末松廃寺・第5話「条里説が強まる」
2018年10月18日
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺・第5話「条里説が強まる」
平成27年度から4カ年計画で進められた末松廃寺跡の発掘調査は、昭和の発掘調査で明らかに出来なかった寺域の確定、補充の調査が主な目的でした。また、同廃寺から東の方角にあたる8世紀の下新庄アラチ遺跡(野々市市新庄)や、西の方角1.5㎞にある三浦遺跡(白山市)が条里制を思わせる遺構であることから、同廃寺との関連性についても、当初から大きな関心が寄せられていました。
そんな期待が寄せられる中、平成の発掘調査は大きな成果を上げた、と見ることが出来ます。
◇廃寺遺跡のすぐ西側に手取川が迫る◇
末松廃寺の寺域について、昭和の調査では金堂西側と南側から出土した回廊代わりの土塀の基

末松廃寺跡の西縁を深く発掘したら自然の河底が出てきた
盤遺構から、また塔跡東側から出土して、回廊代わりの掘立柱塀と見立てていた遺構までの長さは東西幅が約78.4m、南北が約53mとされていました。
ところが、西側の土塀跡を詳しく調査したところ、幅約2mの基盤には人工的に突き固めた版築の痕跡がなく、土塀跡の外側を、昭和の発掘調査より深く掘ってみたところ、自然の河川の跡が出てきました。同廃寺の西側は手取川の分流に面して、落ち込んでいた可能性が高まりました。
また、塔東側の掘立柱塀についても補充調査をしました。二基の柱穴が出たことで塀跡と解釈されていたのですが、塀と想定される南北の延長線上を発掘しても他の柱穴は見つかりませんでした。柱が続かなければ塀になりません。結局、柱穴は祭事、行事の際に立てる幟(のぼり)の支柱穴、幢竿(どうかん)支柱跡であると分かりました。
寺院の中でも一番神聖な区域とされる中心伽藍を囲む結界である回廊・土塀が消えてしまったのです。寺域が不明確になる重大事です。
◇東門が出土し寺域は東西92mに拡大◇
ところが、がっかりしたのも束の間。この幢竿支柱より更に東側約17mから大溝が出土したの

平成の発掘調査で分かった末松廃寺の伽藍配置
です。大溝の中には直径30~40㎝の柱穴が一対、出てきました。大溝は土塀跡で、柱穴は塀に設けられた東門の柱跡であるとみられています。ただ、この土塀が中心伽藍を囲む回廊の役割を果たすのか、寺域を外界と画す外郭の塀なのかは判断がつきません。大溝の外側は、国が指定している遺跡の範囲からはみ出すため調査が出来ないからです。
更に驚くべきことが判明しました。金堂跡、塔跡、幢竿支柱、東門の中心がそれぞれ、東西に延びる一直線上に並んでいるのです。末松廃寺の造営に当たっては綿密な都市計画の下に地割りと土地利用が行われていたことが窺えます。西側の河川跡に面した廃寺の縁からこの大溝までの幅は92mになります。
条里制の基本は一辺が109mの正方形に地割りを行います。寺院の西側は無理やり、河川によって千切られたように欠けています。また東の大溝の外側には道路が走っていなければなりません。大溝が外郭ではなく回廊に相当するとすれば、土塀の外側には七堂伽藍のうち、まだ未発見の僧房などがある可能性もあります。末松廃寺の寺域は限りなく109mに近づくことになります。
また、塔の北東から1間×2間の長方形の建物跡が検出されました。再建時の遺構とみられますが、中心伽藍の中にあることから鐘楼、経蔵の可能性があります。ただ正方形でないのが難点で、周辺の追加調査も必要かもしれません。
この他にも出土した遺構があります。塔跡の南側から、再建期のものとみられる中門の柱穴が3基並んで発掘されました。ただ、中門に屋根を乗せると仮定すれば、3基と対になる柱穴がもう一列か二列、並行して出土しなければなりませんが、確認できませんでした。中門の構造は、掘立柱と、それに前後した置石による柱の組み合わせの可能性も指摘されています。
◇墾田開発に必要な条里制の地割り◇
ここで、条里制について少し考えてみたいと思います。「制」という文字が付くところから、これまでは平城京や平安京の整然とした区画割りを思い浮かべ、律令制に伴う政治的な制度と思われてきましたが実態は違うのではないでしょうか。
仏教寺院に代表される渡来系の最先端技術。つまり墾田開発のための土木技術、治水技術、集団農法を駆使するための効率性、公平性が求められた結果ではなかったのでしょうか。 土地利用のための計画的な地割り、都市計画的な考え方、と言ってもいいでしょう。
農作業の面から言えば、作付けする稲の種もみは入植者の所有ではありませんでした。開発を企図した権力者のものでした。墾田管理者などから、春になると作付け用として、農作業に従事する田部(たべ)個々人に貸し付けられます。秋の収穫が終わると田部は、決められた歩合で利息をつけた分量の稲穂を返却しなければなりません。誰それが、何処の区画で、どれだけ作付けて、どれだけ収穫があったかを管理する必要があったからです。戸籍という田部の登録も必要になります。
石ころだらけの扇状地の荒れ野を拓き、墾田化するには共同作業が必要になります。乾田化によって従来の単収とは比較にならないほどの大幅な増収が実現します。共同作業である限り、墾田分配に際しても公平性が求められます。
律令制より実体的に先行していた条里制に基づく墾田開発が、律令制の時代になって国の制度として追認されていったのではないでしょうか。
◇近江、丹波から200人ほどが移住◇
昭和の発掘調査報告書の中には、聖武天皇の天平15年(743)に墾田永年私財法が発布されて条里制がとられたと仮定するなら、近江(滋賀県)南部の研究事例を挙げて、天平の地割り軸とは異なる地割りの墾田が存在することから、同私財法に先行する耕作地区が見られる、と指摘しています。
手取扇状地の開発、末松廃寺の造立に際しては近江(滋賀県)、丹波(京都府北部)からの入植者が200人程いた、と指摘されています。もちろん近江という地方名が同一であるだけで、研究事例に上げられた地区からの入植者と、単純に言えないことはもちろんです。それでも、墾田永年私財法が発布される以前に、末松廃寺では、周辺集落の建物を含めて地割り軸を同方角とした条里制を想定することもできます。
つまるところ、こういう事ではないでしょうか。
斉明6年(660)の少し前、近江、丹波からの入植者200人程が末松に入植してきました。彼らは、水位の低い、乾燥した荒れ野の開発に不可欠な灌漑のため、まず手取川からの取水口の適地を選び、畔(ほとり)に一辺109mの正方形の区画を設定して、当地では見たこともない威容を誇る仏教寺院・末松廃寺を造立した。これまで、不可能と思われてきた扇状地開発を、渡来の最先端技術で切り開くための決意表明でもありました。また同廃寺を中心に、周辺の土地でも地割りを行い、先住の人達を支配下に組み入れ、指導しながら勢力を伸ばしていきました。(宮崎正倫)
次回は10月22日「塔は建ったのか」です。
末松廃寺・第4話「どの寺が手本?」
2018年10月15日
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺・第4話「どの寺が手本 ?」
末松廃寺(野々市市末松2丁目)は斉明6年(660)以降に造営が開始され、天智9年(670)頃には一応完成したのではないかと見られています。
昭和の発掘調査によれば、同廃寺は西に金堂、東に塔を配置し、学問上の分類は法起寺(ほうきじ)式様式ということになります。寺院の建物を総称して七堂伽藍と呼ぶこともあります。金堂、塔、講堂、鐘楼、経蔵、僧房、食堂(じきどう)を言います。この中でも一番神聖な場所とされるのが金堂、塔のある中心伽藍・塔院で、周囲には結界の意味で回廊が巡らされ、南に面して中門が設けられます。更にその外側には築地塀と南大門が寺域全体を取り囲んで外界とは異なる宗教空間を作り出しています。
昭和の発掘調査報告書によると、末松廃寺から出土した七堂伽藍の遺構は、創建当時のものでは金堂跡、塔跡だけでした。金堂の西側からは周囲の地盤より固い幅2m程の地層が見つかり、回廊の役割を果たす築地塀の基壇跡と推測されました。塔の東側からはやはり、掘っ立て柱の柱穴が見つかり、築地塀とは構造が異なるものの、掘っ立て柱の回廊が続いていると見做されました。
また、金堂跡に重なりながら、少し向きを東側に振られた再建金堂跡も確認されました。奈良時代の初め頃に一度、倒壊したために建て替えられたとみられ、再建金堂跡と建物軸を同方向にした建物跡も数棟出土しました。再建期の講堂と付属建物ではないかと思われます。この他にも11世紀中頃(平安時代中頃)までの遺構が続き、以後は途絶えます。
◇法起寺式を真似たのではない末松廃寺◇

話は同廃寺の創建当時に戻ります。先に、西に金堂、東に塔の伽藍配置は法起寺様式に分類されると言いましたが、実は法起寺の完成は末松廃寺の後になるのです。
法起寺は舒明(天皇)10年(638)に金堂の建立が始まります。塔については、発願そのものが天武(天皇)13年(684)と金堂から半世紀が過ぎていて、末松廃寺の完成後になります。塔の完成は文武天皇の慶雲3年(706)まで待たなくてはなりません。
法起寺の金堂造営時に、既に寺院全体の伽藍配置が決まっていて、同寺を手本に末松廃寺の伽藍計画を立てたというには無理があるような気がします。そうならば、末松廃寺は大和にあったどの寺に倣って造営されたのでしょうか。地方の白鳳寺院が国内で最初の独自型式を採ったとは思えません。
そこで、第3話「蕃神が産業革命」でお話した仏教伝来の話を思い出してみましょう。
廃仏派の物部氏を破って政治の実権を握った蘇我氏一族はその後も、次々と寺院を建立していきます。代表的な寺院としては、聖徳太子が四天王寺と法隆寺を。蘇我馬子が飛鳥寺を、という具合です。これらの寺院の伽藍配置をみていきましょう。
四天王寺は中門、五重塔、金堂、講堂それぞれの建物中心が一本の直線状にくるように並んでいます。中門と講堂を結んで回廊が取り囲んでいます。法隆寺では、中門と講堂が一直線に並び、回廊の中には西に五重塔、東に金堂が配されています。
蘇我馬子の飛鳥寺もやはり、四天王寺のように中門と五重塔、中金堂、講堂が一直線上に並びます。更に、五重塔の東西にもそれぞれ金堂を配するという荘厳な造りとなっています。回廊は中門から延びて、中金堂と講堂の間を抜けて塔院を囲んでいます。従って講堂は完全に中心伽藍の外側に置かれます。
◇伽藍配置は川原寺に近い◇
もう一つ、推古天皇が「三宝興隆の詔」を発布して仏教を公認した後に、国が建立した大寺があります。推古の次の代である舒明天皇が発願した百済大寺(吉備池廃寺、奈良県桜井市)です。舒明の皇后であった皇極天皇(後の斉明天皇)が造営事業を引き継いで完成させました。平成9年に予備調査が始まり、まだ全ての発掘は終わっていませんが、法隆寺と同様に、西に塔、東に金堂が置かれています。塔は基壇の大きさから九重の高さがあった、と言われています。工事には「近江と越」の民が動員された、という記録が日本書紀にあります。
ここまで、代表的な大和地方の寺院を眺めても、末松廃寺のように法起寺式の伽藍配置はありません。
西に金堂、東に塔という配置が現れるのは、更に時代が新しくなった天智天皇の代になってからです。奈良・飛鳥の川原寺(かわらでら)です。斉明7年(661)に薨去された斉明天皇の冥福を祈るために670年代までに天智天皇が発願したとされています。
伽藍配置は中門と中金堂、講堂が一直線上に並んで、塔は線上から外れます。中門と中金堂を結ぶ回廊に囲まれた中心伽藍には西に金堂、東に塔の新しい配置が初めて現れます。
明らかに、蘇我氏中心の飛鳥時代の様式から百済大寺を経て、蘇我氏本宗家を倒した皇極4年(645)の乙巳(いっし)の変を境に、新しい構想に転換していくようです。これを後に、法起寺式と呼ぶようになったのでしょう。
◇塔跡周辺から川原寺様式の瓦が出土◇
川原寺と末松廃寺の造営時期は全くと言っていいほど重なります。天智天皇の発願に際しては川原寺の様式は決まっていたと思われ、簡略ながら末松廃寺に適用されたとしても、あながち無理な推測とばかりは言い切れない、と感じています。川原寺を手本としたならば両寺院は同時並行的に造営されたことになります。
昭和の発掘に際して、実は川原寺式の軒丸瓦片が1点、末松廃寺の塔跡付近でぽつんと見つかっています。持ち込まれた時期や目的は分かりませんが、偶然の産物だったのでしょうか。(宮崎正倫)
次回は10月18日「条里説が強まる」です。
末松廃寺・第3話「蕃神が産業革命」
2018年10月11日
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺・第3話「蕃神が産業革命」
国史跡「末松廃寺跡」(野々市市末松2丁目)を論じる時に、一番基になるのは、同廃寺の造立年が斉明6年(660)頃よりは古くはならないということでした。歴史的な事件、出来事の年表に当てはめることで、同廃寺の置かれていた時代的状況を理解することが可能だからです。それではなぜ、660年が分かったのか、ということです。国の調査報告書からみてみましょう。
◇塔跡の下から住居跡と須恵器が見つかる◇
昭和の調査で、塔跡の発掘をしていた時です。塔基壇の東南隅に当たる地盤の直

塔基壇跡の東南角。基壇跡の更に下から住居跡が発掘され、造営年が660年以降と割り出された
ぐ下の地層から、東西方向の長さが3.6mある四角形の住居跡が出土し、床面からは須恵器が発見されました。須恵器の製作年代は、全国規模での調査研究の蓄積があり、研究者の手にかかれば試料を比較することで特定が可能なレベルにまで達しています。その結果、出土した須恵器の年代が割り出されたのでした。住居遺跡の直ぐ上で塔、すなわち同廃寺の造立が行われた訳ですから660年というのが基準となります。
この660年という時代は、日本という国家が成立する激動期にあたります。中大兄皇子(天智天皇)が、飛鳥板葺宮(あすかいたぶきのみや=奈良県明日香村)で、蘇我入鹿(そがのいるか)の首をはね、天皇親政の政治を計った乙巳(いっし)の変から、まだ15年しか経っていません。生々しい歴史の大きなうねりの渦中で末松廃寺の造営事業が起こされていくのです。
白鳳寺院と言いますから、もちろん仏教寺院です。この仏教であるということが末松廃寺の謎を解く上で大きな手掛かりになってきます。北陸では最初期の仏教布教ということになります。そこで回り道になるようですが、古代の仏教について少し思い出してみたいと思います。
◇半島から仏教と一緒に最新技術も伝わる◇
いくつか説あるようですが、仏教が朝鮮半島にあった百済(くだら)から日本に正式に持ち込まれた仏教公伝(こうでん)は欽明29年(552年)のことです。それ以前の538年には既に、私的に持ち込まれ、豪族が帰依していた、という見方もあります。
古代の日本には古神道が存在していました。自然の中に神々が存在して、人は自然・神と共に暮らしている、という考え方です。そこへ、国外で生まれた仏教が入って来た訳です。外国・異国から、その土地へやって来た神を蕃神(ばんしん)と呼びますが、仏教の本尊であるお釈迦様は、当時の人々からみれば蕃神ということになります。
仏教伝来と聞くと、何か経典だけが入ってきて、人々が学問として学ぶ教養のように考えがちですが様相は大きく異なっていたようです。精神、思想性の面は否定しませんが、仏教を護持する人達と共に最先端の技術が導入され、一種の産業革命や生産性向上に伴う生活様式の大変革が起きていたのです。大規模な土木技術と治水の技術、高度な高層建築の技術、須恵器や瓦にみられる焼成技法など、日本の人達に衝撃を与えるものばかりでした。
末松廃寺の造営年代を特定できたのも出土した須恵器からでした。これまで低温で焼かれていた従前の土器と比べ、轆轤(ろくろ)で成形し、高温を得られる登り窯で焼くため硬質に仕上がります。
◇崇仏派の蘇我氏が寺院造営を独占◇
仏教公伝後の用明2年(587)に丁未(ていびん)の乱が起きます。崇仏派である大臣(おおおみ)の蘇我馬子と廃仏派である大連(おおむらじ)の物部守屋が仏教の受容を巡って争い、蘇我氏側が勝利します。蘇我氏の陣営には聖徳太子が加わっていました。
これは単なる仏教という信仰に関して争ったのではなく、政権の基盤を支える経済、生産活動に従事する工人達の支配権をどちらの派が握るか、という争いでもありました。効率性、生産性は渡来系の先端技術の方が優れているわけですから、歴史の「もしも」が許されて物部氏の勝利に終わっていたとしても、紆余曲折を重ねながら渡来系の文化を取り入れた社会へ変貌していったことは想像に難くありません。
しかし、歴史的事実は蘇我氏の勝利でした。あるがままの自然を尊重しながら墾田の拡張を図ってきた手法から、大胆な土木、治水事業によって自然を大改造し、墾田を拡大する営農に変わって行きます。まさに蕃神が、自然に宿る神々を駆逐するようではありませんか。
この乱の後、推古2年(594)に「三宝興隆」の詔が発布され、仏教は国の公認となります。聖徳太子は四天王寺、斑鳩宮(いかるがのみや)、法隆寺を建立していきます。蘇我馬子は飛鳥寺を建立します。一気に造寺の機運が高まっていきます。
特に、推古17年(609)に蘇我馬子が蘇我氏の本拠地とした飛鳥・甘樫丘の東の方角に氏寺として建立した飛鳥寺は、飛鳥大仏(釈迦如来)を本尊とし、広大な敷地に瓦葺の伽藍が立ち並びました。五重塔を中心に北側の中金堂、東西金堂の3金堂が取り囲み、南門から伸びた回廊がこれらの中心伽藍を取り囲んで、見る者を圧倒する聖域を形成しています。回廊の外側には西門が甘樫丘を望むように正対しています。
◇国家が初めて建てた百済大寺(吉備池廃寺)◇
先に、蘇我入鹿が殺害されたのは飛鳥板葺宮(皇極天皇=後の斉明天皇=の宮)と述べまし

乙巳の変の舞台となった伝飛鳥板葺宮遺跡。写真右後方に飛鳥寺があった=奈良県明日香村
た。飛鳥寺の完成から36年後の事件でしたが、天皇の宮といえども文字通り板葺きであったことを思えば、いかに瓦葺の寺院建築は人心を掌握する上でも荘厳な建物であったかが理解できると思います。この技術を蘇我氏が一手に握り、天皇家と比肩する力を誇示していたのです。
一方、三宝興隆の詔が発布された後、国が建立した寺院に百済大寺(吉備池廃寺=奈良県桜井市)があります。飛鳥寺から北東の方へ直線で約3㎞の地点です。東に金堂、西に塔を配置した大規模伽藍で、塔の高さは九重であったと言います。天智天皇の父である舒明天皇が舒明11年(639)に発願し、後を引き継いだ皇后の皇極天皇が完成させました。造立工事には近江、越の人達が動員された、と記されています。
◇乙巳の変からわずか15年後◇
当時の政権運営は天皇を中心とした大豪族の合議制だったと言われますが、渡来系の先端技術を掌握し、聖徳太子を含む蘇我一族が次から次へと寺院を造営していく様子を眺めると、爆発的な財力の蓄積を背景に政権運営の実権を握り、思うがままに力をふるう蘇我氏の姿が浮かび上がってきます。
天皇の座をも左右しかねない権力を、天皇家に取り戻すために、中大兄皇子を中心に計画、実行されたのが乙巳の変だといえます。渡来系の先端技術によって築かれた生産体制そのものを国営に移管した、と言っても過言ではないでしょう。
板葺きの宮で起きた乙巳の変のわずか15年後、政治、文化の中心地であった飛鳥から遠く離れた野々市市末松に、石ころだらけで耕作不可能だった手取扇状地に、時代の先端をいく瓦を用いた白鳳寺院が造営され始めるのです。周辺には単独で仏教を受容し、独力で寺院を造営できるだけの在地大豪族は見当たりません。この謎を、昭和の調査、平成の調査が解き明かしていくのです。(宮崎正倫)
次回は10月15日「どの寺が手本?」
末松廃寺・第2話「鉄製農具の一撃」
2018年10月8日
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺・第2話「鉄製農具の一撃」
北陸新幹線が平成27年3月14日に開業して3年が経ちます。初めは東京へのストロー現象が心配されていましたが、金沢市への誘客は順調で、昨年度の観光客数は1,022万人を超えたとかで人気は衰えを知りません。
その魅力は、江戸時代の加賀百万石が育んできた城下町文化、先の大戦による被害を免れた町家や小路の街並み、藩政期の茶屋街などが情緒を醸し出しているからに他なりません。また、兼六園、これに接する金沢城が復元されつつあり、歴史の深みが背骨の様に芯を通しています。
◇加賀藩の財政支えた手取扇状地◇
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵」と言ったのは戦国武将の武田信玄だそうです。加賀藩も加賀八家と呼ばれる家老衆と、石垣の博物館とも称される城があったからこそ繁栄したのかもしれません。
加賀藩は、徳川幕府の外様でありながら石高は加賀、能登、富山を合わせて122万石にのぼり、全国でも一頭群を抜く財力が背景にあって武家文化を支えてきました。その中でも足元とも言える石川郡が18万石、能美郡が12万石を数えます。言い替えれば石川県最大の穀倉地帯である加賀平野、手取川の右岸、左岸扇状地で総石高の四分の一に当たる30万石を生み出していたことになります。FM-N1のある野々市市も右岸の扇央部に在って、旧石川郡の一角を占めています。
◇手取川の石から戸室の石へ◇

唐戸石と呼ばれて親しまれて来た末松廃寺の塔心礎。塔の心柱を支えた
末松廃寺跡(野々市市末松2丁目)の調査の元となった「唐戸石(からといし)」として地元では親しまれてきた塔の心礎(しんそ)は当初、金沢城と同じく戸室石(金沢市戸室産)ではないかとも見られていました。が、調査結果から、手取川の転石である安山岩と判明しました。ともかく、加賀百万石は手取川の石から始まり、戸室の石に行きついたことになります。
◇金沢城を歩いてみた◇
今年の四月に機会があり、石川県金沢城調査研究所の木越隆三所長(野々市市在住)を案内役に、金沢城などを駆け足で巡ってきました。
スタート地点は金沢市下新町。金沢城の防御のために城外に張り巡らされた二重の土居の一つ、東内総構跡を見るためでした。他人様の敷地・駐車場でしたが、駐車場の端が総構の縁とあってやむを得ない仕儀と相成りました。縁から見下ろすとかなりの高低差があり、堀の名残りである用水が流れていました。町家が続く小路を西へ。旧町名が復活した袋町を抜けて市媛(いちひめ)神社の境内に入り、延びてきている総構の段差を確認。今度は国道159号を渡って近江町市場へ着きました。
総構跡の段差に沿うようにして市場の裏へ入り込み、更に進んで途中から営業中のスーパーの店内へ。買い物客の間をすり抜けるようにして裏口から出ました。近江町市場を後にした歩みは十間町から西町藪ノ内、同三番丁、尾崎神社を経て、やっと金沢城黒門に到着しました。石川門は、漆喰(しっくい)壁の色から白門とも呼ばれますが、黒門は白門とは正反対の方角になります。ちなみに、東京大学の赤門は江戸時代の前田家上屋敷跡になります。
到着した黒門から城外の尾張町方向を眺めると、今歩いて来た総構跡の高低差が一望の下に見て取れます。
木越所長がここでつぶやきました。「私的な思いだが、加賀百万石の藩祖前田利家が金沢城に入ったのは大手門ではなく黒門ではなかったのかな」。定説を覆すような貴重な発言だったかも知れないが、その場は聞き流すだけにしておいて、いよいよ城内へ。
◇石垣の博物館と最古の文禄石垣◇
大手堀、大手門、三の丸広場、河北門の順に進んで石川門裏へと。ここには、石垣の博物館と異名を

金沢城の丑寅櫓の文禄石垣。前田利家が入城した当時の最古の野面積み
取る同城でも最古の石積みとなる文禄石垣と対面。野面(のづら)積みという自然石の姿のままに組み上げられた荒々しさが特徴です。更に鶴丸倉庫、橋爪門の脇から二の丸御殿の石垣へ。石に彫られた多種の刻印も楽しみながら、大奥の外周を回って、玉泉院丸庭園へと下りました。
下りの道が今度は一気に上りとなって本丸跡へ。これまでは裏側しか見ていない三十間長屋の正面に回って広坂合同庁舎を見下ろす斜面の際へ。三カ所の破風造りを確認して本丸園地へ。城跡の最高地点である東南角の辰巳櫓跡を巡って、蜂にまとわりつかれながらもゴールの石川門へと下った。
◇石から始まったもう一つの歴史◇
3時間余りの行程を終えてみれば、余り好きでなかった前田様も何か憎めない人物に思えてきました。これも金沢城調査研究所などの長年に渡る発掘、調査、研究があってのことだと実感させられました。
もう一つの発見は我が体力の衰え。それほど歳の差があるわけではない木越所長の健脚に比べて、なんと足腰の弱い事か。帰宅すると文字通り、崩れるように倒れ込んだ。老体をいたわるように、金沢城の巨大な建築物を支えた石積みに想いを巡らせていると、もう一つの「石」が脳裏を横切りました。近世の金沢城と比して、文献の少なさから息の長い調査、研究を余儀なくされている末松廃寺の心礎・唐戸石の事です。
飛鳥時代と奈良時代をつなぐ白鳳時代に創建された末松廃寺の象徴的建造物、塔の中心を貫く心柱(しんばしら)を支えた礎石です。
廃寺造営の目的は、先にも触れたように加賀百万石を支えた穀倉である手取扇状地の開発にあったことは昭和の調査で解明されています。
日本一の急流である手取川が右岸、左岸に形作った石ころだらけの荒れ地を稲穂の頭が垂れる田圃に開発するため、白鳳時代の人々が末松に入植しました。土地は石ころに覆われています。木製の農具では歯がたちません。最先端の鉄製刃先を取り付けた鍬を最初に、乾燥した荒れ野に打ち込んだ人々の想いはどの辺りにあったのだろうか。確信、希望に燃えた一撃だったのだろうか。それとも、営々と続くであろう墾田開拓を引き継ぐ子、孫達の運命を思い浮かべた一撃だったのだろうか。
少なくとも、この地が加賀百万石の礎になるなどとは夢にも思わなかったはずである。天正11年(1583)に前田利家が金沢城に入る1千年近く前の原風景ではなかったろうか。(宮崎正倫)
次回は10月11日「蕃神が産業革命」です。
末松廃寺・第1話「状況証拠ばかり」
2018年10月3日
(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)
石塊の荒野睨む白鳳の塔
加賀百万石の原風景・末松廃寺
末松廃寺・第1話「状況証拠ばかり」
「6GSM」。この数字が何かご存知でしょうか。最近のネット社会に否応なく付き合わされていると何かのパスワードに見えますが、もちろん違います。これは野々市市末松2丁目に在る国史跡「末松廃寺跡」に付けられた固有記号です。同市が勝手につけたのではなく奈良国立文化財研究所の遺跡記号表示表に基づいています。
「6」は奈良時代を、「G」は遺跡の種類と所在地を指しますから、中部地方の寺院であることを表します。「S」と「M」は末松の頭文字を採ったものです。ですから、国内に多々ある膨大な遺跡の中にあっても、ただ一つ末松廃寺跡を指しているのです。
◇調査報告書が発刊されるまで41年◇
末松廃寺跡は元が水田でした。江戸時代から唐戸石(からといし)と呼ばれる巨石が在り、寺院の遺跡ではないかと口の端に上っていました。昭和12年に行われた最初の調査では金堂跡の石敷き、塔跡の根石群が確認され、次いで同38年の予備調査を経て、同41年に第1次、翌42年に第2次の国の手による本格的な調査が行われました。これら一連の調査(以降は昭和の調査)の成果は、41年間の時を費やして平成21年、ようやく調査報告書としてまとめ上げられました。
最近になり、廃寺跡を史跡公園に整備する構想が浮上してきました。このため、平成26年からの4カ年計画で再調査(以降は平成の調査)を行い、今年度末までに報告書をまとめることになっています。
◇少なかった考古学的資料◇
それでは何故、昭和の発掘から報告書が刊行されるまでに多くの時間を要したのでしょうか。そこには、地方の古代遺跡に付きまとう宿命のような事情があったからです。
この地は石川県の穀倉地帯として長年、水田が営まれ、地中深くまで繰り返し、繰り返して耕作されてきたため、地中の遺跡が破壊され、発掘による考古学的資料が少ない、という困難さがありました。そのうえ、中央と比較して地方の歴史学的な文献資料は現代まで残り難いのが常で、中央などに末松廃寺に関する記載でもあれば事実を裏打ちしてくれる手掛かりになるのですが、多くありませんでした。
加えて当時としては、時代の先端技術の粋を集めた古代寺院であるからには、遺跡のすぐ近くに権力を持った地方の大豪族が居て当たり前なのですが、末松廃寺の場合は、かなり離れた河北潟周辺まで行かなければ越国(こしのくに)の大豪族であった道君に行きつきません。扇状地の真ん中に、空から舞い降りたようにポツンと建つ同廃寺の特殊性がありました。直接的な証拠が少なく状況証拠ばかりでは廃寺の由来も分からず、誰が言うともなく「謎の大寺」と称されるようになりました。
◇最大の手掛かりは斉明6年(660)◇

廃寺西側の金堂基壇跡から東側の塔基壇跡を臨む
状況証拠の中でも、昭和の発掘で最大の成果は、造立年が斉明6年(660)を上限とし、それより古くは遡らない、という事実でしょう。西に金堂、東に塔を配置した「法起寺(ほうきじ)式」の伽藍配置であることも分かりました。創建時の伽藍は一度倒壊し、8世紀の初め、奈良時代(710年遷都)に再建されていることも分かりました。
ただ、廃寺跡の周辺に大豪族の痕跡がなかったことから、誰が発願して建立されたのか、目的は何だったのかについては、昭和の調査当時には確定することが出来ませんでした。
ところが、野々市市は僥倖(ぎょうこう)に恵まれました。農村地帯に都市化の波が押し寄せ、同市内のいたるところで開発が始まったのです。開発に当たっては、埋蔵文化財の調査のための発掘が義務付けられるようになっていました。同市全域から、と言っても過言ではないくらいの遺跡が出土してきました。その中に、廃寺が建立された時期の近いもの、地理的に関連性があるものが拾い上げられ、国の調査報告書へと集約されていったのです。
◇天智朝の意志で手取扇状地を大開発◇
状況証拠から導き出された結論は「天智朝」が「国家的事業」として「手取扇状地開発」に乗り出し、その象徴となる「白鳳の大寺」を建てた、というものでした。末松から遠く離れた大和(奈良県)に成立していた政権が造立の主体であった、とは推理小説の謎を解いていくような展開でした。地方の大豪族では出る幕がないほどの稀有壮大な規模でした。
それでもまだ、未解明な部分が多く残る廃寺跡です。史跡公園の整備のため平成の調査が行われることになりました。大きな目的は▽廃寺の中心伽藍の範囲を確定する▽昭和の調査で不十分な資料を補足する-などが挙げられました。結果としては、新たな遺構の発見や、昭和の調査で立てられた仮説を否定する知見も得られ、真実の姿に迫る大きな成果があったと言えます。
平成の調査の正式な報告書は30年度末まで待たなくてはなりません。が、地元に本社を置くコミュニティ放送局として、これまでも大寺の謎に迫る努力をしてきましたが改めて、謎の大寺の誕生から途絶までの400年間にわたる素顔に迫ってみたいと思います。
考古学、歴史学については全くの素人であります。余計な口を挟むな、というお叱りの声が聞こえてくるような気もしますが、住民の関心も高く、地域に密着した情報を伝えるコミュニティ放送局でありたい、という責務と捉えています。平成が終わって新しい時代を迎えますが、今後も更なる解明が続くことを期待しています。
これまでも機会があるごとに特別番組を編成して放送してきましたが、音声に頼るラジオでは説明の限界性と感じています。ここで一度、文字による伝達を試みることにしました。題して「石塊(いしくれ)の荒野(あらの)睨(にら)む白鳳の塔~加賀百万石の原風景・末松廃寺」を始めます。(宮崎正倫)
次回は10月8日「鉄製農具の一撃」です。