工大祭~!!
2018年10月20日
始まりましたよ!工大祭!!
お昼になって賑わってきました~
ドリバーものっティと仲良く風船配り(^^)
ちびっこたちおいで~
そして、WAVEがもうすぐ生放送!
準備万端☆
インタビューもしっかりねっ
ン?アナウンサー志望?!
じゃあ将来は金沢工大のWAVEプロジェクトメンバーだね!
そ し て‼チゲ鍋!!!
ここです~
食べてね!おいしいよ~
2杯もたべちゃった♪
明日もあるからね~
(なかにしみき)
本日前夜祭~♪
2018年10月19日
今夜は前夜祭!
WAVEプロジェクトのブースは着々と準備中~
明日とあさっては生放送!!
20日土曜日は13:00~16:00、
21日日曜日は14:00~16:00
みんな、頑張って~☆
キャンパス内は休憩所も用意してありますよ。
WAVEプロジェクトの模擬店はこれ!
みんな、来てね~
雨、降りませんように・・・
(なかにしみき)
PMCで見つけた〈7〉トルネイドスの「テルスター」
情報は瞬時に地球規模で広がり世界を変えた
4K、8Kという言葉が次第に、茶の間の話題にも上るようになってきた。東京オリンピック、パラリンピック2020を目指した新テレビのサービスで、12月から始まる。現在のハイビジョンより高精細で、より臨場感のある映像が楽しめる次世代型の衛星放送らしい。ただ、電波は空から降ってくるのだが、肝心のアンテナ、受像機の普及はこれから、ということなので、高価格でもあり、慌てずに待つしかないのかもしれない。
テレビが地上のアンテナを離れて、通信放送衛星が登場したのが昭和37年(1962)のことで、パリからアメリカへのテレビ中継に成功した。なにしろ、パリで今起きていることがアメリカの家庭にまで、時間をおかずに直接届くわけだから脅威的な変化であった。4K、8Kといっても、この延長線上にあるわけだから一つの進化でしかなく、関係者以外は比較的冷静のように思われます。
世界初の通信放送衛星の名前を「テルスター」と呼びました。成功を記念してイギリスのバンド・ザ・トルネイドス(ザ・トーネードーズ)が発表したのがインストゥルメンタルの「テルスター」という曲で、全米でもNo.1を獲得する大ヒットになりました。PMCには残念ながらトルネイドスのレコードは1枚もなく、見つけることは出来ませんでしたが、ザ・ベンチャーズやザ・シャドウズなどのインストゥルメンタル・バンドを始め、ビッグ・バンドのデューク・エリントンなど43枚が登録されています。
日本における衛星放送の実験は翌年の昭和38年(1963)に行われましたが、その時に飛び込んできたのがケネディ米大統領の暗殺事件のニュースでした。まさに衛星放送の面目躍如というべきか、世紀の大ニュースが宇宙を飛んで来たのです。4K、8Kといいますが、技術は伸びたもののニュースの内容はどれだけの進化を見せたのでしょうか。それとも、エンターテメントの世界に席巻されていくのでしょうか。(宮崎正倫)
(注)タイトルで「ザ・トルネイドス」としたのはFM-N1のファイルに付けられていた名前でした。色々な読み方があるようですが一般的には「ザ・トーネードーズ」または「トーネイドーズ」が使われているようです。PMCには「ザ・トーネイドース」で「テルスター」は1枚あり、「TORNADOS」名義で2枚ありました。
◇KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、24万5千枚を所蔵している。
高専祭も!!
2018年10月18日
金沢高専から国際高専(ICT)となって最初の高専祭がもうすぐ!
なんと工大祭と同じ日です~
ということは、高専祭で遊んで、工大祭で遊んで、お昼ご飯はどっちで食べよ~って悩んで、スイーツも食べて☆
もうこの2日間はダイエットなしで!!
でも、すんごい歩き回るから、結構ダイエットしてたりして(^Ψ^)
前に何度か高専祭に行ったけど、お茶席もあってなかなかよかったですよ!
体験で電子部品のキーホルダー作ったりして、楽しかったし!
今年はなにやら女装喫茶なるものがあるらしい・・・
とにかく!!この2日間は退屈しませんからっ!!!
みんな~今週末は高専&工大で待ってるよ~~~~
(なかにしみき)
末松廃寺・第5話「条里説が強まる」
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺・第5話「条里説が強まる」
平成27年度から4カ年計画で進められた末松廃寺跡の発掘調査は、昭和の発掘調査で明らかに出来なかった寺域の確定、補充の調査が主な目的でした。また、同廃寺から東の方角にあたる8世紀の下新庄アラチ遺跡(野々市市新庄)や、西の方角1.5㎞にある三浦遺跡(白山市)が条里制を思わせる遺構であることから、同廃寺との関連性についても、当初から大きな関心が寄せられていました。
そんな期待が寄せられる中、平成の発掘調査は大きな成果を上げた、と見ることが出来ます。
◇廃寺遺跡のすぐ西側に手取川が迫る◇
末松廃寺の寺域について、昭和の調査では金堂西側と南側から出土した回廊代わりの土塀の基
盤遺構から、また塔跡東側から出土して、回廊代わりの掘立柱塀と見立てていた遺構までの長さは東西幅が約78.4m、南北が約53mとされていました。
ところが、西側の土塀跡を詳しく調査したところ、幅約2mの基盤には人工的に突き固めた版築の痕跡がなく、土塀跡の外側を、昭和の発掘調査より深く掘ってみたところ、自然の河川の跡が出てきました。同廃寺の西側は手取川の分流に面して、落ち込んでいた可能性が高まりました。
また、塔東側の掘立柱塀についても補充調査をしました。二基の柱穴が出たことで塀跡と解釈されていたのですが、塀と想定される南北の延長線上を発掘しても他の柱穴は見つかりませんでした。柱が続かなければ塀になりません。結局、柱穴は祭事、行事の際に立てる幟(のぼり)の支柱穴、幢竿(どうかん)支柱跡であると分かりました。
寺院の中でも一番神聖な区域とされる中心伽藍を囲む結界である回廊・土塀が消えてしまったのです。寺域が不明確になる重大事です。
◇東門が出土し寺域は東西92mに拡大◇
ところが、がっかりしたのも束の間。この幢竿支柱より更に東側約17mから大溝が出土したの
です。大溝の中には直径30~40㎝の柱穴が一対、出てきました。大溝は土塀跡で、柱穴は塀に設けられた東門の柱跡であるとみられています。ただ、この土塀が中心伽藍を囲む回廊の役割を果たすのか、寺域を外界と画す外郭の塀なのかは判断がつきません。大溝の外側は、国が指定している遺跡の範囲からはみ出すため調査が出来ないからです。
更に驚くべきことが判明しました。金堂跡、塔跡、幢竿支柱、東門の中心がそれぞれ、東西に延びる一直線上に並んでいるのです。末松廃寺の造営に当たっては綿密な都市計画の下に地割りと土地利用が行われていたことが窺えます。西側の河川跡に面した廃寺の縁からこの大溝までの幅は92mになります。
条里制の基本は一辺が109mの正方形に地割りを行います。寺院の西側は無理やり、河川によって千切られたように欠けています。また東の大溝の外側には道路が走っていなければなりません。大溝が外郭ではなく回廊に相当するとすれば、土塀の外側には七堂伽藍のうち、まだ未発見の僧房などがある可能性もあります。末松廃寺の寺域は限りなく109mに近づくことになります。
また、塔の北東から1間×2間の長方形の建物跡が検出されました。再建時の遺構とみられますが、中心伽藍の中にあることから鐘楼、経蔵の可能性があります。ただ正方形でないのが難点で、周辺の追加調査も必要かもしれません。
この他にも出土した遺構があります。塔跡の南側から、再建期のものとみられる中門の柱穴が3基並んで発掘されました。ただ、中門に屋根を乗せると仮定すれば、3基と対になる柱穴がもう一列か二列、並行して出土しなければなりませんが、確認できませんでした。中門の構造は、掘立柱と、それに前後した置石による柱の組み合わせの可能性も指摘されています。
◇墾田開発に必要な条里制の地割り◇
ここで、条里制について少し考えてみたいと思います。「制」という文字が付くところから、これまでは平城京や平安京の整然とした区画割りを思い浮かべ、律令制に伴う政治的な制度と思われてきましたが実態は違うのではないでしょうか。
仏教寺院に代表される渡来系の最先端技術。つまり墾田開発のための土木技術、治水技術、集団農法を駆使するための効率性、公平性が求められた結果ではなかったのでしょうか。 土地利用のための計画的な地割り、都市計画的な考え方、と言ってもいいでしょう。
農作業の面から言えば、作付けする稲の種もみは入植者の所有ではありませんでした。開発を企図した権力者のものでした。墾田管理者などから、春になると作付け用として、農作業に従事する田部(たべ)個々人に貸し付けられます。秋の収穫が終わると田部は、決められた歩合で利息をつけた分量の稲穂を返却しなければなりません。誰それが、何処の区画で、どれだけ作付けて、どれだけ収穫があったかを管理する必要があったからです。戸籍という田部の登録も必要になります。
石ころだらけの扇状地の荒れ野を拓き、墾田化するには共同作業が必要になります。乾田化によって従来の単収とは比較にならないほどの大幅な増収が実現します。共同作業である限り、墾田分配に際しても公平性が求められます。
律令制より実体的に先行していた条里制に基づく墾田開発が、律令制の時代になって国の制度として追認されていったのではないでしょうか。
◇近江、丹波から200人ほどが移住◇
昭和の発掘調査報告書の中には、聖武天皇の天平15年(743)に墾田永年私財法が発布されて条里制がとられたと仮定するなら、近江(滋賀県)南部の研究事例を挙げて、天平の地割り軸とは異なる地割りの墾田が存在することから、同私財法に先行する耕作地区が見られる、と指摘しています。
手取扇状地の開発、末松廃寺の造立に際しては近江(滋賀県)、丹波(京都府北部)からの入植者が200人程いた、と指摘されています。もちろん近江という地方名が同一であるだけで、研究事例に上げられた地区からの入植者と、単純に言えないことはもちろんです。それでも、墾田永年私財法が発布される以前に、末松廃寺では、周辺集落の建物を含めて地割り軸を同方角とした条里制を想定することもできます。
つまるところ、こういう事ではないでしょうか。
斉明6年(660)の少し前、近江、丹波からの入植者200人程が末松に入植してきました。彼らは、水位の低い、乾燥した荒れ野の開発に不可欠な灌漑のため、まず手取川からの取水口の適地を選び、畔(ほとり)に一辺109mの正方形の区画を設定して、当地では見たこともない威容を誇る仏教寺院・末松廃寺を造立した。これまで、不可能と思われてきた扇状地開発を、渡来の最先端技術で切り開くための決意表明でもありました。また同廃寺を中心に、周辺の土地でも地割りを行い、先住の人達を支配下に組み入れ、指導しながら勢力を伸ばしていきました。(宮崎正倫)
次回は10月22日「塔は建ったのか」です。
特設ステージがっ!
2018年10月17日
工大祭まであと3日!いや、前夜祭があるからあと2日!ってあさっての夜はもうお祭りなんですね~ぇ
今日は1号館前に特設ステージが建設されてました!
ここで、お笑いステージや演奏、キャラクターショーがあるわけです、はい。
あ、ちなみに観覧席は飲食禁止ですよ。
模擬店の食べ物は食べてから来ましょう。
カジュアルステージの観覧席側には柿の木があります。
が、登って採るのはあぶないのでやめましょう。小さいお子さんも来てるから、マネするからね。。。
学園内は芝生もきれいに整備されております。
歩き疲れたら芝生でまったりしてください♪
気持ちいい~ですっ
そして、H27年5月17日に天皇陛下がお手掻きされた苗木があります。
どこにあるのか、探してみてくださいね(^^)
模擬店やステージイベント以外にもたくさん見どころがあります! よ!!
隣接している国際高専金沢キャンパスも、同じ日に高専祭してますからっ
そちらもよろしくです~
(なかにしみき)
PMCで見つけた〈6〉ザ・サーチャーズの「マジック・ポーション」
2018年10月16日
二番煎じの特効薬No.309があった
前回のザ・クローヴァーズ「ラブ・ポーションNo.9」でも触れましたが、それまではザ・サーチャーズの「恋の特効薬(邦題)」がオリジナルだと思っていました。オリジナルのドゥ・ワップを、錬金術を使ってイギリス・ロックのマージー・ビートに変えたようでもありました。そこで改めて、PMCからサーチャーズのレコードを借りてきました。その中に「サウンズ・ライク・サーチャーズ」という12曲入りのアルバムがありました。昭和40年(1965)に制作されたものです。
歌詞カードを持たず、何気なく聴いているとA面3曲目に「マジック・ポーション」がありました。英語が聞き取れる訳ではありませんが、「マジック・ポーション・ナンバー・スリー・オー・ナイン」だけが耳に残りました。原題は「Magic Potion」でしたが、急いで歌詞カードを手にすると、中には「ラブ・ポーションNo.9」と同じく「マジック・ポーションNo.309」と番号が振られていたのです。クローヴァーズの曲をカバーしたのが1964年ですから翌年に、続編として作られています。
「No.9」ではモテない男が、だれかれ構わず恋に落ちたくて、ジプシーの占い女に薬を調合してもらい、自分で飲んだところ大失敗をしてしまう、という内容でした。「No.309」では、好きな彼女に振り向いてもらいたくて、やはりジプシーに、魔法の薬が欲しいと懇願するお話です。ただ、前回の失敗に懲りたのか、歌詞はお願いをする所までで終り、作ってもらえたのか、試したのか、効能はどうであったかまでは歌われていません。
結果がないだけ楽曲としてはインパクトに欠けますが、ヒットしたのかどうかは分かりません。何も知らなければメロディーも心地よく、サラリと聴けるマージー・ビートです。ただ、ドジョウの上には必ずしも柳の木が生えていると限らない、という例でしょうか。恋した彼女に振り向いてもらうためには新鮮な気持ちが必要でしょう。薬だけに「二番煎じ」は利かなかったのです。
◇KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、24万5千枚を所蔵している。
工大祭準備、着々と!
2018年10月15日
今週末は工大祭!
すでに大きな看板は正面玄関に設置されてるから、もうご存知ですよね~(^^)
そして、学内のあちこちに模擬店用のケーブルが・・・
これを見ると、あ~始まるな~ってワクワクします。
手洗い場もすでに設置され始めてますよっ☆
WAVEプロジェクトのブースはたぶんここら辺。
着々と準備が進んでおります(^ν^)
(なかにしみき)
我が家のもふもふの居場所は・・・
先日、N1に月1でゲスト出演していただいてる西尾賢一さん主催の作品展を見に、山の上ギャラリーに行ってきました。
N1のパーソナリティー谷口悦子さんの作品も展示されていてとてもきれいで、他のかたの作品も面白く、見ていて飽きなくて楽しかったです。
その中で一目惚れして、木のベンチを購入。西尾賢一さん作。それも2脚。
さっそく、玄関と2階のリビングへ。
すると我が家のもふもふが・・・
でもしばらくするといなくなってしまいました。
翌日ベンチの下のものをどかしてスッキリさせると・・・
そうか、そこが落ち着くのかぁ。
それ以来時々そこからジーっとこちらを見つめてきます。
今度、お昼寝用かごでも用意しますか。(なかにしみき)
末松廃寺・第4話「どの寺が手本?」
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺・第4話「どの寺が手本 ?」
末松廃寺(野々市市末松2丁目)は斉明6年(660)以降に造営が開始され、天智9年(670)頃には一応完成したのではないかと見られています。
昭和の発掘調査によれば、同廃寺は西に金堂、東に塔を配置し、学問上の分類は法起寺(ほうきじ)式様式ということになります。寺院の建物を総称して七堂伽藍と呼ぶこともあります。金堂、塔、講堂、鐘楼、経蔵、僧房、食堂(じきどう)を言います。この中でも一番神聖な場所とされるのが金堂、塔のある中心伽藍・塔院で、周囲には結界の意味で回廊が巡らされ、南に面して中門が設けられます。更にその外側には築地塀と南大門が寺域全体を取り囲んで外界とは異なる宗教空間を作り出しています。
昭和の発掘調査報告書によると、末松廃寺から出土した七堂伽藍の遺構は、創建当時のものでは金堂跡、塔跡だけでした。金堂の西側からは周囲の地盤より固い幅2m程の地層が見つかり、回廊の役割を果たす築地塀の基壇跡と推測されました。塔の東側からはやはり、掘っ立て柱の柱穴が見つかり、築地塀とは構造が異なるものの、掘っ立て柱の回廊が続いていると見做されました。
また、金堂跡に重なりながら、少し向きを東側に振られた再建金堂跡も確認されました。奈良時代の初め頃に一度、倒壊したために建て替えられたとみられ、再建金堂跡と建物軸を同方向にした建物跡も数棟出土しました。再建期の講堂と付属建物ではないかと思われます。この他にも11世紀中頃(平安時代中頃)までの遺構が続き、以後は途絶えます。
◇法起寺式を真似たのではない末松廃寺◇
話は同廃寺の創建当時に戻ります。先に、西に金堂、東に塔の伽藍配置は法起寺様式に分類されると言いましたが、実は法起寺の完成は末松廃寺の後になるのです。
法起寺は舒明(天皇)10年(638)に金堂の建立が始まります。塔については、発願そのものが天武(天皇)13年(684)と金堂から半世紀が過ぎていて、末松廃寺の完成後になります。塔の完成は文武天皇の慶雲3年(706)まで待たなくてはなりません。
法起寺の金堂造営時に、既に寺院全体の伽藍配置が決まっていて、同寺を手本に末松廃寺の伽藍計画を立てたというには無理があるような気がします。そうならば、末松廃寺は大和にあったどの寺に倣って造営されたのでしょうか。地方の白鳳寺院が国内で最初の独自型式を採ったとは思えません。
そこで、第3話「蕃神が産業革命」でお話した仏教伝来の話を思い出してみましょう。
廃仏派の物部氏を破って政治の実権を握った蘇我氏一族はその後も、次々と寺院を建立していきます。代表的な寺院としては、聖徳太子が四天王寺と法隆寺を。蘇我馬子が飛鳥寺を、という具合です。これらの寺院の伽藍配置をみていきましょう。
四天王寺は中門、五重塔、金堂、講堂それぞれの建物中心が一本の直線状にくるように並んでいます。中門と講堂を結んで回廊が取り囲んでいます。法隆寺では、中門と講堂が一直線に並び、回廊の中には西に五重塔、東に金堂が配されています。
蘇我馬子の飛鳥寺もやはり、四天王寺のように中門と五重塔、中金堂、講堂が一直線上に並びます。更に、五重塔の東西にもそれぞれ金堂を配するという荘厳な造りとなっています。回廊は中門から延びて、中金堂と講堂の間を抜けて塔院を囲んでいます。従って講堂は完全に中心伽藍の外側に置かれます。
◇伽藍配置は川原寺に近い◇
もう一つ、推古天皇が「三宝興隆の詔」を発布して仏教を公認した後に、国が建立した大寺があります。推古の次の代である舒明天皇が発願した百済大寺(吉備池廃寺、奈良県桜井市)です。舒明の皇后であった皇極天皇(後の斉明天皇)が造営事業を引き継いで完成させました。平成9年に予備調査が始まり、まだ全ての発掘は終わっていませんが、法隆寺と同様に、西に塔、東に金堂が置かれています。塔は基壇の大きさから九重の高さがあった、と言われています。工事には「近江と越」の民が動員された、という記録が日本書紀にあります。
ここまで、代表的な大和地方の寺院を眺めても、末松廃寺のように法起寺式の伽藍配置はありません。
西に金堂、東に塔という配置が現れるのは、更に時代が新しくなった天智天皇の代になってからです。奈良・飛鳥の川原寺(かわらでら)です。斉明7年(661)に薨去された斉明天皇の冥福を祈るために670年代までに天智天皇が発願したとされています。
伽藍配置は中門と中金堂、講堂が一直線上に並んで、塔は線上から外れます。中門と中金堂を結ぶ回廊に囲まれた中心伽藍には西に金堂、東に塔の新しい配置が初めて現れます。
明らかに、蘇我氏中心の飛鳥時代の様式から百済大寺を経て、蘇我氏本宗家を倒した皇極4年(645)の乙巳(いっし)の変を境に、新しい構想に転換していくようです。これを後に、法起寺式と呼ぶようになったのでしょう。
◇塔跡周辺から川原寺様式の瓦が出土◇
川原寺と末松廃寺の造営時期は全くと言っていいほど重なります。天智天皇の発願に際しては川原寺の様式は決まっていたと思われ、簡略ながら末松廃寺に適用されたとしても、あながち無理な推測とばかりは言い切れない、と感じています。川原寺を手本としたならば両寺院は同時並行的に造営されたことになります。
昭和の発掘に際して、実は川原寺式の軒丸瓦片が1点、末松廃寺の塔跡付近でぽつんと見つかっています。持ち込まれた時期や目的は分かりませんが、偶然の産物だったのでしょうか。(宮崎正倫)
次回は10月18日「条里説が強まる」です。