瓦を使用しない檜葉(ひば)などの杮葺(こけらぶき)でも可能です。

もしそうであれば、塔跡の周辺から瓦が発掘されなかったことを、どう解釈すればいいのでしょうか。末松廃寺というのは、瓦の少ない古代寺院遺跡とされています。瓦が使用されていたのは金堂だけです。他の遺構からは瓦が出土していないのです。

先に、寺院は完成していた、という見方を示しました。塔も完成したということを前提に、これらの事実を当てはめれば、塔は三重塔であったが、一層は七重塔並みの規模で豪壮さを演出し、二層、三層目は柱の数を減らした二間の構造であれば整合性がとれます。一層目の屋根は勾配を緩やかにして、優美さを出していたのかもしれません。法隆寺の五重塔のように裾広がりで、どっしりした感じが出ます。

 

◇発掘調査では空中の事まで分からない◇

 

ここで、一つ思い出したことがあります。第2話「鉄製農具の一撃」で紹介しました石川県金沢城調査研究所の木越隆三所長(野々市市在住)の警句です。

「発掘調査では地上の平面のことは分かるが、空中のことは分からない」です。

あくまでも、今述べた三重塔の姿、形は想像の産物です。ただ七重塔でなくとも、渡来の技術によって建てられた寺院の威容は、在地で生活していた人々にとっては驚き以外の何物でもなかったでしょう。渡来の技術によって繰り広げられる扇状地開発の新しい形、次第に米の収量が増えていく事実を目の当たりにすれば、入植者の指導に従わざるを得なくなります。

末松の地は標高が37mあります。そこに三重塔であったとしても23mの塔が建つのです。標高で60mを超える塔は、手取扇状地の至る所から仰ぎ見られるようになります。塔の内部構造は人が登るようには出来ていませんが、眼下には新世界が広がっていることを十分知らしめる役割を果たすことができたのです。(宮崎正倫)

 次回は1025日「なぜ手取扇状地」です。

高専祭と工大祭を行ったり来たり♪

2018年10月20日

工大祭の隣りでは、高専祭も!

ミスコン中でしたっ!ん?!ミスコンだよねぇ・・・あ、ミスったコンテストだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

工大祭に戻ると、野々市市の消防が消防車の展示してました~

 

奥の建物の前では、ふわふわもやってます~

 

 

 

 

 

N1に戻ると、スタジオ1では、WAVEの生放送で中継中~

ドリバーも横でお手伝い中。

 

 

明日も生放送するからね~

高専祭も工大祭も大賑わい中ですっ☆

 

(なかにしみき)

 

 

 

 

 

 

 

工大祭~!!

始まりましたよ!工大祭!!

お昼になって賑わってきました~

 

 

 

 

 

 

 

ドリバーものっティと仲良く風船配り(^^)

ちびっこたちおいで~

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、WAVEがもうすぐ生放送!

準備万端☆

 

インタビューもしっかりねっ

ン?アナウンサー志望?!

じゃあ将来は金沢工大のWAVEプロジェクトメンバーだね!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そ し て‼チゲ鍋!!!

ここです~

食べてね!おいしいよ~

2杯もたべちゃった♪

明日もあるからね~

(なかにしみき)

本日前夜祭~♪

2018年10月19日

今夜は前夜祭!

WAVEプロジェクトのブースは着々と準備中~

明日とあさっては生放送!!

20日土曜日は13:00~16:00、

21日日曜日は14:00~16:00

みんな、頑張って~☆

 

 

 

 

キャンパス内は休憩所も用意してありますよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

WAVEプロジェクトの模擬店はこれ!

みんな、来てね~

雨、降りませんように・・・

(なかにしみき)

 

PMCで見つけた〈7〉トルネイドスの「テルスター」

情報は瞬時に地球規模で広がり世界を変えた

 4K、8Kという言葉が次第に、茶の間の話題にも上るようになってきた。東京オリンピック、パラリンピック2020を目指した新テレビのサービスで、12月から始まる。現在のハイビジョンより高精細で、より臨場感のある映像が楽しめる次世代型の衛星放送らしい。ただ、電波は空から降ってくるのだが、肝心のアンテナ、受像機の普及はこれから、ということなので、高価格でもあり、慌てずに待つしかないのかもしれない。

 テレビが地上のアンテナを離れて、通信放送衛星が登場したのが昭和37年(1962)のことで、パリからアメリカへのテレビ中継に成功した。なにしろ、パリで今起きていることがアメリカの家庭にまで、時間をおかずに直接届くわけだから脅威的な変化であった。4K、8Kといっても、この延長線上にあるわけだから一つの進化でしかなく、関係者以外は比較的冷静のように思われます。

 世界初の通信放送衛星の名前を「テルスター」と呼びました。成功を記念してイギリスのバンド・ザ・トルネイドス(ザ・トーネードーズ)が発表したのがインストゥルメンタルの「テルスター」という曲で、全米でもNo.1を獲得する大ヒットになりました。PMCには残念ながらトルネイドスのレコードは1枚もなく、見つけることは出来ませんでしたが、ザ・ベンチャーズやザ・シャドウズなどのインストゥルメンタル・バンドを始め、ビッグ・バンドのデューク・エリントンなど43枚が登録されています。

 日本における衛星放送の実験は翌年の昭和38年(1963)に行われましたが、その時に飛び込んできたのがケネディ米大統領の暗殺事件のニュースでした。まさに衛星放送の面目躍如というべきか、世紀の大ニュースが宇宙を飛んで来たのです。4K、8Kといいますが、技術は伸びたもののニュースの内容はどれだけの進化を見せたのでしょうか。それとも、エンターテメントの世界に席巻されていくのでしょうか。(宮崎正倫)

 (注)タイトルで「ザ・トルネイドス」としたのはFM-N1のファイルに付けられていた名前でした。色々な読み方があるようですが一般的には「ザ・トーネードーズ」または「トーネイドーズ」が使われているようです。PMCには「ザ・トーネイドース」で「テルスター」は1枚あり、「TORNADOS」名義で2枚ありました。

 ◇KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、24万5千枚を所蔵している。

 

高専祭も!!

2018年10月18日

金沢高専から国際高専(ICT)となって最初の高専祭がもうすぐ!

なんと工大祭と同じ日です~

ということは、高専祭で遊んで、工大祭で遊んで、お昼ご飯はどっちで食べよ~って悩んで、スイーツも食べて☆

もうこの2日間はダイエットなしで!!

でも、すんごい歩き回るから、結構ダイエットしてたりして(^Ψ^)

前に何度か高専祭に行ったけど、お茶席もあってなかなかよかったですよ!

体験で電子部品のキーホルダー作ったりして、楽しかったし!

今年はなにやら女装喫茶なるものがあるらしい・・・

とにかく!!この2日間は退屈しませんからっ!!!

みんな~今週末は高専&工大で待ってるよ~~~~

(なかにしみき)

末松廃寺・第5話「条里説が強まる」

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第5話「条里説が強まる」

 

 平成27年度から4カ年計画で進められた末松廃寺跡の発掘調査は、昭和の発掘調査で明らかに出来なかった寺域の確定、補充の調査が主な目的でした。また、同廃寺から東の方角にあたる8世紀の下新庄アラチ遺跡(野々市市新庄)や、西の方角1.5㎞にある三浦遺跡(白山市)が条里制を思わせる遺構であることから、同廃寺との関連性についても、当初から大きな関心が寄せられていました。

 そんな期待が寄せられる中、平成の発掘調査は大きな成果を上げた、と見ることが出来ます。

 

◇廃寺遺跡のすぐ西側に手取川が迫る◇

 

 末松廃寺の寺域について、昭和の調査では金堂西側と南側から出土した回廊代わりの土塀の基

末松廃寺跡の西縁を深く発掘したら自然の河底が出てきた

盤遺構から、また塔跡東側から出土して、回廊代わりの掘立柱塀と見立てていた遺構までの長さは東西幅が約78.4m、南北が約53mとされていました。

 ところが、西側の土塀跡を詳しく調査したところ、幅約2mの基盤には人工的に突き固めた版築の痕跡がなく、土塀跡の外側を、昭和の発掘調査より深く掘ってみたところ、自然の河川の跡が出てきました。同廃寺の西側は手取川の分流に面して、落ち込んでいた可能性が高まりました。

 また、塔東側の掘立柱塀についても補充調査をしました。二基の柱穴が出たことで塀跡と解釈されていたのですが、塀と想定される南北の延長線上を発掘しても他の柱穴は見つかりませんでした。柱が続かなければ塀になりません。結局、柱穴は祭事、行事の際に立てる幟(のぼり)の支柱穴、幢竿(どうかん)支柱跡であると分かりました。

 寺院の中でも一番神聖な区域とされる中心伽藍を囲む結界である回廊・土塀が消えてしまったのです。寺域が不明確になる重大事です。

 

◇東門が出土し寺域は東西92mに拡大◇

 

 ところが、がっかりしたのも束の間。この幢竿支柱より更に東側約17mから大溝が出土したの

平成の発掘調査で分かった末松廃寺の伽藍配置

です。大溝の中には直径3040㎝の柱穴が一対、出てきました。大溝は土塀跡で、柱穴は塀に設けられた東門の柱跡であるとみられています。ただ、この土塀が中心伽藍を囲む回廊の役割を果たすのか、寺域を外界と画す外郭の塀なのかは判断がつきません。大溝の外側は、国が指定している遺跡の範囲からはみ出すため調査が出来ないからです。

 更に驚くべきことが判明しました。金堂跡、塔跡、幢竿支柱、東門の中心がそれぞれ、東西に延びる一直線上に並んでいるのです。末松廃寺の造営に当たっては綿密な都市計画の下に地割りと土地利用が行われていたことが窺えます。西側の河川跡に面した廃寺の縁からこの大溝までの幅は92mになります。

 条里制の基本は一辺が109mの正方形に地割りを行います。寺院の西側は無理やり、河川によって千切られたように欠けています。また東の大溝の外側には道路が走っていなければなりません。大溝が外郭ではなく回廊に相当するとすれば、土塀の外側には七堂伽藍のうち、まだ未発見の僧房などがある可能性もあります。末松廃寺の寺域は限りなく109mに近づくことになります。

 また、塔の北東から1間×2間の長方形の建物跡が検出されました。再建時の遺構とみられますが、中心伽藍の中にあることから鐘楼、経蔵の可能性があります。ただ正方形でないのが難点で、周辺の追加調査も必要かもしれません。

 この他にも出土した遺構があります。塔跡の南側から、再建期のものとみられる中門の柱穴が3基並んで発掘されました。ただ、中門に屋根を乗せると仮定すれば、3基と対になる柱穴がもう一列か二列、並行して出土しなければなりませんが、確認できませんでした。中門の構造は、掘立柱と、それに前後した置石による柱の組み合わせの可能性も指摘されています。

 

◇墾田開発に必要な条里制の地割り◇

 

 ここで、条里制について少し考えてみたいと思います。「制」という文字が付くところから、これまでは平城京や平安京の整然とした区画割りを思い浮かべ、律令制に伴う政治的な制度と思われてきましたが実態は違うのではないでしょうか。

 仏教寺院に代表される渡来系の最先端技術。つまり墾田開発のための土木技術、治水技術、集団農法を駆使するための効率性、公平性が求められた結果ではなかったのでしょうか。 土地利用のための計画的な地割り、都市計画的な考え方、と言ってもいいでしょう。

 農作業の面から言えば、作付けする稲の種もみは入植者の所有ではありませんでした。開発を企図した権力者のものでした。墾田管理者などから、春になると作付け用として、農作業に従事する田部(たべ)個々人に貸し付けられます。秋の収穫が終わると田部は、決められた歩合で利息をつけた分量の稲穂を返却しなければなりません。誰それが、何処の区画で、どれだけ作付けて、どれだけ収穫があったかを管理する必要があったからです。戸籍という田部の登録も必要になります。

 石ころだらけの扇状地の荒れ野を拓き、墾田化するには共同作業が必要になります。乾田化によって従来の単収とは比較にならないほどの大幅な増収が実現します。共同作業である限り、墾田分配に際しても公平性が求められます。

 律令制より実体的に先行していた条里制に基づく墾田開発が、律令制の時代になって国の制度として追認されていったのではないでしょうか。

 

◇近江、丹波から200人ほどが移住◇

 

 昭和の発掘調査報告書の中には、聖武天皇の天平15年(743)に墾田永年私財法が発布されて条里制がとられたと仮定するなら、近江(滋賀県)南部の研究事例を挙げて、天平の地割り軸とは異なる地割りの墾田が存在することから、同私財法に先行する耕作地区が見られる、と指摘しています。

 手取扇状地の開発、末松廃寺の造立に際しては近江(滋賀県)、丹波(京都府北部)からの入植者が200人程いた、と指摘されています。もちろん近江という地方名が同一であるだけで、研究事例に上げられた地区からの入植者と、単純に言えないことはもちろんです。それでも、墾田永年私財法が発布される以前に、末松廃寺では、周辺集落の建物を含めて地割り軸を同方角とした条里制を想定することもできます。

 つまるところ、こういう事ではないでしょうか。

斉明6年(660)の少し前、近江、丹波からの入植者200人程が末松に入植してきました。彼らは、水位の低い、乾燥した荒れ野の開発に不可欠な灌漑のため、まず手取川からの取水口の適地を選び、畔(ほとり)に一辺109mの正方形の区画を設定して、当地では見たこともない威容を誇る仏教寺院・末松廃寺を造立した。これまで、不可能と思われてきた扇状地開発を、渡来の最先端技術で切り開くための決意表明でもありました。また同廃寺を中心に、周辺の土地でも地割りを行い、先住の人達を支配下に組み入れ、指導しながら勢力を伸ばしていきました。(宮崎正倫)

次回は1022日「塔は建ったのか」です。

特設ステージがっ!

2018年10月17日

工大祭まであと3日!いや、前夜祭があるからあと2日!ってあさっての夜はもうお祭りなんですね~ぇ

今日は1号館前に特設ステージが建設されてました!

 

ここで、お笑いステージや演奏、キャラクターショーがあるわけです、はい。

あ、ちなみに観覧席は飲食禁止ですよ。

模擬店の食べ物は食べてから来ましょう。

 

 

 

 

 

カジュアルステージの観覧席側には柿の木があります。

が、登って採るのはあぶないのでやめましょう。小さいお子さんも来てるから、マネするからね。。。

 

 

 

 

 

 

学園内は芝生もきれいに整備されております。

歩き疲れたら芝生でまったりしてください♪

気持ちいい~ですっ

 

 

 

 

そして、H27年5月17日に天皇陛下がお手掻きされた苗木があります。

どこにあるのか、探してみてくださいね(^^)

模擬店やステージイベント以外にもたくさん見どころがあります! よ!!

 

 

隣接している国際高専金沢キャンパスも、同じ日に高専祭してますからっ

そちらもよろしくです~

 

(なかにしみき)