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2023年特集「大地有情、風に事情」第13回 二代の光陰 6月26日放送

2023年6月26日

加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中

第13回(令和5年6月26日放送) 「二代の光陰」

 先週は、万葉歌人としての誉れが高い志貴皇子の和歌のうち、万葉集巻第1に収められている「采女(うねめ)の 袖ふきかへす 明日香風 都を遠み いたずらに吹く」を紹介しました。歌の中の「采女」とは天智天皇に嫁いで志貴皇子を産んだ越道君伊羅都売(こしのみちのきみ・いらつめ)ではないか、とお話をしました。694年/持統8年に藤原京に都を移した後、遷都前の都であった飛鳥浄御原宮(あすか・きよみがはらのみや)に立ち寄った志貴皇子が、母親を思って読んだ、という解釈をしました。
 時代の趨勢は天智系から天武天皇系に移りましたが、皇族を中心とした政治を行いたい、とした天武の意志によって、天智系であった志貴皇子ら2人も政権に加わることになりました。しかし、他の皇子達と比較して志貴皇子の位階は低く、出世も遅れていましたが、歌人としての名声は上がる一方でした。
 これにより、天武系の皇族達による後継天皇をめぐる争いには巻き込まれず、命脈を保つことができたのかもしれません。
 志貴皇子が亡くなったのは、藤原京から更に平城京へと遷都された6年後の716年/霊亀2年のことです。生まれた年が不詳ですので享年はわかっていません。
 660年/斉明6年、天智朝の強い意志によって、白鳳の大寺・末松廃寺建立事業と共に開始された手取扇状地の開拓は、天武天皇が天智朝側を破った672年の壬申(じんしん)の乱によって何か変化が起きたのでしょうか。この問題を考える前にもう一度、奈良時代の都・平城京に戻って、越道君伊羅都売から志貴皇子へと続いた家系、子孫はどの様に生き抜いて行ったのかを、見てみましょう。
 志貴皇子には二人の妻がいました。一人は託基皇女(たきのひめみこ)と言い天武天皇の皇女でした。もう一人は紀橡姫(きのとちひめ)と言って飛鳥時代末期から奈良時代にかけての豪族の娘でした。紀橡姫の子で志貴皇子の第六皇子に当たるのが白壁王(しらかべおう)でした。白壁王は8歳の時に志貴皇子を亡くし、ただでさえ出世が遅かった父という後ろ盾さえ失ったからか、皇族として位階を受けたのが29歳の時と、非常に遅い時期でした。
 また父と同様、天武系の政権内で繰り広げられる皇位継承に絡む政変から身を護るためか、竹林に入り込んで酒浸りになる姿を見せつけ、権力への無関心を装っていました。
 結婚も白壁王45歳の時で、後の皇后となる正妻には第45代聖武天皇の皇女で、既に38歳になっていた井上内親王を迎えます。皇位も聖武天皇の皇女であった第46代孝謙天皇に移り、権力争いも落ち着きを見せていたこともあったのでしょう。50歳の時に、井上内親王との間に他戸(おさべ)親王が生まれます。天智系と天武系の両方の血を引く親王と言うことになります。
 770年/神護景雲(じんごけいうん)4年、第48代称徳天皇(孝謙天皇が重祚=ちょうそ=)が亡くなると、これまでの度重なる政変によって天武天皇嫡流の男系皇族が少なくなっており天武系、天智系の両方の血を受け継ぐ他戸(おさべ)親王が後継天皇の候補の一人に上がって来ました。そんな思惑が働いたのか、白壁王を他戸親王が成人するまでのつなぎ役とするためか、第49代天皇の座が回って来たのです。
 白壁王は光仁(こうにん)天皇として即位、62歳になっていました。歴史上も最高齢での即位となります。光仁天皇はその後、天武天皇の血を引く皇后の井上内親王と皇太子の他戸親王を共に、大逆の罪を図った、との密告を受けて、廃位してしまいます。
 替わりの皇太子には山部親王が立てられます、母は百済の渡来系豪族の一族の娘で、光仁天皇の妃(ひ)となっていた高野新笠(たかの・にいがさ)です。山部親王は後の第50代桓武天皇となります。
 672年の壬申の乱から約100年、皇統は天武系から再び天智系へと戻ります。越道君伊羅都売の子の志貴皇子、そして光仁天皇はおよそ1世紀の間、天武系の政争の嵐に耐え、頭を低くして難を避けて来ました。桓武天皇は、光仁天皇の一周忌の法要「光仁会(こうにんえ)」を奈良・大安寺(だいあんじ)で執り行いました。この祭は、光仁天皇が白壁王時代に、竹林の中で酒を飲んで周囲の目を欺いてきた故事に倣って今も「光仁会(癌封じ笹酒祭り)」として大安寺に受け継がれています。
 志貴皇子は光仁天皇即位の後、春日宮御宇天皇(かすがのみやに・あめのしたしらしめす・すめらみこと)の追尊(ついそん)を受けることになります。実質的に男系はつながっていても、天皇の子が天皇になる、という不文律の伝統を守るための追尊でした。こうして天智系の男系が現在の皇室につながっているのです。このドラマを生み出したのが白山手取川ジオパークの舞台でもある手取扇状地の開拓にあったことは、この故郷(ふるさと)に生きる私達も記憶に留めておきたい事の一つではないでしょうか。
 世界ジオパークの大地に、歴史の哀歓を乗せた風が吹き渡っているからです。


写真/志貴皇子を祀る奈良豆比古神社(奈良市)。毎年10月8日、氏子が集まって宵宮祭が開かれ、翁舞(国指定重要無形民俗文化財)を上演しています。

2023年特集「大地有情、風に事情」第12回 万葉歌人の心 6月19日放送

2023年6月19日

加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中

第12回(令和5年6月19日放送) 「万葉歌人の心」


 白山手取川ジオパークの舞台である手取扇状地の開拓は、白鳳時代に始まりました。西暦660年/斉明6年の末松廃寺建立の開始により、暴れ川の原因とみる在地の水神の祟りを取り除くため、仏教に基づく新しい神を祀(まつ)ることが必要だったのです。ジオパークでは白山から日本海へ下り降りる「水の旅」と表現されますが、大自然と開拓民の間で必死の戦いが繰り広げられたのです。
 そして672年/天武元年の壬申(じんしん)の乱によって、開拓を始めた天智朝側が天武天皇側に敗北したことにより、手取川開拓のその後の運命も変わっていった可能性が考えられます。
 それは、遠く離れた飛鳥の地においても同様のことが言えたのではないでしょうか。
 天智天皇と古代・加賀郡から天智朝の後宮に入った越道君伊羅都売(こしのみちのきみの・いらつめ)の間に生まれた志貴皇子(しきのみこ)の運命も変わっていったのです。
 壬申の乱に勝利した大海人皇子(おおあまのみこ)は第40代天武天皇となりました。壬申の乱から7年後、679年/天武8年、天皇と皇后の鸕野讚良(うののさらら=後の第41代持統天皇)は、天智と天武両天皇の皇子(みこ)合わせて6人を連れて吉野に行幸し、皇后の皇子である草壁皇子を次期天皇とすることを誓わせました。6人の皇子は草壁を含めて天武系が4人、天智系が2人で、いずれも母親が違います。鸕野讚良皇后の皇子は草壁皇子だけでした。皇位継承の有力豪族となり得るそれぞれの母系を代表している、とも言え、天武・持統直系の皇統に対する忠誠を誓わせるための行幸でした。
 天武天皇は皇族を中心とした政治体制、つまり皇親政治を目指していたので天智系も含まれていましたが、6人は互いに争わずに協力し合うことを求められました。いわゆる「吉野の盟約」と呼ばれるものです。しかし、7年後には草壁皇子の1歳違いの弟である大津皇子は、盟約があるにもかかわらず、鸕野讚良皇后に謀反の疑いを掛けられて死に追いやられてしまいます。
 一方、天智系の皇子で盟約に加わったのは川島皇子と志貴皇子の二人です。志貴皇子の名前が歴史資料に登場するのは、吉野の盟約の場面が最初のことです。余り目立つ存在ではなかったのかもしれません。その後の持統朝でも要職につくことはありませんでしたが、大津皇子の死を思うと、それだけ身の安全が保たれたのかもしれません。
 叙位ではありませんが、志貴皇子の地位を示す記録があります。吉野の盟約に参加した他の皇子5人が冠位四十八階の制定によって叙位を受けるのですが、志貴皇子だけ名前がありません。代わりに、翌年の686年/朱鳥(あかみとり)元年、給料にあたる封戸(ふこ)200戸を与えられています。
それでも、皇族としては最下級の四品(しほん)にしか当たりませんが、叙位を受けたのは封戸を受けた15年後、701年/大宝元年のことです。この年、天武系直系のひ孫になる首(おびと)皇子が生まれています。後の第45代聖武天皇です。天武直系の皇位継承者が誕生した安心感もあったのか、志貴皇子にも少し陽が当たったのかもしれません。
 志貴皇子は政治家としてよりも万葉歌人としての名声を高めて行きます。万葉集には六首が選ばれています。
 万葉集巻第8の巻頭歌が有名な一首です。
 「石(いわ)ばしる 垂水(たるみ)の上の さ蕨(わらび)の 萌え出づる春に なりにけるかも」
 冬が去り、春の到来を告げる歌、というのが定説のようになっていますが、早蕨が芽を出すのは4月の終わり頃です。春の到来と言うより春爛漫の喜びを歌っているのが自然な解釈はないでしょうか。
 釈然としない気持ちでいると、以前の取材で、ある万葉研究者から「この和歌は、志貴皇子が宴席で、早蕨が描かれた屏風の絵を見て作った歌だ」という話を聞かされたことを思い出しました。改めて調べ直すと、大妻女子大の先生で、川上富吉(とみよし)さんの論考に行きつきました。2000年/平成12年に書かれたものでした。
 それによると、歌が作られたのは703年/大宝3年正月のことで、吉野の盟約に加わっていた天武天皇の皇子・忍壁(おさかべ)皇子が知太政官事(ち・だじょうかんじ)に任命されたことを祝う宴席に出席した時のことだそうです。志貴皇子の正妃であり、忍壁皇子の一番下の妹である多紀(たき)皇女と一緒に祝いの席に出ていた、と結論付けています。
忍壁が官僚のトップに就いた事、つまり忍壁にとっての「我が世の春」を祝ったとも取れます。
 天武・持統朝の中で生きる天智の皇子が、天武系の皇族とも血縁で結ばれながら、頭を低くして恭順の意思を示して苦労を重ねる姿が浮かび上がってくるようです。
 最後に万葉集巻第1に載せられている和歌を紹介しましょう。飛鳥の宮から藤原宮(ふじわらきゅう)に遷都した後、飛鳥を訪れた時の一首とされています。
 「采女(うねめ)の 袖吹きかえす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く」というものです。
 「采女」というのは天皇の身近で、食事などの世話をする女官のことです。一般的な解釈でも「女官の 袖を吹きかえす」と解釈されていますが、これは志貴皇子が、母親である越道君伊羅都売(こしのみちのきみの・いらつめ)を詠んだと思えてなりません。末松廃寺建立の前、加賀郡から天智朝の後宮に入った時の身分は「宮人(めしおみな)」です。宮に人、と書きますが、采女のことです。律令が定められた後は第三夫人の地位を示す「夫人(ぶにん)」と称されることになります。
 「采女であった母親が天智の下に嫁いで来た時、豪壮な宮で、艶やかな姿を見せつけるように明日香の風が衣の袖を翻させていた。藤原京へ都を移された今は古い飛鳥の宮に人影も無く、新しい都を遠く見て、風が虚しく吹いているだけです」
 この和歌が、手取川開拓に賭けた朝廷と、その一翼を担った地方豪族の思惑が籠っているとするならば、手取扇状地を故郷にする私達には、また違った感慨がこみ上げてくるのではないでしょうか。
 飛鳥宮(きゅう)と藤原宮(きゅう)は直線距離で3.4㌔ほどです。志貴皇子は飛鳥生まれです。わずか指呼の間、手をかざせば新しい宮殿が見える距離です。
 明日香風も古代の事情を乗せ、時代を超えて白山手取川ジオパークの故郷に吹いて来るようです。


写真/平山郁夫筆の藤原京絵図(高岡市万葉記念館)。藤原京に遷都する前の旧都・飛鳥の地に立って、志貴皇子は万葉歌「采女の 袖吹きかえす 明日香風~」を詠みました。その胸の内には母への想いが流れていたのでしょうか。

扇が丘キャンパスで見つけた!ニュートンのリンゴの木

2023年6月14日

今年もキャンパス内にある「ニュートンのリンゴの木」(子孫です)にたくさんの実がなってます(^^♪

まだまだ青いけど、これが真っ赤になるのが待ち遠しい~

大学内なので、採っちゃだめですよ!

でも見るのは全然大丈夫だから、どこにあるのか言わないので、探してみてね

 

(なかにしみき)

2023年特集「大地有情、風に事情」第11回 無情の七重塔 6月12日放送

2023年6月12日

加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中

第11回(令和5年6月12日放送) 「無情の七重塔」

 ユネスコによる白山手取川ジオパークの世界遺産認定は、とりもなおさず扇状地流域の開拓に難題を突き付けてきた故郷(ふるさと)の苦闘の歴史も認定した、と言ってもいいのではないでしょうか。野々市市の末松廃寺建立をシンボルとして、律令政治が確立する直前に中央集権国家の意思を持って、荒涼とした扇状地の耕地化を成し遂げた記念碑的事業でもあったと思います。
 1966年/昭和41年から、国の手によって開始された末松廃寺の発掘調査は、廃寺の全貌を知るために現在も続けられています。660年/斉明6年から建立が始まった末松廃寺は7世紀の第3四半・675年頃までには完成して、8世紀の初めには一旦、廃絶しています。その後、8世紀の中頃には再建された、と見られています。
 仏教寺院の中枢伽藍は本尊を安置する金堂と、お釈迦様の骨を納める塔とされています。末松廃寺は西に金堂、東に塔を横一直線に並べた伽藍様式から法起寺(ほうきじ)式の寺院とされていますが、その中で、最大の謎とされているのが仏塔の問題ではないでしょうか。
 2009年/平成21年に発行された文化庁の発掘調査報告書「史跡 末松廃寺跡」によると、塔を乗せる基壇の大きさは一辺の長さが10.8mあります。塔の部分は方三間と言いますから、一辺の柱の数は4本で、柱の間が3カ所あるということです。柱間の広さは3.6mとなっています。単純に数字を当てはめれば七重塔の威容を示していますし、基壇も塔を乗せるには十分な大きさである、としています。予想を超える余りの大きさに、西に隣接する金堂に接近しすぎる配置となって、伽藍全体では手狭な印象を与えているのです。
 ここで、最大の謎が生まれます。古代の寺院における塔の建築方法は、まず塔の中心を貫く心柱(しんばしら)を建て、最上部に法輪と金属製の台である露盤を置きます。次に最上階の屋根から順次、心柱に取り付けて、吊り下げてゆくのです。言い換えれば、心柱一本で七重の屋根のバランスを取りながら支える構造になっています。
 高くなればなるほど、当然のように心柱はふらついてきます。このふらつきを抑えるために各屋根の上に瓦を葺いて重量を重くし、下へ抑え付ける力を増すことで安定させているのです。塔の外壁を取り巻く柱は補助的な役目でしかありません。
 末松廃寺の場合は、塔の周辺からは全くと言っていいほど瓦が出土していません。西隣の金堂周辺からは大量の瓦が発掘されているのとは対照的です。瓦がなければ七重塔は立ちません。綺麗好きな誰かが居て、周辺の瓦を片付けたのでしょうか。
 さらにもう一点、瓦に続く難問です。塔の屋根を吊り下げる心柱ですが、この柱を支えるための土台、心礎(しんそ)と呼ばれる石を塔基壇に据えます。末松廃寺の場合は手取川の転石である安山岩を使っていますが、心礎の上部を心柱の太さに合わせて穴を穿(うが)っています。穴の直径は58㎝でした。全国の塔を調査した結果から導き出されたデータは、直径の約40倍が塔の高さと言っています。つまり末松廃寺の塔の高さは23.2mにしかならず、これは三重塔の高さです。三重塔であれば瓦を葺かずに建設することは可能ですが、七重塔を支えるには細すぎます。ちなみに、現存する三重塔の中で最古のものは、末松廃寺の伽藍配置様式モデルとなっている法起寺の三重塔で、706年/慶雲3年に完成し、高さは約24mとなっています。
 また、塔の北東側から幢竿支柱(どうかん・しちゅう)の跡が検出されています。幢(どう)とは仏事に使う旗で、竿(かん)とは装飾した旗を下げる竿(さお)のことです。この旗竿を立てる時には竿(さお)の左右から支柱を添えますが、この支柱の穴が見つかったのです。仏事が未完成の寺院で執り行われる、とは考えられませんので、末松廃寺は完成していたのではないか、と思われます。つまり、中心伽藍である塔も建立されていたのです。
 ここからは、FM-N1末松廃寺取材チームの推理になりますが、塔基壇と塔の底部は七重塔の規模で、高さが三重塔の姿ではなかったか、ということです。三重塔でありながら屋根は横に大きく張り出した姿です。安定感があるというか、縦方向に押しつぶされたというか、独特な形を想像するのです。
 当初は七重塔を企てながら、結果としては三重塔にならざるを得なかった、と思うのです。では何故なのか。下手な推理が続きます。
末松廃寺の建立は西暦660年から始まり、完成が675年頃とされています。七重塔の謎を解く鍵は完成直前の672年にあります。古代における最大の内乱と言われる壬申(じんしん)の乱が起きています。時の政権は奇しくも、手取扇状地の開墾に総力を挙げていた天智朝でしたが、天智天皇の長子である第39代弘文天皇と天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのみこ)が戦い、勝利した大海人皇子が第40代天武天皇となります。
 673年/天武2年には、飛鳥の川原寺で一切経、つまり全仏典の写経事業を起こしています。各地の豪族に氏寺造営を命じています。
 天智朝との関係が深く、手取扇状地開墾に加わった江沼、加賀郡の豪族たちも好むと好まざるとを問わず、壬申の乱によって天武天皇の敵方となってしまった訳です。恭順の意志を示すため国家鎮護をうたう氏寺の造営に従ったとしても責められることはありません。
 特に江沼郡の豪族たちに注目してみましょう。江沼郡の江沼平野は柴山潟の南に広がる地域ですが、末松廃寺と同時期の白鳳寺院が三カ寺集中しています。末松廃寺と同様の瓦を使った忌浪(いんなみ)廃寺、平野の南部に位置する津波倉(つばくら)廃寺、大聖寺川東岸の保賀(ほうが)廃寺です。
 末松廃寺は、周辺に豪族の住居跡を伴わずに、扇状地開拓に特化した寺院の様な印象を与えますが、江沼の白鳳寺院は三カ所とも各豪族の拠点周辺にあり、いかにも氏寺との印象を与えています。これが天武天皇の仏教普及の政策と一致するものなら、それまで財部造(たからのみやつこ)から末松廃寺に供給されていた瓦の提供は、寺院完成を目前に、途絶えることも止むを得ません。
 瓦が無ければ七重塔は建たず、三重塔にならざるを得ないのです。手取扇状地には飛鳥から無情の風が渡って来たのです。


写真/七重塔の末松廃寺想像図。ひところは野々市市文化会館フォルテなどにこの写真が展示されていました。柱を支える塔心礎の直径からすると、高さが23メートルほどの三重塔になります。

2023年特集「大地有情、風に事情」第10回 開発の決意 6月5日放送

2023年6月5日

加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中

第10回(令和5年6月5日放送) 「開発の決意」

 先月5月24日、ユネスコの執行委員会が開催され、白山市から申請されていた「白山手取川ジオパーク」が世界ジオパークとして登録されました。テーマが「水の旅」「石の旅」とロマンチックな響きがありますが、その実、自然の猛威にさらされてきた人々の営みの苦労でもありました。
 この加賀立国1200年と手取川ジオパークに寄せて~というメモを書いている私の亡くなった母から、昔話を聞いたことがあります。母は旧松任市生まれの松任育ちでしたが、「小学生の頃に手取川が大氾濫して、学校の屋上に上がってみたら、目の前一面に石ころだらけの原っぱが広がっていた」というものでした。年齢などから推測すると、それは昭和9年7月11日未明に起こった手取川大水害の話のようでした。
 いくら大洪水と言っても、松任あたりまで被害が及ぶというのは大袈裟ではないかと思って話を聞いていた覚えがあります。
 しかし、国土交通省金沢河川国道事務所のホームページを開くと、記載されているデータからも大袈裟な話ではないことが実感できました。例年にない大量の雪解け水と400㎜を超える豪雨が重なり、発生した崩壊土砂が下流河川へ土石流となって流れ下った。上流から河口までの流域のほとんど全域にわたって被害が発生した、と紹介されていました。
 氾濫地域は白山市・松任の南側から小松市の梯川にまで広がっています。手取川の上流部分では河床が最大で12m上昇したとも記載されています。何しろ白山市白峰にある百万貫の岩が上流の宮谷川から転石となって流れ出した程なのです。
 こうした場合の百万貫というのは概数であって、人を驚かすためか印象付けるため実際よりは大きめに言われる場合が多いのですが、実際の重量は129万貫・約4800㌧あり、高さは約16m、周囲は約52mもあって、さすがに世界ジオパーク、と変に感心したりしました。
 この手取扇状地に、最初の治水事業を施し、耕作地に開発しようとしたのが7世紀中頃の斉明天皇・天智天皇、いわゆる天智朝の頃でした。この事業には二つの側面がありました。一つは、660年に建立が始まった末松廃寺の建築事業であり、もう一つは、地下水位が低くて乾燥しがちな扇状地に灌漑施設を巡らす土木事業の面です。
 飛鳥・白鳳時代ではどちらか一つの事業をとっても大事業なのですが、文化の先進地である都を遠く離れた地方において、寺院建立、扇状地の灌漑事業を並行して実施するには困難が予想されます。当時の先端技術が地方に集積されているわけでもなければ、二つの大事業を推進するための人出、人口が多数有り余っていることも想像できません。
まして、開発地である手取川北側の扇状地が在地豪族・道君の支配も徹底せずに権力の空白地域であったと思われます。
 2009年/平成21年に発刊された文化庁の発掘調査報告書「史跡 末松廃寺跡」によれば、江沼郡など隣接地域からの移民のほか、渡来系を含む遠方からの移民を主体とする開拓村がつくられ、依存した比率が高いと記されています。
 渡来系の移民とは、当時の最先端を行く灌漑技術を持った秦(はた)氏などを含む琵琶湖周辺からの移民を指しています。特に灌漑技術を伴う開拓の本丸と言える旧石川郡内の扇状地に痕跡が多く残るとされています。
また前回の「不思議の瓦」でお話したように寺院建立の建築技術や製鉄技術を持つと思われる移民も渡来系の人達であって、手取扇状地の開拓に先立って琵琶湖周辺から江沼郡の三湖台(小松市木場潟の西側)に移住してきています。そして末松廃寺の周辺で発掘される須恵器などの生産地が加南地方つまり、江沼、能美郡が圧倒的に多いことは、多くの開拓移民が江沼、能美郡から来ていることの証明になります。
 肝心の、地理的に近い道君の勢力圏からは、犀川河口付近の古代港湾都市辺りからは少ない数の移民でしかなかった、という表われではないでしょうか。
こうした状況から、手取扇状地の開拓は在地豪族によるものではなく、加賀の国の立国前、越国(こしのくに)石川郡を対象にして、天智朝が全力を傾けて行った国家的大事業であったといえます。新しい政治形態である天皇中心とした政治、天皇親政の遂行を保証する乾坤一擲の事業であったと言えます。
 この頃、646年の大化の改新による詔(みことのり)、これは後年になって編纂されたという説が有力ですが、その第3条で戸籍作成が命じられています。670年/天智9年には、日本最初の戸籍となる「庚午年籍(こうご・ねんじゃく)」が完成していますから、手取扇状地の大規模開発の移民管理を徹底するため、律令的集落の単位である五十戸を一里(いちり)あるいは一郷(いちごう)とする体制をとっていたのかもしれません。
私達のふるさと・手取扇状地は既に律令制の集落として運用されていたのかもしれません。そして7世紀後半から8世紀初めにかけて人口大爆発の時期を迎えるのです。


写真/百万貫の岩(白山市文化課提供)。左下に写る人の小ささから岩の巨大さがわかります。白山市白峰地区にあり、重さは約4800トン。手取川が氾濫して暴れ川となる、そのすさまじいエネルギーを感じます。

ジェームス・テイラーのPMCでみつけた!The Sugarhill Gang「Rapper’s Delight」

2023年6月1日

The Sugarhill Gang 「Rapper’s Delight(ラッパーズ・ディライト)」(1979年)

年代後半にディスコ音楽への反対ムーブメントがピークになりましたが、ディスコの影響が続けていました。特に一つのバンド、シック、はメンバーが知らない方法でも他のアーティストへ大きな影響を与えました。

年月日にシックは「グッド・タイムズ」のシングルをリリースしました。「グッド・タイムズ」は目立つなベースのメロディーがありました。ヶ月後、違うアーティストが違う曲で全く同じベースのメロディーを使ってシングルを出しました。それはシュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」でした。

「ラッパーズ・ディライト」の面白いポイントは、ディスコもロック曲ではなくて、新しいジャンルのヒップホップ曲でした。ヒップホップはニューヨークの道で若い人たちが自分でコンポを持って踊ったり歌ったたりしたで誕生しました。本当の話かどうか分からないですが、年でチックがニューヨークでライブを演奏したとき、「グッド・タイムズ」のイントロの部分でシュガーヒル・ギャングのメンバが勝手に壇上にあがってラップをしましたというハプニングがあったらしいです。数週間後、シックのメンバーの一人のナイル・ロジャースがクラブで同じベースのメロディーを使ってちがう曲を聞きました。その曲は「ラッパーズ・ディライト」でした。

現在こういう盗用のやり方は「サンプリング」と呼ばれています。ヒップホップやラップには大切なことですが、あの時には普通ではなかったから、シックのメンバーはシュガーヒル・ギャングのメンバーを訴えました。その結果でシックのメンバーも「ラッパーズ・ディライト」の作曲者になりました。

「ラッパーズ・ディライト」は世界初のヒップホップレコードではなかったけど、初めてメインストリームで注目されたヒップホップ曲でした。今、シックはライブで「グッド・タイムズ」を演奏するとき、「ラッパーズ・ディライト」の歌詞も使います。これで「グッド・タイムズ」と「ラッパーズ・ディライト」はお互いに影響を受けました。

KITPMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。

全て寄贈されたレコードで構成され、27万枚を所蔵している。

ジェームス・テイラーは毎月第火曜日夕方時分~

「課外授業の進め:ロスト・イン・ミュージック」のパーソナリティーです。

The Sugarhill Gang – ‘Rapper’s Delight’ (1979)

Although the backlash against disco music reached its peak in the late 1970s, the influence of disco continued. One band in particular, Chic, proved to be hugely influential not just through the members’ work with other artists, but even without their knowledge.

Chic released the single ‘Good Times’, with its distinctive bassline, on 4th June, 1979. Two months later, another single with the exact same bassline was released. The song was called ‘Rapper’s Delight’, and it was by the Sugarhill Gang.

What’s interesting about ‘Rapper’s Delight’ is that it was not a disco song or a rock song, but a new genre: hip hop. Hip hop had grown organically on the streets of New York, as young people would gather and dance to music played on stereos. There’s a story that when Chic played ‘Good Times’ at a concert in New York in 1979, members of the Sugarhill Gang entered the stage and began freestyling lyrics over the intro. Shortly afterwards, Chic member Nile Rodgers heard the same bassline on a different record at a nightclub, which turned out to be ‘Rapper’s Delight’.

This kind of appropriation is now known as sampling, and is an integral part of hip hop and rap, another genre that ‘Rapper’s Delight’ – and by extension, ‘Good Times’ – helped to kick start. At the time, Chic sued the Sugarhill Gang, and as a result they were named as co-writers on ‘Rapper’s Delight’.

‘Rapper’s Delight’ was not the first hip hop record, but it was the first to go mainstream. Nowadays, Chic actually incorporate lyrics from ‘Rapper’s Delight’ into live performances of ‘Good Times’. This is an interesting twist that shows how ‘Good Times’ influenced, and then was influenced by, ‘Rapper’s Delight’.

* The Popular Music Collection (PMC) is located in Kanazawa Institute of Technology’s Library Center, and is the home of 270,000 donated and catalogued LPs, which are available for listening.

James Taylor
James Taylor presents ‘Lost in Music’ at 5.30 PM on the third Tuesday of every month.

2023年特集「大地有情、風に事情」第9回 不思議の瓦 5月29日放送

2023年5月29日

加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中

第9回(令和5年5月29日放送) 「不思議の瓦」

 1965年/昭和40年から始まった野々市市末松の末松廃寺発掘調査は、驚くべき結果の連続でした。一つは、当初から予想されていた通り仏教寺院の遺跡には違いなかったのですが、出土した須恵器の年代から、建立時期が660年、つまり白鳳時代に当たることでした。日本最古の寺院は、奈良県明日香の飛鳥寺とされており、時の権力者であり、仏教を受け入れた蘇我氏の氏寺として建立されました。しかし、蘇我本宗家が滅ぼされた645年の乙巳(いっし)の変ごろには、国家の寺としての官寺の扱いを受けています。
 全国各地の豪族に対して、仏教を広めるため氏寺を建立するように詔(みことのり)が発せられたのが673年/天武2年ですから、末松廃寺は詔に十年以上も先行することになります。北陸では最古級の仏教寺院になりますが、一体、この寺は誰が立てたのか? そして氏寺だったのか官寺(かんじ)だったのか、大きな謎が残りました。
 末松廃寺が仏教寺院であると分かったのは、中心伽藍である金堂跡から出土した瓦の文様によるものです。建造物の軒先を飾る軒丸瓦(のきまるがわら)の文様が素弁六葉蓮華紋(そべん・ろくよう・れんげもん)だったからです。素弁の数は違っても蓮華の花を模したデザインは、朝鮮半島の三国時代に起源をもつことが分かっており、先に紹介した飛鳥寺でも軒丸瓦の意匠として用いられています。
 末松廃寺と同様の素弁六葉蓮華紋の軒丸瓦を使っている寺院が奈良県大和郡山市にあります。大和の豪族であった額田部(ぬかたべ)氏の氏寺で額安寺(かくあんじ)と言います。調査・研究によると創建時の瓦ということで、7世紀第2四半期とみなされています。末松廃寺の少し前ということになり、同廃寺の創建660年とも符合します。
 もう一つの驚きは、末松廃寺の瓦が焼かれた登り窯が手取川対岸の旧辰口町(現能美市)湯屋(ゆのや)で発見されたことです。メモを書いている私も、その窯跡のうちの発掘現場1か所を見学したことがありますが、窯の内部には素弁六葉蓮華紋の軒丸瓦や平瓦などが混じって出土していました。しかし窯の規模は小さく、現地説明に当たっていた能美市の文化財担当職員によると、末松廃寺金堂の瓦は瓦でも、補修用の瓦を焼いた窯であるとの見解でした。金堂を葺いた大量の瓦を焼いた本窯は、まだ未調査となっている辰口古窯群だろう、と話していました。
 さらに気になる点を挙げれば、補修用の軒丸瓦と同じ木型から生産されたと思われる瓦が加賀市のJR加賀温泉駅に近い弓波遺跡から出土していることです。能美市の湯屋も加賀市の弓波遺跡も白鳳時代でいえば、財部造(たからのみやつこ)の勢力圏です。
 加賀郡の郡司である道君の勢力圏で仏教寺院を建てるなら何故、加賀郡内で瓦を調達しなかったのか。道君の本貫地である金沢市森本地区には観法寺窯があり、河北潟の水運を利用して野々市まで大量の瓦を運搬することも可能だったはずです。
 この疑問を解くために大胆な仮説を立ててみることにしました。実は、古代における石川県で、最初に創建された仏教寺院は道君の勢力圏である加賀郡の末松廃寺ではなく、財部造(たからのみやつこ)の勢力圏にあった能美郡内だったのではないか、という事です。まだ、知られざる古代仏教寺院が眠っているのではないか、という事です。
 前にもお話しましたが、財部造(たからのみやつこ)という地方豪族は、皇族であった宝皇女(たからのひめみこ)、つまり第35代皇極天皇(重祚して第37代斉明天皇)に奉仕する一族として、朝廷から定められていた可能性があります。
 皇極天皇とは、第33代推古天皇のあとを受け、非蘇我系の天皇となった第34代舒明(じょめい)天皇の皇后です。舒明天皇は日本で最初の官寺である百済大寺(おおでら)を創建しました。一旦、焼失しますが642年/皇極元年に、皇極天皇が再建に乗り出します。日本書紀によると、再建には近江と越の国から徴発した公民を使役した、と記されています。
 蘇我氏を代表とする大豪族による政治体制から天皇親政の政治体制に大転換を図ろうとした天智朝が、新たな財政基盤を、自らの支配下にある地方に求めるのは当然の帰結かもしれません。それが能美郡の財部造であった可能性は高いのではないでしょうか。百済大寺再建のために徴発された越の国の公民の中に能美郡の出身者がいたかもしれません。
 そうだとするならば、末松廃寺に先行して、官寺の性格が色濃い仏教寺院が存在しても不思議ではないでしょう。
 もしも、この仮定が真実であったとしたら未発見の寺院も、末松廃寺も地方豪族の氏寺など私寺ではなく、実質的に官立の寺院、官寺(かんじ)と言う意味の原義である「大寺(おおでら)」という事になります。まさに「白鳳の大寺」なのです。
 古いデザインの素弁六葉蓮華紋の軒丸瓦が謎解きをしてくれるよう祈っています。


写真/末松廃寺の軒丸瓦。素弁六葉蓮華紋という珍しい意匠で、こうした蓮華のデザインは朝鮮半島の三国時代に起源があります。

2023年特集「大地有情、風に事情」第8回 未(いま)だ大寺見えず 5月22日放送

2023年5月27日

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「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
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第8回(令和5年5月22日放送) 「未(いま)だ大寺見えず」

 823年/弘仁(こうじん)14年、加賀立国の直接の契機は、これまでも説明してきたように、当時の越前国司・紀末成(きのすえなり)が、配下の加賀郡司である道公(みちのきみ)が横暴で手に負えない、と朝廷に対して越前国からの分離・独立を上奏した事でした。
 この立国からおよそ170年前のことになります。地方豪族・道君の一族から、越道君伊羅都売(こしのみちのきみの・いらつめ)が天智朝の後宮に入るため旅立ちました。特に文字資料が残されているわけではありませんので、ここからの件(くだり)は想像になりますが、伊羅都売は河北潟の一角、犀川河口にあった古代港湾都市の港から、船に乗って奈良・飛鳥の都に向かったのではないでしょうか。
 船は、霊峰・白山を望みながら手取川の河口を過ぎて行きます。今ならば、白山手取川ジオパークとして「水の旅」「石の旅」をテーマに、ユネスコの世界ジオパーク認定を待つばかりなのですが、当時の伊羅都売の目には荒々しい水のうねりと、石くれだらけの河原しか映らなかったでしょう。
 10年ほど後には天智朝の国家事業として、道君と、手取川対岸に勢力を張る財部造(たからのみやつこ)を協力させて手取扇状地の開墾に乗り出すとは想像もできなかったのではないでしょうか。海岸から直線距離で6、7キロ離れた野々市市末松には、開発のシンボルとなる大寺・末松廃寺は未(いま)だ建立の着手を見てはいませんでした。
 手取川を過ぎた伊羅都売は越前国の敦賀に至って下船、古代北陸道(ほくろくどう)を進んで今立の山を越え、今はまだ設置前の愛発関(あらちのせき)から畿内に入った、と想像できます。愛発関とは、東海道は伊勢の国の鈴鹿の関、東山道は美濃の国の不破の関と並ぶ三大関所であり、奈良時代になって設置されました。
 畿内に入った後は琵琶湖の水運を利用、大津からは山城の国の南部、木津川から奈良盆地に入って飛鳥に至ったのではないでしょうか。
 もう一つ可能性があるとすれば、伊羅都売は敦賀で上陸せず、若狭の国まで船旅を続け、そこから琵琶湖に抜けたルートもあるかもしれません。
 ともかく、越道君伊羅都売が後宮入りを果たした後、660年/斉明天皇6年ごろに、現在の野々市市末松で白鳳の大寺である末松廃寺の建立が始まるのです。660年といえば、飛鳥板葺きの宮で、後に天智(てんじ)天皇となる中大兄皇子(なかのおおえのみこ)らが乙巳(いっし)の変を起こして蘇我本宗家を滅ぼし、天皇親政の政治体制をとってからまだ15年しかたっていない頃です。その間、第36代孝徳天皇による難波宮(きゅう)への遷都、655年には再び都を飛鳥に戻すなど、新政治体制を安定させるまでの激しい動きがありました。
 また660年の朝鮮半島では、日本と友好関係にあった百済が、隣接する新羅と中国の唐との連合軍に破れて滅亡した年でもあります。天智天皇の時代となった663年には、百済の復興・再建を狙った軍を派遣しますが白村江(はくすきのえ)の戦いで、一敗地に塗(まみ)れてしまいます。668年になると、高句麗がやはり新羅・唐の連合軍に破れて滅び、半島の三国時代は終わりを告げて新羅によって統一されるなど国際的にも大変動が起きました。
 天智朝にとっては、権威と権力の足固めとなる事業が手取扇状地の開墾事業だったのです。しかし、白山手取川ジオパークの原型ともいえる荒々しさを留める河原を手なずけるには一筋縄ではいかないことは分かっていました。当時の国内にあった最先端技術を動員するしか方法はありません。地方豪族の手におえる話ではありません。
 そして最先端技術を象徴するのが仏教寺院だったのです。開墾事業だけではなく並行して白鳳の大寺を建立することが朝廷の権威を示して、豪族を恭順させていくことにつながるのです。
 しかし、時代が下るとともに壮大な開墾の事績は人々の脳裏から失われて行きました。再び脚光を浴びるのは1965年/昭和40年のことです。野々市市末松で、地の底から湧き上がってきたのは舟木一夫の「高校三年生」の歌声でした。2年前に発売され、大ヒットしていた歌謡曲です。地元のボランティアをはじめ、遺跡の発掘作業で地面を掘り進めていた人達が誰からともなく歌い始めたのです。発掘に携わった考古学の先達からお聞きした話です。つられてニッコリと頬を崩したことを思い出しました。
 寺院跡であるとは分かっていましたが、まだ見ぬ白鳳の大寺が埋まっているとは知る由もない時です。


写真/白鳳の大寺・末松廃寺。現在は塔心礎と金堂の跡を残すのみですが、発掘調査が今も続けられ、新たに遺物遺構などが発見されています。

2023年特集「大地有情、風に事情」第7回 運命の二豪族 5月15日放送

2023年5月26日

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第7回(令和5年5月15日放送) 「運命の二豪族」

 突然ですが、あなたはベートーベンの交響曲第5番「運命」の出だしを知っていますか。ジャジャジャジャーンという、あの音です。通説ではベートーベンが「このように運命は扉をたたく」と言ったという事ですが、別の説もあるそうです。
 歌謡曲で言えば、1951年/昭和26年に発売された菅原都々子の「憧れは馬車に乗って」を思い出します。いささか古くなって恐縮ですが歌詞はこのようです。「春の馬車が来る/ 淡い夢をのせて/花のかおる道を/はるばると/おどる胸を寄せて/行こう山のかなた/わたしのあなた/あなたのわたし…」と続いてゆきます。
 予期せぬ運命とはどのような形をとって人々の前に姿を見せるのかは、当事者にとっては想像もつかないのは当たり前のことでしょう。古(いにしえ)のふるさと、暴れ川である手取川がちょっとやそっとで人々を近づけないように猛威を振るい、川の左右両岸にいた古代豪族は扇状地を前に、為す術もなく頭を悩ませていた頃、その頭上遥かには、奈良・飛鳥から運命的な天皇親政の風が吹いているとは、知る由もありませんでした。
 運命が先に訪れたのは、左岸に本拠地を構えていた野身氏でした。同じ江沼郡にありながら、地理的にも都に近い江沼臣(えぬのおみ)は、飛鳥で最大の権力を振るっていた大豪族の蘇我氏を先祖に持つ、という系図を主張していました。言い換えれば、ここまでが蘇我氏の勢力圏にあり、隣接する野身氏までは影響力が及んでいなかった、とも考えられます。
 それでは、と言うと、野身氏は皇族の一員であった宝皇女(たからのひめみこ)に奉仕する豪族として財部造(たからのみやつこ)と名乗っていました。第30代敏達(びたつ)天皇のひ孫に当たり、蘇我氏全盛の時期にあって蘇我氏の血筋を引かない皇族として知られていました。後に第35代皇極天皇、重祚(ちょうそ)して二度目の第37代斉明(さいめい)天皇となる方です。
 もう一人の豪族は手取川の右岸、河北潟を中心とした古代港湾都市に依って勢力を養っていた道君(みちのきみ)です。何よりも重要なのは、道君の一族の娘である越道君伊羅都売(こしの・みちのきみの・いらつめ)が皇極天皇の皇子(みこ)である中大兄皇子(なかのおおえのみこ)、つまり第38代天智(てんじ)天皇の後宮に入り、志貴皇子(しきのみこ)をもうけた事でしょう。つまり、道君は皇室における外戚の地位を得たことになるのです。
 道君が国史の上に登場したのが欽明31年/西暦570年。高句麗の使節に対して「自分がこの国の王である」と偽った詐称事件を起こしてヤマト政権に服属してから80年程で皇室の外戚にまで上り詰めるとは、運命のいたずら、という他にはないのかもしれません。
 宝皇女(たからのひめみこ)であった皇極天皇と中大兄皇子は645年、乙巳(いっし)の変によって蘇我蝦夷(えみし)、当時の大臣(おおおみ)であった入鹿(いるか)の親子を討って天皇を中心とした政治体制を築きました。朝鮮半島では唐と新羅の連合軍に滅ぼされた百済(くだら)の国を回復するために663年/天智2年、日本と百済遺民の連合軍は朝鮮半島に出兵しましたが白村江(はくすきのえ)の戦いで敗れてしまいます。
 こうした内外情勢の中、斉明天皇と天智天皇の二代に渡る治世、これを便宜的に天智朝とするならば、天智朝はまだ、飛鳥の大豪族に抑えられていない地方豪族と手を結んで勢力拡大を図ったのではないでしょうか。
 そうした一面がのぞくのが天智天皇の皇后、妃(ひ)、皇子(みこ)、皇女(ひめみこ)の顔触れです。皇后の倭姫王(やまとひめの・おおきみ)は皇族ですが子供がいません。有名な皇女であり後に持統天皇となる娘らの多くは母が蘇我一族の出身です。長男である大友皇子(おおとものみこ)は第39代弘文天皇となりますが母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)で、伊賀郡の地方豪族の娘です。
 また、第七皇子にあたる志貴皇子(しきのみこ)の母は越道君伊羅都売(こしのみちのきみの・いらつめ)と系図に記されていますが、何を隠そう、私達のふるさとである加賀郡の郡司・道君の一族の娘です。弘文天皇の母と同様に、采女(うねめ)として天智朝の後宮に入ったものと思われます。
 律令体制が整う前の采女というのは、食事も含めて天皇・皇后の身辺の世話をするものであって、子を生(な)すこともありました。越道君伊羅都売は皇后、妃(ひ)に次ぐ第三番目の地位にあたる夫人(ぶにん)とされていたようです。
 また、采女の性格としては地方豪族が朝廷に服属する証でもあり、人質的な側面も持ち合わせていたようです。
 そしていよいよ、天智朝と深いかかわりを持つ道君と財部造(たからのみやつこ)は協力して、暴れ川であった手取川の耕作地開拓に乗り出してゆくのです。


写真/秋常山古墳(能美市)は全長140メートル、北陸最大級の前方後円墳です。埋葬されているのは、手取川左岸を代表する古代豪族・財部造(たからべのみやつこ)が有力視されています。

2023年特集「大地有情、風に事情」第6回 一衣帯水の手取川 5月8日放送

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第6回(令和5年5月8日放送) 「一衣帯水の手取川」

 一衣帯水(いちいたいすい)という言葉を覚えたのは昔、中学校の社会の時間だった。九州と朝鮮半島の間に横たわる対馬海峡を指していました。海峡を挟んで向かい合う両岸の地域や国同士の関係を示す言葉である、と教わりました。古代は風俗、習性が似た人々が住んでいる、という事のようでした。
 今、血液型の研究などが進み、日本列島に人が最初に住み始めたのは旧石器時代の3万年以上も前という説が有力です。シベリアのイルクーツク辺りから南下し、一つは韃靼海峡、つまり間宮海峡を渡ってサハリンから北海道へ渡るルート。もう一つは沿海州を経由して朝鮮半島から対馬海峡を渡って九州に至るルートが主な道筋であるとされる。その後、縄文時代の海水面上昇に伴って、列島と大陸との交流が疎遠になっていたとされます。
 旧石器時代に海を渡って来て日本人となった人達を想うとき、いつも一編の詩が頭をよぎっていきます。安西冬衛(あんざい・ふゆえ)の「春」です。「てふてふ(読み=ちょうちょう)が一匹韃靼海峡を渡って行った」。一行詩なのですが、日本の始まりを示唆しているようで、強い印象を与えてくれます。
 対馬海峡で言えば、九州に渡って来た人達と朝鮮半島の南部に残った人達がいたのではないかと思います。旧石器時代の後、縄文時代を通して半島を下って来た人の痕跡がほとんど見られないことから、古代に半島南部にあった任那(みまな)などの伽耶諸国は同じルーツを持つのかもしれません。
 一衣帯水という四文字熟語の語源が中国の隋の時代の故事から生まれた事を知ったのは最近になってからです。それによると「帯水」とは海峡だけでなく幅の狭い河川などにも使われる、ということです。
 身近なところ、石川県内で探せば差し詰め手取川が該当するでしょうか。よく耳にするのは手取川の北側・金沢方面と南側の小松方面では住民の気質が違う、ということです。私はそんなには感じない、というのはいささか鈍いのかもしれません。ただ、それぞれの土地柄に誇りを持っているのは感じます。
 例えば、手取川とは関係なく能登と加賀でも違うでしょうし、小松と加賀市の大聖寺ではまた違います。金沢市と旧の石川郡では対抗意識があるようにも思います。これは戦国時代の一向一揆を起こした側と、鎮圧した側の因縁だと、まことしやかに語られたりもします。
 しかし、暴れ川が両岸の人々の行き来を妨げていた古代にあって、在地の豪族が協力し合う歴史もありました。823年/弘仁14年の加賀立国以前の物語です。まだ石川郡や能美郡はなく、加賀郡と江沼郡の二郡に分かれていた頃です。
 加賀郡側の豪族は、汽水湖(海水と淡水が混じり合った潟)である河北潟を中心に古代港湾都市を形成しつつあった道君(みちのきみ)。河川が流入する河北潟周辺は低湿地であっても耕作地が広がっていた可能性が高く、犀川左岸や手取川扇状地の扇端には縄文時代から大規模な集落遺跡の御経塚遺跡、その出村で環状木柱根列の出土で有名なチカモリ遺跡があるなど人口が集中していた地域です。
 一方の手取川左岸・江沼郡側の豪族は財部造(たからのみやつこ)として知られる野身氏です。能美市内の丘陵地一帯に展開する古墳群、とりわけ北陸最大級の前方後円墳である「秋常山(あきつねやま)古墳」の存在は古墳時代から飛鳥時代まで、この地で強大な力を誇って来た一族であることを証明しています。
 古代港湾都市を築いて海上交通に卓越した道君と、陸の覇者たらんとした財部造。一見、独立した存在とで共通点がないようでしたが、実は思わぬ縁で結ばれていたのです。日本の歴史を揺るがすような激風が奈良・飛鳥の都から吹いて来ていたのです。
 天皇を中心としながらも実際は、蘇我氏など飛鳥地方の大豪族が政治の実権を握るヤマト政権から、天皇親政の政治体制に移行しようとする激動の舞台が幕を開けようとしていたのです。
 女帝であった第35代皇極(こうぎょく)天皇の時、その皇子(みこ)であった中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は、645年に起こした乙巳(いっし)の変で、権力を振るっていた蘇我本宗家(ほんそうけ)を滅ぼし、大化の改新を断行し、天皇親政を成し遂げました。飛鳥地方の大豪族に頭を抑え付けられていたかのような天皇家が頼りにしたのが地方の大豪族の力だったのです。その中に加賀郡の道君、江沼郡の財部造(たからのみやつこ)がいたのです。


写真/獅子吼高原上空から手取川(左)と七ケ用水を眼下に。いにしえの加賀の人々は左岸、右岸を問わず、力を合わせて暴れ川を開拓し豊穣の扇状地に変えたのです。