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PMCで見つけた〈41〉ボビー・トループの「野球につれて行って」

2019年2月26日

ジャズ風のアレンジ、早口のノベルティソングだな

 

野球の松井秀喜さんがメイジャー・リーグのニューヨーク・ヤンキースでプレーするようになった頃、よく試合中継を見るようになった。7回の裏になった時に「セブンス・イニング・ストレッチ」という応援時間があり、観客が総立ちになって歌っていたのが「私を野球に連れてって(原題:Take Me Out to the Ball Game)」だった。アメリカの古い歌のようで、1949年(昭和24)にミュージカル映画が発表されてジーン・ケリー、フランク・シナトラが主演していた。

 

ボビー・トループという名前そのものは余り知られていませんが、スタンダード・ナンバーの「ルート66」の作詞、作曲者で、女優・歌手のジュリー・ロンドンの夫でもあります。PMCでデータ検索をすると、楽曲のタイトルが英語表記であったり、漢字、ひらがな表記が微妙に違っていたりして時間がかかりましたが、トループの盤も含めて4枚がありました。ミュージカル映画の盤は見つけることが出来ませんでした。

 

トループの楽曲は、ジャズ風にアレンジされていて、聞き慣れているものとは一瞬、違うのではないかと思わせます。早口の歌唱で、野球場でファンが合唱するコーラス部分から始まり、お菓子のクラッカージャックやピーナッツは聞き取ることができました。ノベルティソング(日本で言うところのコミックソング)に分類されているそうですが、一見は百聞にしかずではなく“音楽は一聞”に限る、と思わされました。

 

ところで松井さんは将来どうするのでしょう。地元・石川県の出身ということもあって当時は、走っている車にも背番号にちなんだ「55」を“百見”するような状態でしたが、最近では“一見”になっています。出来る事なら、ニューヨーク・ヤンキースの指導者として一軍ベンチに入り、勝利の後、シナトラの「ニューヨーク、ニューヨーク」を聴きたいという、ささやかな夢を持っています。(宮崎正倫)

 

KITPMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、245千枚を所蔵している。

PMCで見つけた〈40〉トリニ・ロペスの「ボーン・フリー」

2019年2月22日

野生に戻したライオンが育ての親の元へ帰ってきた

 

日本のグループ・サウンド時代のバンドにザ・ライオンズがいた。「すてきなエルザ」という曲を歌っていた。時代の勢いが歌わせているようで、お世辞にも上手と言えるほどではなかった。しかし、しっかりと印象には残っているグループである。何が? と問われればライオンのエルザを連想する、というだけの話ではある。

 

そう、「野生のエルザ」を思い出すからである。実在のライオンと人間、心と心の交わりを描いたノンフィクション作品である。中学生の頃に読んで感動した覚えが微かにある。多感な時代の幻のようなものである。1966年(昭和41)にイギリスで映画化されているが、観ていない。トリニ・ロペスの「ボーン・フリー」はこの映画の主題歌である。

 

物語はアフリカ・ケニアの出来事である。ライオンの両親を射殺した夫婦が、残された3頭の赤ちゃんライオンを引き取り、一番小さかったライオンにエルザという名前を付けた。夫婦はエルザを野生に戻すため狩りを教え込んでサバンナに帰した。3年後、エルザは3頭の子ライオンを連れて二人の前に姿を現す、というものである。

 

映像より読書の方が強く感動すると感じた。この「ボーン・フリー」はFM-N1の音楽サーバーの中にはなかった。それならば、とPMCでデータ検索をしたところ26枚のレコードが見つかり、トリニ・ロペスの楽曲を選んだ。ちなみにエルザは「Elsa」と綴り、英語では「エルサ」と発音する。が、本や映画の吹き替えなどを通してエルザが定着してしまっているので、もう変えられない。感動さえ変わらないから良し、としよう。(宮崎正倫)

 

KITPMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、245千枚を所蔵している。

PMCで見つけた〈39〉フランキー・アヴァロンの「ヴィーナス」

2019年2月19日

プレスリー不在の時間、心の隙間を埋めたヒット曲

 

フランキー・アヴァロンの「ヴィーナス」は、1959年(昭和34)にリリース、初めて全米1位になった曲です。彼女の魅力を語り、二人が生きている限り僕の総ての愛を捧げよう。君は女神だ、という甘いポップスです。PMCには「フランキー・アヴァロン・グレーテスト」という2枚組のアルバムがありました。その中には、やはり同年に全米1位となった「ホワイ」など全23曲が収められていました。

 

アルバムのライナー・ノーツには、エルヴィス・プレスリーが1958年にアメリカ陸軍に入隊後、ティーン・アイドルとしての地位を確保し、人気を集めた様子が書かれています。言葉は悪いですが何か、不在のプレスリーの空き巣狙いのような感じを与えますが徴兵期間の2年間、ポップス・ファンの心の隙間を埋め、夢中にさせることは誰にでも出来るものではありません。やはり選ばれたスターだったのでしょう。

 

アヴァロンの初ヒット(全米7位)となったのが1957年の「ディ・ディ・ダイナ」であったことを思えば、プレスリーの入隊前から人気が上昇していたことが見て取れます。翌年には「ジンジャー・ブレッド」(同9位)もあり、「ヴィーナス」「ホワイ」に続いていくのです。1959年には「ジャスト・アスク・ユアー・ハート」「ボビー・ソックス・トゥ・ストッキングズ」「ア・ボーイ・ウィズアウト・ア・ガール」がそれぞれ7810位が並んでいるので、ベスト105曲という具合です。

 

プレスリーは19603月に除隊して、歌の世界に復帰してきます。次第にアヴァロンの任期は下降していきますが、3年間以上もトップ・スターとして活躍したことを思えば十分と言えるのではないでしょうか。アヴァロンはこの後、「パイナップル・プリンセス」のヒットで知られるアネット・ファニセロと映画「ビキニ・ビーチ」など60年代のビーチ・ムービーで共演し、俳優の道へ入って行きました。(宮崎正倫)

 

KITPMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、245千枚を所蔵している。

PMCで見つけた〈38〉ドリス・デイの「センチメンタル・ジャーニー」

2019年2月15日

欧州戦線から帰国する米兵さんたちが口ずさんだのだろう

 

スタンダード・ナンバーとしても有名すぎるドリス・デイの「センチメンタル・ジャーニー」を今更、PMCで見つけてこなくても、という声が聞こえてきそうな選曲である。この曲は1944年(昭和19)に制作され、翌年に発売されてミリオンセラーになったもので、ドリス・デイの出世作になりました。当時は、レス・ブラウン楽団の専属歌手であり、翌年にソロとなりました。

 

PMCで見つけてきたのは、ドリス・デイが出したシングル盤を集めた2枚組アルバム「ドリス・デイ・リザーヴド~ラヴ・サムボディー」です。ポピュラー・ソングのシングル盤というのは将に消耗品の運命です。擦り切れるほど聴けば、いずれ捨てられる運命が待っています。金沢工大のPMCというのは、時代に埋もれてしまうポピュラー・ソングのレコードを集めているからこそ貴重な存在なのです。工科系でありながら、録音というハード技術にとどまらずソフトにも目を向けた、ということです。

 

この「センチメンタル・ジャーニー」は当時の演奏スタイルを残しています。演奏時間38秒のうち、レス・ブラウン楽団の演奏が半分近く続き、後半にやっと、デイの歌声が聴けます。当時のビッグ・バンドのスタイルです。フランク・シナトラの場合でも、若手歌手の頃にはトミー・ドーシー楽団の専属歌手をし、次第に頭角を現してきました。もどかしさを感じることもありますが…

 

後に再録音された歌唱中心の曲の趣とは違い、題名の通りに感傷的な気分になります。発売当時は第二次大戦の欧州戦線では闘いが終了して、多くの米兵が帰国の途に就いていたころです。センチメンタル・ジャーニーを口ずさんでいたのでしょう。ミリオンセラーもむべなるかな、です。日本の兵隊さんたちは何を口ずさんで海外から帰国してきたのだろうか、と不図思いました。(宮崎正倫)

 

KITPMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、245千枚を所蔵している。

PMCで見つけた〈37〉ザ・ブラウンズの「谷間に三つの鐘が鳴る」

2019年2月12日

人生の三大節目に、山暮しの仲間達の絆が響き渡る

 

金沢工大のPMCが所蔵しているザ・ブラウンズの「谷間に三つの鐘が鳴る」を聴いてみた。男性1人と女性2人からなるコーラス・トリオです。アルバム名は「RCAカントリー&ウエスタン100」という特集ものです。RCAというのは1901年(明治34)設立された「ビクタートーキングマシン」という蓄音機を製造する会社だった。戦後の昭和24年、金沢で最初に開かれたレコード・コンサートで使用された電気蓄音機が「RCAビクター・ウィズ・ザ・ゴールデン・スロート」だった。

 

1929年(昭和4年)にRCAビクター社となって、1949年(昭和24)に初めてEP盤を発売している。本社はニューヨークですが、テネシー州ナッシュビルで、カントリー・ミュージックのレコードを録音して、カントリーの隆盛期を築いた。ザ・ブラウンズは、カントリーのグループでしたが、伝統的なカントリー(ヒルビリー・ミュージック)にポップス調を取り入れたナッシュビル・ポップスの代表格となっていきました。

 

「谷間に三つの鐘が鳴る」は1959年(昭和34)というから、今上天皇が美智子皇后と結婚された年です。元々はエディット・ピアフが歌っていたシャンソンでしたが、英語詞が付けられてザ・ブラウンズに回ってきたのです。ブラウンズ・バージョンがアメリカのランキング1位を獲得しました。原題は「Three Bells」という味も素っ気もないものですが、邦題のほうが日本人の情感に訴えます。

 

歌の内容は、ジミー・ブラウンの一生の物語です。谷間の村で誕生した時に鐘が鳴り響きました。そして結婚の時も、生涯を閉じた時にも。この谷間とは、PMCで見つけた〈18〉で紹介したダニー・デイビスとナッシュビル・ブラスの「マウンテン・デュー」の様に、ヨーロッパからの移民たちが住み着いたアパラチア山脈ではないかと思います。人生の三大節目に祝福、歓喜、弔意の鐘が谷から谷へと伝わります。山あいの暮らししか知らない人達ですが、仲間とのつながりを誇りとする人々のような気がします。(宮崎正倫)

 

KITPMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。全て寄贈されたレコードで構成され、245千枚を所蔵している。

PMCで見つけた〈36〉ハンク・スノウの「RAIL ROAD MAN」

2019年2月8日

2分弱の曲に栄枯盛衰を感じさせる「パン・アメリカン」

 

カナダ生まれのカントリー歌手、ハンク・スノウのアルバム「RAIL ROAD MAN」をPMCで見つけた。タイトルそのものが鉄道員なのだが、収録されている12曲全てが列車関係の歌です。今で言う“鉄道ヲタク”なのです。乗り鉄、撮り鉄などいろいろな形態があるということですが、彼の場合は“ウタ鉄”といったところだろう。そう言えば、1950年に初の大ヒットとなった曲が「ムーヴィン・オン(原題:I’m Moving On)」で、列車に乗ってやってくる内容だった。

 

12曲の中にはグレン・ミラー楽団のスタンダードである「チャタヌガ・チュー・チュー」も当然のように含まれている。チャタヌガとはテネシー州南東部の都市で、チュー・チューとは幼児語で汽車ポッポを意味する。1880年、北部のオハイオ州シンシナティからチャタヌガまで運行を始めた「シンシナティ・サザン鉄道」の旅客列車の愛称を曲名にしたものです。

 

初めて聴く曲で、気になるものもありました。「パン・アメリカン」です。こちらの方はシンシナティから、メキシコ湾に面したルイジアナ州ニューオリンズまでの路線で、当時の特急弾丸列車が運行されていました。150秒余りの曲ですが、通過駅のあるルイビル(ケンタッキー州)、ナッシュビル(テネシー州)、モンゴメリー(アラバマ州)を経てニューオリンズに到着します。ギターの弾き出しは、軽くてテンポよく、快適な鉄道の旅を予感させます。

 

ところで、ニューオリンズと五大湖周辺を結ぶ交通網と言えば昔は、ミシシッピー川を行き交う外輪船で、水上交通でした。それが陸上の大量輸送時代を迎えて「パン・アメリカン」鉄道路線に移って行ったのでしょう。まさにパンアメリカン(汎米)が新時代を象徴していたのです。そして、航空機を運行するパン・アメリカン航空が登場するのです。1927年に設立された同社も1991年に、経営悪化によって消滅しました。栄枯盛衰を感じさせる曲なのかもしれません。(宮崎正倫)

 

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PMCで見つけた〈35〉マレーネ・デートリッヒの「リリー・マルレーン」

2019年2月5日

終戦後15年、初めてベルリンの舞台に立った緊張感

 

マレーネ・ディートリッヒと言えば「リリー・マルレーン」、「リリー・マルレーン」と言えばディートリッヒと言うように、この両者は切っても切れぬ仲です。ディートリッヒは戦前のドイツで活躍した女優で、映画「嘆きの天使」で成功した後、アメリカに渡りました。この間、第二次世界大戦が起こり、ドイツの枢軸国とアメリカの連合国側が戦端を開きました。ディートリッヒは、祖国と敵対するにもかかわらず、連合国兵士の慰問のためアフリカ・欧州戦線を回りました。

 

「リリー・マルレーン」はドイツで作られた楽曲でしたが、敵味方双方で歌われ、両軍兵士達の心を慰めた、と言います。PMCでディートリッヒを検索すると、26件ありましたが、必ずと言っていい程、この曲が収録されています。これは、昭和45年(1970)に開催された大阪万博にディートリッヒが公演し、日本でも大ブームが起きたためと言われています。同曲を入れておかなければレコードが売れなかったのかもしれません。

 

これらの中に、「マレーネとの再会/ディートリッヒ・ベルリン・コンサート1960」というタイトルのアルバムがありました。ライナー・ノーツによると、慰問で励ました連合国の兵士達は祖国の若者に銃口を向けていたことになるので、なかなか祖国の土を踏むことが出来なかった、と記されています。戦後15年を経て、初めて故国でのコンサート実況録音盤です。「リリー・マルレーン」は普通、ディートリッヒの語りや、前奏部分に消灯ラッパの音が入ることが多いのですが、この盤では、いきなり歌が始まります。熟慮した上でしょうが特別な感情が込められているようです。

 

「リリー・マルレーン」はドイツの歌だと言いましたが、連合国側の慰問では英語で歌われました。このブログ「PMCで見つけた」の2回目、「ドーバーの白い壁」で紹介したヴェラ・リンはイギリス軍の歌姫としても知られ、彼女もアフリカ戦線の慰問で「リリー・マルレーン」を歌ったといいます。それでは、最初に歌ったのは誰でしょうか。それはドイツの女優・歌手であったララ・アンデルセンです。1939年にレコードが発売されました。PMCにはアルバム「オリジナル・リリー・マルレーン」の中に1曲だけがありました。モノラルでした。(宮崎正倫)

 

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PMCで見つけた〈34〉ザ・ブラザーズ・フォアの「遥かなるアラモ」

2019年2月1日

180年経った今も越境、入植民の問題は繰り返す

 

ザ・ブラザーズ・フォアが歌った「遥かなるアラモ」は1960年(昭和35)のアメリカ映画「アラモ」の主題歌です。この映画は、メキシコからのテキサス独立戦争(1863223日~36日)13日間をテーマにした内容です。独立を目指すアメリカ側の軍人や義勇兵250人がアラモ砦(とりで)に立て籠もったのに対し、メキシコ軍1600人が攻め寄せて、最後には籠城軍を全滅させた、という実話が基になっています。

 

「遥かなるアラモ」の原題は「Green Leaves Of Summer」で、のどかな曲調は荒々しい戦いとは落差があります。歌詞は、ナマズが川面から跳びはね、松の木が目にまぶしい自然豊かな田舎の風景、恋人や夫婦の暮らしが歌われて、題名の通り、夏の青葉が若者に、故郷へ帰れと呼びかけています。

 

映画の中では、主役のジョン・ウェインが扮する義勇兵のデイビー・クロケットが、最後の戦いの前夜となる場面で、「何を考えている」と問われ、「思い出しているだけさ」と答える時にバックで流されているという。戦況から既に死を覚悟しながら、懐かしい故郷に思いを馳せていることを表しています。身を挺して国のために闘う愛国心を高揚させるような「アラモを忘れるな」という格言が残されているようです。

 

しかし、メキシコ側からみれば、勝手に国境を越えて入植してきたアメリカ側がテキサスを独立させようと画策しているように見え、領土を守るためにアラモ砦を鎮圧した正義の戦いになるでしょう。結局、現在はテキサス州としてアメリカに属する結果となっています。ところが現アメリカ大統領のトランプ氏は、メキシコ側からの不法移民を取り締まるために“壁”の建設に精力を傾けています。アラモ砦の攻防から約180年経った今も、問題は繰り返しているのでしょうか。(宮崎正倫)

 

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PMCで見つけた〈33〉バディ・ホリーの「ペギー・スー」

2019年1月29日

青春時代のロックンロールが始まった1

 

182㎝の長身に、眼鏡をかけてスーツ姿。こんな男がロックロールの創始者の一人に数えられるバディ・ホリーです。活動期間は1957年からわずか2年程でしたが、ザ・ビートルズなど後に続くバンドに大きな影響を与えました。ギター2本にベース1本、ドラムスを加えた4人編成で演奏を始めたのもバディ・ホリー&ザ・クリケッツでした。当時は、ロックンロールといえどもビッグバンド・スタイルでしたが、お金のなかった彼らが巡業中に、4人バンドで演奏したのです。

 

「ペギー・スー」という曲は最初、ホリーの姪の名前から「シンディ・ルウ」というタイトルでしたが後に、クリケッツのドラマーだったジェリー・アリソンの妻の名前をとって「ペギー・スー」に改題されました。歌の内容は「お前がペギー・スーのことを知っているなら 、彼女がいなけりゃ僕がどんなに落ち込むか分かるだろう。本当にペギー・スーが好きなんだ」というもの。ドラムの軽快なビートで始まり、アコースティック全盛の時代に、エレキギターを抱えて歌う青春100%に若者はひかれた。

 

19592月、ホリーは飛行機でアイオワ州からミネソタ州へ移動中、吹雪のために墜落して、同乗していた2人のロックンローラーと共に死亡した。ザ・クリケッツと活動を再開する直前だったという。ジョージ・ルーカス監督の映画「アメリカン・グラフティ」の中には「バディ・ホリーが死んでロックンロールは終った」という台詞があるという。しかし、ロックンロールはイギリスのバンドに生き続け、やがてアメリカに上陸するのです。「バス・ストップ」の曲で有名なザ・ホリーズは彼から名前をとったものです。

 

PMCから借りてきたアルバム「栄光のバディ・ホリー」には「ペギー・スー」の他、デビュー曲の「ザットル・ビー・ベイビー」、ポール・アンカが書き贈り、実質上の遺作となった「イット・ダズント・マター・エニモア」が収録されている。また、ホリーが事前にデモ録音していた曲に、彼の死後、ザ・クリケッツがオーバー・ダビングして完成させた「ペギー・スーの結婚」もある。本当に青春時代のロックンロールの血が騒ぐ一枚だった。(宮崎正倫)

 

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PMCで見つけた〈32〉ザ・シーカーズの「愛の喜び」

2019年1月25日

君をすきになった私は愚か者なのだ

 

ザ・シーカーズをご存知でしょうか? 1962年(昭和37)にオーストラリアで結成された男性3人、女性1人のフォーク・グループです。翌年にイギリスに渡って活躍しました。「ジョージー・ガール」が代表曲です。解散した後、メンバーを募ってザ・ニューシーカーズとして「愛するハーモニー」をヒットさせていますが、基本的には別のグループでしょう。PMCからザ・シーカーズのレコード・アルバム「ベスト・フォーク・アルバム」を借りてきました。

 

聴いてみると、期待以上の13曲でした。中でも「愛の喜び」という曲が気になりました。どこかで聴いたような、という気がしてライナー・ノーツを取り出すとエルビス・プレスリーが1961年に発売したスロー・バラード「好きにならずにいられない」でした。それも、カヴァー曲ではなく、1819世紀にかけて活躍したジャン・ポール・マルティーニが作曲したフランス生まれの原曲でした。プレスリーよりもスロー・テンポで歌っています。

 

FM-N1のパーソナリティ・ロイ・キヨタさんによると、「好きにならずにいられない」の歌詞は「賢者は言う 愚か者はあわてて行動に走ると でも 君を好きにならずにはいられない」で始まるという。君を好きになった私は愚か者なのである。まさに原題の「Can’t Help Falling Love」なのである。理性を忘れて、君をすきになることは罪なことなのか、とも歌っている。

 

「愛の喜び」の原詩は、「愛の喜びは一瞬しか続かない。別れの哀しみは生涯続く。私はスルヴィのために全てを捨てたが、彼女は他の男の元へ走った」という内容です。これは、恋に破れた男の悲しみを歌っています。プレスリーの曲とは違う気もしますが、シルヴィの心も見えず、我を忘れて恋に溺れた、という意味ではこちらも愚か者なのだろう。というか、愚か者にならなければ出来ないのが恋なのだろう。賢者に戻った時に、満足するか後悔するかは別の話である。(宮崎正倫)

 

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