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ジェームス・テイラーのPMCでみつけた!R.E.M.「DOCUMENT」

2023年10月1日

R.E.M.「DOCUMENT」(1987年)

R.E.M.は1980年に誰も聞き取れなかった歌詞を使ってガレージバンドとして結成し、2011年に世界で最も有名なバンドの一つとして解散しました。このアルバム「ドキュメント」はR.E.M.のIRSというレコードラベルでリリースされた最後のアルバムでした。このアルバム以降、メジャーレーベルのみでリリースしました。「ドキュメント」はR.E.M.がインディーズ時代から国際的なスーパースターバンドへの進化を始めたアルバムです。

このアルバムにはR.E.M.の最初の頃に思い出される曲がたくさんありますが(特にピーター・バックのギターのスタイル)、R.E.M.のキャリアの次のステージへ進ませる曲もあります。1曲目の「最高級の労働歌」はその両方です:ビル・ベリーの強いドラムとマイク・ミルズのバッキングボーカル。2曲目の「占領地へようこそ」は1990年代のR.E.M.の曲でよく使われていたギターのスタイルがあります。「燃える愛」はもそうですし、R.E.M.が解散するまでライブでよく演奏した曲になりました。タイトルを見るとラブソングだと思う人が多いですが、実はこれはラブソングではありません。歌詞には周りの人に「時間を潰すもの」と出てきますので、身勝手な人の話だと思います。

「ドキュメント」にある一つの曲は凄く有名です。「世界の終わる日」は早口言葉みたいな歌詞、そしてボーカリストのマイケル・スタイプが見た夢の無意味な話です。でも、コーラスは早口ではなく、簡単に歌える歌詞があります。そして、またマイク・ミルズはバッキングボーカルをします。僕にとっては、マイク・ミルズのバッキングボーカルがよく聞こえるのでR.E.M.の曲は優れていると思います。

そして、R.E.M.はこのアルバムには政治をテーマにした曲がいくつもあります。「マッカーシー発掘」は1950年代にアメリカで行った赤狩りについてです。「最高級の労働歌」は労働者革命についてだそうです。「占領地へようこそ」のテーマはアメリカのエルサルバドルとグアテマラの独裁者へのサポートです。

僕が思うのは、「ドキュメント」はR.E.M.のキャリアにとって一番大切なアルバムです。なぜならば、このアルバムでよりメロディックなロック曲を作り始めたからです。それは「ドキュメント」の後のいくつかのアルバム(1988年の「グリーン」、1991年の「アウト・オブ・タイム」、1992年の「オートマチック・フォー・ザ・ピープル」)に続いて、だんだんラジオで流されるようになって、シングルやアルバムのチャートでトップテンやナンバー1を頻繁に獲得しました。

* KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、27万枚を所蔵している。

ジェームス・テイラー
ジェームス・テイラーは毎月第3火曜日夕方5時半「課外授業の勧め:ロスト・イン・ミュージック」のパーソナリティーです。

R.E.M. – ‘Document’ (1987)

R.E.M. formed in 1980 as a garage band with barely intelligible lyrics and split up in 2011 as one of the biggest bands in the world, with dozens of hit singles to their name. This album, ‘Document’, was their final album with IRS Records before moving to a major label, and it marks the start of their transition from indie band to international superstars, which would take place gradually over several albums.

There are plenty of songs on ‘Document’ that are reminiscent of the band’s early sound, with heavy guitars, but there are also signs of the sort of music that would move R.E.M.’s career. The album’s opening track, ‘Finest Worksong’, shows both, with Bill Berry’s powerful drums and Mike Mills’ backing vocals. Track two, ‘Welcome to the Occupation’, has the soon-to-be-familiar guitar style. ‘The One I Love’ is another example of this, and a song that was regularly played live throughout the rest of the band’s career. It’s not a love song though; the line ‘a simple prop to occupy my time’ suggests it’s about someone using other people.

One song in particular is extremely well known: ‘It’s the End of the World as We Know It (And I Feel Fine)’, with its nonsensical tongue-twister verses based on a dream that singer Michael Stipe had, which contrast effectively with the simple and catchy chorus, again featuring Mike Mills’ distinctive backing vocals. For me, any R.E.M. song that has prominent backing vocals by Mills is a good one.

R.E.M. also cover several political issues in songs on ‘Document’. ‘Exhuming McCarthy’ deals with Senator Joe McCarthy’s hunt for Communists in the USA during the 1950s and the band’s worry that something similar would soon reoccur. ‘Finest Worksong’ seems to be about worker revolution. ‘Welcome to the Occupation’ is about the US support for right-wing dictators in El Salvador and Guatemala.

‘Document’ is, in my opinion, a pivotal album in R.E.M.’s career, as the band started to create more accessible melodic rock songs that would continue over their next few albums, ‘Green’ (1988), ‘Out of Time’ (1991) and ‘Automatic for the People’ (1992), by which time they were charting highly and gaining frequent airplay.

* The Popular Music Collection (PMC) is located in Kanazawa Institute of Technology’s Library Center, and is the home of 270,000 donated and catalogued LPs, which are available for listening.

James Taylor
James Taylor presents ‘Lost in Music’ at 5.30 PM on the third Tuesday of every month.

ジェームス・テイラーのPMCでみつけた!THE GOOD, THE BAD AND THE UGLY「続・夕陽のガンマン」

2023年9月1日

THE GOOD,THE BAD AND THE UGLY「続・夕陽のガンマン」OST(1966年)

僕は大学でフランス語とイタリア語を勉強しました。2年生のとき、一つの選択科目はイタリアの映画、特にマカロニ・ウエスタンについてでした。マカロニ・ウエスタンの映画は英語で「スパゲッティ・ウエスタン」と呼ばれいます。なぜというと、伝統的なアメリカのカウボーイの話でしたが、イタリアやヨーロッパで作られていましたからです。

その2年生の選択科目で勉強した一つの映画はセルジオ・レオーネ監督の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト」(「ウエスタン」とも呼ばれているらしい)でした。この映画のサウンドトラックはエンニオ・モリコーネ作曲でした。エンニオ・モリコーネはセルジオ・レオーネの前の映画、「続・夕陽のガンマン」のサウンドトラックも作りました。

「続・夕陽のガンマン」のサウンドトラックの最初の数秒は映画界で最も有名なメロディーでしょう。このメロディーはコヨーテの鳴き声のような音で、サウンドトラックの中に何回も出てくるモチーフです。「続・夕陽のガンマン」の面白いポイントのひとつは、エンニオ・モリコーネは映画の中心である3人の登場人物がサウンドトラックに一人ずつ別の楽器に関係されていて、画面に出てくるときにサウンドトラックにその楽器の音が聞こえる:笛、オカリナ、人間の声。この映画のクライマックスでの有名なメロディーはエッダ・デル・オールソという歌手が歌います。

「続・夕陽のガンマン」のサウンドトラックはウエスタンの映画によく使われている楽器がたくさん:ハーモニカ、ギター、走っている馬のようなリズム。そして、サウンドトラックに使ったことがない音もたくさん出てきます:口笛、馬、砲声、ヨーデル。

「続・夕陽のガンマン」は「ドル箱三部作」の第3話です。前の二つの映画もエンニオ・モリコーネがサウンドトラックを作りました。「続・夕陽のガンマン」のサウンドトラックを作るために、セルジオ・レオーネとエンニオ・モリコーネは依然と違ったやり方でできました。今回は映画を収録する前に音楽を収録して、映画を収録するときにセットで流しました。そうすると、普通の映画作成方法と逆になって、セルジオ・レオーネは音楽を聴きながら演出していて、エンニオ・モリコーネの音楽の影響で映画ができました。

「続・夕陽のガンマン」の最初のメロディーは何回も使われていて、このウエスタンの音楽だけではなくなってきて、数世代の人たちに全部のウエスタンの音楽になってきました。このメロディーを聞くと、カウボーイの世界を思い出す。

* KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。
全て寄贈されたレコードで構成され、27万枚を所蔵している。

ジェームス・テイラー
ジェームス・テイラーは毎月第3火曜日夕方5時30分~
「課外授業の勧め:ロスト・イン・ミュージック」のパーソナリティーです。

‘The Good, the Bad and the Ugly’ Original Soundtrack (1966)

I studied French and Italian for my first university degree. In the second year, one of the optional Italian courses was on cinema, specifically spaghetti westerns. Spaghetti westerns were so called because they were traditional western stories set in the American Wild West but produced in Europe, often in Italy.

One of the films we studied in detail on that course was Sergio Leone’s 1968 film ‘Once Upon a Time in the West’. The soundtrack for that film was created by Ennio Morricone, who also composed the soundtrack to Leone’s previous western, ‘The Good, the Bad and the Ugly’ (1968).

The opening piece of music – the opening few seconds, in fact – of the soundtrack to ‘The Good, the Bad and the Ugly’ is surely one of the most recognisable in the history of cinema. It’s a motif that recurs throughout the soundtrack, a melody that is said to represent a coyote’s howl. Interestingly, Morricone decided to have each of the film’s three main characters be represented by a different instrument: a flute, an ocarina, and human voices. Another song late in the soundtrack, ‘The Ecstasy of Gold’, which plays over the film’s famous climax, features Edda Dell’Orso playing with the melody vocally.

The soundtrack to ‘The Good, the Bad and the Ugly’ is music that would go on to become synonymous with westerns: harmonica, twanging guitar, rhythm reminiscent of galloping horses. But there are all sorts of unusual and unexpected sounds in here too, like horses, gunfire, whistling, and yodeling.

Having already collaborated on the first two films of the ‘Dollars Trilogy’, Leone and Morricone experimented with a different way of working together this time. They composed and recorded the music before filming, and Leone played the music on set and used it to inspire his direction. This meant that Morricone’s music helped shape the action on set and screen, rather than the music being a reaction to what had already been filmed, as was (and still is) so often the case.

Those opening few seconds of the main theme to ‘The Good, the Bad and the Ugly’ have been used so many times in so many films, TV programmes, and more besides, that they’ve become more than just the theme to a single western film. For generations of people, that snippet of music now epitomises all westerns, or scenes with a cowboy appearing on the scene. It’s an iconic piece of music.

* The Popular Music Collection (PMC) is located in Kanazawa Institute of Technology’s Library Center, and is the home of 270,000 donated and catalogued LPs, which are available for listening.

James Taylor
James Taylor presents ‘Lost in Music’ at 5.30 PM on the third Tuesday of every month.

2023年特集「大地有情、風に事情」第19回(最終回) 扇状地開拓の系譜 8月7日放送

2023年8月7日

 前の回では、源平合戦や後鳥羽上皇と鎌倉幕府が一戦をまじえた承久の乱に、加賀の武士たちが加わっていたことを紹介しました。
 ここで、武士や武士団について触れたいと思います。武士は武芸によって朝廷に仕えたのが始まりですが、ただ単に武芸に優れていただけではなく、武士が活躍し始めた中世においては特定の家柄の出身であることが条件でした。桓武天皇を祖とする桓武平氏、清和天皇の子孫である清和源氏などです。
 中世の野々市では何といっても、野々市じょんからまつりで有名な富樫氏が知られていますが、富樫氏の前と言えば、古代の手取扇状地の開拓時代から根を張って来た林氏が勢力を誇っていました。
 富樫氏と林氏の先祖は、同じ藤原利仁(ふじわらのとしひと)から出た越前斎藤氏とされています。家系図から見れば、先祖を共にする同族の武士一族、ということになります。
 加賀の武士団として一大勢力となった林氏ですが、1221年に起きた承久の乱を境に、その地位を富樫氏に譲ることになります。
 鎌倉幕府の公式記録とされる吾妻鏡(あづまかがみ)を調べると、「(承久の乱で朝廷方についた)加賀の国の住人・林次郎は降伏して北条朝時(ほうじょうのともとき)らの陣にやって来た」とあります。時は承久3年(1221年)6月8日でした。
 北条朝時は、鎌倉幕府の執権・北条義時の次男で、北陸に派遣された4万騎を率いる大将の一人です。
 北条朝時に降伏した林次郎は、林氏の家系図と照らし合わせると、林家綱(はやしのいえつな)になります。
 林家綱は息子の家朝(いえとも)と共に、承久の乱のあと、鎌倉で処刑されます。その理由は必ずしも、林氏がいくさに負けた後鳥羽上皇方についたからではなく、一族の板津家景(いたづ・いえかげ)を個人的な利益追求から殺害したのが理由、という研究者もいます。
 その裏付けとして、同族の加賀・武士団である富樫氏は林氏と同じく後鳥羽上皇方だったにもかかわらず、幕府から処罰を受けていません。
 このように、加賀で勢力を誇った林氏が没落した理由は、敗者の朝廷方に味方したからだった、とはっきりと言い切れないようですが、その時期は西暦1221年に起きた承久の乱の後であったことは事実です。
 林氏の祖とされる林貞宗(はやしのさだむね)は、11世紀半ばの康平年間に、現在の野々市市南部から白山市の鶴来地区にまたがる林郷(はやしごう)に館(やかた)を構えました。林氏をまつる林郷八幡神社が野々市市上林(かんばやし)3丁目にあるほか中林、下林といった林氏にまつわる地名が残されています。
 林氏と富樫氏はもともと先祖を同じくする同族の武士であったことを先ほど話しましたが、林・富樫両氏の歴史を語るうえで欠かせないのが手取扇状地です。「手取川七ヶ用水誌」を読むと、面白い事実がわかります。
 手取川七ヶ用水とは、その名前の通り、手取川の右岸を流れる七つの用水です。野々市市に近い北から順番に、富樫用水、郷用水、中村用水、山島用水、大慶寺(だいぎょうじ)用水、これは「だいけいじ」用水とも言います。そして、中島用水と新砂川用水の七つです。
 富樫用水には高橋川(昔の呼び名は荒川)、十人川(じゅうにんがわ)などがあり、富樫氏は高橋川沿い、現在の金沢工業大学周辺から下流の伏見川流域を拠点にしていました。これに対して、林氏は、富樫用水から一本、手取川本流に近い郷用水の上流流域を拠点にしていました。
 このほか平安時代には、郷用水の安原川下流域に横江氏、中村用水中流域に倉光氏、同じく中村用水の下流域に松任氏、山島用水下流域の海沿いに得光氏などの開発領主が勢力を持っていました。古代や中世において、川は米作りなどの生活用水だけではなく、人の移動や物を運ぶ水上交通として暮らしに欠かせない存在でした。
 そして、注目すべきは、いま紹介した領主たちがすべて林氏の一族だったということです。先ほど、承久の乱の時期に、林氏の当主が個人的な利害関係から同族の板津氏を討ち取り、それが理由で幕府から死罪に処せられた、と言いました。討ち取られた板津氏は現在の小松市南部を拠点にした領主と思われます。
 林氏は、加賀武士団の棟梁であり、その一族が金沢市から小松市に至る広い範囲で活動していたことが現在に残る地名からも分かります。
 元号が昭和から平成に変わって間もなくの頃、北海道帯広市にお住まいの林氏の子孫が先祖のことを調べるために、野々市を訪れました。林氏ゆかりの場所を訪ね、白山市に住む林氏の子孫とも感激の対面を果たしました。
 先祖を同じくするという林氏と富樫氏。林氏が13世紀初めの承久の乱のあと、急速に衰えたのに対し、跡を継ぐように台頭した富樫氏は、一向一揆と争いながらも16世紀後半の戦国時代まで生き残りました。500年近く活躍した富樫氏に比べ、林氏が歴史に登場したのは200年ほどと短く、文字資料はほとんど残っていません。同様に、古代豪族の道君も記録が少ないがために、その全体像をつかむのに苦労します。
 加賀立国1200年と白山手取川の世界ジオパーク認定を機会に、手取扇状地という大地を舞台に、汗と涙に塗(まみ)れながら興亡を繰り広げた私達の祖先である古代豪族の道君、中世武士団の林一族などの足跡をたどってみました。
 ともすれば、目の前にある暮らしに忙殺され、足元だけを見つめがちです。しかし時折、顔を上げてみませんか。頭上には過去から未来へと吹く「歴史の風」が渡っています。手取扇状地開拓の系譜を引く私達は、故郷(ふるさと)への想いを、これからも深くしたいと思います。


写真/野々市市文化会館の脇に建つ富樫家国像。富樫氏と林氏は祖を同じくし、中世の北加賀で守護として栄華を誇りました。

ジェームス・テイラーのPMCでみつけた!The Specials「MORE SPECIALS」

2023年8月1日

スペシャルズ「モア・スペシャルズ」(1980年)

スペシャルズはイギリスの文化・社会に大切なバンドでした。2020年9月「This Are 2-Tone」のブログでスペシャルズについてをちょっと書きました。イギリスで社会不安がたくさんあった年代後半にスペシャルズが出てきました。人種差別へ反対するロックのアーティストのムーブメントに参加していて、ライブによく最右翼の人たちは事件を起こすためにきました、スペシャルズは白人と黒人のメンバーがいました。

スペシャルズはいろんなジャンルを上手く混ぜ合わせました:ロック、ポップス、パンク、スカ、レゲエ。エルヴィス・コステロがプロデュースしたファーストアルバムにはいくつのトップのシングルがありました。セカンドアルバムの「モア・スペシャルズ」はさらに実験的な音楽でした。サイドはファーストアルバムのような曲がありますが、サイドは全然違います。でも、スペシャルズのメンバーは作曲の才能があったからこのジャンルの混ぜ方は変わった印象は受けません。「モア・スペシャルズ」の曲の歌詞はバンドが見たイギリスの社会問題についてです:人種差別、不安、核戦争、疎外、など。

この時期で素晴らしい音楽を作っていたが、バンドメンバーの間に関係がだんだん悪くなってきました。年月にスペシャルズの傑作、社会不安についての「ゴースト・タウン」をリリースした後に解散しました。

このアルバムにある「ドゥ・ナッシング」という曲に「何も変わらない、何も」の歌詞があります。スペシャルズが年に歌っていたイギリスの社会問題は年にもあります。このブログの最初の文に「スペシャルズはイギリスの文化として、そして社会にとって大切なバンドでした」を書きましたが、実はスペシャルズは今でもイギリスの文かとして、そして社会としての大切なバンドです。

・とは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。

全て寄贈されたレコードで構成され、万枚を所蔵している。

ジェームス・テイラー

ジェームス・テイラーは毎月第火曜日17時30分~

「課外授業の進め:ロスト・イン・ミュージック」のパーソナリティーです。

The Specials – ‘More Specials’ (1980)

The Specials were an important band. I wrote a bit about them in September 2020’s blog on the compilation ‘This Are 2-Tone’. They rose to prominence at the end of the 1970s in Britain, a time when there was a great deal of civil unrest throughout the country. The Specials were active in the Rock Against Racism protest movement, taking on particular significance as a band with black and white members. Their concerts were often the scene of trouble, as far right groups would come looking to incite violence.

Their sound mixed rock, pop, punk, ska and reggae to terrific effect. Their first album was produced by Elvis Costello and included several top 10 hit singles. The Specials’ second album, ‘More Specials’ was more experimental, even more so than their first album, with a huge variety of influences and genres on display. Side two of the record, in particular, is very different from side one, which sounds more like the songs on their first album. That this variety of genres is cohesive rather than a mess is testament to their skill as songwriters and musicians. The songs on ‘More Specials’ reflect the society the band lived in and saw, with topics such as racism, disaffection, exploitation, nuclear war, and alienation.

Despite their consistent musical output, relationships within the band became increasingly strained during the recording of ‘More Specials’ and the subsequent tour to support the album. The Specials broke up after releasing their masterpiece, ‘Ghost Town’, a haunting chronicle of civil unrest across Britain that reached number 1 in the UK singles chart.

In the song “Do Nothing”, the Specials sing “nothing ever change, oh no”. I said at the start of the blog that the Specials WERE an important band, but bearing in mind current British society, I should rephrase that: the Specials ARE an important band.

* The Popular Music Collection (PMC) is located in Kanazawa Institute of Technology’s Library Center, and is the home of 270,000 donated and catalogued LPs, which are available for listening.

James Taylor
James Taylor presents ‘Lost in Music’ at 5.30 PM on the third Tuesday of every month.

2023年特集「大地有情、風に事情」第18回 北陸戦線異状あり~中世・加賀武士団の盛衰~ 7月31日放送

2023年7月31日

加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中

第18回(令和5年7月31日放送) 「北陸戦線異状あり~中世・加賀武士団の盛衰~」

 石川県から車で国道8号線を富山県方面に走ると、県境は倶利伽羅トンネルの中にあります。トンネルは標高277メートルの砺波山を貫いています。トンネルができる前の国道や古代の北陸道は倶利伽羅峠を尾根沿いに通る山越えの道でした。
 この山で、中世において大きな戦いが二つありました。一つは平安時代末期の源平合戦における倶利伽羅峠の戦い、またの名を砺波山の戦いと言います。もう一つは鎌倉時代になってからの承久の乱における、幕府軍と京方の官軍との戦いです。
 10年ほど前に、この旧北陸道の倶利伽羅峠を歩いてみたことがあります。木曽義仲が平家の軍勢を崖から追い落として勝ったとされる「火牛(かぎゅう)の計」が、本当にあったのかどうか確かめたかったのです。牛の角に松明(たいまつ)を取り付け、その松明に火をつけて走らせた、というゲリラ戦法です。
 結論は、「火牛の計はあくまでも伝説で、実際はなかったのだろう」です。倶利伽羅峠を歩いてみると、思っていた以上に道が狭く、登り下りの勾配もきつく、たくさんの牛を動かすことは難しい、と感じたからです。
 さて、加賀の国が越前の国から分離独立したのは、弘仁(こうじん)14年、西暦823年でした。この頃になると、古代豪族・道君の名前は史料などから姿を消します。絶頂期を誇った者もいつかは力が衰えるという栄枯盛衰の歴史です。
 そして、12世紀末の中世になると、加賀に富樫氏や林氏といった武士団が台頭します。野々市の歴史で有名なのは、じょんから祭りでもおなじみの守護・富樫氏ですけれども、富樫氏の前に大きな勢力を誇ったのが林氏です。野々市市に現在、上林、中林、下林といった林の付く地名が残っているように、野々市市の南部から白山市の旧鶴来町にかけて、林氏の領地「拝師(はやし)郷」が広がっていました。
林六郎光明(はやしのろくろう・みつあきら)や富樫入道仏誓(とがしにゅうどう・ぶっせい)らの名は平家物語に登場します。時は寿永2年、西暦1183年。平家追討に立ち上がった源氏の武将・木曽義仲に味方して、光明らは越前の「火打ちが城」に立てこもりましたが味方の裏切りに遭って、城が落ちたため、光明らは加賀の地に退いた、とあります。
 この時はまだ信濃にいた木曽義仲が都を目指して北陸路に入り、越中と加賀の境にある倶利伽羅峠と、その後の篠原(加賀市片山津温泉の近く)の合戦などに勝利して京に入り、平家を都から追い出しました。
 加賀武士団の林六郎光明(はやしのろくろう・みつあきら)や富樫入道仏誓(とがしにゅうどう・ぶっせい)も木曽義仲に従って、都に入っています。
 平家物語の冒頭にある「盛者必衰」「諸行無常」の言葉通りに、平家を京から追いやった木曽義仲でしたが、源頼朝の命を受けた源義経に討たれます。その義経も頼朝に倒されます。頼朝も鎌倉幕府を開いたものの、狩りから帰る途中に不慮の死を遂げます。
 時は流れ、源頼朝の死から20年ほど過ぎた承久3年、西暦1221年に、再び国を二分する大きな戦いが起きました。承久の乱です。後鳥羽上皇は五畿七道の国々に対し、敵対する鎌倉幕府の執権・北条義時追討の宣旨(せんじ)下したのです。受けて立った幕府は東海道10万騎、東山(とうさん)道5万騎、北陸道へ4万騎を向かわせます。
 合わせて19万騎もの大軍を前に、後鳥羽上皇の京方は敢え無く敗戦。後鳥羽上皇は隠岐に流されます。
鎌倉幕府の公式文書である吾妻鏡その6月8日の条によると、北陸道に向かった4万騎を前に、「官軍の加賀の国の住人である林次郎(はやしのじろう)らが降伏した」とあります。林次郎らが加わった官軍と幕府軍が合戦を行ったのは、現在の砺波市から倶利伽羅峠にかけての地点です。40年ほど前の源平合戦で木曽義仲と平家軍が戦った場所でもあります。野々市に勢力を持った豪族の林氏が倶利伽羅峠で、中世の二大決戦に参戦して勝利の勝鬨(かちどき)と敗戦の憂き目を見たことは、何か歴史の因縁を感じざるを得ません。
 倶利伽羅峠の源平合戦では林氏とともに富樫氏が加わっていましたが、承久の乱では富樫氏の名前が見えません。ここから、加賀で勢力を誇った二つの豪族の分かれ道になります。俗に、「林氏が官軍の後鳥羽上皇側に付いたため鎌倉幕府から罰せられ、富樫氏との立場が逆転した」と言われていますが、このことを明確に記した史料はないようです。
 専門家によると、中世に編集された家系図である「尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)」という史料には、「承久の乱の折に、(官軍に組みした林次郎と言われる)林家綱・家朝(いえとも)親子が一族内の対立で遠縁にあたる板津家景を殺害。これが私的な戦い、利益追求に当たるとして鎌倉幕府から死罪にされた」とあります。
 この処分によって、林氏が没落する一方で、富樫氏が台頭し、室町時代には加賀の守護として権勢をふるうようになります。


写真/倶利伽羅峠を歩くと、源平合戦の古戦場跡をはじめ、北陸を訪れた松尾芭蕉の句碑などを目にします。「あかあかと 日は難面も あきの風」。芭蕉も北国街道を通って加賀を往来しました。

2023年特集「大地有情、風に事情」第17回 武士団の誕生 7月24日放送

2023年7月24日

加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中

第17回(令和5年7月24日放送) 「「武士団の誕生」

 末松廃寺の建立と本格的な手取扇状地の開発が始まる前の7世紀前半、第33代推古天皇の頃には既に、末松廃寺の周辺に小規模な集落が進出していました。この後、天智朝も開発というより、まず末松廃寺建立の拠点として廃寺の北東側に小集落を開いていったようです。
 廃寺が完成して、墾田化事業が軌道に乗り始める7世紀末から8世紀前半にかけ、拠点集落は規模を拡大するとともに、廃寺から東へ約400㍍離れた微高地に、新しい大規模な集落が誕生して行きます。南北900㍍、東西100~150㍍の自然堤防帯に展開することから分かるように短期間のうちに、扇状地開発に当たった移住民の人口が爆発的に増えたことが分かります。奈良・飛鳥では藤原京から平城京にかけての時代で、末松廃寺が一旦、廃絶した時期でもありました。
 最初の墾田開発は、現在の手取川七カ用水で言えば郷用水を中心にした開発ということになります。東方の微高地に開発拠点を移した移住民たちは、更に微高地の背後地にあたる富樫用水の上流域へと進出します。現在の上林、新庄地区に当たります。
 奈良時代の743年/天平15年、第45代聖武天皇によって墾田永年私財法(こんでん・えいねんしざいほう)が発布されます。新たに墾田を開拓した豪族、寺社はその墾田を私有化できる、と定めた法律で、後の荘園成立の導入口になっていきます。
 墾田私有が認められるとなれば、手取扇状地の開拓に拍車がかかったことは容易に想像できます。8世紀半ばを過ぎると、上林、新庄地区の大集落は更に粟田、中林地区へも拡大されて行きます。開拓民の指導者の権限は増々強くなっていったことでしょう。この勢いは9世紀末ごろまで続きます。
世の中は奈良時代から平安時代へと移って行きます。藤原氏の摂関政治が華やかなりし頃、律令制における公地公民、班田収授法は有名無実化して、白山市横江から金沢市上荒屋にかけて広がっていた東大寺領横江荘も姿を消してしまいます。823年/弘仁(こうじん)14年の加賀立国の後も勢力を誇った在地豪族の道君の姿も消えて行きます。
 残されたのは、末松廃寺建立を契機に手取扇状地を豊かな乾田へと開拓してきた移住民の子孫たちで、開発領主を中心に新興勢力として多数の集団が形成されてきました。
その中でも頭角を現してきたのが、古代の行政単位であった拝師(はやし)郷、現在の野々市市上林、新庄地区に当たりますが、この拝師郷に本拠地を構えた林一族だったのです。
 「拝師」の名前が文字資料として残るのは平安時代の789年/延暦8年~792年/延暦11年の頃、第50代桓武天皇ですが、平安京に都が遷る前の長岡京から出土した木簡に記されているのが最古で唯一の資料です。
 現在の野々市市上林3丁目に「林郷八幡(はやしごう・はちまん)神社」があります。「拝師」と書かれた木簡から222年後の1013年/長和2年の創建になります。時代は藤原道長が実権を握っており、世界最古の小説と言われる「源氏物語」を書いた紫式部、随筆「枕草子」で知られる清少納言が活躍して宮廷文化が華やかな頃でした。
 拝師郷の総社だった、と伝わり、祭神は応神天皇、神功皇后、三条天皇です。三条天皇は第67代天皇で、林郷八幡神社が創建された長和2年当時の今上天皇ですが、即位に当たっては藤原道長の同意を得なければならない立場であり、林一族が祭神に勧請する、つまり神として招くことで朝廷なり藤原道長の後ろ盾を得ることに成功した、と思われます。
 手取扇状地の開発領主のなかでも棟梁としての地位を築き上げたのです。
 一般的に、応神天皇と神功皇后を祀る八幡神社は武家の神社とされています。林郷八幡神社は郷用水沿いにあって、同用水並びに、下流で合流する安原川に沿っても多くの八幡神社が鎮座しています。古代における手取扇状地の開拓の中心地が拝師郷であり、郷司であった林一族が武家の性格を強くしていったことは、扇状地の一角に武士団が誕生した事実を示しているのではないでしょうか。私有地を持ち、荘園を管理する地頭から武士団の棟梁としての姿を現すことになります。
 平安時代から鎌倉時代にかけて、手取扇状地には林一族の末裔と称される武士団が居ましたが、詳細については解明されていない点が数多く残されています。ここで林氏系図から、林氏に連なりますが、異なる名前の一族を拾ってみます。
 大桑、豊田、松任、安田、横江、近岡、板津、倉光、白江、石浦の各氏がいます。源氏となる武士団です。


写真/野々市市上林に鎮座する林郷八幡神社。境内のすぐ東側に林口川(富樫用水・下流の名は十人川)が流れ、架かっている橋の名は「拝師橋」。林氏が治めた林郷は古代では「拝師郷」と記されていました。

2023年特集「大地有情、風に事情」第16回 古代の金融事情 7月17日放送

2023年7月17日

加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中

第16回(令和5年7月17日放送) 「古代の金融事情」

 奈良時代の731年/天平6年、第45代聖武天皇の頃で、加賀が立国される92年前です。加賀四郡のうち最北に位置する加賀郡では、当時の税金である稲を徴収する地方役人の国司は5人いて、最上位の大領を含めて3人が道君一族でした。
 国家的事業としての手取扇状地開拓にあって当初から、開拓事業の管理を任されていたと思われる地方豪族・道君は、律令制の政治体制に替わっても、石川郡における最大の権力者、実力者として他の追随を許さない存在だったことが分かります。
 権力者としての力の源泉は、圧倒的な税の徴収能力にあったと思われます。当時の稲作の最大の特徴は、全ての種もみを郡司が管理していることでした。農作業にあたる開拓民一人ひとりには法律で定められた一定の広さの墾田が割り当てられ、春になると郡司から貸し付けられた種もみを受け取ります。秋になると郡司は収穫された稲から3%分を税として徴収します。
 当然、貸し付けた稲より多くの量が収穫されれば、税や来年分の種もみ、開拓民の食料などを差し引いても、余剰の米は郡司の手元に残ります。これを利息としての稲、利稲(りとう)と言いますが、利稲は郡の行政運用費用、地方役人の給与、食料などになっていきます。この制度を出挙(すいこ)と呼びます。稲がお金とするならば、現代で言えば銀行業務に似ています。お金を貸し付けて利息を取り、増えたお金でまた貸し付ける。金融機関です。
 ここで注目すべき点は手取扇状地の墾田では単収が高かった可能性があることです。
暴れ川・手取の流域は元来、玉石などが敷き詰められたように広がって、その上に薄い表土が乗っているため水はけが良すぎて保水力が低く、稲作には向いていませんでした。そこで当時の最新技術を導入して河に堰堤(えんてい)を築き、取水口から引いた水を墾田に張り巡らせ、必要な時だけ水を流せる灌漑設備を整えることで耕作が可能となりました。
 それまで、扇状地の稲作は水が湧き出る扇端部分や中小河川の周辺の湿田が中心でしたが、灌漑用水が出来たことで墾田は乾いた田、つまり乾田化することで肥沃度が高まり、単収が飛躍的に上がったと思われます。
 出挙(すいこ)制度の元となる班田収受(はんでんしゅうじゅ)の法で言えば、6年に一度の戸籍作成、田地の計測では帳簿の数字と収穫の実態が合わなくなります。次回の調査までの6年間は必然的に、郡司の手元に残る利稲が増えることになります。朝廷に送る税収である稲の量を管理するのは郡司の仕事ですから、正確な数字を報告しなければ更に利稲は増えるばかりです。道君がこの利稲を利用して、戸籍から外れた農民を集め、帳簿に載らない新田を開拓すれば、稲を私物化することが出来ます。朝廷の公の出挙を公出挙(くすいこ)と呼ぶのに対して、郡司が私の立場で稲を貸し付けることを私出挙(しすいこ)と呼ぶのです。
 今度は加賀立国の62年前、天平宝字5年/761年の石川郡の様子です。前に説明した加賀郡司5人のうち3人が道君だった時から30年が経っています。奈良時代の正史を伝える「続日本紀(しょくにほんぎ)」によれば、郡司の次官である少領だった道君勝石(かついわ)が自分の持つ稲6万束を利用して私出挙を行ったことが判明して、利稲3万束を没収されています。ここで言う1束とは両手でつかめる稲の量です。稲6万束といえば加賀郡の公出挙と同量の稲になります。現在では米約180㌧に匹敵する量ですが、郡司の次官レベル1人で公出挙と同量ですから郡司5人分ではどれだけの量になっていたのでしょう。恐ろしい数字ではないでしょうか。
 しかし、これだけの罪を犯しながら罰金だけの軽い罪で済んだことは、反対に道君の存在の大きさを示すには十分、と言えるかもしれません。
 遂に823年/弘仁(こうじん)14年がやって来ます。越前国の国司・紀末成(きのすえなり)が「道君の横暴が続き、収奪を繰り返している。加賀郡は国府(現在の福井県越前市)から遠くて巡検もままならない。民の訴えも聞くことができない」と朝廷に訴えます。道君はますます実力を蓄えていたのでしょう。たまりかね、日本では最後の立国となる加賀の国が誕生したのです。
 実態と合わなくなってきた班田収授の法は衰退し、土地の一部は郡司や開拓民の私有地となり、また皇族、貴族、寺社などの荘園に姿を変え、在地の有力者が荘園の管理者となっていきます。今風に言えば「公的金融機関の崩壊」です。中央政権の支配から離れた私土地が増えれば増えるほど、公(おおやけ)の権限も縮小して行きます。
 手取扇状地でいえば、公の威光を背にして勢力を伸ばしてきた道君も、私有地の横行によって管理する土地の面積が押され始め、勢力が衰えていく運命をたどったようです。次第に歴史上から名前が消えて行きます。
 東大寺領横江荘の荘園も10世紀に入る頃には姿を消してしまいます。荘園の地頭として頭角を現してきた在地勢力の支配下に置かれたのかもしれません。


写真/野々市市末松から望む白山。末松地区は古くから米の産地として栄えてきました。手取扇状地を開拓してきた先人たちの努力の賜物です。

2023年特集「大地有情、風に事情」第15回 再建末松廃寺の頃 7月10日放送

2023年7月10日

加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中

第15回(令和5年7月10日放送) 「再建末松廃寺の頃」

 前回の末松廃寺取材メモ「大地有情、風に事情」では白山市横江から金沢市上荒屋にかけて広がる「東大寺領横江荘」に触れ、第50代桓武天皇の皇女・朝原内親王が所領とした荘園が東大寺に寄進され、10世紀半ばまでに消滅したことをお話ししました。それは都における道君一族の物語でしたが一方、現地である手取扇状地では、開墾開始からその300年間に何が起っていたのでしょう。
 手取扇状地の開拓は、琵琶湖周辺に居住する渡来系の技術集団を中心に、加賀立国後でいうところの能美、江沼両郡からの移住民が主力となり、道君が支配していた加賀郡からの転入者が墾田化を推進しました。通常は農業用水の取り入れ口付近に、開発成功を祈願する寺院が在地豪族の住居と接するように建てられるのが常ですが、末松廃寺では豪族の屋敷と見られるような住居跡は発掘されませんでした。
 豪族による開拓ではなく、天智朝による国家的事業であったため管理者には越道君伊羅都売(こしのみちのきみの・いらつめ)の後宮入りで天智朝と外戚関係にあった加賀郡司の道君が任命されていた、と思われます。道君の本拠地は河北潟周辺であったため、末松廃寺近くに住居は構えなかったのでしょう。収穫された稲は全量、現地で保管、管理され、税に相当する石高だけを朝廷に送っていたのでしょう。
 当時の輸送網は水運が主流でしたので、運河や犀川支流を経由して犀川河口まで運ばれ、海上輸送の積み出し港になっていた河北潟沿岸の港湾都市に保管倉庫が置かれていた可能性が出て来ます。
 従って、日常的に末松廃寺の管理、運営は道君ではなく、扇状地開発に直接関わり、最新技術を持った渡来系の移民であった可能性が高いと思われます。
 末松廃寺が完成したのは672年/天武元年に起きた内乱・壬申(じんしん)の乱前後とみられています。中央政権の権力を握った天武天皇は、全国の豪族に対して、仏教普及を図るために氏寺の建立を命じます。事情は能美郡の財部造(たからのみやつこ)も同様で、後の加賀立国にあたって国府が置かれた小松市国府台地の西南に当たる江沼平野を中心に、領主層の居宅と隣接する形で次々と白鳳寺院が建立されて行きます。
 寺院ブームの到来は当然のように瓦不足を招きます。天智朝の命令で末松廃寺用の瓦を生産していた財部造からの供給は絶たれてしまったのでしょう。末松廃寺の夢のような七重塔の構想も泡となって消えたのではないか、というのが私達、末松廃寺取材チームの推測でした。
 一方、手取扇状地開拓の監督官だった道君は、壬申の乱後の700年頃、時代は第41代持統天皇の治世、飛鳥京から藤原京への遷都が行われた時に当たりますが、広坂廃寺を建立しています。現在の金沢21世紀美術館から金沢市役所あたりになりますが条里制に基づいた寺院を建てています。方1.5町と言いますから約163m四方の敷地を掘立柱塀で囲み、金堂、仏塔、講堂、門を備えた白鳳寺院だったとみられています。
 越道君伊羅都売の皇子(おうじ)・志貴皇子(しきのみこ)が「采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く」の和歌を詠んだ直後にあたります。
 さらに、都が平城京に遷った730年代から740年代頃にかけて平城宮式の瓦当文(がとうもん)で飾った軒丸瓦で広坂廃寺を葺き替え、威容を増しています。立地場所が小立野台地の先端にあたり、現在の香林坊、片町のビル群が無いと想像してください。日本海までが見渡せ、まさに郡司・道君にとっては領地を一望できる国見の丘に建つ氏寺となります。
 では、氏寺になり得なかった末松廃寺の運命はどうだったのでしょうか。2009年/平成21年、文化庁発行の「発掘調査報告・末松廃寺跡」によると、理由は分かりませんが末松廃寺は8世紀初頭までに一旦、廃寺となっていたようです。奈良では藤原京から平城京に遷る頃です。
 末松廃寺が再建されるのは8世紀半ば、奈良時代に入ってからです。金堂は茅葺きか板葺きかは分かりませんが瓦の乗らない主堂となり、その東側には小ぶりな堂舎を配置する伽藍様式になっています。堂舎の中に塔をかたどった陶器製の瓦塔とよばれる模型が置かれていました。仏舎利の信仰様式から本尊信仰へと変わっていった、と発掘調査報告書に書かれています。日本で初めての発掘となりますが、天女像を掘った瓦塔の破片も見つかっています。創建時と変わらずに、手取扇状地開拓民の心の拠り所としての寺院の役割を果たしていたと思われます。
 奈良・正倉院に、加賀立国前の731年/天平3年の「越前国正税帳(えちぜんのくに・しょうぜいちょう)」が残されています。正税とは税金のことで当時は稲の石高で表されていました。律令制のもと、中央官僚である国司に従って郡の行政、税の徴収にあたる地方官が郡司の役割になっていました。
 郡司の身分は四等官(しとうかん)と言って4階級に分かれ、上から順に「大領(だいりょう)」「少領(しょうりょう)」「主政(しゅせい)」「主帳(しゅちょう)」と呼ばれていましたが、正税帳には大領として道君、主政として道君五百嶋(いおしま=読みは不正確かもしれない)と大私部(おおきさきのみやつこ)上麻呂(うえまろ?)の二人、主帳として道君安麻呂(やすまろ?)と丸部臣(わにべのおみ)人麻呂(ひとまろ)の2人が記録されています。
 郡司5人のうち3人が道君であって、大私(おおきさき)と丸部(わにべ)両氏が道君傘下の小豪族であることを思えば、加賀立国以前の加賀郡における道君の勢力の強さの一端が窺い知れるのではないでしょうか。


写真/女子像が線刻された瓦塔が2018年に末松廃寺跡から発掘されました。全国初の発見で、一度は廃れた大寺が8世紀半ば以降に再建されたことを物語っています(写真は野々市市教育員会所蔵のレプリカ)。

2023年特集「大地有情、風に事情」第14回 朝原内親王の田 7月3日放送

2023年7月3日

加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中

第14回(令和5年7月3日放送) 「朝原内親王の田」

 7世紀中頃、手取扇状地の開拓と引き換えるように越道君伊羅都売(こしのみちのきみの・いらつめ)は天智天皇の後宮に入りました。しかし672年/天武元年に起きた古代最大の内乱・壬申(じんしん)の乱によって子供の志貴皇子(しきのみこ)や孫の白壁王(しらかべおう)らは天武系の政権から圧迫を受けぬよう細心の注意を払いながら身を守りました。そして壬申の乱からおよそ100年後に、白壁王は即位して光仁(こうにん)天皇となり、天智系の血脈が皇統に蘇えることになったのです。
 それでは、天智朝が国家的事業として開始した手取扇状地の墾田は一体、誰の手に渡っていったのでしょうか。
 ここに手掛かりとなる東大寺正倉院文書(もんじょ)があります。818年/弘仁(こうじん)9年の日付から、加賀の国が越前の国から分離されて立国され、加賀国府が小松市南部の古府台地に置かれる5年前の古文書(こもんじょ)ということになります。
 内容は、光仁天皇の子に当たる第50代桓武天皇の妃(ひ)・酒人(さかひと)内親王が、桓武天皇との間にできた朝原内親王が亡くなった際に、朝原内親王の遺言に従い、墾田186町余り、今でいえば約186㌶を東大寺に寄進した、というものです。
 手取扇状地の墾田開発は、660年/斉明6年に始まった末松廃寺建立と期を一にしているので国の所有となるべきものですが、その一部は約150年後には皇族の荘園へと変貌を遂げていたことを意味しています。この818年に寄進された荘園もおよそ130年後の950年/天暦(てんりゃく)4年における東大寺荘園帳には名前が見当たらず、経営が放棄されたものとみられています。
 1970年/昭和45年、松任市(現在の白山市)横江町で、掘立柱建物6棟と「三宅(みやけ)」と墨文字で書かれた須恵器が出土したため、これは朝原内親王の所領となっていて死後に東大寺へ寄進された荘園を管理する荘家(しょうけ)跡と断定されました。
 この後、荘家跡の周辺からは稲穂を管理するため条里制に基づいて配置された倉庫群、土地を区画する溝跡、小型の舟が入ることのできる運河跡と倉庫跡、管理する荘家跡、大量の墨書土器や木簡、まじないに使う人形(ひとがた)などが発掘され上荒屋遺跡と呼ばれました。
 2008年/平成20年になると、荘家(みやけ)跡と上荒屋遺跡の中間点で、南北両側に約50mの回廊を伴い、南側に門を構えた建物跡と新たな倉庫群が発掘されました。建物は中央に庇(ひさし)をもった7間×2間の規模で、五重塔を模した陶器や高級な香炉、鉄鉢(てっぱつ)などの仏器も見つかっています。現在は、この中央地区の遺跡と上荒屋遺跡、横江の荘家(みやけ)跡の3カ所を合わせて国指定史跡「東大寺領横江荘遺跡」と呼ばれるようになっています。
 しかし、東大寺領横江荘も750年/天暦(てんりゃく)4年、第62代村上天皇の時代までに東大寺は経営を放棄してしまうのです。荘園領主が都に居たまま、在地の郡司、有力豪族などを荘官(しょうかん)として荘園管理に当たらせ、年貢を納めさせていても実態としては、郡司や荘官の意のままにならざるを得ないのが世の中、というものかもしれません。
 鎌倉時代になると、郡司、荘官は地頭(じとう)と呼ばれるようになり、源氏の棟梁で征夷大将軍だった源頼朝が任命権を持つことになって行きます。
 この村上天皇という方は、中世の武士団・村上源氏の祖にあたり、村上源氏は以後の宮廷政治に大きな影響力を持つことになります。
 ここまでは、手取扇状地が7世紀半ばから、天智朝の手によって墾田開発が行われ、その一部が天智天皇と越道君伊羅都売の子である志貴皇子を経て、光仁天皇、桓武天皇という天智系の皇族が所有する横江荘園となり、3世紀後の10世紀半ばには東大寺領横江荘が消滅してしまった事実を振り返ってきました。
 志貴皇子の孫・桓武天皇の皇女である朝原内親王の所領となっていた横江荘が東大寺に寄進されたのは加賀立国の5年前とお話ししてきました。そこで、加賀立国の理由として当時、越前国の国司・紀末成(きのすえなり)が挙げた内容を思い出すと「加賀郡は越前国から遠いため郡司や郷長による恣意的な収奪が行われている」というものでした。
 つまり、少なくとも朝原内親王の荘園を除く手取扇状地のほかの墾田は、越道君伊羅都売の後宮入りによって天智朝と強い紐帯で結ばれた道君一族が、在地豪族として管理していたことを示しています。これは、壬申の乱によって中央政権が天武朝に代わっても、律令制の下で形を変えながら郡司としての力を蓄え、継続してきたことをうかがわせます。
 これが手取扇状地開拓と末松廃寺建立から始まり、東大寺領荘園の消滅に至るまでの300年間の出来事だったのでしょう。その後は、道君の名前も歴史の上からは消えて行き、いよいよ手取扇状地にも武士団が登場してくるのです。


写真/東大寺領横江荘遺跡(白山市横江町)。大型商業施設「白山イオン」の真向かい、横江工業団地の一角にあり、史跡公園も整備されています。

ジェームス・テイラーのPMCでみつけた!Diana Ross「Diana」

2023年7月1日

ダイアナ・ロス「ダイアナ」(1980年)

先月と2ヶ月前のブログでシックと彼らのディスコとヒップホップへの影響について書きました。今月はシックがポピュラー音楽へ影響を与えたもう一つの話をします。

ダイアナ・ロスは1960年代にザ・スプリームスのメンバーとして有名になりました。どんだけ有名になったかというか、バンド名が「ダイアナ・ロス&ザ・スプリームス」に変更されたほどです。1970年代に入って、ダイアナ・ロスはソロアーティストの活動しましたが、だんだんレコードを売れなくなり、楽しさもだんだんなくなっていました。1980年でキャリアのブーストが必要でした。

その時にシックのメンバーのナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズと共に

ダイアナ・ロスは人で1980年リリースの「ダイアナ」というアルバムを制作しました。「ダイアナ」はディスコ音楽の定番のアルバムです。そして、今までダイアナ・ロスの一番売れているアルバムです。

「ダイアナ」は8曲収録ですが、全部の曲でナイル・ロジャースの目立つギタースタイルとバーナード・エドワーズのユニークなベーススタイルを聞くことができます。1曲目の「アップサイド・ダウン」は世界中にヒットになって、年前からなかったアメリカのチャートでナンバー1になりました。「アイム・カミング・アウト」はLGBTQのコミュニティで人気な曲です。なぜというと、英語で「カミング・アウト」は自分のセクシュアリティやジェンダーアイデンティティについてを発表するという意味ですから。この二つの曲は今でもナイル・ロジャースとシックがライブで演奏します。

僕はこのアルバムについて調べていた時に分かったことがあります。このアルバムのリリースの前に、ダイアナ・ロスはロジャースとエドワーズの仕事で満足してなかったから、その二人に知らせず、他のプロデューサーがリミックスをしました。それでも、「ダイアナ」シックの目立つ音楽とヒット曲を作る才能を分かって、ダイアナ・ロスのソロキャリアを生き返らせました。

KITPMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。

全て寄贈されたレコードで構成され、27万枚を所蔵している。

ジェームス・テイラー

ジェームス・テイラーは毎月第火曜日17時30分~

「課外授業の進め:ロスト・イン・ミュージック」のパーソナリティーです。