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PMCで見つけた〈6〉ザ・サーチャーズの「マジック・ポーション」

2018年10月16日

二番煎じの特効薬No.309があった

 前回のザ・クローヴァーズ「ラブ・ポーションNo.9」でも触れましたが、それまではザ・サーチャーズの「恋の特効薬(邦題)」がオリジナルだと思っていました。オリジナルのドゥ・ワップを、錬金術を使ってイギリス・ロックのマージー・ビートに変えたようでもありました。そこで改めて、PMCからサーチャーズのレコードを借りてきました。その中に「サウンズ・ライク・サーチャーズ」という12曲入りのアルバムがありました。昭和40年(1965)に制作されたものです。

 歌詞カードを持たず、何気なく聴いているとA面3曲目に「マジック・ポーション」がありました。英語が聞き取れる訳ではありませんが、「マジック・ポーション・ナンバー・スリー・オー・ナイン」だけが耳に残りました。原題は「Magic Potion」でしたが、急いで歌詞カードを手にすると、中には「ラブ・ポーションNo.9」と同じく「マジック・ポーションNo.309」と番号が振られていたのです。クローヴァーズの曲をカバーしたのが1964年ですから翌年に、続編として作られています。

 「No.9」ではモテない男が、だれかれ構わず恋に落ちたくて、ジプシーの占い女に薬を調合してもらい、自分で飲んだところ大失敗をしてしまう、という内容でした。「No.309」では、好きな彼女に振り向いてもらいたくて、やはりジプシーに、魔法の薬が欲しいと懇願するお話です。ただ、前回の失敗に懲りたのか、歌詞はお願いをする所までで終り、作ってもらえたのか、試したのか、効能はどうであったかまでは歌われていません。

 結果がないだけ楽曲としてはインパクトに欠けますが、ヒットしたのかどうかは分かりません。何も知らなければメロディーも心地よく、サラリと聴けるマージー・ビートです。ただ、ドジョウの上には必ずしも柳の木が生えていると限らない、という例でしょうか。恋した彼女に振り向いてもらうためには新鮮な気持ちが必要でしょう。薬だけに「二番煎じ」は利かなかったのです。

 ◇KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、24万5千枚を所蔵している。

工大祭準備、着々と!

2018年10月15日

今週末は工大祭!

すでに大きな看板は正面玄関に設置されてるから、もうご存知ですよね~(^^)

 

 

 

 

 

 

 

そして、学内のあちこちに模擬店用のケーブルが・・・

これを見ると、あ~始まるな~ってワクワクします。

 

 

 

 

 

 

 

手洗い場もすでに設置され始めてますよっ☆

 

 

 

 

 

 

 

WAVEプロジェクトのブースはたぶんここら辺。

着々と準備が進んでおります(^ν^)

 

 

 

 

 

 

 

(なかにしみき)

我が家のもふもふの居場所は・・・

先日、N1に月1でゲスト出演していただいてる西尾賢一さん主催の作品展を見に、山の上ギャラリーに行ってきました。

N1のパーソナリティー谷口悦子さんの作品も展示されていてとてもきれいで、他のかたの作品も面白く、見ていて飽きなくて楽しかったです。

 

 

その中で一目惚れして、木のベンチを購入。西尾賢一さん作。それも2脚。

さっそく、玄関と2階のリビングへ。

すると我が家のもふもふが・・・

でもしばらくするといなくなってしまいました。

 

 

 

 

 

 

翌日ベンチの下のものをどかしてスッキリさせると・・・

そうか、そこが落ち着くのかぁ。

それ以来時々そこからジーっとこちらを見つめてきます。

 

今度、お昼寝用かごでも用意しますか。(なかにしみき)

末松廃寺・第4話「どの寺が手本?」

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第4話「どの寺が手本 ?

 

 末松廃寺(野々市市末松2丁目)は斉明6年(660)以降に造営が開始され、天智9年(670)頃には一応完成したのではないかと見られています。

 昭和の発掘調査によれば、同廃寺は西に金堂、東に塔を配置し、学問上の分類は法起寺(ほうきじ)式様式ということになります。寺院の建物を総称して七堂伽藍と呼ぶこともあります。金堂、塔、講堂、鐘楼、経蔵、僧房、食堂(じきどう)を言います。この中でも一番神聖な場所とされるのが金堂、塔のある中心伽藍・塔院で、周囲には結界の意味で回廊が巡らされ、南に面して中門が設けられます。更にその外側には築地塀と南大門が寺域全体を取り囲んで外界とは異なる宗教空間を作り出しています。

 昭和の発掘調査報告書によると、末松廃寺から出土した七堂伽藍の遺構は、創建当時のものでは金堂跡、塔跡だけでした。金堂の西側からは周囲の地盤より固い幅2m程の地層が見つかり、回廊の役割を果たす築地塀の基壇跡と推測されました。塔の東側からはやはり、掘っ立て柱の柱穴が見つかり、築地塀とは構造が異なるものの、掘っ立て柱の回廊が続いていると見做されました。

また、金堂跡に重なりながら、少し向きを東側に振られた再建金堂跡も確認されました。奈良時代の初め頃に一度、倒壊したために建て替えられたとみられ、再建金堂跡と建物軸を同方向にした建物跡も数棟出土しました。再建期の講堂と付属建物ではないかと思われます。この他にも11世紀中頃(平安時代中頃)までの遺構が続き、以後は途絶えます。

 

◇法起寺式を真似たのではない末松廃寺◇

 

話は同廃寺の創建当時に戻ります。先に、西に金堂、東に塔の伽藍配置は法起寺様式に分類されると言いましたが、実は法起寺の完成は末松廃寺の後になるのです。

法起寺は舒明(天皇)10年(638)に金堂の建立が始まります。塔については、発願そのものが天武(天皇)13年(684)と金堂から半世紀が過ぎていて、末松廃寺の完成後になります。塔の完成は文武天皇の慶雲3年(706)まで待たなくてはなりません。

法起寺の金堂造営時に、既に寺院全体の伽藍配置が決まっていて、同寺を手本に末松廃寺の伽藍計画を立てたというには無理があるような気がします。そうならば、末松廃寺は大和にあったどの寺に倣って造営されたのでしょうか。地方の白鳳寺院が国内で最初の独自型式を採ったとは思えません。

そこで、第3話「蕃神が産業革命」でお話した仏教伝来の話を思い出してみましょう。

 廃仏派の物部氏を破って政治の実権を握った蘇我氏一族はその後も、次々と寺院を建立していきます。代表的な寺院としては、聖徳太子が四天王寺と法隆寺を。蘇我馬子が飛鳥寺を、という具合です。これらの寺院の伽藍配置をみていきましょう。

 四天王寺は中門、五重塔、金堂、講堂それぞれの建物中心が一本の直線状にくるように並んでいます。中門と講堂を結んで回廊が取り囲んでいます。法隆寺では、中門と講堂が一直線に並び、回廊の中には西に五重塔、東に金堂が配されています。

蘇我馬子の飛鳥寺もやはり、四天王寺のように中門と五重塔、中金堂、講堂が一直線上に並びます。更に、五重塔の東西にもそれぞれ金堂を配するという荘厳な造りとなっています。回廊は中門から延びて、中金堂と講堂の間を抜けて塔院を囲んでいます。従って講堂は完全に中心伽藍の外側に置かれます。

 

◇伽藍配置は川原寺に近い◇

 

もう一つ、推古天皇が「三宝興隆の詔」を発布して仏教を公認した後に、国が建立した大寺があります。推古の次の代である舒明天皇が発願した百済大寺(吉備池廃寺、奈良県桜井市)です。舒明の皇后であった皇極天皇(後の斉明天皇)が造営事業を引き継いで完成させました。平成9年に予備調査が始まり、まだ全ての発掘は終わっていませんが、法隆寺と同様に、西に塔、東に金堂が置かれています。塔は基壇の大きさから九重の高さがあった、と言われています。工事には「近江と越」の民が動員された、という記録が日本書紀にあります。

 ここまで、代表的な大和地方の寺院を眺めても、末松廃寺のように法起寺式の伽藍配置はありません。

西に金堂、東に塔という配置が現れるのは、更に時代が新しくなった天智天皇の代になってからです。奈良・飛鳥の川原寺(かわらでら)です。斉明7年(661)に薨去された斉明天皇の冥福を祈るために670年代までに天智天皇が発願したとされています。

伽藍配置は中門と中金堂、講堂が一直線上に並んで、塔は線上から外れます。中門と中金堂を結ぶ回廊に囲まれた中心伽藍には西に金堂、東に塔の新しい配置が初めて現れます。

明らかに、蘇我氏中心の飛鳥時代の様式から百済大寺を経て、蘇我氏本宗家を倒した皇極4年(645)の乙巳(いっし)の変を境に、新しい構想に転換していくようです。これを後に、法起寺式と呼ぶようになったのでしょう。

 

◇塔跡周辺から川原寺様式の瓦が出土◇

 

川原寺と末松廃寺の造営時期は全くと言っていいほど重なります。天智天皇の発願に際しては川原寺の様式は決まっていたと思われ、簡略ながら末松廃寺に適用されたとしても、あながち無理な推測とばかりは言い切れない、と感じています。川原寺を手本としたならば両寺院は同時並行的に造営されたことになります。

 昭和の発掘に際して、実は川原寺式の軒丸瓦片が1点、末松廃寺の塔跡付近でぽつんと見つかっています。持ち込まれた時期や目的は分かりませんが、偶然の産物だったのでしょうか。(宮崎正倫)

 次回は1018日「条里説が強まる」です。

工大祭に向けて!準備~

2018年10月13日

工大祭までとうとう1週間を切ってしまった・・・

ここFM-N1のフィールド1ではWAVEプロジェクトの打ち合わせも始まり、スタジオ1とスタジオ4で放送のリハーサルもそれぞれ始まった!

みんな大丈夫かな~、中心メンバーが頑張ってなにやら奮闘中の様子がひしひし。

途中、卒業生も来局してにぎやかに(^^)

そういや私も今年FM-N1に勤務しはじめたばっかだから、この雰囲気初めてなんですよね。

女子の笑い声も聞こえるとなんだか楽しそうで、今から楽しみです☆

打ち合わせもどんなことやってんでしょう・・・

わいわい楽しそうなんですけど。

模擬店も出すそうで、放送も模擬店準備も大変だけど、今しかできない貴重な体験だから、なんだかうらやましいな~

工大祭は何度も来てるけど、去年は台風だったかで最後は途中で中止だった。とっても残念。

今年こそお天気に恵まれるといいな♪

 

 

 

 

ところで男子組はせっせと放送練習してますが・・・

とにかく、たくさんの人が来てくれますように。

あ、工大祭来れない人はラジオ聴いて下さいね!!

FM76.3MHzですよ!念のため・・・

(なかにしみき)

 

PMCで見つけた〈5〉ザ・クローヴァーズの「ラブ・ポーションNo.9」

2018年10月12日

ジプシー女のマダム・ルーが作った媚薬

 「ラブ・ポーションNo.9」という曲を聴いたのは中学生の頃だったか。てっきりイギリスの4人組バンドであるザ・サーチャーズのオリジナル曲だと思っていた。リヴァプール出身というからザ・ビートルズと同じで、マージー・ビートのお仲間である。その頃はビートルズの影響もあってかザ・ハーマンズ・ハミッツ、クリフ・リチャードなどユニオンジャック印がお気に入りだった。

 邦題が「恋の特効薬」で、多感な青春期には、本当にそんな薬があるのだろうか、と興味津々だった。ところが、金沢工大のポピュラー・ミュージック・コレクション(PMC)で、アメリカのドゥ・ワップ・グループであるザ・クローヴァーズの「Love Potion No.9」という輸入盤のアルバムを見つけたのである。ライナー・ノーツにはクローヴァーズのオリジナルであると書かれていた。

 歌の中身は、女の子と全く縁がない男が、ジプシー占いのマダム・ルーに悩みを打ち明けた。するとマダムは、小さな瓶に入った惚れ薬No.9を分けてくれた。男は鼻をつまんで薬を一口、喉に流し込んだ。あら~大変、薬が効いてきた。男は昼と言わず夜と言わず、目に見えるものに所構わずキスをし始めた。挙句の果てに、交差点に居たお巡りさんにまでキスをして、怒ったお巡りさんに瓶を割られてしまいました。

 世間には「百年の恋も冷める」という言葉もあるが、あの憧れた「恋の特効薬」がこんな結末を迎えるとは… オリジナル曲かカバー曲で薬の効能は変わるものでもあるまいが、最初に曲を聴いた頃から、たった50年かそこらで熱も冷めるというもの。ともかく、惚れ薬を自分で飲んでしまっては元も子もない、という話のようだ。惚れ薬の瓶に用法は書いてなかったのだろうか?(宮崎正倫)

末松廃寺・第3話「蕃神が産業革命」

2018年10月11日

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第3話「蕃神が産業革命」

 

 国史跡「末松廃寺跡」(野々市市末松2丁目)を論じる時に、一番基になるのは、同廃寺の造立年が斉明6年(660)頃よりは古くはならないということでした。歴史的な事件、出来事の年表に当てはめることで、同廃寺の置かれていた時代的状況を理解することが可能だからです。それではなぜ、660年が分かったのか、ということです。国の調査報告書からみてみましょう。

 

◇塔跡の下から住居跡と須恵器が見つかる◇

 

 昭和の調査で、塔跡の発掘をしていた時です。塔基壇の東南隅に当たる地盤の直

塔基壇跡の東南角。基壇跡の更に下から住居跡が発掘され、造営年が660年以降と割り出された

ぐ下の地層から、東西方向の長さが3.6mある四角形の住居跡が出土し、床面からは須恵器が発見されました。須恵器の製作年代は、全国規模での調査研究の蓄積があり、研究者の手にかかれば試料を比較することで特定が可能なレベルにまで達しています。その結果、出土した須恵器の年代が割り出されたのでした。住居遺跡の直ぐ上で塔、すなわち同廃寺の造立が行われた訳ですから660年というのが基準となります。

 この660年という時代は、日本という国家が成立する激動期にあたります。中大兄皇子(天智天皇)が、飛鳥板葺宮(あすかいたぶきのみや=奈良県明日香村)で、蘇我入鹿(そがのいるか)の首をはね、天皇親政の政治を計った乙巳(いっし)の変から、まだ15年しか経っていません。生々しい歴史の大きなうねりの渦中で末松廃寺の造営事業が起こされていくのです。

 白鳳寺院と言いますから、もちろん仏教寺院です。この仏教であるということが末松廃寺の謎を解く上で大きな手掛かりになってきます。北陸では最初期の仏教布教ということになります。そこで回り道になるようですが、古代の仏教について少し思い出してみたいと思います。

 

◇半島から仏教と一緒に最新技術も伝わる◇

 

 いくつか説あるようですが、仏教が朝鮮半島にあった百済(くだら)から日本に正式に持ち込まれた仏教公伝(こうでん)は欽明29年(552年)のことです。それ以前の538年には既に、私的に持ち込まれ、豪族が帰依していた、という見方もあります。

 古代の日本には古神道が存在していました。自然の中に神々が存在して、人は自然・神と共に暮らしている、という考え方です。そこへ、国外で生まれた仏教が入って来た訳です。外国・異国から、その土地へやって来た神を蕃神(ばんしん)と呼びますが、仏教の本尊であるお釈迦様は、当時の人々からみれば蕃神ということになります。

 仏教伝来と聞くと、何か経典だけが入ってきて、人々が学問として学ぶ教養のように考えがちですが様相は大きく異なっていたようです。精神、思想性の面は否定しませんが、仏教を護持する人達と共に最先端の技術が導入され、一種の産業革命や生産性向上に伴う生活様式の大変革が起きていたのです。大規模な土木技術と治水の技術、高度な高層建築の技術、須恵器や瓦にみられる焼成技法など、日本の人達に衝撃を与えるものばかりでした。

 末松廃寺の造営年代を特定できたのも出土した須恵器からでした。これまで低温で焼かれていた従前の土器と比べ、轆轤(ろくろ)で成形し、高温を得られる登り窯で焼くため硬質に仕上がります。

 

◇崇仏派の蘇我氏が寺院造営を独占◇

 

 仏教公伝後の用明2年(587)に丁未(ていびん)の乱が起きます。崇仏派である大臣(おおおみ)の蘇我馬子と廃仏派である大連(おおむらじ)の物部守屋が仏教の受容を巡って争い、蘇我氏側が勝利します。蘇我氏の陣営には聖徳太子が加わっていました。

これは単なる仏教という信仰に関して争ったのではなく、政権の基盤を支える経済、生産活動に従事する工人達の支配権をどちらの派が握るか、という争いでもありました。効率性、生産性は渡来系の先端技術の方が優れているわけですから、歴史の「もしも」が許されて物部氏の勝利に終わっていたとしても、紆余曲折を重ねながら渡来系の文化を取り入れた社会へ変貌していったことは想像に難くありません。

しかし、歴史的事実は蘇我氏の勝利でした。あるがままの自然を尊重しながら墾田の拡張を図ってきた手法から、大胆な土木、治水事業によって自然を大改造し、墾田を拡大する営農に変わって行きます。まさに蕃神が、自然に宿る神々を駆逐するようではありませんか。

この乱の後、推古2年(594)に「三宝興隆」の詔が発布され、仏教は国の公認となります。聖徳太子は四天王寺、斑鳩宮(いかるがのみや)、法隆寺を建立していきます。蘇我馬子は飛鳥寺を建立します。一気に造寺の機運が高まっていきます。

特に、推古17年(609)に蘇我馬子が蘇我氏の本拠地とした飛鳥・甘樫丘の東の方角に氏寺として建立した飛鳥寺は、飛鳥大仏(釈迦如来)を本尊とし、広大な敷地に瓦葺の伽藍が立ち並びました。五重塔を中心に北側の中金堂、東西金堂の3金堂が取り囲み、南門から伸びた回廊がこれらの中心伽藍を取り囲んで、見る者を圧倒する聖域を形成しています。回廊の外側には西門が甘樫丘を望むように正対しています。

 

◇国家が初めて建てた百済大寺(吉備池廃寺)◇

 

先に、蘇我入鹿が殺害されたのは飛鳥板葺宮(皇極天皇=後の斉明天皇=の宮)と述べまし

乙巳の変の舞台となった伝飛鳥板葺宮遺跡。写真右後方に飛鳥寺があった=奈良県明日香村

た。飛鳥寺の完成から36年後の事件でしたが、天皇の宮といえども文字通り板葺きであったことを思えば、いかに瓦葺の寺院建築は人心を掌握する上でも荘厳な建物であったかが理解できると思います。この技術を蘇我氏が一手に握り、天皇家と比肩する力を誇示していたのです。

一方、三宝興隆の詔が発布された後、国が建立した寺院に百済大寺(吉備池廃寺=奈良県桜井市)があります。飛鳥寺から北東の方へ直線で約3㎞の地点です。東に金堂、西に塔を配置した大規模伽藍で、塔の高さは九重であったと言います。天智天皇の父である舒明天皇が舒明11年(639)に発願し、後を引き継いだ皇后の皇極天皇が完成させました。造立工事には近江、越の人達が動員された、と記されています。

 

◇乙巳の変からわずか15年後◇

 

当時の政権運営は天皇を中心とした大豪族の合議制だったと言われますが、渡来系の先端技術を掌握し、聖徳太子を含む蘇我一族が次から次へと寺院を造営していく様子を眺めると、爆発的な財力の蓄積を背景に政権運営の実権を握り、思うがままに力をふるう蘇我氏の姿が浮かび上がってきます。

天皇の座をも左右しかねない権力を、天皇家に取り戻すために、中大兄皇子を中心に計画、実行されたのが乙巳の変だといえます。渡来系の先端技術によって築かれた生産体制そのものを国営に移管した、と言っても過言ではないでしょう。

板葺きの宮で起きた乙巳の変のわずか15年後、政治、文化の中心地であった飛鳥から遠く離れた野々市市末松に、石ころだらけで耕作不可能だった手取扇状地に、時代の先端をいく瓦を用いた白鳳寺院が造営され始めるのです。周辺には単独で仏教を受容し、独力で寺院を造営できるだけの在地大豪族は見当たりません。この謎を、昭和の調査、平成の調査が解き明かしていくのです。(宮崎正倫)

次回は1015日「どの寺が手本?」

PMCで見つけた〈4〉コニー・スミスの「悲しきトランジスター・ラジオ」

2018年10月9日

定番の“悲しき”だが、こんな青春を飾る曲が残っていた

 コニー・スミスはアメリカのカントリー歌手である。FM-N1では、あまり聴いた覚えがない女性である。歌声は明るく、技巧的に歌うというより、真っ直ぐに耳へ飛び込んでくる。彼女に出会えて良かった、というのが第一印象である。

 邦題は「悲しきトランジスター・ラジオ」(原題はTiny Blue Transistor Radio)だが、これまでのオールディーズの定番ともいえる“悲しき”とか“哀しみの”とかが邦題の頭についた曲の中でも初めて聴いた楽曲である。ちなみに、オールディーズを中心にしたリクエスト番組「ブロークン・タイムマシン」のデータを調べると、これまで、35曲にお応えしている。

 歌詞の方は「私と彼のためにあった小さなトランジスター・ラジオも、彼がいなくなって悲しきトランジスター・ラジオになってしまった」という青春のほろ苦さをかみしめる内容となっている。それもレコードのB面で、A面は「その日を待って」という曲です。どちらかというとB面に愛着を覚える私にとっては、堪りませんでした。

 まだまだ、金沢工大のポピュラー・ミュージック・コレクション(PMC)には、まだまだ“哀しみ”が隠れているかもしれません。また出遭える時がくるのでしょう。それにしても今回は、カントリーが流れる回数が少な過ぎるのが原因なので、反省をしているところです。(宮崎正倫)

末松廃寺・第2話「鉄製農具の一撃」

2018年10月8日

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第2話「鉄製農具の一撃」

 

 北陸新幹線が平成27314日に開業して3年が経ちます。初めは東京へのストロー現象が心配されていましたが、金沢市への誘客は順調で、昨年度の観光客数は1,022万人を超えたとかで人気は衰えを知りません。

 その魅力は、江戸時代の加賀百万石が育んできた城下町文化、先の大戦による被害を免れた町家や小路の街並み、藩政期の茶屋街などが情緒を醸し出しているからに他なりません。また、兼六園、これに接する金沢城が復元されつつあり、歴史の深みが背骨の様に芯を通しています。

 

◇加賀藩の財政支えた手取扇状地◇

 

 「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵」と言ったのは戦国武将の武田信玄だそうです。加賀藩も加賀八家と呼ばれる家老衆と、石垣の博物館とも称される城があったからこそ繁栄したのかもしれません。

加賀藩は、徳川幕府の外様でありながら石高は加賀、能登、富山を合わせて122万石にのぼり、全国でも一頭群を抜く財力が背景にあって武家文化を支えてきました。その中でも足元とも言える石川郡が18万石、能美郡が12万石を数えます。言い替えれば石川県最大の穀倉地帯である加賀平野、手取川の右岸、左岸扇状地で総石高の四分の一に当たる30万石を生み出していたことになります。FM-N1のある野々市市も右岸の扇央部に在って、旧石川郡の一角を占めています。

 

◇手取川の石から戸室の石へ◇

 

唐戸石と呼ばれて親しまれて来た末松廃寺の塔心礎。塔の心柱を支えた

末松廃寺跡(野々市市末松2丁目)の調査の元となった「唐戸石(からといし)」として地元では親しまれてきた塔の心礎(しんそ)は当初、金沢城と同じく戸室石(金沢市戸室産)ではないかとも見られていました。が、調査結果から、手取川の転石である安山岩と判明しました。ともかく、加賀百万石は手取川の石から始まり、戸室の石に行きついたことになります。

 

◇金沢城を歩いてみた◇

 

 今年の四月に機会があり、石川県金沢城調査研究所の木越隆三所長(野々市市在住)を案内役に、金沢城などを駆け足で巡ってきました。

 スタート地点は金沢市下新町。金沢城の防御のために城外に張り巡らされた二重の土居の一つ、東内総構跡を見るためでした。他人様の敷地・駐車場でしたが、駐車場の端が総構の縁とあってやむを得ない仕儀と相成りました。縁から見下ろすとかなりの高低差があり、堀の名残りである用水が流れていました。町家が続く小路を西へ。旧町名が復活した袋町を抜けて市媛(いちひめ)神社の境内に入り、延びてきている総構の段差を確認。今度は国道159号を渡って近江町市場へ着きました。

総構跡の段差に沿うようにして市場の裏へ入り込み、更に進んで途中から営業中のスーパーの店内へ。買い物客の間をすり抜けるようにして裏口から出ました。近江町市場を後にした歩みは十間町から西町藪ノ内、同三番丁、尾崎神社を経て、やっと金沢城黒門に到着しました。石川門は、漆喰(しっくい)壁の色から白門とも呼ばれますが、黒門は白門とは正反対の方角になります。ちなみに、東京大学の赤門は江戸時代の前田家上屋敷跡になります。

到着した黒門から城外の尾張町方向を眺めると、今歩いて来た総構跡の高低差が一望の下に見て取れます。

 木越所長がここでつぶやきました。「私的な思いだが、加賀百万石の藩祖前田利家が金沢城に入ったのは大手門ではなく黒門ではなかったのかな」。定説を覆すような貴重な発言だったかも知れないが、その場は聞き流すだけにしておいて、いよいよ城内へ。

 

◇石垣の博物館と最古の文禄石垣◇

 

 大手堀、大手門、三の丸広場、河北門の順に進んで石川門裏へと。ここには、石垣の博物館と異名を

金沢城の丑寅櫓の文禄石垣。前田利家が入城した当時の最古の野面積み

取る同城でも最古の石積みとなる文禄石垣と対面。野面(のづら)積みという自然石の姿のままに組み上げられた荒々しさが特徴です。更に鶴丸倉庫、橋爪門の脇から二の丸御殿の石垣へ。石に彫られた多種の刻印も楽しみながら、大奥の外周を回って、玉泉院丸庭園へと下りました。

下りの道が今度は一気に上りとなって本丸跡へ。これまでは裏側しか見ていない三十間長屋の正面に回って広坂合同庁舎を見下ろす斜面の際へ。三カ所の破風造りを確認して本丸園地へ。城跡の最高地点である東南角の辰巳櫓跡を巡って、蜂にまとわりつかれながらもゴールの石川門へと下った。

 

◇石から始まったもう一つの歴史◇

 

 3時間余りの行程を終えてみれば、余り好きでなかった前田様も何か憎めない人物に思えてきました。これも金沢城調査研究所などの長年に渡る発掘、調査、研究があってのことだと実感させられました。

もう一つの発見は我が体力の衰え。それほど歳の差があるわけではない木越所長の健脚に比べて、なんと足腰の弱い事か。帰宅すると文字通り、崩れるように倒れ込んだ。老体をいたわるように、金沢城の巨大な建築物を支えた石積みに想いを巡らせていると、もう一つの「石」が脳裏を横切りました。近世の金沢城と比して、文献の少なさから息の長い調査、研究を余儀なくされている末松廃寺の心礎・唐戸石の事です。

飛鳥時代と奈良時代をつなぐ白鳳時代に創建された末松廃寺の象徴的建造物、塔の中心を貫く心柱(しんばしら)を支えた礎石です。

廃寺造営の目的は、先にも触れたように加賀百万石を支えた穀倉である手取扇状地の開発にあったことは昭和の調査で解明されています。

日本一の急流である手取川が右岸、左岸に形作った石ころだらけの荒れ地を稲穂の頭が垂れる田圃に開発するため、白鳳時代の人々が末松に入植しました。土地は石ころに覆われています。木製の農具では歯がたちません。最先端の鉄製刃先を取り付けた鍬を最初に、乾燥した荒れ野に打ち込んだ人々の想いはどの辺りにあったのだろうか。確信、希望に燃えた一撃だったのだろうか。それとも、営々と続くであろう墾田開拓を引き継ぐ子、孫達の運命を思い浮かべた一撃だったのだろうか。

少なくとも、この地が加賀百万石の礎になるなどとは夢にも思わなかったはずである。天正11年(1583)に前田利家が金沢城に入る1千年近く前の原風景ではなかったろうか。(宮崎正倫)

 次回は10月11日「蕃神が産業革命」です。

PMCで見つけた〈3〉ザ・ロネッツの「恋の雨音」

2018年10月6日

雷鳴が告げる理想の恋人の出現

 ザ・ロネッツと言えば、返ってくる答えは「ビー・マイ・ベイビー」というのが通り相場である。彼女らの最大のヒット曲であるから当然の事である。FM-N1の番組に「ブロークン・タイムマイン」という長寿番組がある。平成10年(1998)4月が放送開始なので20年と6カ月が経ちました。オールディーズのリクエスト番組が基本姿勢なので、金沢工大のPMC(ポピュラー・ミュージック・コレクション)が頼みの綱でした。

 同番組のリクエスト数でみれば、10月7日現在で、「ビー・マイ・ベイビー」が最多の31回を数えます。ちなみに第2は、パーソナリティのロイ・キヨタさんがお気に入りのプロコル・ハルムの「青い影」が28回となっています。リクエスターの皆さんの忖度(そんたく)もあるのかもしれません。したがって、FM-N1のザ・ロネッツの音楽ファイルには「ビー・マイ・ベイビー」しかないという状態が続いていました。

 そこで、PMCのデータ・ベースを検索すると、シングル、アルバム、オムニバス盤合わせて21枚のレコードがありました。盤は違っても同じ曲がダブっているため、そう多いという訳ではありません。その中に「恋の雨音(原題・Walkin' In The Rain)」がありました。韻を踏んでいますが、オールディーズにありがちな邦題の付け方の様にも思えます。ザ・ウォーカー・ブラザーズもカバーしています。

 曲の出だしが、あのザ・カスケーズの「悲しき雨音」に負けず劣らず、雷鳴からです。歌の内容は、私には、男の子の理想像があるけれど現実には、まだ彼氏がいない。雨の中を歩けば濡れるように、いつか自然と彼に巡り合えるはず。出逢いを星に祈ろう、というものらしい(英語が不得手で断定できない)。雷鳴と言えば、激しく大地を揺るがすような金沢の冬空を想像してしまうが、そうか、「恋の雨音」は甘い胸の疼きの響きだったのか。(宮崎正倫)