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末松廃寺余聞・第1話「なぜ瓦が少ない」

2018年11月12日

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺余聞・第1話「なぜ瓦が少ない」

 

 末松廃寺(野々市市末松2丁目)にはまだまだ謎が多い。それは、研究のための直接的な資料が少ない、ということです。

 例えば、瓦の問題をみてみましょう。仏教の受容に伴う新しい技術によって手取扇状地を開発するため、これまで体験したことのない農法、予想も出来なかった収穫量を上げることができます。集落の形も変貌を遂げていきます。その象徴的なものが権力の在り処を誇示できるのが瓦葺(ぶき)の古代寺院だったでしょう。同廃寺の場合は金堂にしか用いられていません。塔をはじめ遺跡の他の遺構からは出土していません。

 もし、瓦があったなら塔は、五重塔以上の高さがあったかもしれません。高層の塔は屋根に乗せる瓦の重量で建物を抑えつけて安定させているのです。瓦がなければふらついて、倒壊を招きます。末松廃寺の場合は、塔基壇が大きく、柱間が3.6m、三間の建物ですから全体で10.8mあります。七重塔でも可能だったかもしれません。では何故、塔の心柱(しんばしら)を支える礎石、つまり塔心礎(とうしんそ)は三重塔の大きさしかないのでしょうか。

 

◇建築途中で七重塔計画を変更?◇

 

 末松廃寺第6話では、末広がりの三重塔の姿を描いてみました。しかし、当初からこんな姿の

平成25年に能美市湯屋で発掘された登り窯跡。末松廃寺の補修用瓦を焼いていた

塔を思い描いていたのでしょうか。一歩進めて、こんな推理はどうでしょうか。最初の構想では七重塔であったが、建築途中で瓦の入手が困難となり、高さを三重塔に変更した。

 手取扇状地の開発は天智朝の国家的事業であり、手取川右岸の地方豪族・越道君と左岸の豪族・財部(たからべ)氏が協力した、と考えられています。寺院の瓦は、左岸の旧能美郡にあった古窯群で焼かれたことが分かっていますので、財部氏が提供していたのでしょう。

 同廃寺の位置が野々市市であることから、私達は道君が中心になって天智朝に協力した、と思いがちですが、それは正しいのでしょうか。もしかして財部氏が中心であった可能性はないのでしょうか。

 ここで財部氏について、もう一度振り返ってみましょう。「たから」という名前の呼び方からして、これは古代、直接的に皇族に仕えて産物を貢納し、労働力を提供する名代・子代(なしろ・こしろ)の一族に指定されていた。その皇族とは年代を考え合わせれば、幼年に宝皇女と呼ばれていた斉明天皇が有力になっています。

 財部氏の勢力範囲は旧能美郡と言いますが、現代で言うと、手取川から左岸から加賀市の動橋川流域までと考えられます。加賀三湖、JRの加賀温泉駅辺りまで含みます。また手取川左岸と言っても、同川が流れを変える前ですから、扇状地全体の三分の一を占めていた、とされます。また5つの古墳群からなる能美古墳群を抱えています。造営期間は弥生時代から古墳時代後期の400年間に及び、多種多様の副葬品が出ています。北陸最大級の前方後円墳である秋常1号墳もあります。江沼臣(旧江沼郡)と道君の間に挟まれて見落とされがちですが、遜色のない大豪族と言っても差し支えない、と思います。

 

◇財部氏が先に古代寺院を建てていた◇

 

 末松廃寺の造営開始は斉明6年(660)ですから、天智朝と言っても斉明天皇の頃です。天皇親政という新しい政治を行うために天皇家の財政力を強くする意図を持った扇状地開発であれば尚の事、末松に先立って財部氏が左岸で、古代寺院を建てて開発を進めていた、とするのが自然な流れのようにみえます。

 この技術の蓄積を持って、古代加賀郡であった末松を中心に墾田開発、屯倉(みやけ)の開発に乗り出したのではないでしょうか。

 古代加賀郡は道君の領地です。財部氏のように名代・子代ではありませんから、屯倉の管理、財力の源である稲の運搬、田を耕す農民である田部(たべ)の確保を任すには一工夫が必要になります。それが道君伊羅都売を天智天皇の采女(うねめ=女官)として宮に入れ、懐に取り込んだのではないでしょうか。

 

◇末松廃寺に瓦の供給が絶たれる?◇

 

 末松造営が始まった翌年、斉明天皇は崩御されます。治世は天智天皇の代に移りますが、それでも同一王朝ということで事業は続けられます。しかし、代替わりをすれば財部氏は斉明天皇の奉仕集団、名代・子代から離れて一地方豪族に性格が変わり、旧能美郡の経営に専念せざるを得ません。そうであれば、末松廃寺から手を引いて瓦の供給が絶たれることになります。

加えて、造営開始から12年が経った672年になって壬申(じんしん)の乱が起き、天智朝は、弟の天武朝に交代します。

その頃、末松廃寺では金堂が完成し、塔の建設に着手していました。中央にも比肩するくらいの塔基壇は出来上がっていましたが、瓦の供給は途絶えます。やむなく、塔心礎を取り替えて三重塔を建立することになりました。

推理に推理を重ねれば、瓦の少ない末松廃寺と塔の謎をこの様に解くことも出来るのではないでしょうか。(宮崎正倫)

 次回は1115日、末松廃寺余聞・第2話「皇統つなぐ皇子」です。

親子電波教室のお友達

2018年11月10日

本日11月10日(土)は金沢工業大学で親子電波教室が行われました♪

早速自作のラジオを持って、小学生のお友達がFM-N1に来てくれましたよ~(^^)

まずは、ちょっとだけお話聞いて、自作のラジオをFM76.3MHzに合わせてみると・・・

なんと、しっかり聴こえるではないですか!すばらしい!!

聞けば、1時間くらいで作れた(ちょっとだけ専門家が土台作ってあったけど)とのこと。

 

 

 

 

その後は、ちゃっかりスタジオ見学ならぬ体験に。

放送はできないけど、雰囲気はしっかり味わってましたよ!

 

 

 

 

 

将来はアナウンサーやミキサーになって、FM-N1に来てね (^_^)v

(なかにしみき)

 

PMCで見つけた〈13〉チャーリー・プライドの「テネシー・ガール」

2018年11月9日

アフリカ系アメリカ人が歌う甘酸っぱいカントリー・ミュージック

 これまで余り触れたことがないカントリーを聴こうと、PMCからチャーリー・プライドのアルバム「リバー・ソング」を借りてきた。まず、最初に驚かされたのは、レコード・ジャケットは少し色褪せていたものの、確かにアフリカ系アメリカ人の顔立ちだった。カントリー・ソングと言えば典型的なヨーロッパ系アメリカ人の音楽だという先入観念があったからである。
 彼の経歴を見ると1938年(昭和13)にミシシッピー州のスレッジ生まれとある。ミシシッピー川はアメリカ音楽の川でもある。河口のニューオーリンズは南北戦争の後、ジャズが発祥した地であり、中流のメンフィスではブルース、ソウル、ロックンロールが生まれ、ナッシュビルはカントリー・ミュージックの地である。
 例えば、エルヴィス・プレスリーはこんな環境の中でカントリーだけでなくブルースや、ゴスペルを聴いたように、チャーリー・プライドもカントリーを聴いて育ったのである。第13回グラミー賞で、最優秀カントリー男性歌手賞を受けているのもうなづけるのである。カントリーチャートでは30曲ほどが1位を記録しているという。
 1973年に発売された同アルバムのお気に入りは「テネシー・ガール」だった。旅に出た男が生まれ故郷のテネシーが恋しくなり、恋人の待つテネシーに帰るという、胸に甘酸っぱさがこみあげてくる1曲である。(宮崎正倫)
 ◇KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、24万5千枚を所蔵している。

ブログ 瓦塔ショコラ!

2018年11月8日

10月末、野々市市の末松廃寺で、天女像が描かれた瓦塔(がとう)の欠片が発見されました。日本で初めて絵が描かれた欠片が見つかり、瓦塔が何に使われていたかがわかるかもしれない、と考古学会は盛り上がっています。(詳しくは、10月31日のスタッフブログ「末松廃寺ニュース:全国初、「天女」の線刻画が描かれた瓦塔片を発見」をご覧ください)

瓦塔、がとう。

よし、ガトーショコラ作ろう。

お菓子作りが好きな(得意とは言っていない)スタッフK.K.が”瓦塔”ショコラを作ってみました。

粉砂糖で天女像を再現しました。左側にのっティも。

土器のような堅さと出土したばかりのような黒さを再現・・・

味?

ほろ苦かったです。(焦げ)

(K.K.)

末松廃寺・第11話「寺院から神社へ」

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第11話「寺院から神社へ」

 

 末松廃寺(野々市市末松2丁目)は創建から間もなく、理由は分からないものの、伽藍が倒壊しています。木造建築の修理が必要になる目処は約60年とも言われますので、完成した670年頃から40年程しか経ない奈良時代初頭では、早々に、という表現になります。昭和の発掘調査結果から、再建されたのが8世紀の第2四半期(726750年)とされています。

 天智朝が始めた手取扇状地の開発事業は、象徴的建造物である末松廃寺が完成した直後に壬申の乱(672年)が起き、天智朝は天武朝に交代しています。天武天皇は全国に寺院建立を勧めたため各地で造寺の動きが盛んになります。扇状地開発の現地責任者の立場にあった越道君も氏寺の広坂廃寺(金沢市役所、21世紀美術館)を建てています。遺跡からは藤原京様式の瓦が出土しています。

 また、天武5年(676)には全国の寺で「金光明経」「仁王経」を説かせているので、末松廃寺でも同様の光景が繰り広げられたに違いありません。

 

◇末松廃寺の護持は開発指導者の手に◇

 

 国分寺などが設置されるようになると、末松廃寺の管理責任は中央の政権でもなければ郡司である道君の手も離れ、現地の入植者、墾田開発の指導者層に移って行ったのでしょう。

 天武天皇の孫である文武天皇の大宝2年(702)に大宝律令が施行され、国内の政治体制は律令制へと移行していきます。仏教伝来からこちら、最先端技術と結びついて権力と富を生み出してきた仏教寺院は全国的な普及とともに、権力の中枢である天皇家を支える役割から律令国家を精神的に支える国家仏教へと変貌を遂げていきます。また、東大寺の大仏にみられるように、現生利益を求める信仰になったのです。

 そこで、天皇家は国家の上に立つための新たな権威を求めるようになります。仏教の代わりに選ばれたのが神道ではなかったでしょうか。仏教伝来までの、あるがままの自然を重視した神道ではなく、天皇は神の子孫であるという物語性に裏打ちされた論理的な神道に衣替えをしたのです。

 

◇神道に基づく古事記、日本書紀編纂◇

 

 天武天皇が編纂を命じた「古事記」「日本書紀」は神代から始まっています。それぞれ、元明5

林郷八幡神社の鳥居。奥に拝殿が見える=野々市市上林

年(712)、元正4年(720)に完成しています。

 そうした中央政権の神道の動きとは別にして、奈良時代の養老7年(723)に「三世一身の法」、天平15年(743)に「墾田永年私財法」が施行され、土地は全て国の口分田という考え方から墾田の私有に道が開かれます。古代寺院の末松廃寺を中心とした開発地は律令体制の下でも着実に拡大し、末端の行政単位である「拝師郷(はやしごう)」を形成していきます。扇状地の乾田は単収も高いうえに未開発の土地も多く、私有地がまだまだ拡大する余地は十分あったとみられます。

 墾田管理の中枢は、末松廃寺造営時の末松A遺跡から、拝師郷が成立する律令制の時代に下新庄アラチ遺跡へと移り、斉明6年(660)の近江(滋賀県)、丹波(京都府北部)からの入植者の末裔が郷長となっていきます。この時期に、奈良時代の初頭には倒壊した同廃寺が再建されているのも、私有地拡大で力をつけた拝師郷長の出現があったからでしょう。

 末松廃寺では、金堂跡の西側用水から昭和36年(1961)に古代の貨幣である和同開珎(わどうかいちん)の銀銭が見つかっています。和同開珎が発行されたのが和同元年(708)ですから、創建当時に持ち込まれたものではありません。もしかすると末松廃寺の再建に当たり、地鎮の儀式で埋設された宝物の可能性も濃くなってきます。

 

◇末松廃寺の廃絶で林郷八幡神社を創建◇

 

 昭和の発掘調査によって、末松廃寺跡で確認される一番新しい遺構は11世紀中頃と考えられる溝状遺構です。建物ではなく桑畑などの畝間として掘られた溝跡と考えられています。平安時代の半ばには末松廃寺が完全に消滅していたことになります。400年に満たない命運だったことになります。

祭神として三条天皇の名前が刻まれた林郷八幡神社の由緒碑文

末松廃寺再建の後、拝師郷の政治的な中枢であった下新庄アラチ遺跡の集落は、末松A遺跡群などと共に9世紀半ば以降、と言いますから平安時代に入って50年程経った頃に急速に衰退していき、10世紀には本拠地としての終焉を迎えます。

 これは扇状地開発の終わりを意味するのではなく、開発の中心地が末松から、手取川の水源である白山寄りの安養寺遺跡(白山市)辺りへ移っていったため、と考えられます。灌漑のための取水口を更に上流に求め、墾田地を拡大させるために指導者層が移動したのでしょう。末松廃寺の護持者がいなくなったために同寺は歴史の舞台から消えて行きました。

 しかし、集落の全員が移住したわけではありません。これまでの墾田を守るために残った人達は、古代寺院の代わりに神社を建てます。天皇家の権威が仏教から神道へと変わったように、です。

 神社の名前は林郷八幡神社(野々市市上林)です。同神社由緒によると、祭神は応神天皇、神功皇后、三条天皇となっています。平安時代の長和2年(1013)創建です。末松廃寺が廃絶する頃と重なります。

 

◇祭神は藤原道長が擁立した三条天皇◇

 

 祭神として勧請された三条天皇が即位したのは、同神社落慶の2年前です。在位期間は1011716日で、1016310日に退位しています。百人一首に「心にもあらでうき世に長らへば恋しかるべき夜話の月かな」の歌を残しています。同八幡神社は、三条天皇即位とともに宮の造営に取り掛かり、祭神として勧請したことになります。

 当時の権力者は太政官の首席である左大臣の藤原道長でした。「この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」の歌が示すように、権力の絶頂期を迎えていました。また紫式部や清少納言が宮中で健筆を奮っていた頃です。三条天皇は一条天皇の後を受けて即位しましたが、道長の力がなければ及ばなかった、と言われています。

 つまり、三条天皇を勧請するには道長の許しが必要になります。開発した墾田の一部を荘園として寄進したことも考えられます。道長の威光によって、荘園管理者として地位を安堵してもらい、自らは地頭の役割を果たすことで勢力を伸ばしていったのではないでしょうか。

 白鳳時代の古代寺院を扇状地開発の守護者としてきた時代が終わり、神道に基づく神社が土地の守り神になっていったのです。応神天皇、神功皇后は武人の神です。しばらくして、手取扇状地には武士団としての林一族が姿を現します。都に上って宮中警護も担うようになり、中央政権との関係を築いていきます。自らの墾田を実質的に領地としていたところが、同じ武士団でも後の鎌倉武士団、御家人とは違うところかもしれません。(宮崎正倫)

 次回は1112日、末松廃寺余聞・1「なぜ瓦が少ない」です。

PMCで見つけた〈12〉ジ・エイムス・ブラザーズの「プッシー・キャット」

2018年11月6日

寄贈されたレコードを初めて3回クリーニングした

 私達が放送で使用する大部分の楽曲は、PMC所蔵のレコードを利用させてもらっている。24万5千枚を所蔵しているとはいえ、欲しい曲が全て揃う訳ではありません。今回紹介するジ・エイムス・ブラザーズの「プッシー・キャット」は初めて寄贈された楽曲でした。PMCの職員が前々から探していた1枚だそうです。

 送られてきたEP盤を整理していて、偶然に見つけたそうです。ジ・エイムス・ブラザーズは1948年に、アメリカのマサチューセッツ州で結成された男性4人のコーラス・グループです。PMCには同グループのレコードは1枚もありませんでした。FM-N1の音楽サーバーには、多分CDから落としたと思われる4曲がありましたが、同曲はありませんでした。

 しかし、よくも見つけ出したものだ、と感心します。他の職員の手に掛かっていたら素通りしたに違いありません。寄贈されたレコードは分類の後、コードを振られて登録に回されて行きますが順番待ちをしている盤が多く、「プッシー・キャット」が一般に公開されるのは数年後になる可能性もあるとか。

 もともと、ポピュラー・ミュージックは消耗品の性格があり、寄贈されたものの保存状態が万全と言えないものもあります。好きな曲を聴きこんだ跡があるからです。今度のレコードも埃をかぶっていたそうですが、裏を返せば、愛着が深い分だけ手放せなかった、とも言えます。見つけ出した職員は、専用のクリーニング器などで3回磨いたそうです。音を聞かせてもらいましたが、新品と遜色ないメロディーが流れてきました。

 ◇KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、24万5千枚を所蔵している。

末松廃寺・第10話「鄙に地の利あり」

2018年11月5日

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第10話「鄙に地の利あり」

 

 末松廃寺(野々市市末松2丁目)が建立された頃、当地は越(高志)国(こしのくに)に含まれていました。越国とは今でいう福井県嶺北から秋田県に至る広大な範囲です。大和政権の支配下にありましたが、一つの国というより福井・嶺北から以北の日本海側地方という十把一絡げの扱いだったのではないでしょうか。

国府のある武生(福井県越前市)は越国の中央に位置するのではなく、一番都に近い土地に置かれていました。これでは、国府にいる国守にとって、越国の隅々までの実情、情報を十分に把握するには不利な状況にあったことになります。大和・飛鳥の都からみれば地方の国のさらに田舎、つまるところ鄙(ひな)としての感覚が強かったのでしょう。

 

◇越道君は鄙の起点に居る大豪族?◇

 

 越道君(こしのみちのきみ)の名前の由来は定かではありません。名前は地名から採るのが一般的ですが、越道という地名が存在しないために謎に包まれたままになっています。

古代の福井県はもとより石川県内の旧江沼郡までの地域は、早くから中央政権に服属していたので、隣接する旧加賀郡が鄙の始まりということになります。そこから延々と続く鄙の道の起点にいた豪族という意味で、越道君と呼ばれたのかもしれません。

末松はその旧加賀郡に属していました。同郡の範囲は北が大海川(現かほく市)から南は手取川までの範囲で、郡司は在地の大豪族である道君が務めていました。当時とすれば、国府と旧加賀郡の間の距離は十分に離れており、支配下にあるとしながらも日常的な政治的圧力は少なかったのではないでしょうか。

 支配の目的は、税として水稲を納めさせるなど物産の貢納、労働力の提供などです。当時の稲作は墾田を拓いた権力者が、自ら所有している稲穂を出挙(すいこ)と称して田部(たべ=農民)に貸し付け、耕作させます。そして収穫時に、貸し付けた稲穂の量のほか一定の歩合で利息となる利稲(りとう)を合わせて納めさせます。末松の場合は、土地の所有が朝廷ですので、道君が代理人として税を徴収、納めていたものと思われます。

 

◇税として稲穂の申告は正確だったのか◇

 

 天智朝が興した末松廃寺造営から約30年間は、墾田を天皇家の屯倉(みやけ)として、実質的は道君が管理をしていました。武生に居る国守の出番は余りありません。扇状地開発は順調に進み、墾田は急速に拡大してい

現在の手取扇状地を潤す七ヶ用水の取水口になっている安久濤ヶ淵の大門=白山市

きます。水位の低い乾燥地に治水技術を駆使した乾田の圃場は予想を超える収穫量をあげていきます。田部の数、耕作地面積、収穫高を、ごまかすとまでは言いませんが、少なめに申告をすればするほど、現地の道君に残る水稲の歩合は多くなっていきます。鄙であるが故の利得とも言えます。

 手元に残った稲穂は、公の帳簿外として、私的に貸し出すことも出来るようになりなります。「闇の貸付」、「私腹を肥やす」ことになりますが、これを私出挙(しすいこ)と呼んで、二重帳簿を作ることになります。田部は本来、国の所有として戸籍で管理されますが、私出挙における田部は戸籍を離れ、在地権力者の私有状態となります。開発された墾田も私有への道が開かれます。

 時代は新しくなりますが、奈良時代の天平宝字5年(761)に、加賀郡の少領(郡司の2番目の位)道君勝石が、当時の加賀郡の公出挙(くすいこ=正式の貸付)の量に匹敵する6万束の私出挙を行い、利稲3万束を得ていた事件が記録されています。末松廃寺を創建し、扇状地開発に乗り出してから100年後のことです。耕作不可能地という常識を打ち破るような勢い、収量を確保できた一つの証のようです。

 ともかく、どちらの場合も墾田の正確な面積、田部の数を把握していなければ利稲を含む税収をあげ、拡大再生産につなげることはできません。稲穂を貸し付ける営農の姿が続く限り、国の制度としての条里制が整わなくても実態として、条里の考え方に基づく地割りが必要だったわけです。これが土木技術、治水技術、建築技術、文字による管理能力と一体となった渡来系の最先端技術であり、新文化の象徴として仏教寺院があったわけです。

 

◇加賀立国で税の管理が厳しくなる◇

 

 しかし、国による管理態勢は次第に整えられていきます。越国が越前、越中、越後となるのは、天武朝が天智朝を倒した壬申(じんしん)の乱(672)の後のことで、持統6年(692)年頃までには三国に分割されてしまいます。国の律令制度として完結するのは、藤原京に都が置かれていた文武天皇の時代、大宝2年(702)に大宝律令が制定された時になります。開拓地の墾田は、班田として明確に国の所有と位置付けられます。

 藤原京から平城京に都が移った元正天皇の723年に「三世一身の法」が、聖武天皇の743年には「墾田永年私財法」が施行され、国の班田を実態に合わせた後付けの論理で、一部の私有を追認します。新規開発の墾田の荘園化に追い風となります。在地勢力は、都に住む荘園領主のために荘園管理を行うことで地位の保全、地域勢力の扶植を図ることになります。

 末松廃寺造営から160年程を経た頃、中央の支配体制に大きな変化が起こります。弘仁14年(823)に、越前国に含まれていた加賀、江沼両郡を新たに加賀国として立国されたのです。武生に居た国司が、越国を三分割した越前国でもまだ、領地が広すぎて徴税管理の目が届かないため、態勢を細分化したことが一因とも言われています。

 

◇立国2年後には中国から上国に格上げ◇

 

拝師郷長が住んだ下新庄アラチ遺跡。拝師郷の中心地だった。今は再開発を経て、野々市市の新しい中心地の一つとなっている

 それまでの旧加賀郡は河北、石川の2郡に、旧江沼郡は能美、江沼の両郡となりました。制度として1国4郡制をとっていたからです。全国では66番目の国で、最後の立国となりました。

 66カ国は生産力(税収)の多寡によって大国、上国、中国、小国の4階級に分けられていました。加賀国は最初、中国とされましたが立国からわずか2年で上国に格上げされています。急に墾田が拡大して税収が増えた、というよりも、稲穂の石高が以前よりも正確に把握されたというべきでしょう。国司の狙いは当たったと言えますが、それでも十分であったかどうかは、また別の話です。

 

◇律令制で拝師郷が生まれる◇

 

 流れを整理すれば、660年頃、末松ダイカン遺跡、末松福正寺遺跡辺りに入植した渡来系の人達は、墾田開発が軌道に乗るのに合わせ、末松廃寺の東側430mに拠点を移し、末松A、清金アガトウ遺跡として集落を拡大していきます。この後、更に東側770mにあった上林新庄遺跡(冨樫用水系)付近に、推古朝の時代から先行して進出していた入植者を取り込んでいきます。

 702年には大宝律令が施行され、行政組織は国郡里制に整備されます。養老元年(715)に「里」は「郷」と改められます。末松廃寺周辺にあった複数の集落を束ねて「拝師(はやし)郷」が成立します。

 いったんは縮小した上林新庄遺跡は再編され、製鉄工房を伴う集落になります。さらに北側に接するように下新庄アラチ遺跡が出現し、建物の大型化、戸数増大が見られます。首長宅とみられる最大規模の建物を囲むように大型建物が並び、硯(すずり)、小刀などの出土物から行政機能を併せ持っていたことがわかりました。拝師郷の中心地とみて間違いありません。

また、下新庄アラチ遺跡の建物や出土物には末松ダイカン遺跡で見られた渡来系の特徴を引き継いでおり、入植してきた渡来系の一族が開発の指導者として継続的に地位を保ってきたのでしょう。首長つまり拝師郷長は渡来系の子孫ということになります(宮崎正倫)

 次回は118日「寺院から神社へ」です。

PMCで見つけた〈11〉ザ・ジェントリーズの「花を贈らないで」

2018年11月2日

同じ誤訳でも格の違いはあるのだろうか?

 PMCから、1963年に結成されたアメリカのロックバンド、ザ・ジェントリーズのアルバム「キープ・オン・ダンシング」を借りてきた。アルバム・タイトルの同曲しか聴いたことがないので、他の楽曲はどんなものか知りたくなったからである。いつか使えそうな3,4曲を見つけたが、中に「花を贈らないで」と邦題がつけられたものがあった。

 原曲のタイトルを見ると「Don't send me no flowers」とある。直訳すれば「私に花を贈ってちょうだい」だろう。歌の中を見ても邦題のように意訳するには無理がある。まさに正反対である。英語に詳しいパーソナリティのロイ・キヨタさんが第4スタジオ・サンセットから出てくるのを待って聞いてもらった。躊躇もなく「誤訳だよ」。一刀両断だった。

 曲タイトルの有名な誤訳としてはジャズのスタンダード・ナンバーとなっているヘレン・メリルの「YOU'D BE SO NICE TO COME HOME TO」がある。邦題は「帰ってくれれば嬉しいわ」である。これでは、女性が待っているところへ男性が帰ってくる、という意味である。本当は男性が待つところへ女性が帰るわけだから、これも正反対の誤訳である。

 確かに、PMCのレコードにも誤訳の邦題が記されている。しかし、問題は放送する場合である。誤訳でも著作権上の登録は「帰ってくれれば嬉しいわ」なので、そのように紹介しなければなりません。FM-N1では「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥー・カム・ホーム・トゥー」とカタカナ読みをしている。念のためにキヨタさんに和訳をしてもらったら「私が帰る家にあなたがいる」。練れた日本語が返ってきた。それではザ・ジェントリーズの「花を贈らないで」はどうするか。二つの曲の格が違い過ぎて問題にはならない? (宮崎正倫)

 ◇KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、24万5千枚を所蔵している。

虹!

2018年11月1日

仕事の合間に、スタッフの一人が「虹!」って・・・

お~、でっかい‼思わずパチリ。

遠くに見える虹はよくあるけれど、今回は結構近い(º0º)

画像は色が薄いけど、実際はもっとはっきり見えてました。。。

なんかいいことありそうな予感♪

(なかにしみき)

「東窓からの眺め」

(宮崎正倫)

末松廃寺・第9話「東門からの眺め」

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第9話「東門からの眺め」

 

 現在、手取川扇状地の灌漑は扇頂に当たる鶴来(白山市)の安久濤ヶ淵(あくどがふち)に造られた取水口から引かれています。富樫、郷、中村、山島、大慶寺、中島、新砂川の7本の用水が3市1町の4,700㌶以上の圃場を潤しています。水は高きから低きに流れるのです。

 白鳳時代に始まった石ころだらけの扇状地開発の第一歩は、扇央部の野々市市末松2丁目に取水口を定め、畔(ほとり)に末松廃寺を造営する都市計画の元で始まりました。当然、水は低きに流れるため、ここから下流域が当初の開発対象でした。

 渡来の技術をもった近江(滋賀県)、丹波(京都府北部)からの入植者は、同廃寺から北東100mほどに当たる末松ダイカン遺跡や末松福正寺遺跡をはじめ、東へ約430m離れた末松A遺跡、清金アガトウ遺跡に居を定めたものとみられています。建物の特徴から分かりました。同廃寺が建立された7世紀末の竪穴建物数は20棟前後を数えることから入植者数は200人前後が想定されているのです。

 

◇物資の運搬用に運河を掘削◇

 

末松A遺跡と清金アガトウ遺跡は、現在の地籍は異なりますが同一の遺跡です。特徴的なのは、

末松廃寺の東門跡付近から見た末松の集落方向

集落が2050mの間隔で7つの建物群に別れ、南北約1,240mにわたって一直線上に並んでいることです。末松A遺跡の北端からは人工的に掘削された大溝跡も発掘されました。長さが97m、深さ1m、上部の幅が4m前後という大きさです。船着き場とみられる護岸施設も発掘されました。物資や人員を運んだ運河なのですが、その先がどこへ続くかは分かっていません。竪穴建物群と主軸が同じことから7世紀末に掘られたものです。

 末松A、清金アガトウ遺跡は現在、石川県立大学に沿うようにして国道157号(鶴来バイパス)の下にスッポリ収まっています。

末松ダイカン遺跡は直径で100mほどの広がりを持っていますが、鞴(ふいご)の羽口、鉄滓が少量出土していることから小規模な小鍛冶が行われていたことが分かります。石ころだらけの扇状地開発に鉄製農具は欠かせません。また末松福正寺遺跡からは乗馬に用いられる鐙(あぶみ)か腹帯の馬具が出土し、農民でも有力な戸主層が馬を所有していたことが分かります。広い扇状地の墾田を馬に乗って、指導に当たっていたのかもしれません。

末松廃寺を造営した渡来人たちが住んだ末松A遺跡は国道の下になっている=野々市市の県立大学前

これら、廃寺造営当時の遺跡群にある建物の変遷を調査していくと8世紀後半から9世紀(奈良時代~平安時代中頃)を通して、次第に集落を拡大しています。出土の遺跡、遺物からみても扇状地開発の指導者層の集落に間違いありません。

 

◇廃寺から指導者の集落まで東へ一直線◇

 

 末松廃寺の平成の調査で、新たに東門の柱跡が見つかりました。少し、当時を想像してみましょう。東門の前に立ち前方を眺めると正面に、指導者層の集落が1,240mにわたって、墾田の中に広がっています。もし、条理制の考え方に基づき、綿密な都市計画の上で開発を推し進めたならば東門の前から一直線に、指導者層の集落に向かって道路が延びているはずです。今度は反対に、集落の方から廃寺の方向を見やると、道路の先に東門があり、後ろには祭事の幟(のぼり)が翻り、塔がそびえています。背後には手取川の流れが迫ります。こんな風景だったのでしょうか。

 末松廃寺の造営、扇状地開発の立案、事業主が天智朝で、都から離れた屯倉(みやけ)を現地で管理する責任者が河北潟を本拠とする郡司の越道君。末松で開拓、営農を指導するのが近江、丹波からの移住者です。末松周辺では、3世紀頃から営農が始まり、同廃寺の造営までの400年の間に、労働力の田部(たべ)となる多くの人が居住していました。

 

◇推古朝から小規模に扇状地開発◇

 

 3世紀頃というのは、第7話「なぜ手取扇状地」で紹介した上新庄チャンバチ遺跡(野々市市新庄1丁目)の前方後方墳が築かれた時です。古墳を造るまでの力を持った小豪族に率いられた集落が存在し、倉ヶ嶽に水源を持つ高橋川(木呂川)水系に沿った開発が先行していました。また、末松廃寺から東へ1.2㎞にある上林新庄地区には、7世紀前半代の集落遺跡があります。同地区南西部から近接する上林テラダ遺跡に古墳と小集落が確認されます。末松地区でも末松古墳のほか、「塚」の地名が残るように数基の古墳が存在した可能性があります。墾田が拡大していった証となるでしょう。

 従って、周辺には相当数の人口が推定され、扇状地開発に動員されたのでしょう。もちろん、道君の勢力圏の他の地域からも労働力が徴発された可能性も残されています。

 実は、手取扇状地の開発というのは小規模ながら、7世紀前半から手掛けられていたのです。聖徳太子が摂政を務めた推古天皇の時代の開発拠点と思われます。

 昭和の発掘調査の報告書によれば、同廃寺塔跡の南東隅の下から建物跡が1棟発掘されていました。造営時期が660年頃と特定できたあの遺構です。この建物と同一の集落を形成するとみられる建物10棟が南東方向で確認されています。同廃寺造営以前の集落で、当時も既に、手取川近くまで営農の波が迫っていたことを表しています。まさに末松廃寺の開発前夜にあたります。

 そこへ渡来系の最先端技術を持った指導者が乗り込んできて、全ての要素がそろいました。扇状地開発の大事業が爆発的に進展していったのです。

 天皇親政という新しい国の形を早急につくらなければならないのですから悠長に構えているわけにはいきませんでした。寺院造営も必要最小限の伽藍に留めたのかもしれません。(宮崎正倫)

次回は115日「鄙に地の利あり」です。