2023年特集「大地有情、風に事情」第5回 古代港湾都市 5月1日放送
2023年5月25日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第5回(令和5年5月1日放送) 「古代港湾都市」
野々市市の国指定史跡である末松廃寺。その創建年代は7世紀の第3四半期、西暦660年から670年ごろと見られています。時は白鳳時代、ここ加賀の地で活躍していた豪族が道君(みちのきみ)です。
前回では、道君の本貫地(本拠地、活動拠点)が、現在の金沢市北部の森本地区で、河北潟や日本海の水上交通を活用した古代港湾都市の指導的な役割を担ったことを見てきました。
一族の娘が天智天皇との間に子をもうけ、中央と結びついた道君が古代の加賀で大きな力を付けたことから、森本地区からかなり離れた野々市で、道君が大きな寺を建てたとしても決して不思議ではありません。
しかし、最新の考古学的な知見から、この「道君単独創建説」は否定されるようになりました。
その根拠のキーワードは、手取川です。
FM-N1では、これまで末松廃寺の特集番組をシリーズで放送する一方で、発掘や研究の新しい成果が発表される度にお伝えしてきました。
10年以上前、私たちが取材をし始めた時は、「末松廃寺の塔心礎は戸室石で作られた」が通説になっていました。戸室石とは、犀川上流にある医王山(いおうぜん)連峰の戸室山から採れる石です。史跡公園を訪れて末松廃寺の塔心礎をご覧になった方はわかるでしょう。長さが2メートルを超える巨大な石を、およそ20キロメートルも離れた戸室山から運び込む作業は、大変な労力が必要です。
ところが、最近になって、塔心礎の成分を分析した結果、石が手取川にある安山岩であることがわかったのです。「手取川から末松廃寺までの距離は遠いじゃないか?」と、思われる方も多いでしょう。
しかし、古代の手取川は今よりもずっと北寄りに流れていて、現在の手取七ケ用水の一つである大慶寺用水あたりを流れていました。なんと、末松廃寺から3キロほどの近い距離のところに手取川が流れていたのです。
末松廃寺の塔心礎は、手取川の安山岩だった、というわけで、末松廃寺と手取川の強い結びつきがわかります。
もう一つ、「末松廃寺を建てたのは道君だった」という説に以前から疑問が呈されていたのは、瓦です。末松廃寺から発掘された瓦は、現在の能美市、旧辰口町にあった「湯屋古窯跡(ゆのやこようせき)」で焼かれました。
手取川の右岸に勢力を持っていたのが道君。そして、古代の手取川左岸では、財部造(たからべみやつこ)などの有力豪族がいました。道君がわざわざ手取川を越えて、勢力範囲の外である左岸から、寺の瓦を調達することに疑問があったのです。
では、末松廃寺は誰が何のために建てたのか、についてですが、「手取扇状地を開拓する国家プロジェクトのシンボルとして末松廃寺が建てられた」というのが最新の知見です。当時の政治の中枢・天智朝が主導して末松の大寺を建立したわけで、この国家プロジェクトに道君や財部造といった地方豪族も協力したと思われます。
そして、手取扇状地開拓の目的は米づくりです。米作は、水はけの良い乾田の方が湿田よりも生産性が高く、野々市市のある手取扇状地の扇央部はまさにそうした乾田に適していました。
こうした豊穣の土地である手取扇状地の恵みと、日本海と河北潟の水上交通のネットワークを生かした古代港湾都市が、道君の力と富のみなもとになったのでした。
写真/郡家神社(金沢市吉原町)近くの高台から河北潟を眺める。戦後に干拓される前の河北潟は今より五倍以上の広さでした。最新の研究から、その河北潟と日本海、北陸道の水陸交通が一体になった古代港湾都市の全体像が明らかになってきました。それは、まさしく加賀百万石より千年も前に栄えた大都市でした。
2023年特集「大地有情、風に事情」第4回 河北潟と郡家神社 4月24日放送
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第4回(令和5年4月24日放送) 「河北潟と郡家神社」
FM-N1末松廃寺取材チームの一人が古代豪族・道君を取材するため、考古学者の話を聴いていた折のことです。
「古代豪族の道君の本貫地(ほんがんち)、つまり、活動拠点は金沢市北部の森本周辺と思われます。加賀郡の郡と家と書いて、郡家(ぐうけ)神社という名前の神社があることからも加賀郡のなんらかの施設があったと考えられます」。
大げさではなく、体に電気が走ったような衝撃が走りました。
実は、取材者は金沢市の森本地区に生まれました。もっとも生まれた時はまだ森本地区は河北郡の一部で、金沢市に編入されたのは、昭和38年(1963年)のことです。
生まれ育った家のすぐ近くに郡家神社があり、その境内は子どもたちには格好の遊び場でしたし、春と秋の神社の祭りは何よりの楽しみでした。今は住宅が建ち並んでいる神社の一帯は昔の面影は全く残っていませんが、昔は田圃や畑が広がっていて、学校から帰ってよく走り回っていました。その田圃などで時折、赤茶色に錆びた鉄の塊を見つけました。後年、それが矢じりであることを知りました。
そのことを考古学者に伝えると、偶然の縁に驚き、森本地区にはかつて古墳がいくつかあり、なぜ森本地区が道君の本貫地(ほんがんち)だったのかを教えてくれました。
その答えは、河北潟に面する森本地区が「交通の要衝」だったことです。河北潟は現在では4キロ平方メートルほどの面積ですが、60年前の1960年代に干拓が完了する前までは、今より5倍以上もある広さでした。そして、この広大な河北潟を囲むように、南は現在の野々市市、白山市から、金沢市を含め、北はかほく市、津幡町に至る古代の港湾都市があったことがわかってきました。
古代のここ加賀は、日本海を通じて大陸や半島と交流し、河北潟の水運や越前、越中をつなぐ北陸道(ほくろくどう)と併せて、海と湖、川の水上交通と陸上交通が一体になって多くの人が行きかって栄えた土地だったのです。
車や電車が発達した現代では想像しにくいのですが、古代や中世で人やモノの移動は水上交通が大きな役割を果たしていたことを忘れてはなりません。そして、加賀の古代港湾都市を押さえ、国内外の交易をもとに富を蓄え、力を持った古代豪族が道君でした。
道君がどのような豪族だったのかは、いまだにわからないことが多いのですが、道君の名が史料に初めて登場するのは日本書紀です。日本書紀には、「欽明31年(570年)、越の国に高句麗からの使者が着いた時に、郡司(ぐんじ)の道君が大王と偽って使者をもてなし、貢物を受け取った」との記録があります。さらに、時は下って、天智(てんじ)7年(668年)には、同じく日本書紀に「天智天皇と越道君伊羅都売(こしのみちのきみのいらつめ)との間に志貴皇子(しきのみこ)をもうける」と記されています。
伊羅都売(いらつめ)というのは、固有名詞ではなく「娘」の意味です。越の国の道君から宮中に入った女性が天智天皇との間に男の子を産み、その子・志貴皇子は万葉歌人として名高く、さらに時は下って、志貴皇子の子が第49代天皇の光仁(こうにん)天皇になります。
さきほど話した「欽明31年、高句麗からの使者の貢物を自分は大王だと偽って横取りした」という日本書紀の記録について補足します。この出来事は加賀の国ができる250年も前のことです。道君はその当時、飛鳥朝廷に組み込まれているわけでもなく、あくまでも独立した地方の代表者でした。その道君に対して、高句麗の使者が大王(天皇)だと信じてしまうほどに道君のもてなしが豪華で、権力を持っている人物に映ったということです。
その後、7世紀後半に一族の女性が天智天皇と結ばれて子を産み、中央と直結して加賀の地でさらに力をつけた道君ですから、同じく7世紀後半に創建された末松廃寺の建て主は道君に違いない、と想定されても当然と言えば当然でしょう。
写真/金沢市北部の吉原町に所在する郡家神社。森本地区のこの地域は、古代豪族・道君の本貫地があった地域とされています。確かに、北陸道と河北潟に面して、国内外の交易には最適の場所です。
2023年特集「大地有情、風に事情」第3回 道君デビュー 4月17日放送
2023年5月24日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第3回(令和5年4月17日放送) 「道君デビュー」
823年・弘仁(こうじん)14年の加賀立国の要因となり、加賀国司を兼務していた越前国司の貴族・紀末成(きのすえなり)を悩ましていた「横暴な振る舞いをしていた加賀郡の郡司・道公(みちのきみ)」とは一体、何者なのか、ということを今回は見ていきたいと思います。
いきなりですが、実は道君の正体を特定するには資料が少なく、はっきりとは分かっていません。謎に包まれた地方豪族と言ってもいいかもしれません。
道君(みちのきみ)が国史の文献に登場したのは日本書紀の欽明31年(570年)のことです。簡単に言えば、加賀に高句麗使節の船が来着し、当地の豪族であった道君が大王と称して貢物を奪いました。飛鳥の欽明朝は軍隊を派遣して道君を服属させると同時に、高句麗使節を飛鳥に迎えた。朝廷と高句麗の初めての接触となった、というものです。
ここで言う「加賀」とは加賀立国以前の加賀のことです。一般的には大王を詐称した、つまり騙(だま)したという事になっていますが、それは飛鳥の朝廷側からの見方です。道君側からみれば当時、自分は飛鳥の朝廷に服属しているわけではないので「大王」と名乗ることに違和感は無かった、とも考えられます。
それでは、どうして道君の詐称事件が朝廷の知るところになったか、ということです。それは江沼臣(えぬのおみ)裾代(もしろ)が朝廷に報告したからです。既に江沼臣は飛鳥の朝廷に服属していたことが分かります。570年当時、手取川から南の地域は朝廷の勢力圏にあったことが伺えますが、これ以降は加賀郡も朝廷の一員となって行くのです。
いよいよ歴史の上で、道君はデビューを果たしたことになりますが、これは朝鮮半島などを含めた極東の歴史上でも一つのエポックとなった出来事でした。
高句麗といえば、朝鮮半島北部から中国の満州地方にかけて勢力を張っていた古代の大国です。半島南部には百済、新羅、日本府が置かれていた任那(みまな)など諸国がありました。大王詐称事件の8年前、欽明23年には任那が新羅に滅ぼされ、政治権力は百済に引き継がれます。以後、半島では三国時代に入って、飛鳥の朝廷も関係する中で、合従連衡が繰り広げられます。
時には、百済と新羅が手を組んで高句麗に対抗しますが、高句麗の悩みは中国の南北朝などの王朝も脅威であり、軍事的には常に中国と半島南部の二正面作戦を強いられていたことです。そうした情勢の中、高句麗としては中国の王朝から独立した政治体制を取っていた飛鳥の朝廷、半島で敵対する新羅を牽制する多ために、新羅の背後に位置する飛鳥の欽明朝と手を組むことが死活問題になっていたことは想像に難くありません。
その最初の高句麗使節を横取りする形になったのが加賀地方の豪族・道君であったわけですから、世の中、大騒ぎになったのでしょう。以後は道君も飛鳥の朝廷に組み込まれて行く事になります。
大王詐称事件の11年後には隋が中国を統一しました。598年、614年と二度にわたって隋と高句麗の間で戦争が行われています。660年には百済が中国の唐と新羅連合軍に滅ぼされ、668年には高句麗がやはり両国連合軍に滅ぼされてしまいます。残された高句麗の臣下は沿海州付近に逃れて渤海国を建国することになります。
最後にもう一点、考え直すことがあります。加賀地方の豪族であった道君が起こした出来事を簡単に「大王詐称事件」と片付けて仕舞いがちですが、もしも道君が貧相な豪族であったとしたら高句麗使節も騙されなかったのではないだろうか、という事です。相手も一国の使節です。騙せるだけの威容を道君が誇っていた可能性も大いにあると思うのです。だとしたら、道君の力の源泉は何で、本拠地を何処に構えていたのか、という問題です。今回のメモの冒頭でお話した謎というのがこの問題なのです。
しかし突如、目の前に現れた高句麗の使節を我が意のままにしようとした道君は、加賀地方の大地を治める豪族としては当然の実力行使であったのでしょうが、激動する極東の世界情勢の旋風が吹いているとは、知らなかったのではないでしょうか。
写真/10年ほど前まで「末松廃寺を創建したのは道君」との説が有力でした。「当時の加賀でこれほどの大寺を建てられる豪族は道君しかいない」と考えられていたからですが、最新の知見では「地域の豪族が協働して天智朝の国家プロジェクトとして建てた」が有力になっています。
2023年特集「大地有情、風に事情」第2回 加賀四郡 4月10日放送
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第2回(令和5年4月10日放送) 「加賀四郡」
先週は末松廃寺取材チーム・メモの①として「加賀立国」についてお話しましたが、今日は2回目を「加賀四郡」と題して話を続けます。
1回目は823年・弘仁(こうじん)14年に、越前国司であった貴族の紀末成(きの・すえなり)が、支配下にあった加賀郡司の道公(みちのきみ)らが横暴なうえ、旧・福井県武生にあった国府からも遠くて目が行き届かない、ことを理由に、越前の国から加賀の国を分離して新しい国を立て、小松市古府台地あたりに加賀国府を設置した、という事をお話しました。
中世の国府所在地は、その国に地理的中心地というより、都(京都)に近い地に偏って置かれることが多い、という話もしました。加賀の国府にしても、経済の中心地であった河北潟周辺から小松市古府台地に移って来た、という説についても触れてきました。今日は別の観点から眺めてみることで、国府の所在地はやはり最初から、小松の古府台地であった、という可能性を探ってみます。
823年・弘仁(こうじん)14年に加賀の国が立てられた時、支配下にあった郡は加賀郡と江沼郡の二つしかありませんでした。当時の律令制度から言えば、一国は四郡制をとっていたので郡の数が足りないことになります。ただ、例外がなかったわけではありません。
今の福井県の一部である若狭の国、三重県の一部である志摩の国は二郡しかありませんでした。両国とも、皇室や朝廷に海産物など食物を献上する御食国(みけつくに)とされ特別扱いでした。若狭の国はその後、二郡から三郡に数が増えています。
従って、加賀の国も四郡に増やす必要に迫られ、加賀郡の南半分を石川郡とし、江沼郡の北半分を能美郡とすることで律令制度の整合性を取ることになりました。加賀郡は後に河北郡となって行き、現在の自治体区分の原型が出来上がっていったのです。
どうにか四郡になったとはいえ、問題は郡内を治める郡司である在地豪族の力が尋常ではない大きさであった可能性があるのです。古代の日本の姿を振り返れば、奈良県纏向(まきむく)を中心とした中央豪族の連合体であったヤマト政権から、天皇に権力が集中した中央集権体制に移り、古代最大の内乱である672年の壬申の乱(じんしんのらん)を経て、律令を基とした律令国家に変貌して行くのです。
加賀四郡は、古代国家が成立して行く過程のうち、天皇に権力が集中する中央集権体制が確立する中で、奈良・飛鳥の豪族たちとの結びつきを強めたからです。当時の政権中枢を強くバックアップしたのです。
加賀郡の郡司である道君(みちのきみ)が注目されるのは、第38代天智(てんじ)天皇の後宮、江戸時代で言えば大奥に当たる後宮に、道君の一族である娘を入れたことにあります。越道君伊羅都売(こしの・みちのきみの・いらつめ)と日本書紀に書かれています。天智天皇との間に志貴皇子(しきのみこ)が生まれます。何よりも、この結びつきによって、手取川の石くれで耕作不能であった手取川扇状地に、中央の最先端の土木・灌漑技術が取り入れられ、また道君(みちのきみ)の財政力にバックアップされて、耕作地が急拡大して行くのです。
こうした皇室と関係する在地豪族の勢力を考えれば、加賀立国当時の朝廷といえども、簡単には国府を置くための土地を割譲させることは困難と考えた方がいいのではないでしょうか。立国の奏上文に「横暴な振る舞い」と書いた裏の意味が、この事だったのでしょう。
加賀郡の次に石川郡の事情を見てみましょう。白山市横江から金沢市上新屋にかけて東大寺領横江荘(よこえのしょう)遺跡があります。古代の荘園跡です。この荘園は元々、第50代桓武(かんむ)天皇の妃(ひ)、つまり皇后に次ぐ地位にある妃(きさき)であった酒人内親王(さかひと・ないしんのう)の荘園でしたが、娘である朝原内親王が早世したことを受け、供養の為に東大寺に寄進された土地でした。ここにも加賀国府が入り込む隙間はないように思われます。
次に能美郡です。ここには北陸最大級の前方後円墳である秋常山古墳があることなどから長年にわたって大豪族が支配してきた土地であることがうかがえます。また、能美郡の豪族として財部国造(たからの・みやつこ)が挙げられる。天智天皇の母である皇極・斉明天皇は宝皇女(たからのひめみこ)とも呼ばれており、天皇に仕える一族であった、という説もあります。
このように、皇室ゆかりの土地で占められる加賀の国にあって、能美郡の南部の一角である小松市古府台地に、かろうじて国府の用地を確保できた、と見ることはできないでしょうか。
律令国家の苦悩の選択を尻目に、古代中央政権の風が吹いているようです。
写真/手取川上流から望む天狗橋。左岸は能美市(旧能美郡)、右岸は白山市(旧石川郡)と古代から手取川は行政区域の境になりました。
2023年特集「大地有情、風に事情」第1回 加賀立国 4月3日放送
2023年5月23日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
~末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
■はじめに■
人は皆、幸せな人生を願って故郷(ふるさと)の大地の上で、喜怒哀楽の波に押し流されながらも営みを続けています。私たち・末松廃寺取材チームは、時には先人の想いに学び、後に続く人達のために道を拓いてゆく助けとなるように、との思いを込めて野々市にある古代・北陸地方最古の仏教寺院とされる末松廃寺に注目してきました。ちょうど今年令和5年は、故郷(ふるさと)が中世の加賀立国から1200年の節目に当たるほか、足元の手取扇状地は世界ジオパーク認定が実現しようとしています。この機会に、誇れる故郷(ふるさと)の姿をメモとして残してみたいと思っています。
第1回(令和5年4月3日放送) 「加賀立国」 ■末松廃寺取材チーム・メモ■
ことし2023年、令和5年は中世における「加賀国(かがのくに)」が出来て1200年の節目となります。第52代嵯峨天皇の時で、823年・弘仁(こうじん)14年の事です。日本では最後の立国となり、これ以後では新しい国立(くにだ)てはありません。
加賀の国が出来るまでは、私達の故郷(ふるさと)石川県は越前の国の一部でした。能登地方は加賀地方より一足早く能登の国として立国されていました。したがって、弘仁(こうじん)14年時点の加賀の国の範囲とは現在のかほく市の大海(おうみ)川から南、加賀市・大聖寺から北の範囲という事になります。
国の政治・祭祀の中心となる国府は小松市の古府台地あたりに置かれていた、とみられていますが、諸説が取りざたされているようです。例えば、当時でも経済の中心地であったとされる金沢市から小松市に移された、というのも一例でしょう。
しかし、私達「末松廃寺取材チーム」は当初から、小松市の古府台地に国府が置かれていたのではないか、と考えています。古代以来の律令制における国府の所在地は必ずしも、その国の地理的中心地と限らないからです。
加賀の国や能登の国が独立する前の北陸地方にあった国と言えば、越前・越中・越後の三か国ということになります。石川県が含まれていた越前の国の範囲は、と言えば福井県嶺南のうちの敦賀市と嶺北地方、そして石川県ということになります。この広い領域を治めていた越前国府がどこにあったかと言えば、福井・嶺北地方でも最も南寄りの旧武生市、現在の越前市です。
考えようによっては、日本の都であった京都市に近い地理的条件を優先したと、思えなくもありません。都を守るための軍事的側面からみれば合理的な選択と言えます。加賀立国に際しての国府が、小松市古府台地付近に置かれたとしても同様の観点から不思議ではないのです。
それではそもそも、越前の国から分離してまで加賀の国を立てなければいけなかった理由とは何だったのでしょう。
中世以前、古代における地方支配の仕方は、その土地に住む有力な豪族、在地豪族と言いますが、この豪族を支配して郡司、つまり郡の長官に任命することで地方支配をしていたものが、701年・大宝元年、第42代文武(もんむ)天皇の時に完成した大宝律令によって中央集権的な統治機構に置き換わりました。中央政府から貴族が国司として派遣され、地方の国府で政治(まつりごと)を執り行ったのです。
越前の国で言えば、貴族の中でも優秀とされていた紀末成(きの・すえなり)が国司として派遣されていました。有能な官僚である紀末成(きの・すえなり)の目には、越前国府から遠い加賀郡では見回りも十分できず、民の訴えも聞くことが出来ない。古代からの有力な在地豪族でもある郡司の道公(みちのきみ)らが横暴な振る舞いで収奪を繰り返している、という風に映ったのでしょう。たまりかねて、加賀立国を朝廷に奏上したのでしょう。
優秀な官僚である紀末成の有情(うじょう)、悩みや感情が北陸の大地で芽生えたことによるのですが一方では、古代から続く加賀の国の事情が空を渡る風となって流れていたのです。
そして皮肉なことに、やっと分離した加賀の国の初代国司には、紀末成が越前国司と兼任することになるのです。
写真/小松市古府町の石部(いそべ)神社。かつて加賀国府が所在した地域とされ、現在、境内が発掘調査されています。
ジェームス・テイラーのPMCでみつけた!Chic「Risqué」
2023年5月1日
Chic(シック) 「Risqué(危険な関係)」(1979年)
1970年代の音楽をイメージすると、どんなジャンルが頭の中に出てくるの?もちろん色々ありますが、その一つはディスコだろう。そしてディスコを考えるとビー・ジーズやドンナ・サマーやアース・ウインド・アンド・ファイヤーを思い出しますね。ビー・ジーズの「サタデーナイトフィーバー」のオリジナルサウンドトラックのおかげで、1970年代後半にディスコの音楽は大人気でした。
シックも1970年代によくディスコのレコードを売れていました。そして、メンバーのナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズが他のアーティストの大ヒット曲をたくさん作って、演奏して、プロデュースをしたことでシックのディスコの音楽への影響が明らかにわかります。例えば再来月のブログのテーマのダイアナ・ロスやシスター・スレッジが歌った僕がパーソナリティとしての「課外授業の勧め:ロスト・イン・ミュージック」のテーマ曲、「ロスト・イン・ミュージック」はシックのメンバーが作曲でした。
しかし、このレコードがリリースされたときに「disco sucks」というディスコに反対するムーブメントがもう誕生しました。このムーブメントが数年前からだんだん大きくなってきて、そしてある日のメジャーリーグ野球の試合の後にピッチの上でディスコのレコードを燃やすことになりました。実はその日に二つの試合が予定されたけどピッチがこの事件でダメージがあったので二つ目の試合は中止になりました。
このレコード、「危険な関係」はその試合の2週間後にリリースされました。いくつのヒット曲があります:「マイ・フォービッデン・ラバー」や「マイ・フィート・キープ・ダンシング」、そして20世紀で音楽への大きな影響があった曲、「グッド・タイムズ」。
バーナード・エドワーズが演奏する「グッド・タイムズ」のとても有名なベースのメロディーはもう一つのとても有名なベースのメロディーへ影響がありました。クイーンのベーシスト、ジョン・ディーコンはよくシックのメンバと一緒にいました。1年後、クイーンが「地獄へ道づれ」をリリースして、その曲のベースのメロディーが「グッド・タイムズ」を凄く似ていました。(ちなみに、僕は「地獄へ道づれ」の最後の方のギターもナイル・ロジャースのスタイルを凄くに似ていると思います。)ブロンディが1981年にリリースした曲「ラプチュアー」はシックのスタイルを真似していて、そしてダフトパンクのシングル「アラウンド・ザ・ワールド」(1997年)は「グッド・タイムズ」のベースのメロディーをサンプルしました。
1980年代前半、「disco sucks」のムーブメントからのストレスがありすぎて、シックが解散しました。でも、ロジャースとエドワーズがたくさんのアーティストとコラボレーションをしたこと、そして「グッド・タイムズ」がリリースされた2ヶ月後に新しいジャンルを誕生するために使われていたことも、シックはディスコの物だけではないと分かります。その「新しいジャンル」の話は来月のテーマとします。
KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。
全て寄贈されたレコードで構成され、27万枚を所蔵している。
ジェームス・テイラー
ジェームス・テイラーは毎月第3火曜日夕方5時30分~
「課外授業の進め:ロスト・イン・ミュージック」のパーソナリティーです。
Chic – ‘Risqué’ (1979)
When you think of 1970s music, one of the genres that comes to mind is surely disco. And when you think of disco, you probably think of artists like the Bee Gees, Donna Summer, or Earth, Wind & Fire. By the end of the ‘70s, disco was huge, thanks in part to the Bee Gees’ soundtrack album for the film ‘Saturday Night Fever’. Another band that were a huge part of the disco scene in the late ‘70s was Chic, and their influence on the genre can be seen through the fact that members Nile Rodgers and Bernard Edwards wrote, performed on, and produced hit records for numerous other artists such as Diana Ross and Sister Sledge (including ‘Lost in Music’, the theme song for my programme on FM-N1).
By the end of the decade, and around the release of this album, the cultural backlash against disco music was reaching its peak. The “disco sucks” movement had been gaining momentum for a few years and culminated in the mass destruction of disco records on the outfield at a Major League Baseball game between the Chicago White Sox and Detroit Tigers. Actually, there were supposed to be two games, but the demolition rendered the outfield unplayable and the second game was cancelled.
Released two weeks after that event, this critically acclaimed album, ‘Risqué’, features several hits, such as ‘My Forbidden Lover’ and ‘My Feet Keep Dancing’, as well as what must surely be one of the most influential songs of the 20th century: ‘Good Times’.
Edwards’ bassline for ‘Good Times’ directly influenced another incredibly famous bassline. Queen’s bassist John Deacon had been spending time with Chic and their influence on him was made very clear the following year, when Queen released ‘Another One Bites the Dust’. (Incidentally, I also think Brian May’s guitar near the end of that song sounds a lot like Nile Rodgers’ playing style.) Blondie’s 1981 single ‘Rapture’ also showed the influence of ‘Good Times’ and Chic’s style in general, and the 1997 Daft Punk song ‘Around the World’ used the bassline from ‘Good Times’ too.
Chic disbanded in the early ‘80s, with the band being negatively affected by the “disco sucks” movement. In a way, though, Rodgers’ and Edwards’ involvement in so many other artists’ work shows that Chic transcended the disco genre, and this is even more evident when we consider that just two months after the release of ‘Good Times’, it was being used to launch a brand new genre into the mainstream. But that will have to wait until next month’s blog.
* The Popular Music Collection (PMC) is located in Kanazawa Institute of Technology’s Library Center, and is the home of 270,000 donated and catalogued LPs, which are available for listening.
James Taylor
James Taylor presents ‘Lost in Music’ at 5.30 PM on the third Tuesday of every month.
ジェームス・テイラーのPMCでみつけた!Public Enemy「Yo! Bum Rush the Show」
2023年4月1日
Public Enemy(パブリック・エネミー) 「Yo! Bum Rush the Show(YO!BUM ラッシュ・ザ・ショウ)」 (1987年)
2006年にロンドンでレッド・ホット・チリ・ペッパーズのライブを見に行った時、最後の方に大ヒットの「ギヴ・イット・アウェイ」を演奏しました。その曲のイントロに1分ぐらい別の曲を演奏しました。それがパブリック・エネミーの「ユア・ゴナ・ゲット・ユアーズ」。僕はレッド・ホット・チリ・ペッパーズが昔からいろんなジャンルのアーティストを評価していたのを知っていましたが、ヒップホップの曲から自分たちのロックの曲への変化していくのは聞きごたえがありました。
「ユア・ゴナ・ゲット・ユアーズ」はパブリック・エネミーのデビューアルバムの1曲目です。このアルバム、「YO!BUM ラッシュ・ザ・ショウ」はプロデューサーのリック・ルービンがヒップホップのアーティストのために始めたデフ・ジャムというレコードレーベルからリリースされました。1980年代後半から1990年代前半にかけて、リック・ルービンはロックとヒップホップを混ぜて、メインストリームにたくさんのヒットレコードをプロデュースしました。
理由がわからないけど、僕は昔からヒップホップはあまり好きじゃありませんでした。しかし、「YO!BUM ラッシュ・ザ・ショウ」を聞くと歌詞が今でも問題になっている社会問題がたくさん出てきます。パブリック・エネミーの影響で他のヒップホップのアーティストはこういう歌詞も作りました。そして、初めてこのアルバムを聞いた時、音楽はそんなに面白くないと思っていましたが、実はいろんな実験的な音があって興味を惹かれました。
デフ・ジャムでパブリック・エネミーのようなアーティストと一緒にレコードを作ってから、リック・ルービンは1990年代前半にレッド・ホット・チリ・ペッパーズと長い付き合いになります。他にパブリック・エネミーとレッド・ホット・チリ・ペッパーズの関係があります。「ユア・ゴナ・ゲット・ユアーズ」のギターリフはレッド・ホット・チリ・ペッパーズの二つの曲に影響があります:1991年の「パワー・オブ・イコーリティ」と2006年の「ストーム・イン・ア・ティーカップ」。リック・ルービンはヒップホップとロックのアーティストだけではなく、21世紀にジョニー・キャッシュやエイヴェット・ブラザーズのカントリー音楽のアーティストとヒットレコードを作りました。
* KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。
全て寄贈されたレコードで構成され、27万枚を所蔵している。
ジェームス・テイラー
ジェームス・テイラーは毎月第3火曜日夕方5時30分~
「課外授業の進め~ロスト・イン・ミュージック」のパーソナリティーです。
Public Enemy – ‘Yo! Bum Rush the Show’ (1987)
When I saw Red Hot Chili Peppers live at Earls Court in London in 2006, near the end of their set they played one of their biggest hits, ‘Give It Away’. As the intro to that song, they played about a minute of another song: ‘You’re Gonna Get Yours’ by Public Enemy. Red Hot Chili Peppers have long been vocal in their appreciation of many artists from a variety of genres, including hip hop – indeed, much of their early music was heavily influenced by the genre – but hearing them segue from a hip hop song into their own rock song was an interesting experience.
‘You’re Gonna Get Yours’ is the opening song on Public Enemy’s debut album, ‘Yo! Bum Rush the Show’. It was released on the Def Jam record label, which was set up by Rick Rubin for hip hop artists such as Public Enemy and the Beastie Boys. Rubin was a major figure in meshing rock and hip hop, leading to mainstream success in the late 1980s.
To be honest, I’ve never really been a fan of hip hop. I don’t know why, but it’s just never appealed to me. But listening to ‘Yo! Bum Rush the Show’ now is interesting to see how political the lyrics are, focused on various aspects of the Black experience in America. This is something that many other hip hop artists would do, thanks in part to Public Enemy’s influence. Another interesting aspect of this album for me is that on first listen I thought there was a lack of musical variety designed to make the listener focus on the lyrics, but actually there is a lot of experimentation with unusual sounds and melodies going on in the background.
After gaining recognition and success through Def Jam and working with artists like Public Enemy, Rubin began a long association with the Red Hot Chili Peppers in the early 1990s, which thus far has seen him produce 8 of their last 9 albums. There’s another (maybe dubious, definitely tenuous) connection between Red Hot Chili Peppers and Public Enemy: the guitar riff on ‘You’re Gonna Get Yours’ clearly influenced a couple of other Red Hot Chili Peppers songs, ‘Power of Equality’ from their 1991 album ‘Blood Sugar Sex Magik’ and ‘Storm in a Teacup’ from ‘Stadium Arcadium’ (2006). Rubin has gone on to work with country artists, producing several Johnny Cash albums before his death in 2003 and then helping to propel the Avett Brothers into the mainstream.
* The Popular Music Collection (PMC) is located in Kanazawa Institute of Technology’s Library Center, and is the home of 270,000 donated and catalogued LPs, which are available for listening.
James Taylor
James Taylor presents ‘Lost in Music’ at 5.30 PM on the third Tuesday of every month.
おまちかね!椿まつり2023!!
2023年3月18日
今年も開催!椿まつり~♪
N1の放送でも連日開催のお知らせ放送してたから、みんな楽しみにしてくれてたかな?
初日は残念ながら朝から雨・・・
それでも訪れる人でにぎやかですよぉ~
オープニングから、お茶席、展示、物産展♡
やっぱり楽しい~
そして椿の花に癒されるぅぅ
限定品の猩々のおりがらみも登場!
野々市認定のお菓子もたっくさんで、目移りしちゃう!
明日も開催されるから、さあ、みんな誘っていってみよ~
(なかにしみき)
ジェームス・テイラーのPMCでみつけた!Sparks「KIMONO MY HOUSE」
2023年3月1日
Sparks(スパークス)「KIMONO MY HOUSE(キモノ・マイ・ハウス)」(1974年)
このアルバムのおかげでスパークスは世界中で有名なバンドになりました。このアルバムのファーストシングル、「ディス・タウン」はいろんな国で大ヒットしました。特にイギリスのチャートで#2まで上がりました。「ディス・タウン」が大ヒットしたきっかけは何でしょう。それは1974年5月9日にスパークスがBBCテレビ放送局の毎週放送していた音楽番組、「トップ・オヴ・ザ・ポップス」に出演したからです。多くの視聴者は聞いたことがなかったスパークスの音楽にいきなり興味を持っていました。
当時、「トップ・オヴ・ザ・ポップス」は毎週数百万人の視聴者がいました。なぜというと、多くの世帯はテレビがありましたが、チャンネルが3つしかなかったので、皆がほとんど同じ番組を見ていたからです。「トップ・オヴ・ザ・ポップス」はアーティストにとってとても大切な番組でした。出演ができたら、もっとレコードを売れることができ、大衆文化(音楽だけではなく、ファッションなども)への影響も大きかったのです。
「トップ・オヴ・ザ・ポップス」初出演のとき、スパークスのメンバーの見た目が印象的でした。メンバーは兄弟ですが、髪型や服や動き方は全く違いました。ボーカリストのラッセル・メイルの髪の毛が長くてクルクル、服の色が明るくて、テンション高く踊っていました。隣に座ってキーボードを引いていたロン・メイルの髪の毛は短くまっすぐで、鼻の下に短いヒゲも生やし、スーツを着ていました。そして、ロン・メイルは全然動かず、カメラの方に向かって真面目な顔で、ちょっと怖いオーラを出していました。(見た人はYouTubeで「Sparks This Town Ain’t Big Enough for Both of Us TOTP」を検索してください。)
1971年に同じ番組でデヴィッド・ボウイが「スターマン」を歌って出演した時も視聴者に大変大きな影響がありました。スパークスが「ディス・タウン」を演じた出演も歴史的に大衆文化への影響が大きかったです。50年近くたっても、スパークスの名前を聞いたら、あの番組であの曲を演じた出演場面を思い出す人がかなり多いです。僕はあの出演の13年後に生まれましたが、僕でもよく知っています。
日本でこういう大衆文化への影響が大きかった音楽番組の出演があるか、知りたいです。
* KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、27万枚を所蔵している。
ジェームス・テイラー
ジェームス・テイラーは毎月第3火曜日夕方5時半「課外授業の進め:ロスト・イン・ミュージック」のパーソナリティーです。
Sparks – ‘Kimono My House’ (1974)
Sparks shot to international fame thanks to this album. The album’s success was based on the hit single ‘This Town Ain’t Big Enough for Both of Us’, which reached number 2 on the British singles chart. Sparks’ appearance on the BBC’s weekly music programme Top of the Pops on 9th May, 1974 was one of those performances that really grabbed the audience’s attention and got them talking about this apparently new band who weren’t really new, but hadn’t had much exposure before they played on the show.
At that time, Top of the Pops had huge viewing figures. Most houses had a television, but there were only 3 channels, so most people shared the same cultural experiences. It also meant that for artists, getting onto television, and in particular Top of the Pops, could catapult them into the mainstream, set new trends for music and fashion, and get people talking at work and school the following day or week.
The appearance of Sparks’ members drew attention. Brothers Russell and Ron Mael looked, dressed, and behaved very differently. In the Top of the Pops performance, singer Russell is dancing about energetically with curly hair and flamboyant clothing. In contrast, Ron has slicked back hair and a short moustache, is wearing a suit and tie, and is sitting at his keyboard, hardly moving. In fact, he barely even blinks as he stares down the camera lens. (If you want to see the performance, search for “Sparks This Town Ain’t Big Enough for Both of Us TOTP” on YouTube.)
Along with David Bowie’s performance of ‘Starman’ in 1972, Sparks’ Top of the Pops performance of ‘This Town Ain’t Big Enough for Both of Us’ is one of the most memorable moments in pop music on television. Even now, nearly 50 years later, when people think of Sparks, they think of that performance of that song on that show. Even people like me, who were born more than a decade after those broadcasts, know about them.
Is there a live TV performance by a Japanese artist that has gained legendary status like Sparks’ performance of ‘This Town Ain’t Big Enough for Both of Us’?
* The Popular Music Collection (PMC) is located in Kanazawa Institute of Technology’s Library Center, and is the home of 270,000 donated and catalogued LPs, which are available for listening.
James Taylor
James Taylor presents ‘Lost in Music’ at 5.30 PM on the third Tuesday of every month.
ジェームス・テイラーのPMCでみつけた!Barenaked Ladies「BORN ON A PIRATE SHIP」
2023年2月1日
Barenaked Ladies(ベアネイキッド・レディース)
「BORN ON A PIRATE SHIP(ボーン・オン・ア・パイレーツ・シップ」(1996年)
ベアネイキッド・レディースはユーモアを使って、ちょっと違う物の見方から歌詞を作るバンドです。このアルバム、「ボーン・オン・ア・パイレーツ・シップ」もそうなので、いくつかの曲を紹介します。
「オールド・アパートメント」:この曲の歌詞は昔住んでいたアパートに押し入った人の話です。その昔住んでいたアパートは今どうなったかなとか、色々思い出しながら歌っています。僕は兄と兄の奥さんと一緒にロンドンでベアネイキッド・レディースのライブの見に行った時、「ボーン・オン・ア・パイレーツ・シップ」から演じた曲はこれしかなかったです。そして、第1回のベストアルバムの1曲目でした。
「ホエン・アイ・フォール」:この曲の歌詞は高層ビルの窓を掃除する人の話です。窓を掃除している時、中にどんな人を見るや自分の孤独の気持ちや高所恐怖症を歌っています。この曲のテーマは何だろう。自殺?うつ病?転職?宗教?曖昧です。最後の方に歌詞が「if I fall」(もし落ちたら)から「when I fall」(落ちる時)に代わります。
ベアネイキッド・レディースは歌手二人がいました。紹介する3曲目の「ブレイク・ユア・ハート」は一人のスティーヴン・ペイジがとても強いボーカルで歌う曲です。曲のテーマはパートナー(彼氏か彼女)と別れたいけど弱虫な人だから正直に言えないくてウソをつく人が歌っています。最後に求める結果(パートナーと別れる)が出ても、仲が悪くなってうれしくない人です。
「ストロー・ハット・アンド・オールド・ダーティー・ハンク」は農家の話です。しかし、ただの農業ではありません。この農家はラジオで聞いたアイドルのストーカーになって、最後にそのアイドルを殺してしまします。曲のテンポが高くて、僕は歌詞のテーマをあまり気づかなかったけど、テンポと歌詞のコントラストは面白いと思います。そして、本当の話です。
最後に紹介したい曲はアルバムの最後の曲です:「シュー・ボックス」。この曲はティーンエイジャー(中学生か高校生)が大人と付き合っているけど、相手に本当の年齢を知られたくないから、色々秘密にしているというテーマです。
「ボーン・オン・ア・パイレーツ・シップ」はあまり注目されていないアルバムです。理由は二つだと思います。一つ目は、このアルバムの次にライブアルバムを出して「ボーン・オン・ア・パイレーツ・シップ」からの曲のいいバージョンがたくさんあったからです。(このブログで紹介した曲が4つ入っています。)二つ目の理由は、次のスタジオアルバム、「スタント」(1998年)は世界中に大ヒットした曲があって、バンドが国際的に有名になったからです。それでも、「ボーン・オン・ア・パイレーツ・シップ」は面白い歌詞やいいメロディーたくさんあるので、聞いてみてください。
* KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。
全て寄贈されたレコードで構成され、27万枚を所蔵している。
ジェームス・テイラー
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Barenaked Ladies – ‘Born on a Pirate Ship’ (1996)
Barenaked Ladies are well known for their witty lyrics that often come from slightly unusual perspectives, and the songs on ‘Born on a Pirate Ship’ are no exception. I’d like to pick out five songs from this album that I think are particularly notable.
‘The Old Apartment’: this song is sung from the point of view of someone who has broken into the apartment where they used to live to look around, rummage through the new residents’ things, and see how things have changed since they moved out. ‘The Old Apartment’ was the only song from this album that they played when I saw them at Hammersmith Apollo in 2007 with my brother Ed and sister-in-law Kim. It was also the opening song of their first greatest hits compilation.
‘When I Fall’: this is sung from the point of view of someone who cleans the windows on high-rise office blocks, commenting on the people he sees inside as well as his own feelings of loneliness and fear of heights. Is it about suicide? Depression? Career change? Religion? It’s very ambiguous. Listen out for the switch in phrasing at the end from “if I fall” to “when I fall”.
‘Break Your Heart’: this is a powerful vocal from Steven Page, sung from the point of view of someone who is in a relationship that he wants to end but is too cowardly to finish, so he repeatedly lies, and although he gets what he wants i.e. the end of the relationship, he regrets that it ends acrimoniously
‘Straw Hat and Old Dirty Hank’: this one is from the perspective of a farmer who has developed a dangerous obsession with a pop star who he heard on the radio, which turns into stalking and murder. The tune contrasts so much with the lyrical content that you don’t notice the subject at first; it’s much more upbeat than this description sounds. It’s based on a true story.
‘Shoebox’: the last song I want to introduce is the last song on the album. ‘Shoebox’ is about a teenager who pretends to be older and dates an adult, keeping their real life a secret (under the bed in a “shoebox of lies”).
‘Born on a Pirate Ship’ is an overlooked album for a couple of reasons. Firstly, it was followed by the live album ‘Rock Spectacle’, which features impressive renditions of four of the songs mentioned above. Secondly, the band’s next studio album, ‘Stunt’, was their international breakthrough thanks to hits like ‘One Week’ and ‘It’s All Been Done’. Despite that, ‘Born on a Pirate Ship’ is worth a listen for the unusual lyrical content and catchy tunes.
* The Popular Music Collection (PMC) is located in Kanazawa Institute of Technology’s Library Center, and is the home of 270,000 donated and catalogued LPs, which are available for listening.
James Taylor
James Taylor presents ‘Lost in Music’ at 5.30 PM on the third Tuesday of every month.