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末松廃寺ニュース:全国初、「天女」の線刻画が描かれた瓦塔片を発見

2018年10月31日

末松廃寺跡から「天女」が描かれた瓦塔片を発見

全国初
弥勒信仰の広がり示す
同廃寺の再建時期は8世紀中頃か?
伽藍の中心軸を平城京の中心軸と合わせる

末松廃寺から発見された瓦塔片に描かれた天女の線刻画

 野々市市教育委員会文化課は10月30日、国史跡「末松廃寺跡」(同市末松2丁目)から、天女像が線刻された瓦塔(がとう)片を発見した、と発表した。この瓦塔は縦19㎝、横9.5㎝、厚さ1.5㎝の大きさで、向かって右側が裏の方向へL字状に屈曲しており、赤く彩色されていた。形状から箱状の角部分であると推測している。これまで、瓦塔に絵が描かれていた例はなく、今回が全国初の出土であり、瓦塔信仰の対象を知るうえで大きな意義がある、とみられている。
 末松廃寺は昭和41年までの昭和の発掘調査により、手取扇状地の開発のための象徴として、斉明6年(660)頃に造営が始まった白鳳寺院であり、10年から15年後に完成したとされる北陸では最古級の寺院である。奈良時代の初めには一度、倒壊しており、その後に再建されている。
 今回の発見は、同史跡を公園として整備するための寺域確認調査として、平成26年から進められていた最終年度にあたる。瓦塔があったのは平成の調査で新たに発見されていた中門とみられる遺構の南側、遺物溜まりである。
 線刻画は瓦塔初層の正面、柱に当たる部分に描かれており、縦縞の裳(も)と呼ばれるロングスカート状の衣服を身に着け、爪先が上に上がった履(くつ)をはいた女性である。髪は結い上げておらず、手には払子(ほっす)とよばれる儀式用の道具を持っている。
 また、瓦塔というのは木製の塔に変わり、土で塔の形を模した小塔(1.5~2m)の焼き物であり、今回の像は焼成前の柔らかな土製品に鋭利な工具で描かれていることから、戯画ではなく、瓦塔信仰に基づいた仏教画と考えられている。
使われた土は分析から、加賀地域のものと分かった。これは当時、末松廃寺から出土した土器の量では、小松産が半数を占める事と符合している。
 瓦塔は奈良時代から平安時代にかけて盛行しており、仏教美術史や仏教思想史の研究などと合わせ女性像は、弥勒信仰における浄土に遊ぶ天女を描いた、と判断した。
 末松廃寺の再建伽藍は、配置の中心軸を創建当時よりやや東側に振れて真北を向くように計画されている。これは奈良時代の平城京の地割りと同方向であり、中央の影響を強く受けたものと考えられていたが、今回の天女像の発見は、行政上の土木技術だけでなく思想、文化の面でも強い関連性が認められることになる。
 末松廃寺の再建主体は明らかになっていないが、在地の大豪族であった越道君か、扇状地開発のために入植した近江(滋賀県)か丹波(京都府北部)の子孫が考えられる。昭和36年(1961)には廃寺跡から和同開珎(わどうかいちん)の銀銭も発見されており、再建に伴う地鎮の祭具ではないかとみられている。
 天女像が描かれた瓦塔は、創建当時の塔基壇上に建てられた一間四方の建屋の中に納められていたとみられる。創建当時の塔の高さは解明されていないが、再建時には瓦塔が主流となっていた。

もふもふその後

2018年10月30日

FM-N1番組 生活いち番シャトル便の毎月火曜日2週めに出演の西尾賢一さん作のベンチ。

先日ブログで紹介しましたが、その後我が家のもふもふのお気に入り場所の一つとなりました。

 

娘が学校から帰るとこんな感じだそう。

 

 

 

 

 

 

で、おもむろに目を覚まして

偉そうです。

居心地いいみたいです。

人間用なのに・・・

 

 

 

 

 

 

 

この前の放送で、いろんなご縁の話をされてましたが、私もFM-N1に来て、西尾さんはじめ、いろんな方にご縁ができました!

人生の絆って不思議ですね~

その他にも、極める技や生活の匠、命の躍動とテーマも豊富な生活いち番シャトル便は、火曜から金曜の13:30~14:30放送。

ゆったりと、聴いてくださいね!

きっと素敵な時間となりますよ♪

(なかにしみき)

 

 

 

 

 

 

 

PMCで見つけた〈10〉フレッド・アステアの「あなたに夢中」

古き良き歌声をいつまでもステップしたい

 10月24日の番組「FM-N1ゴールデン・スロート~黄金の喉は歌い継ぐ」(月曜~金曜午前8:00~)で、フレッド・アステアの「あなたに夢中」が流れた。開局23年目を迎えているが、覚束ない記憶をたどると、今は終了してしまった「N1コミュニティ~ムッシュ・マル」の中で1、2回紹介されただけではないだろうか。3カ月前に、PMCからレコードを借り、FM-N1のミュージック・フォルダーに入れたばかりだった。
 アステアとは、アメリカのミュージカル映画全盛期の大スターで、タップ・ダンスの名手でもある。初めてスクリーンの中のアステアを見た時の衝撃は今でも忘れない。「あなたに夢中」は1940年の映画「Broadway Melody of 1940」の中で歌われたもので、アルバム「フレッド・アステア・ストーリー」の中に収められていた。
 選曲したのは若い女性だが、どうしてこの曲だったのか、聞いてみた。なにしろ、洋楽ファイルの中には現在、総数で27,600曲を超える楽曲が登録されているからである。いわく「番組の趣旨を考え、1960年以前の曲を選ぶようにしている。歌手の経歴を調べて、年代の検討を付けている」。後は聴いてみるしかない。
 自分の手で調べたものは身に付いていくはずである。番組名の「ゴ-ルデンスロート」とは1940年代のアメリカ製電気蓄音機「RCAビクター・ウィズ・ザ・ゴールデン・スロート」から採っている。戦後、金沢で最初のレコード・コンサートが開かれた際に用いられた機種である。アステアのミュージカルのように、古き良き楽曲をいつまでも、歌い継いでいきたいものである。
 ◇KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、24万5千枚を所蔵している。

末松廃寺・第8話「対岸に瓦の豪族」

2018年10月29日

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第8話「対岸に瓦の豪族」

 

 古代における手取扇状地の墾田開発は、乙巳(いっし)の変(645)で蘇我本宗家を倒し、政治の求心力を天皇家の元に取り戻した天智朝が、政権の基盤を確固たるものにするために全国各地で展開した勢力圏の拡大、墾田開発による富国策の一つ、と捉えることができます。同じ頃、北陸でも仏教寺院が現れてきます。

 ところがまた一つ、首を傾げたくなる事実に遭遇します。手取扇状地の開発を考えれば、末松廃寺のある右岸(旧加賀郡)と同様に、左岸(旧江沼郡)でも寺院を建立して、墾田開発事業が始まったとしても不思議ではないからです。というのも、左岸には地方の有力豪族である財部造(たからべのみやつこ)氏がいたからです。

 そして財部氏は天智朝の意向に従い、道君と協力するように末松廃寺の造営に携わっているのです。同廃寺に使用されていた瓦は財部氏の勢力圏にあった登り窯で生産されて、末松まで運ばれて来たのです。

 

◇財部氏は斉明天皇に仕えていた豪族◇

 

 財部氏というのは一体、どんな氏族だったのでしょうか。大化の改新以前で、「造」の文字が入っていることから、財部は一族に与えられた「姓」であったと思われます。一族の名前は居住する土地の名前からとることが普通であったために本来なら「野身(能美)」となるはずです。野身氏に「財部造」の姓が与えられていたと考えれば、「たから」と名乗る皇族に直接仕える地方豪族に指定されたのではないでしょうか。名代・子代(なしろ・こしろ)の制度です。

 「たから」に相応する皇族は、何人かの候補者の中でも、時代を考えれば宝皇女(たからのひめみこ)が有力とされています。敏達天皇の孫で、舒明天皇の后になった人物、後の斉明天皇その人です。

 

◇秋常山古墳が明かす大豪族の力◇

 

 左岸には斉明天皇に仕える財部氏、右岸には越道君伊羅都女(こしのみちのきみのいらつめ)

北陸最大級の前方後円墳・秋常山1号墳。後円部から前方部の眺め=能美市

を通じて天智天皇と姻戚関係を結ぶ越道君がいることになります。天智朝の「母と息子」を財政的に支えた大墾田、屯倉(みやけ)となったのが手取扇状地であった、ということになります。

 財部氏の勢力圏には県内最大、北陸でも最大級の前方後円墳(全長140m)である秋常山古墳をはじめ、弥生時代末期から古墳時代後期に至る400年間に連続して、5つの古墳群が造られた能美古墳群があります。鉄剣などのほか多種多様、一級の副葬品が出土しています。古墳群の末期にあたる西山古墳群からは馬具(馬鐸=ばたく)も出土しており、権力の大きさを示しています。この首長らの末裔が財部氏につながるとみられ、斉明天皇に仕えていたのです。

 

◇補修用の瓦窯が見つかる◇

 

 話を末松廃寺に戻しましょう。同廃寺の金堂は瓦葺(かわらぶき)の建物です。それ以前は茅葺(かやぶき)や草庵などが住居の形でしたが、瓦葺は最先端の、また権力の所在を示す工法でした。実は、この瓦が突然、想像もできない財部氏の勢力圏である能美市湯屋の古窯跡から出土したのです。末松廃寺とは別の調査であったことから大きな驚きが関係者の中に広がりました。

 瓦は平瓦、丸瓦、軒丸瓦で、様式が同一のものでした、特に軒丸瓦は独特の単弁六葉蓮華紋(たんべんろくようれんげもん)です。全国寺院の瓦を調べてみても似た物はありません。どこの瓦工の流れをくむのか不明で、紋の作りも素朴な感じがします。

末松廃寺の補修用瓦を焼いた登り窯跡。丸い瓦は単葉六弁蓮華紋の軒丸瓦=能美市湯屋

湯屋で発掘された窯の規模などから察すれば、瓦は末松廃寺の補修用に使われた、とみられています。本窯はいまだに見つかっていませんが、同市湯屋地区から辰口地区へと向かう能美窯跡群の丘陵地帯に存在すると想定されます。また、末松廃寺用の瓦は、同廃寺の後に造営された加賀市弓波の忌波(いんなみ)廃寺にも使用されていることが分かりました。

末松廃寺は瓦の使われ方が少ない寺院という見方が一般的です。金堂にしか使われていないからです。塔跡からの出土がなかったことから、屋根に瓦を乗せない塔であったことが分かっています。平成の発掘で発見された塔東側の大溝(土塀跡)からも瓦は出土していません。この瓦の少なさについては、能美窯跡群の調査が進んで本窯の規模が分かってくれば、その理由の手掛かりになるのかも知れません。

 

◇財部氏が姉妹寺院を持っていた可能性◇

 

 ここで、大きな疑問が頭をもたげてきます。能美古墳群の成り立ちからも分かるように、同一地域で400年間も勢力を張って力を蓄え、早くから天智朝(斉明天皇)と深い関係を持っていた財部氏であれば、手取扇状地の墾田開発の一番手は旧能美郡側ではなかったか、ということです。開発を企図した朝廷側からすれば両岸の開発が理想ではないでしょうか。時間的に近接、あるいは同時並行的に末松廃寺とは別の古代寺院が造営されていた可能性が残ります。

 しかし今のところ、遺跡らしいものは見つかっておりません。あるとすれば、末松廃寺と同様に、手取川の流れぎりぎりの地点に造営されたことが予想されます。当時の手取川の流れは、現在より北側へ大きく離れていた、というのが通説です。扇状地の三分の一は旧能美郡に含まれていた、と考えられています。手取川は氾濫を繰り返し、現在のように南へと移って行く過程で遺跡は呑み込まれていったのかもしれません。

 姉妹寺的な存在ですが寺院の豪壮さより、簡略的であっても一応の形式を整えて、墾田開発を急ぎたい。中央政権の財政力を強化したい。蘇我本宗家を討ち、天皇親政を目指すなか、朝鮮半島では日本と近い関係にあった百済(くだら)が存亡の危機に瀕していました。救援より、国内基盤を固める必要性が優先したのかもしれません。

 結果として、斉明6年(660)に百済は滅びます。翌年に、斉明天皇は救援軍を率いて半島へ向かいますが、途上で筑紫(福岡)の朝倉宮で崩御します。代は天智天皇に引き継がれます。(宮崎正倫)

次回は111日「東門からの眺め」です。

PMCで見つけた〈9〉ザ・キングストン・トリオの「ジョン・B 号の難破」

2018年10月26日

カリブ海の海賊と戦ったのか? 歌に実話の面影はないが…

 今、FM-N1の音楽サーバーを聴き直している。ザ・キングストン・トリオのファイルを開いたところ、あったのは「トム・ドゥリー」と「花はどこへ行った」の2曲だけ。フォークソングは、他の歌手、グループもカバーしているため、放送するのには差し当たり支障はない、と言えるが早速、PMCからレコードを借りてきた。

 中に懐かしい1曲が入っていた。「ジョン・B 号の難破」である。歌い出しが「We come on the Sloop John B」で、やけに「Sloop(スループ)」が、昔から耳に残っていた曲ではある。ライナー・ノーツを見て初めて、その意味が帆船のことである、と分かった。帆船と言えば、中国からイギリスまで紅茶を運ぶティークリッパーという快速艇を思い出す。有名なものでは「カティーサーク号」がある。が、ジョン・B号は戦闘用らしい。

 もともとは、バハマ諸島の沖合で難破した帆船の悲劇の実話が現地で歌い継がれており、それを収集して楽曲に仕上げたもの、という。バハマ諸島はカリブ海に浮かび、カリブの海賊がハバを利かしていた海である。もしかして、海賊の取り締まりに当たっていた帆船だったのか。しかし採譜はしたものの、歌詞の方は実話とは無縁の内容となっている。

 歌詞カードをみると、祖父と私が船に乗り込み、酒をガブ飲みしたり、酔っぱらいが暴れたり、料理人が私の食べ物を海へ投げ込んだり、とイザコザを起こしている。海の男の威厳は微塵も見られない。海の荒くれ男も悪くないが、帆船のイメージを一新するなら10月28日に、富山県射水市の海王丸パークにでも出掛けるのはどうか。“海の貴婦人”と称される海王丸が今年(平成30年)最後の総帆展帆(そうはん・てんぱん)を披露してくれるそうだ。(宮崎正倫)

 ◇KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、24万5千枚を所蔵している。

末松廃寺・第7話「なぜ手取扇状地」

2018年10月25日

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第7話「なぜ手取扇状地」

 

 末松廃寺跡(野々市市末松2丁目)における昭和の発掘調査結果は、平成21年に発行された国の報告書に詳しい。それによると、手取扇状地の開発を命じたのは天智朝(斉明、天智天皇)であるという。確かに地方の大豪族といえども近江(滋賀県)、丹波(京都府北部)から、渡来系の最先端技術を身に付けた入植者を勝手に呼びつけることは出来ない仕業であったろう。また、古代の旧加賀郡に勢力を張っていた越道君(こしのみちのきみ)が、手取川対岸となる同じく旧江沼郡の有力豪族であり、末松廃寺使用の瓦の提供者である財部造(たからべのみやつこ)氏と自発的に手を結んで寺院造営に当たることは、中央政権の存在を無視することでもあり、懲罰が加えられる恐れがあって無理筋でしょう。

 手取川の右岸における墾田開発に、左岸の豪族を手伝わせるのは両者の上に立つ天皇家をおいて他には見当たらない、という結論が導き出されたのです。この道君、財部氏が何者かについては後で触れることにして、まず天智朝がなぜ、地方における大規模な開発を目指したのかを考えてみたいと思います。

 

◇天皇親政の財政基盤固めが急務◇

 

 もう一度、中大兄皇子(天智天皇)らが飛鳥板葺宮で、蘇我入鹿(そがのいるか)の首をはねて蘇我本宗家を滅ぼし、天皇親政を図った乙巳の変(645)前後に戻ってみましょう。

 それまでの大和政権は、天皇家を中心として大和、畿内の大豪族が加わって政治を執っていました。そこへ新たに、朝鮮半島とも深い関係を持つとされる蘇我氏が登場してきました。崇仏派の蘇我氏は当然のように、渡来系の最先端技術を独占するようにして勢力を広げ、巨大な財力を蓄えます。天皇家に自らの娘を嫁がせ、外戚としての力を奮って政治を左右する大豪族となっていきました。

 半島では大陸の隋、唐の大国とせめぎ合いながら高句麗、新羅、百済が存亡をかけて権謀術策を繰り広げ、日本の勢力下にあった百済が660(斉明6)年に滅んでしまいます。丁度、末松廃寺が造営に取り掛かった頃です。

 百済が苦境に陥っていた時、天智朝は何をしていたのでしょうか。ただ手をこまぬいていただけなのでしょうか。救援軍を派遣するのは百済滅亡の翌年になります。

それは、まだ十分に天皇親政の地固めが出来ていなかったのかもしれません。斉明4年(658)には先代天皇で、斉明天皇の実弟である孝徳天皇の皇子・有間皇子を謀反の罪で処刑にしています。天皇後継者の有力候補者であった有間皇子を排除したことで中大兄皇子の立場が確固としたものになって行きます。

もう一つは、財力の強大化の問題です。天皇親政といっても、まだ律令制が敷かれているわけで

安倍(阿部)氏の氏寺である安倍文珠院山門。越道君との縁があったとみられている=奈良県桜井市

はありません。独自に天皇家の財力を確立しなければ、安定して諸豪族の上に立つことはかないません。大和や畿内の土地は既に開発が終わり、豪族らの所有が確定していた、と思われます。全国の地方における勢力圏の拡大を図り、懸命に天皇家の財力を富ませて政権基盤を安定させる時間が必要でした。勢い、向かう先は地方の未開発の土地ということになります。

 

◇阿倍比羅夫が天皇家と越道君をつなぐ◇

 

 北陸の関係でみれば、大和の古い豪族で、越国守(こしのこくしゅ)といわれた阿倍比羅夫(あべのひらふ)が斉明4年(658)から3年間をかけて、日本海側の各地、蝦夷(えみし=北海道)まで遠征軍を進めていました。

 河北潟周辺を本拠地としていた道君は、既に欽明31年(570)に大和政権に服属していました。当時の交通網は海路でしたので、阿倍比羅夫は遠征の中継基地として河北潟を利用し、道君に協力させたことは疑いのないところでしょう。同潟から水路を遡れば、末松の地に至ること、広大な未開の扇状地が広がっていて、渡来系の技術をもってすれば開発が可能であり、大規模な墾田を手に出来る、という情報が天智朝の元に届けられたのでしょう。

 道君には越道君伊羅都売(こしのみちのきみの・いらつめ)と呼ばれる娘がいました。正確な

安倍文珠院の境内に建てられた安部仲麻呂の安部氏の代表的人物の安部仲麻呂「望郷の歌」碑。唐に渡り、故郷に帰れなかった

日時は記録にはありませんが、天智天皇の采女(うねめ=女官)として後宮に入っています。天智天皇との間に、万葉歌人となる志貴皇子をもうけていることから一応、外戚としての有資格者ということになります。この件にも阿倍比羅夫が絡んでいるとするなら、阿倍比羅夫の遠征の間(658660)、あるいは直後に伊羅都売が飛鳥の都へ赴いたことになります。まさに、末松廃寺造営の前夜という時期です。

 

◇扇状地周辺では3世紀から開発が進む◇

 

 平成の発掘調査の最中に、末松廃寺跡から南東へ約2.5㎞離れた上新庄チャンバチ遺跡(野々市市新庄1丁目)で古墳が発見されました。3世紀頃の前方後方墳で、出土品から東海地方の特色を持つことが分かりました。ちなみに3世紀頃というのは、奈良県桜井市にある纏向(まきむく)遺跡の傍にある箸墓(はしはか)古墳の造営と同時期です。

 この前方後方墳の被葬者は東海地方に出自をもつ有力者ということになりますが、どのような道順をたどって当地までやって来たのでしょうか。白山や飛騨越えは、時代がもっと下らなければ無理と思えます。考えられるのは、東海方面から琵琶湖に出て、若狭(福井県)から海路で到達した、というのが自然なのではないでしょうか。

 当時の交通は海路が一番です。ただ、湖や川などの内水面と違い、外洋は高い航海術と船の構造が重要になります。誰でも海路を移動できるものではありません。一つの仮説になりますが、道君ならどうでしょうか。当時の河北潟は海とつながっていた汽水湖でした。河北潟を本拠とする道君は古くから、海上交通による交易を行い、富を蓄えた海洋性の大豪族だったとも言えます。東海地方出身の有力者を運び、自らの勢力圏の中で入植させたのかもしれません。

 

◇大開発のための労働力は備わっていた◇

 

 扇状地の開発、仏教寺院の造営と一口で言っても、入植者200人程では大事業を遂行できません。上新庄チャンバチ遺跡の有力者は、手取川とは異なる倉ヶ嶽の水系である富樫用水に拠って、末松廃寺造営時までには墾田を増やし、相当数の人口、集落を抱えていたと思われます。道君の勢力下にあったために命令され、近江、丹波の入植者の配下に組み入れられた可能性も十分あります。

 欽明31年、朝鮮半島・高句麗の使者が国書を携えて能登半島に漂着し、道君は日本の大王と偽って接遇したという事件がありました。まだ、大和政権の埒外にあったことから、大王と名乗ったことにも一理があるような気がしますが、この事件を機に政権側から軍事的に攻められて服属していくことになります。

 末松廃寺と無関係な話をした、と思われるかもしれませんが、このように古代の大豪族である道君であっても、自ら仏教文化を受け入れて古代寺院を建てることは容易な業ではありませんでした。新しい日本の形を創っていくという壮大で強固な意志を持った天智朝の関与があって初めて、扇状地開発が可能となったのです。そして、天智朝ならでは、と思わせるもう一人の豪族が関わっていたのです。(宮崎正倫)

 次回は1029日「対岸に瓦の豪族」です。

PMCで見つけた〈8〉ロス・マルチェロスの「アンジェリータ」

2018年10月23日

ノルマンディー上陸作戦の裏口でも物語

 声優の田中信夫さんが10月17日に、83歳で亡くなった。永らく忘れていた名前だったが、すぐに思い出されたのがアメリカの俳優ヴィック・モローが演じたサンダース軍曹の顔だった。テレビ・ドラマ「コンバット!」の主役であり、日本でも昭和37年(1962)から放送され、人気を集めていた。中学生のテレビっ子だった私も同級生もファンだった。田中さんはサンダース軍曹の吹き替えを担当しており、声優という仕事があることを知った最初の人物だった。

 「コンバット!」は第二次世界大戦のヨーロッパ戦線で、連合国軍がノルマンディーに上陸作戦を決行するところから始まり、フランスを舞台に闘う姿を描いている。ノルマンディー海岸とは、ドーバー海峡を挟んだイギリスの対岸ということは、「PMCで見つけた」〈2〉ヴェラ・リンの「ドーバーの白い崖」の舞台の対岸でもある。ノルマンディー上陸作戦はアメリカ映画「史上最大の作戦」の題材となり、「コンバット!」の日本放映開始と同年の12月、国内でも封切られている。

 ノルマンディー上陸作戦の5カ月前、ヨーロッパ戦線の地中海側では、イタリアのローマを攻略するため、同市南方のアンツィオ海岸でも連合国の上陸作戦が展開された。その際、海岸にいた少女アンジェリータの死の実話を基に作られた曲がロス・マルチェロスの「アンジェリータ」です。イタリア語は分かりませんが何とも物悲しい旋律と「アンジェリータ」という歌詞の繰り返しが印象に残る曲です。

 「コンバット!」にはユピテル・レコーディング・オーケストラの演奏が、「史上最大の作戦」にはポール・アンカの同名の曲があります。「アンジェリータ」は、これまでも探していたのですが、今年の7月19日にPMCでようやく見つけました。LPのオムニバス盤とシングル盤が1枚ずつありましたが、昭和40年(1965)4月新譜ハイライト盤と記されていました。当時、レコードを買い求め、ジャケットも覚えていました。一時は諦めていたのですが、これもPMCのお陰です。田中さんの訃報を聞く3カ月前の事でしたが、これも何かの縁だったと思えてなりません。(宮崎正倫)

 ◇KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、24万5千枚を所蔵している。

末松廃寺・第6話「塔は建ったのか」

2018年10月22日

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第6話「塔は建ったのか」

 

 北陸最古級の仏教寺院である末松廃寺(野々市市末松2丁目)は、平成の発掘調査(平成27年~同30年)で、7世紀第4四半期の創建当時の様子が少し詳しく分かるようになってきました。

寺域は、西側縁が手取川の分流にギリギリまで迫って建てられ、西に金堂、東に塔が配置されています。講堂や他の伽藍は見つかっていません。中心伽藍を囲む回廊、または築地塀も見つかっていません。塔の東側、遺跡の指定範囲ぎりぎりの所で、土塀の跡とみられる大溝が確認され、溝の中から東門の柱跡が出土しました。この土塀が外郭との境界線なのか中心伽藍を囲む結界としての塀なのかは、今のところ判断できません。塔と東門の間には幢竿(どうかん)支柱がありました。

建物の中心軸は南北方向で、磁北からやや西方向へ振れています。東西方向では金堂、塔、幢竿支柱、東門の中心軸が一直線上に並んでいることから、都市計画の意図をもって造営されたことが分かってきました。創建当時の講堂など他の伽藍は出ていません。東西92m、南北53mの広さです。南北、東西とも寺域が拡大される余地は残されています。

 

◇塔横に祭事に用いる幢竿支柱があった◇

 

それでは、末松廃寺は完成したのでしょうか。塔は本当に建ったのでしょうか。これまでも、何

大きさが釣り合わない塔基壇跡と塔心礎。心礎の向こう側の基壇下に幢竿支柱がある=末松廃寺跡

度も疑問が頭をもたげてきたことはありました。

しかし、仏教寺院の建立を機に、手取扇状地の開発が爆発的に進捗したことを考えれば未完のままに、この大事業が成し遂げられたとは考え難いのではないでしょうか。そして、幢竿支柱の存在です。寺院の祭事、行事の際に掲げられる幟(のぼり)を立てる施設ですので、寺院は完成して、祭事が執り行われたと解釈するのが妥当と思われます。未完の塔の横に幟をあげている図は想像できません。

問題は塔の存在です。江戸時代から、塔の心柱(しんばしら)を支える心礎(しんそ)は唐戸石(からといし)と呼ばれて、存在が知られていました。柱を受け入れる穴は直径58㎝あります。塔の高さは直径を40倍するという研究結果があります。この公式を適用すれば塔の高さは約23mとなって三重塔になります。

 

◇釣り合わない塔心礎と基壇の大きさ◇

 

しかし一方で基壇の大きさは、昭和の調査によれば、塔の基壇表面や周縁部の破壊が激しくて確認できませんでしたが、心礎や柱の根石群から復元され、塔は一辺が10.8mで方3間、柱間は3.6mあることが分かりました。同時期の地方古代寺院としては特筆すべき大きさであって、中央政権があった飛鳥地方(奈良県)と比較しても、蘇我馬子が建立した飛鳥寺の塔基壇の大きさに匹敵するものであり、五重塔とも七重の塔とも推測されるには十分でした。

末松廃寺を誇りとする地元の人々からみれば、天を衝く七重塔が脳裏に浮かぶことでしょう。野々市市文化会館フォルテの展示室には、丹塗りの七重塔の模型が飾られています。

発掘結果は相反する資料を後世の私達の前に並べています。どちらも動かしがたい事実です。もう一点、重要な観点があります。瓦の問題です。第4話「どの寺が手本?」の中で、塔跡周辺から川原寺式の軒丸瓦の欠片が1点発見された、と言いましたが、それ以外には塔跡周辺からは瓦が出土していないのです。

 

◇裾広がりの三重塔ならばどうか◇

 

古代の塔の建築方法は、土台から組み上げていく現在の建物とは異なります。塔の建築に当たってはまず、心柱を立て、相輪部分を取り付けた後、上層部から順次、心柱にぶら下げるような構造で、各部材を組み立てていきます。七重塔であれば七階部分から始めると言われています。高い塔は不安定であり、倒壊防止のために屋根に瓦を葺き、重量で抑えつけて安定させます。三重塔の高さであれば、屋根は瓦を使用しない檜葉(ひば)などの杮葺(こけらぶき)でも可能です。

もしそうであれば、塔跡の周辺から瓦が発掘されなかったことを、どう解釈すればいいのでしょうか。末松廃寺というのは、瓦の少ない古代寺院遺跡とされています。瓦が使用されていたのは金堂だけです。他の遺構からは瓦が出土していないのです。

先に、寺院は完成していた、という見方を示しました。塔も完成したということを前提に、これらの事実を当てはめれば、塔は三重塔であったが、一層は七重塔並みの規模で豪壮さを演出し、二層、三層目は柱の数を減らした二間の構造であれば整合性がとれます。一層目の屋根は勾配を緩やかにして、優美さを出していたのかもしれません。法隆寺の五重塔のように裾広がりで、どっしりした感じが出ます。

 

◇発掘調査では空中の事まで分からない◇

 

ここで、一つ思い出したことがあります。第2話「鉄製農具の一撃」で紹介しました石川県金沢城調査研究所の木越隆三所長(野々市市在住)の警句です。

「発掘調査では地上の平面のことは分かるが、空中のことは分からない」です。

あくまでも、今述べた三重塔の姿、形は想像の産物です。ただ七重塔でなくとも、渡来の技術によって建てられた寺院の威容は、在地で生活していた人々にとっては驚き以外の何物でもなかったでしょう。渡来の技術によって繰り広げられる扇状地開発の新しい形、次第に米の収量が増えていく事実を目の当たりにすれば、入植者の指導に従わざるを得なくなります。

末松の地は標高が37mあります。そこに三重塔であったとしても23mの塔が建つのです。標高で60mを超える塔は、手取扇状地の至る所から仰ぎ見られるようになります。塔の内部構造は人が登るようには出来ていませんが、眼下には新世界が広がっていることを十分知らしめる役割を果たすことができたのです。(宮崎正倫)

 次回は1025日「なぜ手取扇状地」です。

高専祭と工大祭を行ったり来たり♪

2018年10月20日

工大祭の隣りでは、高専祭も!

ミスコン中でしたっ!ん?!ミスコンだよねぇ・・・あ、ミスったコンテストだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

工大祭に戻ると、野々市市の消防が消防車の展示してました~

 

奥の建物の前では、ふわふわもやってます~

 

 

 

 

 

N1に戻ると、スタジオ1では、WAVEの生放送で中継中~

ドリバーも横でお手伝い中。

 

 

明日も生放送するからね~

高専祭も工大祭も大賑わい中ですっ☆

 

(なかにしみき)

 

 

 

 

 

 

 

工大祭~!!

始まりましたよ!工大祭!!

お昼になって賑わってきました~

 

 

 

 

 

 

 

ドリバーものっティと仲良く風船配り(^^)

ちびっこたちおいで~

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、WAVEがもうすぐ生放送!

準備万端☆

 

インタビューもしっかりねっ

ン?アナウンサー志望?!

じゃあ将来は金沢工大のWAVEプロジェクトメンバーだね!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そ し て‼チゲ鍋!!!

ここです~

食べてね!おいしいよ~

2杯もたべちゃった♪

明日もあるからね~

(なかにしみき)