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2018年度の記事

PMCで見つけた〈15〉シルヴィ・バルタンとジョニー・アリデイの「トワ・エ・モア」

2018年11月16日

売れっ子同士が夫婦に、15年間の「あなたと私」

 

 日本にトワ・エ・モアという名の男女デュオがいました。芥川澄夫と土室(現・白鳥)英美子です。美しいハーモニーが特徴的で、デビュー曲の「或る日突然」が大ヒット。以後も「誰もいない海」「初恋の人に似ている」「虹と雪のバラード」など数々のメロディーを歌い上げ、心の中にしっかりと刻み付けました。この時、初めて「トア・エ・モア」とはフランス語で「あなたと私」の意味であると知りました。
 日本の芸能界では起こりがちな、と私は思っているのですが、いつしか夫婦になってしまう例もありますが、この二人は、昭和44年(1969)~同48年(1973)まで活動した後、デュオを解散してしまいました。後は、それぞれ別の道を歩み始めたことに、なかなかの好感を覚えていました。平成10年(1998)からは、トア・エ・モアとしての活動も再開しているようです。
 ある日、突然の事ですが、PMCの資料を見ていて、「トワ・エ・モア」という曲名のレコードを見つけました。当然のようにフランス人歌手のデュエットです。それが、シルヴィ・バルタンとジョニー・アリデイのものでした。バルタンは「アイドルを探せ」のヒット曲がありますが文字通り、私のアイドルでしたが、アリデイはNo.1ロックン・ローラでバルタンの元夫(1965~1980)だったと初めて知りました。
曲の方の「トア・エ・モア」は夫婦当時の二人が録音したもので、軽やかで、力強く、楽し気な「あなたと私に」に仕上がっていました。フランス語のため歌詞の意味は分かりませんが、こう言うと大向こうから「英語なら分かるのか!」と声が掛かりそうですが、どちらも分かりません。が、夫婦もいいな、と思わせられました。日本の「あなたと私」は夫婦でないが故に、綺麗なハーモニーに特化していったのかもしれません。(宮崎正倫)
 ◇KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、24万5千枚を所蔵している。

末松廃寺余聞・第2話「皇統つなぐ皇子」

2018年11月15日

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺余聞・第2話「皇統つなぐ皇子」

 

 天智朝が斉明6年(660)ごろから、手取扇状地に末松廃寺(野々市市末松2丁目)を創建し、大規模開発に乗り出した歴史の流れの中で、大和・飛鳥の都に一人の皇子(みこ)が誕生しました。天智天皇と、後宮に采女(うねめ=女官)として出仕した越道君の娘・伊羅都売(いらつめ)の間に生まれたのです。志貴皇子と言います。

生年は明らかになっていませんが、665年説を唱える研究者もいますが概ね、その前後と思ってよいのでしょう。磯城(しき)郡(奈良県桜井市)に勢力を張っていた阿部氏の元で養育されたため磯城皇子とも言います。第26代継体天皇が大和入りして宮を構えた磐余(いわれ)地方で、大神(おおみわ)神社のご神体である三輪山の麓に広がる一帯です。

 皇統を継ぐ資格のある皇子ですが、政権を巡る激流に翻弄され、政治の表舞台には立ちませんでしたが、万葉歌人として「石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」の代表的な歌と名前を残します。

 

◇皇位継承の有資格者◇

 

志貴皇子を見舞った歴史の激流とは762年に起きた壬申(じんしん)の乱です。天智天皇の弟で

大神神社の社標

ご神体の三輪山を背に建つ大神神社の拝殿=奈良県桜井市

ある大海人(おおあま)皇子、後の天武天皇が、天智天皇の子であった大友皇子(弘文天皇)を攻め滅ぼした内乱で、天武朝を開いていきます。

 幾人もの有資格者がいる中で誰が皇統を継ぐべきか、という基準ですが、ここからは一つの推理をしてみます。もちろん、私は研究者ではありませんので、眉に唾しながらお聞きいただければ幸いです。

 少し時代を遡ってみたいと思います。継体天皇は507年、58歳の時に、河内国樟葉(くすば)宮で即位しています。それまでは応神天皇五世の孫として越前国にいたとされています。先代の武烈天皇が後嗣を定めていなかったため、男系を遡って、白羽の矢が立てられました。

 当初はなかなか、大和国入りが出来ませんでした。そこで、新たに皇族であった手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に迎えることで、ようやく大和の地に入ることができました。大和政権発祥の地とも言われ、山がご神体である神奈備の三輪山の裾に広がる磐余(いわれ、奈良県桜井市)に宮を定めることができました。

 

◇皇族としての皇后を重視◇

 

男系とされながら、なぜ継体天皇は当初、大和入りが出来なかったのでしょう。それは当時、大和政権という存在が、奈良盆地の中だけの世界だけで回っており、実力があっても地方豪族を相手にしない「格」があったからではないでしょうか。手白香皇女を得ることで、傍系といえども男系に加えて、大和の一員としての資格を整えたのでしょう。

継体天皇には大和入りする前に、安閑天皇、宣化天皇という二人の子がいましたが最終的には、手白香皇女との間に生まれた欽明天皇が皇統をつなげていきます。

 この皇統継承の形が崩れてきたのが、蘇我氏が政治の中枢を握った時代でした。一族の娘たちを天皇家に嫁がせ、豪族が外戚の力を存分に奮い、天皇家の政治権力に迫りました。しかし、女帝であった推古天皇の後は、蘇我氏と血のつながりがない舒明天皇、舒明の皇后である皇極天皇(後の斉明天皇)へと受け継がれ、中大兄皇子(天智天皇)が645年、乙巳(いっし)の変で蘇我本宗家を倒し、外戚を排除したのです。天皇家中心の親政を意図したことは天智、天武の両兄弟とも共通の意識を持っていたように思われます。

 このような、大和における中央政権の展開の中で、手取扇状地の開発、末松廃寺の造営が行われたのです。そして、壬申の乱が起こるのです。

 

◇地方豪族の子女の悲哀◇

 

 問題は天智天皇の後継者です。末松廃寺の場合と同様、天皇家の財政基盤を確立するためなのか、天智天皇は地方豪族との結びつきが多く、子は全て地方豪族の子女との間に生まれました。大海人皇子と争った弘文天皇は第一皇子だったのですが、母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめの・やかこのいらつめ)で、志貴皇子と同じように皇族ではありません。天武天皇は自分こそが正当な後継者の最上位の資格がある、と確信していたのに違いありません。

 そして、壬申の乱の後の白鳳8年(679)、天武天皇、鸕野讃良(うののさらら)皇后(天智天皇の皇女、後の持統天皇)は吉野へ行幸しました。天武の皇子では草壁、大津、高市(たけち)、忍壁(おさかべ)の4人、天智の皇子では川島、志貴の2人だけが同行しました。

当時の皇位継承の有資格者であると見做されていたのでしょう。皇位を巡る壬申の乱の後であり、天武天皇は自らが考える皇位継承の在り方を話し、皇子たちに優先順番を付け、これを遵守するよう誓いを立てさせたのでしょう。これは「吉野の盟約」と呼ばれています。天武系の4人が優先され、天智系の2人が冷遇されたのは当然の成り行き、と思われます。

 天武系の中でも、壬申の乱の最大の功労者であり、最年長は高市皇子でしたが、母は筑紫国宗像(むなかた)郡の豪族の出身である尼子娘(あまこのいらつめ)であったため皇族である鸕野讃良皇后の皇子であった草壁が皇太子の地位を得ました。

あと、母が皇族なのは皇后の同母姉である太田皇女(天智の長女)の大津だけでしたが、天武天皇崩御の後、謀反の罪に問われ亡くなります。さらに、皇太子であった草壁は早逝したため、鸕野讃良皇后が持統天皇として即位して、草壁皇子の子供達だけで皇統を引き継ぐように図っていくのです。

 

◇越道君伊羅都売の孫が即位◇

 

 一方、志貴皇子は、政治的には出来るだけ目立たぬように一生を終えていきます。その皇子に白壁王がいます。同王は770年、62歳という高齢でしたが即位して、光仁天皇となります。天武朝の皇位継承者が絶えたためで、思いもしない事でした。天智天皇の孫、言い換えれば越道君伊羅都売の孫が天皇になったのです。

壬申の乱から100年の後、天智朝が復活して、皇位は光仁天皇の皇子であった桓武天皇に引き継がれます。平城京から長岡京への遷都(784年)、10年後には平安京への遷都を行い、現在に至るまで天智朝の皇統が続いていることになります。

末松廃寺と手取扇状地の大開発が天智天皇と越道君との縁を結び、皇統継承に関わった事は覚えておくべきことでしょう。来年は譲位により、新天皇が生まれるのです。(宮崎正倫)

 次回は11月19日、末松廃寺余聞・第3話「時空の断絶結ぶ」です。

バナナジャム~♪

2018年11月13日

毎週火曜日、谷口悦子の「暮らし上手に」の中で、悦ちゃんの料理上手に~のコーナーがあるのは知ってますか~♪

先週、バナナやリンゴをレンジでチンするだけでジャムができるという放送でした。

そして、なんと我が家にバナナが1本ありました。

柿もありました(以前のフルーツサンドの話題にあったんです~)が、生クリームとあんこがなかったので、フルーツサンドはあきらめ・・・

 

バナナを言ってた通り、レモン汁と砂糖をちょっと、リキュールはないのでバニラエッセンスで代用してレンジでチン!

あっという間においしそうなジャムが~♪♪

 

 

 

 

 

 

 

 

残ってたクロワッサンをフレンチトーストにしたので、早速朝食で「いただきま~す☆」

むっちゃおいしい~~ペロっと食べました( *´艸`)

今度はリンゴでやってみよう!

 

 

 

 

 

今日の「悦ちゃんの料理上手に」は、ピーマンの肉詰め!今度の休日やってみよ。あ~おなか空いてきた・・・

皆さんもぜひいろいろやってみてください~

 

N1では、暮らし上手に以外でも、いろんな情報が満載(#^^#)

ラジオだから、仕事しながら、家事しながら、子育て中も、運転中でも楽しく聴けますよ~(*^^)v

あ、リクエストも待ってます~

(なかにしみき)

 

PMCで見つけた〈14〉ジョニ・ミッチェルの「青春の光と影」

曲名を「まだ真の姿を知らない」に変えてみた

 FM-N1のホームページが10月から新しくなりました。今、お読みいただいているブログを再開したほか、各番組で使われた楽曲のプレイ・リストをご覧いただくことも出来るようになりました。スマホからの視聴でも、アプリを介さずに直接番組につながるようになりました。音声と一緒に画像も配信していますが従来よりも、鮮明に滑らかにご覧いただけています。これも、サーバーをクラウド(Cloud)に移したためです。
 クラウドと簡単に言っていますが、私の理解力からはみ出た代物です。実は今、もう一つの「Cloud」でも頭を痛めています。カナダのフォーク歌手ジョニ・ミッチェルの「青春の光と影です(邦題)」。この歌は、これまで、ジュディー・コリンズの作品だと思っていましたが、ミッチェルの方が原曲でした。ミッチェルのレコードをPMCで探すと、3枚ありました。
 そこで、何が「Cloud」か、というと同名のアルバムが「Cloud」で、収録されている同名曲の原題が「Both Sides, Now」というのです。邦題を付ける際に双方とも「青春の光と影」にしたようです。この曲名は、日本人の心をくすぐる所がありますが、作品の内容とは違うような気がするのです。先入観念をもって歌詞を読むと、余り意味が通じなくなって混乱するからです。
 歌詞の和訳全文は、ここではご紹介できませんが番組パーソナリティのロイ・キヨタさんを頼りにすると、青春というより人生の歌のようなのです。最初にCloudに触れ、恋、人生へと展開していきます。ぼんやりとイメージしていた物にも裏と表、陰と陽のように二面性がある。それでも私には本当の姿が分からない、というような内容です。言外に、二面性ではなく中心を見ていないと訴えているようです。敢えて邦題を付けるなら「まだ真の姿を知らない」辺りでしょうか。(宮崎正倫)
 ◇KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、24万5千枚を所蔵している。

菅原小 サルビア学級コンサートにいってきました!

2018年11月12日

去る11月11日(日)、菅原小学校で、サルビア学級主催のふれあいコンサートがあったので、行ってきました!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まずは、なんと、チェロ奏者 細川 文さん(菅原小出身)の生演奏!!

サンサーンス「白鳥」から始まり、バッハ「チェロ組曲」3番、最後はチェロ独奏による「菅原小学校校歌」!!

こんな生演奏を目の前で聴けるなんて、感動です・・

 

 

 

 

 

その後は、雰囲気はガラッと変わり、野々市明倫高校吹奏楽部の演奏。

演奏準備の間、後ろの小学生たちが「6年生を送る会みたいやね」「でもこんなに楽器たくさんなかったよ」と楽しそう。

 

ほどなく演奏開始。

踊るポンポコリン、楽器説明、スーパーマリオブラザーズのゲーム音楽、ひまわりの約束、そしてアンコールの宝島。

とても楽しい演奏でした~(^^)

終わった後、別の小学生が、お母さんに「マリオが良かった~」と話してました♪

 

 

小学校のPTA行事でこんなすてきな企画があるとは・・・

皆さんも機会があれば、ぜひ参加してみてくださいね~

 

(なかにしみき)

末松廃寺余聞・第1話「なぜ瓦が少ない」

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺余聞・第1話「なぜ瓦が少ない」

 

 末松廃寺(野々市市末松2丁目)にはまだまだ謎が多い。それは、研究のための直接的な資料が少ない、ということです。

 例えば、瓦の問題をみてみましょう。仏教の受容に伴う新しい技術によって手取扇状地を開発するため、これまで体験したことのない農法、予想も出来なかった収穫量を上げることができます。集落の形も変貌を遂げていきます。その象徴的なものが権力の在り処を誇示できるのが瓦葺(ぶき)の古代寺院だったでしょう。同廃寺の場合は金堂にしか用いられていません。塔をはじめ遺跡の他の遺構からは出土していません。

 もし、瓦があったなら塔は、五重塔以上の高さがあったかもしれません。高層の塔は屋根に乗せる瓦の重量で建物を抑えつけて安定させているのです。瓦がなければふらついて、倒壊を招きます。末松廃寺の場合は、塔基壇が大きく、柱間が3.6m、三間の建物ですから全体で10.8mあります。七重塔でも可能だったかもしれません。では何故、塔の心柱(しんばしら)を支える礎石、つまり塔心礎(とうしんそ)は三重塔の大きさしかないのでしょうか。

 

◇建築途中で七重塔計画を変更?◇

 

 末松廃寺第6話では、末広がりの三重塔の姿を描いてみました。しかし、当初からこんな姿の

平成25年に能美市湯屋で発掘された登り窯跡。末松廃寺の補修用瓦を焼いていた

塔を思い描いていたのでしょうか。一歩進めて、こんな推理はどうでしょうか。最初の構想では七重塔であったが、建築途中で瓦の入手が困難となり、高さを三重塔に変更した。

 手取扇状地の開発は天智朝の国家的事業であり、手取川右岸の地方豪族・越道君と左岸の豪族・財部(たからべ)氏が協力した、と考えられています。寺院の瓦は、左岸の旧能美郡にあった古窯群で焼かれたことが分かっていますので、財部氏が提供していたのでしょう。

 同廃寺の位置が野々市市であることから、私達は道君が中心になって天智朝に協力した、と思いがちですが、それは正しいのでしょうか。もしかして財部氏が中心であった可能性はないのでしょうか。

 ここで財部氏について、もう一度振り返ってみましょう。「たから」という名前の呼び方からして、これは古代、直接的に皇族に仕えて産物を貢納し、労働力を提供する名代・子代(なしろ・こしろ)の一族に指定されていた。その皇族とは年代を考え合わせれば、幼年に宝皇女と呼ばれていた斉明天皇が有力になっています。

 財部氏の勢力範囲は旧能美郡と言いますが、現代で言うと、手取川から左岸から加賀市の動橋川流域までと考えられます。加賀三湖、JRの加賀温泉駅辺りまで含みます。また手取川左岸と言っても、同川が流れを変える前ですから、扇状地全体の三分の一を占めていた、とされます。また5つの古墳群からなる能美古墳群を抱えています。造営期間は弥生時代から古墳時代後期の400年間に及び、多種多様の副葬品が出ています。北陸最大級の前方後円墳である秋常1号墳もあります。江沼臣(旧江沼郡)と道君の間に挟まれて見落とされがちですが、遜色のない大豪族と言っても差し支えない、と思います。

 

◇財部氏が先に古代寺院を建てていた◇

 

 末松廃寺の造営開始は斉明6年(660)ですから、天智朝と言っても斉明天皇の頃です。天皇親政という新しい政治を行うために天皇家の財政力を強くする意図を持った扇状地開発であれば尚の事、末松に先立って財部氏が左岸で、古代寺院を建てて開発を進めていた、とするのが自然な流れのようにみえます。

 この技術の蓄積を持って、古代加賀郡であった末松を中心に墾田開発、屯倉(みやけ)の開発に乗り出したのではないでしょうか。

 古代加賀郡は道君の領地です。財部氏のように名代・子代ではありませんから、屯倉の管理、財力の源である稲の運搬、田を耕す農民である田部(たべ)の確保を任すには一工夫が必要になります。それが道君伊羅都売を天智天皇の采女(うねめ=女官)として宮に入れ、懐に取り込んだのではないでしょうか。

 

◇末松廃寺に瓦の供給が絶たれる?◇

 

 末松造営が始まった翌年、斉明天皇は崩御されます。治世は天智天皇の代に移りますが、それでも同一王朝ということで事業は続けられます。しかし、代替わりをすれば財部氏は斉明天皇の奉仕集団、名代・子代から離れて一地方豪族に性格が変わり、旧能美郡の経営に専念せざるを得ません。そうであれば、末松廃寺から手を引いて瓦の供給が絶たれることになります。

加えて、造営開始から12年が経った672年になって壬申(じんしん)の乱が起き、天智朝は、弟の天武朝に交代します。

その頃、末松廃寺では金堂が完成し、塔の建設に着手していました。中央にも比肩するくらいの塔基壇は出来上がっていましたが、瓦の供給は途絶えます。やむなく、塔心礎を取り替えて三重塔を建立することになりました。

推理に推理を重ねれば、瓦の少ない末松廃寺と塔の謎をこの様に解くことも出来るのではないでしょうか。(宮崎正倫)

 次回は1115日、末松廃寺余聞・第2話「皇統つなぐ皇子」です。

親子電波教室のお友達

2018年11月10日

本日11月10日(土)は金沢工業大学で親子電波教室が行われました♪

早速自作のラジオを持って、小学生のお友達がFM-N1に来てくれましたよ~(^^)

まずは、ちょっとだけお話聞いて、自作のラジオをFM76.3MHzに合わせてみると・・・

なんと、しっかり聴こえるではないですか!すばらしい!!

聞けば、1時間くらいで作れた(ちょっとだけ専門家が土台作ってあったけど)とのこと。

 

 

 

 

その後は、ちゃっかりスタジオ見学ならぬ体験に。

放送はできないけど、雰囲気はしっかり味わってましたよ!

 

 

 

 

 

将来はアナウンサーやミキサーになって、FM-N1に来てね (^_^)v

(なかにしみき)

 

PMCで見つけた〈13〉チャーリー・プライドの「テネシー・ガール」

2018年11月9日

アフリカ系アメリカ人が歌う甘酸っぱいカントリー・ミュージック

 これまで余り触れたことがないカントリーを聴こうと、PMCからチャーリー・プライドのアルバム「リバー・ソング」を借りてきた。まず、最初に驚かされたのは、レコード・ジャケットは少し色褪せていたものの、確かにアフリカ系アメリカ人の顔立ちだった。カントリー・ソングと言えば典型的なヨーロッパ系アメリカ人の音楽だという先入観念があったからである。
 彼の経歴を見ると1938年(昭和13)にミシシッピー州のスレッジ生まれとある。ミシシッピー川はアメリカ音楽の川でもある。河口のニューオーリンズは南北戦争の後、ジャズが発祥した地であり、中流のメンフィスではブルース、ソウル、ロックンロールが生まれ、ナッシュビルはカントリー・ミュージックの地である。
 例えば、エルヴィス・プレスリーはこんな環境の中でカントリーだけでなくブルースや、ゴスペルを聴いたように、チャーリー・プライドもカントリーを聴いて育ったのである。第13回グラミー賞で、最優秀カントリー男性歌手賞を受けているのもうなづけるのである。カントリーチャートでは30曲ほどが1位を記録しているという。
 1973年に発売された同アルバムのお気に入りは「テネシー・ガール」だった。旅に出た男が生まれ故郷のテネシーが恋しくなり、恋人の待つテネシーに帰るという、胸に甘酸っぱさがこみあげてくる1曲である。(宮崎正倫)
 ◇KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、24万5千枚を所蔵している。

ブログ 瓦塔ショコラ!

2018年11月8日

10月末、野々市市の末松廃寺で、天女像が描かれた瓦塔(がとう)の欠片が発見されました。日本で初めて絵が描かれた欠片が見つかり、瓦塔が何に使われていたかがわかるかもしれない、と考古学会は盛り上がっています。(詳しくは、10月31日のスタッフブログ「末松廃寺ニュース:全国初、「天女」の線刻画が描かれた瓦塔片を発見」をご覧ください)

瓦塔、がとう。

よし、ガトーショコラ作ろう。

お菓子作りが好きな(得意とは言っていない)スタッフK.K.が”瓦塔”ショコラを作ってみました。

粉砂糖で天女像を再現しました。左側にのっティも。

土器のような堅さと出土したばかりのような黒さを再現・・・

味?

ほろ苦かったです。(焦げ)

(K.K.)

末松廃寺・第11話「寺院から神社へ」

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第11話「寺院から神社へ」

 

 末松廃寺(野々市市末松2丁目)は創建から間もなく、理由は分からないものの、伽藍が倒壊しています。木造建築の修理が必要になる目処は約60年とも言われますので、完成した670年頃から40年程しか経ない奈良時代初頭では、早々に、という表現になります。昭和の発掘調査結果から、再建されたのが8世紀の第2四半期(726750年)とされています。

 天智朝が始めた手取扇状地の開発事業は、象徴的建造物である末松廃寺が完成した直後に壬申の乱(672年)が起き、天智朝は天武朝に交代しています。天武天皇は全国に寺院建立を勧めたため各地で造寺の動きが盛んになります。扇状地開発の現地責任者の立場にあった越道君も氏寺の広坂廃寺(金沢市役所、21世紀美術館)を建てています。遺跡からは藤原京様式の瓦が出土しています。

 また、天武5年(676)には全国の寺で「金光明経」「仁王経」を説かせているので、末松廃寺でも同様の光景が繰り広げられたに違いありません。

 

◇末松廃寺の護持は開発指導者の手に◇

 

 国分寺などが設置されるようになると、末松廃寺の管理責任は中央の政権でもなければ郡司である道君の手も離れ、現地の入植者、墾田開発の指導者層に移って行ったのでしょう。

 天武天皇の孫である文武天皇の大宝2年(702)に大宝律令が施行され、国内の政治体制は律令制へと移行していきます。仏教伝来からこちら、最先端技術と結びついて権力と富を生み出してきた仏教寺院は全国的な普及とともに、権力の中枢である天皇家を支える役割から律令国家を精神的に支える国家仏教へと変貌を遂げていきます。また、東大寺の大仏にみられるように、現生利益を求める信仰になったのです。

 そこで、天皇家は国家の上に立つための新たな権威を求めるようになります。仏教の代わりに選ばれたのが神道ではなかったでしょうか。仏教伝来までの、あるがままの自然を重視した神道ではなく、天皇は神の子孫であるという物語性に裏打ちされた論理的な神道に衣替えをしたのです。

 

◇神道に基づく古事記、日本書紀編纂◇

 

 天武天皇が編纂を命じた「古事記」「日本書紀」は神代から始まっています。それぞれ、元明5

林郷八幡神社の鳥居。奥に拝殿が見える=野々市市上林

年(712)、元正4年(720)に完成しています。

 そうした中央政権の神道の動きとは別にして、奈良時代の養老7年(723)に「三世一身の法」、天平15年(743)に「墾田永年私財法」が施行され、土地は全て国の口分田という考え方から墾田の私有に道が開かれます。古代寺院の末松廃寺を中心とした開発地は律令体制の下でも着実に拡大し、末端の行政単位である「拝師郷(はやしごう)」を形成していきます。扇状地の乾田は単収も高いうえに未開発の土地も多く、私有地がまだまだ拡大する余地は十分あったとみられます。

 墾田管理の中枢は、末松廃寺造営時の末松A遺跡から、拝師郷が成立する律令制の時代に下新庄アラチ遺跡へと移り、斉明6年(660)の近江(滋賀県)、丹波(京都府北部)からの入植者の末裔が郷長となっていきます。この時期に、奈良時代の初頭には倒壊した同廃寺が再建されているのも、私有地拡大で力をつけた拝師郷長の出現があったからでしょう。

 末松廃寺では、金堂跡の西側用水から昭和36年(1961)に古代の貨幣である和同開珎(わどうかいちん)の銀銭が見つかっています。和同開珎が発行されたのが和同元年(708)ですから、創建当時に持ち込まれたものではありません。もしかすると末松廃寺の再建に当たり、地鎮の儀式で埋設された宝物の可能性も濃くなってきます。

 

◇末松廃寺の廃絶で林郷八幡神社を創建◇

 

 昭和の発掘調査によって、末松廃寺跡で確認される一番新しい遺構は11世紀中頃と考えられる溝状遺構です。建物ではなく桑畑などの畝間として掘られた溝跡と考えられています。平安時代の半ばには末松廃寺が完全に消滅していたことになります。400年に満たない命運だったことになります。

祭神として三条天皇の名前が刻まれた林郷八幡神社の由緒碑文

末松廃寺再建の後、拝師郷の政治的な中枢であった下新庄アラチ遺跡の集落は、末松A遺跡群などと共に9世紀半ば以降、と言いますから平安時代に入って50年程経った頃に急速に衰退していき、10世紀には本拠地としての終焉を迎えます。

 これは扇状地開発の終わりを意味するのではなく、開発の中心地が末松から、手取川の水源である白山寄りの安養寺遺跡(白山市)辺りへ移っていったため、と考えられます。灌漑のための取水口を更に上流に求め、墾田地を拡大させるために指導者層が移動したのでしょう。末松廃寺の護持者がいなくなったために同寺は歴史の舞台から消えて行きました。

 しかし、集落の全員が移住したわけではありません。これまでの墾田を守るために残った人達は、古代寺院の代わりに神社を建てます。天皇家の権威が仏教から神道へと変わったように、です。

 神社の名前は林郷八幡神社(野々市市上林)です。同神社由緒によると、祭神は応神天皇、神功皇后、三条天皇となっています。平安時代の長和2年(1013)創建です。末松廃寺が廃絶する頃と重なります。

 

◇祭神は藤原道長が擁立した三条天皇◇

 

 祭神として勧請された三条天皇が即位したのは、同神社落慶の2年前です。在位期間は1011716日で、1016310日に退位しています。百人一首に「心にもあらでうき世に長らへば恋しかるべき夜話の月かな」の歌を残しています。同八幡神社は、三条天皇即位とともに宮の造営に取り掛かり、祭神として勧請したことになります。

 当時の権力者は太政官の首席である左大臣の藤原道長でした。「この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」の歌が示すように、権力の絶頂期を迎えていました。また紫式部や清少納言が宮中で健筆を奮っていた頃です。三条天皇は一条天皇の後を受けて即位しましたが、道長の力がなければ及ばなかった、と言われています。

 つまり、三条天皇を勧請するには道長の許しが必要になります。開発した墾田の一部を荘園として寄進したことも考えられます。道長の威光によって、荘園管理者として地位を安堵してもらい、自らは地頭の役割を果たすことで勢力を伸ばしていったのではないでしょうか。

 白鳳時代の古代寺院を扇状地開発の守護者としてきた時代が終わり、神道に基づく神社が土地の守り神になっていったのです。応神天皇、神功皇后は武人の神です。しばらくして、手取扇状地には武士団としての林一族が姿を現します。都に上って宮中警護も担うようになり、中央政権との関係を築いていきます。自らの墾田を実質的に領地としていたところが、同じ武士団でも後の鎌倉武士団、御家人とは違うところかもしれません。(宮崎正倫)

 次回は1112日、末松廃寺余聞・1「なぜ瓦が少ない」です。