スタッフブログ

HOME スタッフブログ 2018年度の記事

2018年度の記事

PMCで見つけた〈12〉ジ・エイムス・ブラザーズの「プッシー・キャット」

2018年11月6日

寄贈されたレコードを初めて3回クリーニングした

 私達が放送で使用する大部分の楽曲は、PMC所蔵のレコードを利用させてもらっている。24万5千枚を所蔵しているとはいえ、欲しい曲が全て揃う訳ではありません。今回紹介するジ・エイムス・ブラザーズの「プッシー・キャット」は初めて寄贈された楽曲でした。PMCの職員が前々から探していた1枚だそうです。

 送られてきたEP盤を整理していて、偶然に見つけたそうです。ジ・エイムス・ブラザーズは1948年に、アメリカのマサチューセッツ州で結成された男性4人のコーラス・グループです。PMCには同グループのレコードは1枚もありませんでした。FM-N1の音楽サーバーには、多分CDから落としたと思われる4曲がありましたが、同曲はありませんでした。

 しかし、よくも見つけ出したものだ、と感心します。他の職員の手に掛かっていたら素通りしたに違いありません。寄贈されたレコードは分類の後、コードを振られて登録に回されて行きますが順番待ちをしている盤が多く、「プッシー・キャット」が一般に公開されるのは数年後になる可能性もあるとか。

 もともと、ポピュラー・ミュージックは消耗品の性格があり、寄贈されたものの保存状態が万全と言えないものもあります。好きな曲を聴きこんだ跡があるからです。今度のレコードも埃をかぶっていたそうですが、裏を返せば、愛着が深い分だけ手放せなかった、とも言えます。見つけ出した職員は、専用のクリーニング器などで3回磨いたそうです。音を聞かせてもらいましたが、新品と遜色ないメロディーが流れてきました。

 ◇KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、24万5千枚を所蔵している。

末松廃寺・第10話「鄙に地の利あり」

2018年11月5日

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第10話「鄙に地の利あり」

 

 末松廃寺(野々市市末松2丁目)が建立された頃、当地は越(高志)国(こしのくに)に含まれていました。越国とは今でいう福井県嶺北から秋田県に至る広大な範囲です。大和政権の支配下にありましたが、一つの国というより福井・嶺北から以北の日本海側地方という十把一絡げの扱いだったのではないでしょうか。

国府のある武生(福井県越前市)は越国の中央に位置するのではなく、一番都に近い土地に置かれていました。これでは、国府にいる国守にとって、越国の隅々までの実情、情報を十分に把握するには不利な状況にあったことになります。大和・飛鳥の都からみれば地方の国のさらに田舎、つまるところ鄙(ひな)としての感覚が強かったのでしょう。

 

◇越道君は鄙の起点に居る大豪族?◇

 

 越道君(こしのみちのきみ)の名前の由来は定かではありません。名前は地名から採るのが一般的ですが、越道という地名が存在しないために謎に包まれたままになっています。

古代の福井県はもとより石川県内の旧江沼郡までの地域は、早くから中央政権に服属していたので、隣接する旧加賀郡が鄙の始まりということになります。そこから延々と続く鄙の道の起点にいた豪族という意味で、越道君と呼ばれたのかもしれません。

末松はその旧加賀郡に属していました。同郡の範囲は北が大海川(現かほく市)から南は手取川までの範囲で、郡司は在地の大豪族である道君が務めていました。当時とすれば、国府と旧加賀郡の間の距離は十分に離れており、支配下にあるとしながらも日常的な政治的圧力は少なかったのではないでしょうか。

 支配の目的は、税として水稲を納めさせるなど物産の貢納、労働力の提供などです。当時の稲作は墾田を拓いた権力者が、自ら所有している稲穂を出挙(すいこ)と称して田部(たべ=農民)に貸し付け、耕作させます。そして収穫時に、貸し付けた稲穂の量のほか一定の歩合で利息となる利稲(りとう)を合わせて納めさせます。末松の場合は、土地の所有が朝廷ですので、道君が代理人として税を徴収、納めていたものと思われます。

 

◇税として稲穂の申告は正確だったのか◇

 

 天智朝が興した末松廃寺造営から約30年間は、墾田を天皇家の屯倉(みやけ)として、実質的は道君が管理をしていました。武生に居る国守の出番は余りありません。扇状地開発は順調に進み、墾田は急速に拡大してい

現在の手取扇状地を潤す七ヶ用水の取水口になっている安久濤ヶ淵の大門=白山市

きます。水位の低い乾燥地に治水技術を駆使した乾田の圃場は予想を超える収穫量をあげていきます。田部の数、耕作地面積、収穫高を、ごまかすとまでは言いませんが、少なめに申告をすればするほど、現地の道君に残る水稲の歩合は多くなっていきます。鄙であるが故の利得とも言えます。

 手元に残った稲穂は、公の帳簿外として、私的に貸し出すことも出来るようになりなります。「闇の貸付」、「私腹を肥やす」ことになりますが、これを私出挙(しすいこ)と呼んで、二重帳簿を作ることになります。田部は本来、国の所有として戸籍で管理されますが、私出挙における田部は戸籍を離れ、在地権力者の私有状態となります。開発された墾田も私有への道が開かれます。

 時代は新しくなりますが、奈良時代の天平宝字5年(761)に、加賀郡の少領(郡司の2番目の位)道君勝石が、当時の加賀郡の公出挙(くすいこ=正式の貸付)の量に匹敵する6万束の私出挙を行い、利稲3万束を得ていた事件が記録されています。末松廃寺を創建し、扇状地開発に乗り出してから100年後のことです。耕作不可能地という常識を打ち破るような勢い、収量を確保できた一つの証のようです。

 ともかく、どちらの場合も墾田の正確な面積、田部の数を把握していなければ利稲を含む税収をあげ、拡大再生産につなげることはできません。稲穂を貸し付ける営農の姿が続く限り、国の制度としての条里制が整わなくても実態として、条里の考え方に基づく地割りが必要だったわけです。これが土木技術、治水技術、建築技術、文字による管理能力と一体となった渡来系の最先端技術であり、新文化の象徴として仏教寺院があったわけです。

 

◇加賀立国で税の管理が厳しくなる◇

 

 しかし、国による管理態勢は次第に整えられていきます。越国が越前、越中、越後となるのは、天武朝が天智朝を倒した壬申(じんしん)の乱(672)の後のことで、持統6年(692)年頃までには三国に分割されてしまいます。国の律令制度として完結するのは、藤原京に都が置かれていた文武天皇の時代、大宝2年(702)に大宝律令が制定された時になります。開拓地の墾田は、班田として明確に国の所有と位置付けられます。

 藤原京から平城京に都が移った元正天皇の723年に「三世一身の法」が、聖武天皇の743年には「墾田永年私財法」が施行され、国の班田を実態に合わせた後付けの論理で、一部の私有を追認します。新規開発の墾田の荘園化に追い風となります。在地勢力は、都に住む荘園領主のために荘園管理を行うことで地位の保全、地域勢力の扶植を図ることになります。

 末松廃寺造営から160年程を経た頃、中央の支配体制に大きな変化が起こります。弘仁14年(823)に、越前国に含まれていた加賀、江沼両郡を新たに加賀国として立国されたのです。武生に居た国司が、越国を三分割した越前国でもまだ、領地が広すぎて徴税管理の目が届かないため、態勢を細分化したことが一因とも言われています。

 

◇立国2年後には中国から上国に格上げ◇

 

拝師郷長が住んだ下新庄アラチ遺跡。拝師郷の中心地だった。今は再開発を経て、野々市市の新しい中心地の一つとなっている

 それまでの旧加賀郡は河北、石川の2郡に、旧江沼郡は能美、江沼の両郡となりました。制度として1国4郡制をとっていたからです。全国では66番目の国で、最後の立国となりました。

 66カ国は生産力(税収)の多寡によって大国、上国、中国、小国の4階級に分けられていました。加賀国は最初、中国とされましたが立国からわずか2年で上国に格上げされています。急に墾田が拡大して税収が増えた、というよりも、稲穂の石高が以前よりも正確に把握されたというべきでしょう。国司の狙いは当たったと言えますが、それでも十分であったかどうかは、また別の話です。

 

◇律令制で拝師郷が生まれる◇

 

 流れを整理すれば、660年頃、末松ダイカン遺跡、末松福正寺遺跡辺りに入植した渡来系の人達は、墾田開発が軌道に乗るのに合わせ、末松廃寺の東側430mに拠点を移し、末松A、清金アガトウ遺跡として集落を拡大していきます。この後、更に東側770mにあった上林新庄遺跡(冨樫用水系)付近に、推古朝の時代から先行して進出していた入植者を取り込んでいきます。

 702年には大宝律令が施行され、行政組織は国郡里制に整備されます。養老元年(715)に「里」は「郷」と改められます。末松廃寺周辺にあった複数の集落を束ねて「拝師(はやし)郷」が成立します。

 いったんは縮小した上林新庄遺跡は再編され、製鉄工房を伴う集落になります。さらに北側に接するように下新庄アラチ遺跡が出現し、建物の大型化、戸数増大が見られます。首長宅とみられる最大規模の建物を囲むように大型建物が並び、硯(すずり)、小刀などの出土物から行政機能を併せ持っていたことがわかりました。拝師郷の中心地とみて間違いありません。

また、下新庄アラチ遺跡の建物や出土物には末松ダイカン遺跡で見られた渡来系の特徴を引き継いでおり、入植してきた渡来系の一族が開発の指導者として継続的に地位を保ってきたのでしょう。首長つまり拝師郷長は渡来系の子孫ということになります(宮崎正倫)

 次回は118日「寺院から神社へ」です。

PMCで見つけた〈11〉ザ・ジェントリーズの「花を贈らないで」

2018年11月2日

同じ誤訳でも格の違いはあるのだろうか?

 PMCから、1963年に結成されたアメリカのロックバンド、ザ・ジェントリーズのアルバム「キープ・オン・ダンシング」を借りてきた。アルバム・タイトルの同曲しか聴いたことがないので、他の楽曲はどんなものか知りたくなったからである。いつか使えそうな3,4曲を見つけたが、中に「花を贈らないで」と邦題がつけられたものがあった。

 原曲のタイトルを見ると「Don't send me no flowers」とある。直訳すれば「私に花を贈ってちょうだい」だろう。歌の中を見ても邦題のように意訳するには無理がある。まさに正反対である。英語に詳しいパーソナリティのロイ・キヨタさんが第4スタジオ・サンセットから出てくるのを待って聞いてもらった。躊躇もなく「誤訳だよ」。一刀両断だった。

 曲タイトルの有名な誤訳としてはジャズのスタンダード・ナンバーとなっているヘレン・メリルの「YOU'D BE SO NICE TO COME HOME TO」がある。邦題は「帰ってくれれば嬉しいわ」である。これでは、女性が待っているところへ男性が帰ってくる、という意味である。本当は男性が待つところへ女性が帰るわけだから、これも正反対の誤訳である。

 確かに、PMCのレコードにも誤訳の邦題が記されている。しかし、問題は放送する場合である。誤訳でも著作権上の登録は「帰ってくれれば嬉しいわ」なので、そのように紹介しなければなりません。FM-N1では「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥー・カム・ホーム・トゥー」とカタカナ読みをしている。念のためにキヨタさんに和訳をしてもらったら「私が帰る家にあなたがいる」。練れた日本語が返ってきた。それではザ・ジェントリーズの「花を贈らないで」はどうするか。二つの曲の格が違い過ぎて問題にはならない? (宮崎正倫)

 ◇KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、24万5千枚を所蔵している。

虹!

2018年11月1日

仕事の合間に、スタッフの一人が「虹!」って・・・

お~、でっかい‼思わずパチリ。

遠くに見える虹はよくあるけれど、今回は結構近い(º0º)

画像は色が薄いけど、実際はもっとはっきり見えてました。。。

なんかいいことありそうな予感♪

(なかにしみき)

「東窓からの眺め」

(宮崎正倫)

末松廃寺・第9話「東門からの眺め」

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第9話「東門からの眺め」

 

 現在、手取川扇状地の灌漑は扇頂に当たる鶴来(白山市)の安久濤ヶ淵(あくどがふち)に造られた取水口から引かれています。富樫、郷、中村、山島、大慶寺、中島、新砂川の7本の用水が3市1町の4,700㌶以上の圃場を潤しています。水は高きから低きに流れるのです。

 白鳳時代に始まった石ころだらけの扇状地開発の第一歩は、扇央部の野々市市末松2丁目に取水口を定め、畔(ほとり)に末松廃寺を造営する都市計画の元で始まりました。当然、水は低きに流れるため、ここから下流域が当初の開発対象でした。

 渡来の技術をもった近江(滋賀県)、丹波(京都府北部)からの入植者は、同廃寺から北東100mほどに当たる末松ダイカン遺跡や末松福正寺遺跡をはじめ、東へ約430m離れた末松A遺跡、清金アガトウ遺跡に居を定めたものとみられています。建物の特徴から分かりました。同廃寺が建立された7世紀末の竪穴建物数は20棟前後を数えることから入植者数は200人前後が想定されているのです。

 

◇物資の運搬用に運河を掘削◇

 

末松A遺跡と清金アガトウ遺跡は、現在の地籍は異なりますが同一の遺跡です。特徴的なのは、

末松廃寺の東門跡付近から見た末松の集落方向

集落が2050mの間隔で7つの建物群に別れ、南北約1,240mにわたって一直線上に並んでいることです。末松A遺跡の北端からは人工的に掘削された大溝跡も発掘されました。長さが97m、深さ1m、上部の幅が4m前後という大きさです。船着き場とみられる護岸施設も発掘されました。物資や人員を運んだ運河なのですが、その先がどこへ続くかは分かっていません。竪穴建物群と主軸が同じことから7世紀末に掘られたものです。

 末松A、清金アガトウ遺跡は現在、石川県立大学に沿うようにして国道157号(鶴来バイパス)の下にスッポリ収まっています。

末松ダイカン遺跡は直径で100mほどの広がりを持っていますが、鞴(ふいご)の羽口、鉄滓が少量出土していることから小規模な小鍛冶が行われていたことが分かります。石ころだらけの扇状地開発に鉄製農具は欠かせません。また末松福正寺遺跡からは乗馬に用いられる鐙(あぶみ)か腹帯の馬具が出土し、農民でも有力な戸主層が馬を所有していたことが分かります。広い扇状地の墾田を馬に乗って、指導に当たっていたのかもしれません。

末松廃寺を造営した渡来人たちが住んだ末松A遺跡は国道の下になっている=野々市市の県立大学前

これら、廃寺造営当時の遺跡群にある建物の変遷を調査していくと8世紀後半から9世紀(奈良時代~平安時代中頃)を通して、次第に集落を拡大しています。出土の遺跡、遺物からみても扇状地開発の指導者層の集落に間違いありません。

 

◇廃寺から指導者の集落まで東へ一直線◇

 

 末松廃寺の平成の調査で、新たに東門の柱跡が見つかりました。少し、当時を想像してみましょう。東門の前に立ち前方を眺めると正面に、指導者層の集落が1,240mにわたって、墾田の中に広がっています。もし、条理制の考え方に基づき、綿密な都市計画の上で開発を推し進めたならば東門の前から一直線に、指導者層の集落に向かって道路が延びているはずです。今度は反対に、集落の方から廃寺の方向を見やると、道路の先に東門があり、後ろには祭事の幟(のぼり)が翻り、塔がそびえています。背後には手取川の流れが迫ります。こんな風景だったのでしょうか。

 末松廃寺の造営、扇状地開発の立案、事業主が天智朝で、都から離れた屯倉(みやけ)を現地で管理する責任者が河北潟を本拠とする郡司の越道君。末松で開拓、営農を指導するのが近江、丹波からの移住者です。末松周辺では、3世紀頃から営農が始まり、同廃寺の造営までの400年の間に、労働力の田部(たべ)となる多くの人が居住していました。

 

◇推古朝から小規模に扇状地開発◇

 

 3世紀頃というのは、第7話「なぜ手取扇状地」で紹介した上新庄チャンバチ遺跡(野々市市新庄1丁目)の前方後方墳が築かれた時です。古墳を造るまでの力を持った小豪族に率いられた集落が存在し、倉ヶ嶽に水源を持つ高橋川(木呂川)水系に沿った開発が先行していました。また、末松廃寺から東へ1.2㎞にある上林新庄地区には、7世紀前半代の集落遺跡があります。同地区南西部から近接する上林テラダ遺跡に古墳と小集落が確認されます。末松地区でも末松古墳のほか、「塚」の地名が残るように数基の古墳が存在した可能性があります。墾田が拡大していった証となるでしょう。

 従って、周辺には相当数の人口が推定され、扇状地開発に動員されたのでしょう。もちろん、道君の勢力圏の他の地域からも労働力が徴発された可能性も残されています。

 実は、手取扇状地の開発というのは小規模ながら、7世紀前半から手掛けられていたのです。聖徳太子が摂政を務めた推古天皇の時代の開発拠点と思われます。

 昭和の発掘調査の報告書によれば、同廃寺塔跡の南東隅の下から建物跡が1棟発掘されていました。造営時期が660年頃と特定できたあの遺構です。この建物と同一の集落を形成するとみられる建物10棟が南東方向で確認されています。同廃寺造営以前の集落で、当時も既に、手取川近くまで営農の波が迫っていたことを表しています。まさに末松廃寺の開発前夜にあたります。

 そこへ渡来系の最先端技術を持った指導者が乗り込んできて、全ての要素がそろいました。扇状地開発の大事業が爆発的に進展していったのです。

 天皇親政という新しい国の形を早急につくらなければならないのですから悠長に構えているわけにはいきませんでした。寺院造営も必要最小限の伽藍に留めたのかもしれません。(宮崎正倫)

次回は115日「鄙に地の利あり」です。

末松廃寺ニュース:全国初、「天女」の線刻画が描かれた瓦塔片を発見

2018年10月31日

末松廃寺跡から「天女」が描かれた瓦塔片を発見

全国初
弥勒信仰の広がり示す
同廃寺の再建時期は8世紀中頃か?
伽藍の中心軸を平城京の中心軸と合わせる

末松廃寺から発見された瓦塔片に描かれた天女の線刻画

 野々市市教育委員会文化課は10月30日、国史跡「末松廃寺跡」(同市末松2丁目)から、天女像が線刻された瓦塔(がとう)片を発見した、と発表した。この瓦塔は縦19㎝、横9.5㎝、厚さ1.5㎝の大きさで、向かって右側が裏の方向へL字状に屈曲しており、赤く彩色されていた。形状から箱状の角部分であると推測している。これまで、瓦塔に絵が描かれていた例はなく、今回が全国初の出土であり、瓦塔信仰の対象を知るうえで大きな意義がある、とみられている。
 末松廃寺は昭和41年までの昭和の発掘調査により、手取扇状地の開発のための象徴として、斉明6年(660)頃に造営が始まった白鳳寺院であり、10年から15年後に完成したとされる北陸では最古級の寺院である。奈良時代の初めには一度、倒壊しており、その後に再建されている。
 今回の発見は、同史跡を公園として整備するための寺域確認調査として、平成26年から進められていた最終年度にあたる。瓦塔があったのは平成の調査で新たに発見されていた中門とみられる遺構の南側、遺物溜まりである。
 線刻画は瓦塔初層の正面、柱に当たる部分に描かれており、縦縞の裳(も)と呼ばれるロングスカート状の衣服を身に着け、爪先が上に上がった履(くつ)をはいた女性である。髪は結い上げておらず、手には払子(ほっす)とよばれる儀式用の道具を持っている。
 また、瓦塔というのは木製の塔に変わり、土で塔の形を模した小塔(1.5~2m)の焼き物であり、今回の像は焼成前の柔らかな土製品に鋭利な工具で描かれていることから、戯画ではなく、瓦塔信仰に基づいた仏教画と考えられている。
使われた土は分析から、加賀地域のものと分かった。これは当時、末松廃寺から出土した土器の量では、小松産が半数を占める事と符合している。
 瓦塔は奈良時代から平安時代にかけて盛行しており、仏教美術史や仏教思想史の研究などと合わせ女性像は、弥勒信仰における浄土に遊ぶ天女を描いた、と判断した。
 末松廃寺の再建伽藍は、配置の中心軸を創建当時よりやや東側に振れて真北を向くように計画されている。これは奈良時代の平城京の地割りと同方向であり、中央の影響を強く受けたものと考えられていたが、今回の天女像の発見は、行政上の土木技術だけでなく思想、文化の面でも強い関連性が認められることになる。
 末松廃寺の再建主体は明らかになっていないが、在地の大豪族であった越道君か、扇状地開発のために入植した近江(滋賀県)か丹波(京都府北部)の子孫が考えられる。昭和36年(1961)には廃寺跡から和同開珎(わどうかいちん)の銀銭も発見されており、再建に伴う地鎮の祭具ではないかとみられている。
 天女像が描かれた瓦塔は、創建当時の塔基壇上に建てられた一間四方の建屋の中に納められていたとみられる。創建当時の塔の高さは解明されていないが、再建時には瓦塔が主流となっていた。

もふもふその後

2018年10月30日

FM-N1番組 生活いち番シャトル便の毎月火曜日2週めに出演の西尾賢一さん作のベンチ。

先日ブログで紹介しましたが、その後我が家のもふもふのお気に入り場所の一つとなりました。

 

娘が学校から帰るとこんな感じだそう。

 

 

 

 

 

 

で、おもむろに目を覚まして

偉そうです。

居心地いいみたいです。

人間用なのに・・・

 

 

 

 

 

 

 

この前の放送で、いろんなご縁の話をされてましたが、私もFM-N1に来て、西尾さんはじめ、いろんな方にご縁ができました!

人生の絆って不思議ですね~

その他にも、極める技や生活の匠、命の躍動とテーマも豊富な生活いち番シャトル便は、火曜から金曜の13:30~14:30放送。

ゆったりと、聴いてくださいね!

きっと素敵な時間となりますよ♪

(なかにしみき)

 

 

 

 

 

 

 

PMCで見つけた〈10〉フレッド・アステアの「あなたに夢中」

古き良き歌声をいつまでもステップしたい

 10月24日の番組「FM-N1ゴールデン・スロート~黄金の喉は歌い継ぐ」(月曜~金曜午前8:00~)で、フレッド・アステアの「あなたに夢中」が流れた。開局23年目を迎えているが、覚束ない記憶をたどると、今は終了してしまった「N1コミュニティ~ムッシュ・マル」の中で1、2回紹介されただけではないだろうか。3カ月前に、PMCからレコードを借り、FM-N1のミュージック・フォルダーに入れたばかりだった。
 アステアとは、アメリカのミュージカル映画全盛期の大スターで、タップ・ダンスの名手でもある。初めてスクリーンの中のアステアを見た時の衝撃は今でも忘れない。「あなたに夢中」は1940年の映画「Broadway Melody of 1940」の中で歌われたもので、アルバム「フレッド・アステア・ストーリー」の中に収められていた。
 選曲したのは若い女性だが、どうしてこの曲だったのか、聞いてみた。なにしろ、洋楽ファイルの中には現在、総数で27,600曲を超える楽曲が登録されているからである。いわく「番組の趣旨を考え、1960年以前の曲を選ぶようにしている。歌手の経歴を調べて、年代の検討を付けている」。後は聴いてみるしかない。
 自分の手で調べたものは身に付いていくはずである。番組名の「ゴ-ルデンスロート」とは1940年代のアメリカ製電気蓄音機「RCAビクター・ウィズ・ザ・ゴールデン・スロート」から採っている。戦後、金沢で最初のレコード・コンサートが開かれた際に用いられた機種である。アステアのミュージカルのように、古き良き楽曲をいつまでも、歌い継いでいきたいものである。
 ◇KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、24万5千枚を所蔵している。

末松廃寺・第8話「対岸に瓦の豪族」

2018年10月29日

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第8話「対岸に瓦の豪族」

 

 古代における手取扇状地の墾田開発は、乙巳(いっし)の変(645)で蘇我本宗家を倒し、政治の求心力を天皇家の元に取り戻した天智朝が、政権の基盤を確固たるものにするために全国各地で展開した勢力圏の拡大、墾田開発による富国策の一つ、と捉えることができます。同じ頃、北陸でも仏教寺院が現れてきます。

 ところがまた一つ、首を傾げたくなる事実に遭遇します。手取扇状地の開発を考えれば、末松廃寺のある右岸(旧加賀郡)と同様に、左岸(旧江沼郡)でも寺院を建立して、墾田開発事業が始まったとしても不思議ではないからです。というのも、左岸には地方の有力豪族である財部造(たからべのみやつこ)氏がいたからです。

 そして財部氏は天智朝の意向に従い、道君と協力するように末松廃寺の造営に携わっているのです。同廃寺に使用されていた瓦は財部氏の勢力圏にあった登り窯で生産されて、末松まで運ばれて来たのです。

 

◇財部氏は斉明天皇に仕えていた豪族◇

 

 財部氏というのは一体、どんな氏族だったのでしょうか。大化の改新以前で、「造」の文字が入っていることから、財部は一族に与えられた「姓」であったと思われます。一族の名前は居住する土地の名前からとることが普通であったために本来なら「野身(能美)」となるはずです。野身氏に「財部造」の姓が与えられていたと考えれば、「たから」と名乗る皇族に直接仕える地方豪族に指定されたのではないでしょうか。名代・子代(なしろ・こしろ)の制度です。

 「たから」に相応する皇族は、何人かの候補者の中でも、時代を考えれば宝皇女(たからのひめみこ)が有力とされています。敏達天皇の孫で、舒明天皇の后になった人物、後の斉明天皇その人です。

 

◇秋常山古墳が明かす大豪族の力◇

 

 左岸には斉明天皇に仕える財部氏、右岸には越道君伊羅都女(こしのみちのきみのいらつめ)

北陸最大級の前方後円墳・秋常山1号墳。後円部から前方部の眺め=能美市

を通じて天智天皇と姻戚関係を結ぶ越道君がいることになります。天智朝の「母と息子」を財政的に支えた大墾田、屯倉(みやけ)となったのが手取扇状地であった、ということになります。

 財部氏の勢力圏には県内最大、北陸でも最大級の前方後円墳(全長140m)である秋常山古墳をはじめ、弥生時代末期から古墳時代後期に至る400年間に連続して、5つの古墳群が造られた能美古墳群があります。鉄剣などのほか多種多様、一級の副葬品が出土しています。古墳群の末期にあたる西山古墳群からは馬具(馬鐸=ばたく)も出土しており、権力の大きさを示しています。この首長らの末裔が財部氏につながるとみられ、斉明天皇に仕えていたのです。

 

◇補修用の瓦窯が見つかる◇

 

 話を末松廃寺に戻しましょう。同廃寺の金堂は瓦葺(かわらぶき)の建物です。それ以前は茅葺(かやぶき)や草庵などが住居の形でしたが、瓦葺は最先端の、また権力の所在を示す工法でした。実は、この瓦が突然、想像もできない財部氏の勢力圏である能美市湯屋の古窯跡から出土したのです。末松廃寺とは別の調査であったことから大きな驚きが関係者の中に広がりました。

 瓦は平瓦、丸瓦、軒丸瓦で、様式が同一のものでした、特に軒丸瓦は独特の単弁六葉蓮華紋(たんべんろくようれんげもん)です。全国寺院の瓦を調べてみても似た物はありません。どこの瓦工の流れをくむのか不明で、紋の作りも素朴な感じがします。

末松廃寺の補修用瓦を焼いた登り窯跡。丸い瓦は単葉六弁蓮華紋の軒丸瓦=能美市湯屋

湯屋で発掘された窯の規模などから察すれば、瓦は末松廃寺の補修用に使われた、とみられています。本窯はいまだに見つかっていませんが、同市湯屋地区から辰口地区へと向かう能美窯跡群の丘陵地帯に存在すると想定されます。また、末松廃寺用の瓦は、同廃寺の後に造営された加賀市弓波の忌波(いんなみ)廃寺にも使用されていることが分かりました。

末松廃寺は瓦の使われ方が少ない寺院という見方が一般的です。金堂にしか使われていないからです。塔跡からの出土がなかったことから、屋根に瓦を乗せない塔であったことが分かっています。平成の発掘で発見された塔東側の大溝(土塀跡)からも瓦は出土していません。この瓦の少なさについては、能美窯跡群の調査が進んで本窯の規模が分かってくれば、その理由の手掛かりになるのかも知れません。

 

◇財部氏が姉妹寺院を持っていた可能性◇

 

 ここで、大きな疑問が頭をもたげてきます。能美古墳群の成り立ちからも分かるように、同一地域で400年間も勢力を張って力を蓄え、早くから天智朝(斉明天皇)と深い関係を持っていた財部氏であれば、手取扇状地の墾田開発の一番手は旧能美郡側ではなかったか、ということです。開発を企図した朝廷側からすれば両岸の開発が理想ではないでしょうか。時間的に近接、あるいは同時並行的に末松廃寺とは別の古代寺院が造営されていた可能性が残ります。

 しかし今のところ、遺跡らしいものは見つかっておりません。あるとすれば、末松廃寺と同様に、手取川の流れぎりぎりの地点に造営されたことが予想されます。当時の手取川の流れは、現在より北側へ大きく離れていた、というのが通説です。扇状地の三分の一は旧能美郡に含まれていた、と考えられています。手取川は氾濫を繰り返し、現在のように南へと移って行く過程で遺跡は呑み込まれていったのかもしれません。

 姉妹寺的な存在ですが寺院の豪壮さより、簡略的であっても一応の形式を整えて、墾田開発を急ぎたい。中央政権の財政力を強化したい。蘇我本宗家を討ち、天皇親政を目指すなか、朝鮮半島では日本と近い関係にあった百済(くだら)が存亡の危機に瀕していました。救援より、国内基盤を固める必要性が優先したのかもしれません。

 結果として、斉明6年(660)に百済は滅びます。翌年に、斉明天皇は救援軍を率いて半島へ向かいますが、途上で筑紫(福岡)の朝倉宮で崩御します。代は天智天皇に引き継がれます。(宮崎正倫)

次回は111日「東門からの眺め」です。

PMCで見つけた〈9〉ザ・キングストン・トリオの「ジョン・B 号の難破」

2018年10月26日

カリブ海の海賊と戦ったのか? 歌に実話の面影はないが…

 今、FM-N1の音楽サーバーを聴き直している。ザ・キングストン・トリオのファイルを開いたところ、あったのは「トム・ドゥリー」と「花はどこへ行った」の2曲だけ。フォークソングは、他の歌手、グループもカバーしているため、放送するのには差し当たり支障はない、と言えるが早速、PMCからレコードを借りてきた。

 中に懐かしい1曲が入っていた。「ジョン・B 号の難破」である。歌い出しが「We come on the Sloop John B」で、やけに「Sloop(スループ)」が、昔から耳に残っていた曲ではある。ライナー・ノーツを見て初めて、その意味が帆船のことである、と分かった。帆船と言えば、中国からイギリスまで紅茶を運ぶティークリッパーという快速艇を思い出す。有名なものでは「カティーサーク号」がある。が、ジョン・B号は戦闘用らしい。

 もともとは、バハマ諸島の沖合で難破した帆船の悲劇の実話が現地で歌い継がれており、それを収集して楽曲に仕上げたもの、という。バハマ諸島はカリブ海に浮かび、カリブの海賊がハバを利かしていた海である。もしかして、海賊の取り締まりに当たっていた帆船だったのか。しかし採譜はしたものの、歌詞の方は実話とは無縁の内容となっている。

 歌詞カードをみると、祖父と私が船に乗り込み、酒をガブ飲みしたり、酔っぱらいが暴れたり、料理人が私の食べ物を海へ投げ込んだり、とイザコザを起こしている。海の男の威厳は微塵も見られない。海の荒くれ男も悪くないが、帆船のイメージを一新するなら10月28日に、富山県射水市の海王丸パークにでも出掛けるのはどうか。“海の貴婦人”と称される海王丸が今年(平成30年)最後の総帆展帆(そうはん・てんぱん)を披露してくれるそうだ。(宮崎正倫)

 ◇KIT・PMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、24万5千枚を所蔵している。