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PMCで見つけた〈4〉コニー・スミスの「悲しきトランジスター・ラジオ」

2018年10月9日

定番の“悲しき”だが、こんな青春を飾る曲が残っていた

 コニー・スミスはアメリカのカントリー歌手である。FM-N1では、あまり聴いた覚えがない女性である。歌声は明るく、技巧的に歌うというより、真っ直ぐに耳へ飛び込んでくる。彼女に出会えて良かった、というのが第一印象である。

 邦題は「悲しきトランジスター・ラジオ」(原題はTiny Blue Transistor Radio)だが、これまでのオールディーズの定番ともいえる“悲しき”とか“哀しみの”とかが邦題の頭についた曲の中でも初めて聴いた楽曲である。ちなみに、オールディーズを中心にしたリクエスト番組「ブロークン・タイムマシン」のデータを調べると、これまで、35曲にお応えしている。

 歌詞の方は「私と彼のためにあった小さなトランジスター・ラジオも、彼がいなくなって悲しきトランジスター・ラジオになってしまった」という青春のほろ苦さをかみしめる内容となっている。それもレコードのB面で、A面は「その日を待って」という曲です。どちらかというとB面に愛着を覚える私にとっては、堪りませんでした。

 まだまだ、金沢工大のポピュラー・ミュージック・コレクション(PMC)には、まだまだ“哀しみ”が隠れているかもしれません。また出遭える時がくるのでしょう。それにしても今回は、カントリーが流れる回数が少な過ぎるのが原因なので、反省をしているところです。(宮崎正倫)

末松廃寺・第2話「鉄製農具の一撃」

2018年10月8日

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第2話「鉄製農具の一撃」

 

 北陸新幹線が平成27314日に開業して3年が経ちます。初めは東京へのストロー現象が心配されていましたが、金沢市への誘客は順調で、昨年度の観光客数は1,022万人を超えたとかで人気は衰えを知りません。

 その魅力は、江戸時代の加賀百万石が育んできた城下町文化、先の大戦による被害を免れた町家や小路の街並み、藩政期の茶屋街などが情緒を醸し出しているからに他なりません。また、兼六園、これに接する金沢城が復元されつつあり、歴史の深みが背骨の様に芯を通しています。

 

◇加賀藩の財政支えた手取扇状地◇

 

 「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵」と言ったのは戦国武将の武田信玄だそうです。加賀藩も加賀八家と呼ばれる家老衆と、石垣の博物館とも称される城があったからこそ繁栄したのかもしれません。

加賀藩は、徳川幕府の外様でありながら石高は加賀、能登、富山を合わせて122万石にのぼり、全国でも一頭群を抜く財力が背景にあって武家文化を支えてきました。その中でも足元とも言える石川郡が18万石、能美郡が12万石を数えます。言い替えれば石川県最大の穀倉地帯である加賀平野、手取川の右岸、左岸扇状地で総石高の四分の一に当たる30万石を生み出していたことになります。FM-N1のある野々市市も右岸の扇央部に在って、旧石川郡の一角を占めています。

 

◇手取川の石から戸室の石へ◇

 

唐戸石と呼ばれて親しまれて来た末松廃寺の塔心礎。塔の心柱を支えた

末松廃寺跡(野々市市末松2丁目)の調査の元となった「唐戸石(からといし)」として地元では親しまれてきた塔の心礎(しんそ)は当初、金沢城と同じく戸室石(金沢市戸室産)ではないかとも見られていました。が、調査結果から、手取川の転石である安山岩と判明しました。ともかく、加賀百万石は手取川の石から始まり、戸室の石に行きついたことになります。

 

◇金沢城を歩いてみた◇

 

 今年の四月に機会があり、石川県金沢城調査研究所の木越隆三所長(野々市市在住)を案内役に、金沢城などを駆け足で巡ってきました。

 スタート地点は金沢市下新町。金沢城の防御のために城外に張り巡らされた二重の土居の一つ、東内総構跡を見るためでした。他人様の敷地・駐車場でしたが、駐車場の端が総構の縁とあってやむを得ない仕儀と相成りました。縁から見下ろすとかなりの高低差があり、堀の名残りである用水が流れていました。町家が続く小路を西へ。旧町名が復活した袋町を抜けて市媛(いちひめ)神社の境内に入り、延びてきている総構の段差を確認。今度は国道159号を渡って近江町市場へ着きました。

総構跡の段差に沿うようにして市場の裏へ入り込み、更に進んで途中から営業中のスーパーの店内へ。買い物客の間をすり抜けるようにして裏口から出ました。近江町市場を後にした歩みは十間町から西町藪ノ内、同三番丁、尾崎神社を経て、やっと金沢城黒門に到着しました。石川門は、漆喰(しっくい)壁の色から白門とも呼ばれますが、黒門は白門とは正反対の方角になります。ちなみに、東京大学の赤門は江戸時代の前田家上屋敷跡になります。

到着した黒門から城外の尾張町方向を眺めると、今歩いて来た総構跡の高低差が一望の下に見て取れます。

 木越所長がここでつぶやきました。「私的な思いだが、加賀百万石の藩祖前田利家が金沢城に入ったのは大手門ではなく黒門ではなかったのかな」。定説を覆すような貴重な発言だったかも知れないが、その場は聞き流すだけにしておいて、いよいよ城内へ。

 

◇石垣の博物館と最古の文禄石垣◇

 

 大手堀、大手門、三の丸広場、河北門の順に進んで石川門裏へと。ここには、石垣の博物館と異名を

金沢城の丑寅櫓の文禄石垣。前田利家が入城した当時の最古の野面積み

取る同城でも最古の石積みとなる文禄石垣と対面。野面(のづら)積みという自然石の姿のままに組み上げられた荒々しさが特徴です。更に鶴丸倉庫、橋爪門の脇から二の丸御殿の石垣へ。石に彫られた多種の刻印も楽しみながら、大奥の外周を回って、玉泉院丸庭園へと下りました。

下りの道が今度は一気に上りとなって本丸跡へ。これまでは裏側しか見ていない三十間長屋の正面に回って広坂合同庁舎を見下ろす斜面の際へ。三カ所の破風造りを確認して本丸園地へ。城跡の最高地点である東南角の辰巳櫓跡を巡って、蜂にまとわりつかれながらもゴールの石川門へと下った。

 

◇石から始まったもう一つの歴史◇

 

 3時間余りの行程を終えてみれば、余り好きでなかった前田様も何か憎めない人物に思えてきました。これも金沢城調査研究所などの長年に渡る発掘、調査、研究があってのことだと実感させられました。

もう一つの発見は我が体力の衰え。それほど歳の差があるわけではない木越所長の健脚に比べて、なんと足腰の弱い事か。帰宅すると文字通り、崩れるように倒れ込んだ。老体をいたわるように、金沢城の巨大な建築物を支えた石積みに想いを巡らせていると、もう一つの「石」が脳裏を横切りました。近世の金沢城と比して、文献の少なさから息の長い調査、研究を余儀なくされている末松廃寺の心礎・唐戸石の事です。

飛鳥時代と奈良時代をつなぐ白鳳時代に創建された末松廃寺の象徴的建造物、塔の中心を貫く心柱(しんばしら)を支えた礎石です。

廃寺造営の目的は、先にも触れたように加賀百万石を支えた穀倉である手取扇状地の開発にあったことは昭和の調査で解明されています。

日本一の急流である手取川が右岸、左岸に形作った石ころだらけの荒れ地を稲穂の頭が垂れる田圃に開発するため、白鳳時代の人々が末松に入植しました。土地は石ころに覆われています。木製の農具では歯がたちません。最先端の鉄製刃先を取り付けた鍬を最初に、乾燥した荒れ野に打ち込んだ人々の想いはどの辺りにあったのだろうか。確信、希望に燃えた一撃だったのだろうか。それとも、営々と続くであろう墾田開拓を引き継ぐ子、孫達の運命を思い浮かべた一撃だったのだろうか。

少なくとも、この地が加賀百万石の礎になるなどとは夢にも思わなかったはずである。天正11年(1583)に前田利家が金沢城に入る1千年近く前の原風景ではなかったろうか。(宮崎正倫)

 次回は10月11日「蕃神が産業革命」です。

PMCで見つけた〈3〉ザ・ロネッツの「恋の雨音」

2018年10月6日

雷鳴が告げる理想の恋人の出現

 ザ・ロネッツと言えば、返ってくる答えは「ビー・マイ・ベイビー」というのが通り相場である。彼女らの最大のヒット曲であるから当然の事である。FM-N1の番組に「ブロークン・タイムマイン」という長寿番組がある。平成10年(1998)4月が放送開始なので20年と6カ月が経ちました。オールディーズのリクエスト番組が基本姿勢なので、金沢工大のPMC(ポピュラー・ミュージック・コレクション)が頼みの綱でした。

 同番組のリクエスト数でみれば、10月7日現在で、「ビー・マイ・ベイビー」が最多の31回を数えます。ちなみに第2は、パーソナリティのロイ・キヨタさんがお気に入りのプロコル・ハルムの「青い影」が28回となっています。リクエスターの皆さんの忖度(そんたく)もあるのかもしれません。したがって、FM-N1のザ・ロネッツの音楽ファイルには「ビー・マイ・ベイビー」しかないという状態が続いていました。

 そこで、PMCのデータ・ベースを検索すると、シングル、アルバム、オムニバス盤合わせて21枚のレコードがありました。盤は違っても同じ曲がダブっているため、そう多いという訳ではありません。その中に「恋の雨音(原題・Walkin' In The Rain)」がありました。韻を踏んでいますが、オールディーズにありがちな邦題の付け方の様にも思えます。ザ・ウォーカー・ブラザーズもカバーしています。

 曲の出だしが、あのザ・カスケーズの「悲しき雨音」に負けず劣らず、雷鳴からです。歌の内容は、私には、男の子の理想像があるけれど現実には、まだ彼氏がいない。雨の中を歩けば濡れるように、いつか自然と彼に巡り合えるはず。出逢いを星に祈ろう、というものらしい(英語が不得手で断定できない)。雷鳴と言えば、激しく大地を揺るがすような金沢の冬空を想像してしまうが、そうか、「恋の雨音」は甘い胸の疼きの響きだったのか。(宮崎正倫)

PMCで見つけた〈2〉ヴェラ・リンの「ドーバーの白い壁」

2018年10月4日

ドーバー海峡を越えて飛来するもの

 歌姫と呼ばれる方は洋の東西を問わず、時代を問わず、分野を問わず多くいる。それこそ聴衆が自分の人生の襞(ひだ)深くにまで染み込んだ曲を歌ってくれた人が、その人にとっての歌姫なのだろう。金沢工大のPMC(ポピュラー・ミュージック・コレクション)は、全て寄贈によるレコード・コレクションなので、レコード盤そのものというより寄贈者の人生の喜怒哀楽を保管している、と言っても過言ではないのである。

 今日(10月4日木曜日)午前8時からの番組「黄金の喉は歌い継ぐ~FM-N1ゴールデン・スロート」で、ヴェラ・リンの「ドーバーの白い壁」が流れました。ヴェラ・リンとはイギリス・ロンドン生まれの歌手で、第2次世界大戦中にラジオ放送を通じて“イギリス軍兵士の恋人”と呼ばれ、兵士はもとより国民の全てに親しまれていた、ということです。

 題名のドーバーとは、イギリスとフランスの間に横たわるドーバー海峡のことで、海岸線に切り立った白い崖が代表的な風景でしょうか。大戦中はイギリスに対して海峡越しに、ドイツ軍による空襲、ロケット攻撃が激しさを極め、英国民は絶望の淵に立たされていたのです。それを支えたのが彼女の歌声だった、といいます。

 歌詞は「ドーバーの白い壁を越えて、幸せの青い鳥が飛んでくる…」というものですが、美しいバラードがイギリス国民の心に響いたのでしょう。この曲はアルバム「ヴェラ・リン イギリス第八軍のリリー・マルレーン」に収められています。1917年生まれの彼女は現在101歳。現役です。(宮崎正倫)

PMCで見つけた〈1〉ジミー・ディーンの「P.T.109のケネディ」

2018年10月3日

憶えていた米大統領の武勇伝

 10月2日、第4次安部改造内閣がスタートしました。新入閣が12人ということでしたが、評価する人達は、その立場立場で様々な分析をしております。いつもながら我田引水としかとれませんが、真の姿はこれから見えてくる、と信じています。政策運用が思うように進まなければ最後まで、正体を明かさずに終わることがあるかもしれません。

 安倍総理とアメリカのトランプ大統領では選挙の在り方が違います。衆議院選挙を経た議院内閣制という間接選挙と、有権者が直接、1票を行使する大統領選挙では権限の強さが違いますし、行使の方法も違います。ともあれ、日米両者が協力しながら安定した社会になることを願っています。

 私が米大統領で初めて知ったのはジョン・F・ケネディでした。大統領暗殺という悲劇の舞台に立ちましたが、これを除けば、一番印象に残っているのは1961年にアポロ計画を発表し、「10年以内に人間を月に送り、無事帰還させる」と言ったことです。冷戦の中、強い大統領を演じるケネディは米国民にとって、偉大な指導者であり英雄だったのでしょう。

 米大統領にとって不可欠な要素の一つに軍歴があるといいます。ケネディも第2次大戦中に海軍に入り、魚雷艇の艇長として、ソロモン諸島に配属されました。1943年、日本軍攻撃の為に出撃したケネディの魚雷艇は帝国海軍の駆逐艦と衝突し、沈没しました。ケネディは残った部下を励まして無人島に辿り着き、最後には救助されました。こんな物語が、日本の少年雑誌に掲載され、よく覚えていました。

 今年(平成30年)の6月頃だったか、金沢工大のポピュラー・ミュージック・コレクション(PMC)で1枚のレコードを見つけました。1962年に録音された「コロムビア・オール・スター・ヒット・パレード(1)~ポピュラー・シンガー編」というLPでした。12曲入りのオムニバス盤でしたが、3曲目にジミー・ディーンの「P.T.109のケネディ」がありました。歌手は知りませんでしたが、ひょっとしたらケネディの魚雷艇のことかと思い、ライナー・ノーツを取り出すと、将にそのものでした。出撃し、沈没し、救助された物語を歌にしていたのです。

 普段はあまり働かない頭ですが、記憶の片隅に残っていたことで老化現象もまだ少しはましか、と胸をなでおろした次第でした。(宮崎正倫)

末松廃寺・第1話「状況証拠ばかり」

(いしくれの・あらのにらむ・はくほうのとう)

石塊の荒野睨む白鳳の塔

加賀百万石の原風景・末松廃寺

 

末松廃寺・第1話「状況証拠ばかり」

 

 「6GSM」。この数字が何かご存知でしょうか。最近のネット社会に否応なく付き合わされていると何かのパスワードに見えますが、もちろん違います。これは野々市市末松2丁目に在る国史跡「末松廃寺跡」に付けられた固有記号です。同市が勝手につけたのではなく奈良国立文化財研究所の遺跡記号表示表に基づいています。

6」は奈良時代を、「G」は遺跡の種類と所在地を指しますから、中部地方の寺院であることを表します。「S」と「M」は末松の頭文字を採ったものです。ですから、国内に多々ある膨大な遺跡の中にあっても、ただ一つ末松廃寺跡を指しているのです。

 

調査報告書が発刊されるまで41年◇

 

 末松廃寺跡は元が水田でした。江戸時代から唐戸石(からといし)と呼ばれる巨石が在り、寺院の遺跡ではないかと口の端に上っていました。昭和12年に行われた最初の調査では金堂跡の石敷き、塔跡の根石群が確認され、次いで同38年の予備調査を経て、同41年に第1次、翌42年に第2次の国の手による本格的な調査が行われました。これら一連の調査(以降は昭和の調査)の成果は、41年間の時を費やして平成21年、ようやく調査報告書としてまとめ上げられました。

 最近になり、廃寺跡を史跡公園に整備する構想が浮上してきました。このため、平成26年からの4カ年計画で再調査(以降は平成の調査)を行い、今年度末までに報告書をまとめることになっています。

 

◇少なかった考古学的資料◇

 

 それでは何故、昭和の発掘から報告書が刊行されるまでに多くの時間を要したのでしょうか。そこには、地方の古代遺跡に付きまとう宿命のような事情があったからです。

この地は石川県の穀倉地帯として長年、水田が営まれ、地中深くまで繰り返し、繰り返して耕作されてきたため、地中の遺跡が破壊され、発掘による考古学的資料が少ない、という困難さがありました。そのうえ、中央と比較して地方の歴史学的な文献資料は現代まで残り難いのが常で、中央などに末松廃寺に関する記載でもあれば事実を裏打ちしてくれる手掛かりになるのですが、多くありませんでした。

加えて当時としては、時代の先端技術の粋を集めた古代寺院であるからには、遺跡のすぐ近くに権力を持った地方の大豪族が居て当たり前なのですが、末松廃寺の場合は、かなり離れた河北潟周辺まで行かなければ越国(こしのくに)の大豪族であった道君に行きつきません。扇状地の真ん中に、空から舞い降りたようにポツンと建つ同廃寺の特殊性がありました。直接的な証拠が少なく状況証拠ばかりでは廃寺の由来も分からず、誰が言うともなく「謎の大寺」と称されるようになりました。

 

◇最大の手掛かりは斉明6年(660)◇

 


廃寺西側の金堂基壇跡から東側の塔基壇跡を臨む

 状況証拠の中でも、昭和の発掘で最大の成果は、造立年が斉明6年(660)を上限とし、それより古くは遡らない、という事実でしょう。西に金堂、東に塔を配置した「法起寺(ほうきじ)式」の伽藍配置であることも分かりました。創建時の伽藍は一度倒壊し、8世紀の初め、奈良時代(710年遷都)に再建されていることも分かりました。

 ただ、廃寺跡の周辺に大豪族の痕跡がなかったことから、誰が発願して建立されたのか、目的は何だったのかについては、昭和の調査当時には確定することが出来ませんでした。

ところが、野々市市は僥倖(ぎょうこう)に恵まれました。農村地帯に都市化の波が押し寄せ、同市内のいたるところで開発が始まったのです。開発に当たっては、埋蔵文化財の調査のための発掘が義務付けられるようになっていました。同市全域から、と言っても過言ではないくらいの遺跡が出土してきました。その中に、廃寺が建立された時期の近いもの、地理的に関連性があるものが拾い上げられ、国の調査報告書へと集約されていったのです。

 

◇天智朝の意志で手取扇状地を大開発◇

 

状況証拠から導き出された結論は「天智朝」が「国家的事業」として「手取扇状地開発」に乗り出し、その象徴となる「白鳳の大寺」を建てた、というものでした。末松から遠く離れた大和(奈良県)に成立していた政権が造立の主体であった、とは推理小説の謎を解いていくような展開でした。地方の大豪族では出る幕がないほどの稀有壮大な規模でした。

それでもまだ、未解明な部分が多く残る廃寺跡です。史跡公園の整備のため平成の調査が行われることになりました。大きな目的は▽廃寺の中心伽藍の範囲を確定する▽昭和の調査で不十分な資料を補足する-などが挙げられました。結果としては、新たな遺構の発見や、昭和の調査で立てられた仮説を否定する知見も得られ、真実の姿に迫る大きな成果があったと言えます。

 平成の調査の正式な報告書は30年度末まで待たなくてはなりません。が、地元に本社を置くコミュニティ放送局として、これまでも大寺の謎に迫る努力をしてきましたが改めて、謎の大寺の誕生から途絶までの400年間にわたる素顔に迫ってみたいと思います。

考古学、歴史学については全くの素人であります。余計な口を挟むな、というお叱りの声が聞こえてくるような気もしますが、住民の関心も高く、地域に密着した情報を伝えるコミュニティ放送局でありたい、という責務と捉えています。平成が終わって新しい時代を迎えますが、今後も更なる解明が続くことを期待しています。

これまでも機会があるごとに特別番組を編成して放送してきましたが、音声に頼るラジオでは説明の限界性と感じています。ここで一度、文字による伝達を試みることにしました。題して「石塊(いしくれ)の荒野(あらの)睨(にら)む白鳳の塔~加賀百万石の原風景・末松廃寺」を始めます。(宮崎正倫)

次回は10月8日「鉄製農具の一撃」です。

末松廃寺が故郷に残したもの

2018年10月2日

 野々市市末松2丁目に、国史跡「末松廃寺跡」がある。白鳳の古代仏教寺院である。江戸時代末期から、寺院跡であることはよく知られていたが、その実態が詳らかに分からず、時によって人は「謎の大寺」と呼んできた。
 しかし最近になって、実像に近い輪郭が見え始めてきた。昭和の発掘調査(昭和41年、42年)に続いて、平成の発掘調査(平成27~30年)が成果を上げてきたからである。実は、野々市市では、調査報告書をまとめる時期にきているが、今日(10月2日)現在、追加の発掘作業が続いている。
 FM-N1では、放送局のホームページを新しく更新したのを機に、末松廃寺の物語を、ブログで振り返ってみることにした。題して「石塊(いしくれ)の荒野(あらの)睨(にら)む白鳳の塔~加賀百万石の原風景・末松廃寺」。
 霊峰白山から流れ出した激流の手取川が刻んだものは扇状地だけではなく、日本成立期の国史に深く刻んだ歴史でもありました。
 明日(10月3日)から掲載を始めます。

ブログを再開

2018年10月1日

 エフエム・えぬ・わんのホームページが新しくなりました。これに合わせてブログのページを再開いたします。
 新企画として「石塊(いしくれ)の荒野(あらの)睨(にら)む白鳳の塔~加賀百万石の原風景・末松廃寺」を始めます。10月3日に「末松廃寺・第1話 状況証拠ばかり」を掲載します。