2023年特集「大地有情、風に事情」第11回 無情の七重塔 6月12日放送
2023年6月12日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第11回(令和5年6月12日放送) 「無情の七重塔」
ユネスコによる白山手取川ジオパークの世界遺産認定は、とりもなおさず扇状地流域の開拓に難題を突き付けてきた故郷(ふるさと)の苦闘の歴史も認定した、と言ってもいいのではないでしょうか。野々市市の末松廃寺建立をシンボルとして、律令政治が確立する直前に中央集権国家の意思を持って、荒涼とした扇状地の耕地化を成し遂げた記念碑的事業でもあったと思います。
1966年/昭和41年から、国の手によって開始された末松廃寺の発掘調査は、廃寺の全貌を知るために現在も続けられています。660年/斉明6年から建立が始まった末松廃寺は7世紀の第3四半・675年頃までには完成して、8世紀の初めには一旦、廃絶しています。その後、8世紀の中頃には再建された、と見られています。
仏教寺院の中枢伽藍は本尊を安置する金堂と、お釈迦様の骨を納める塔とされています。末松廃寺は西に金堂、東に塔を横一直線に並べた伽藍様式から法起寺(ほうきじ)式の寺院とされていますが、その中で、最大の謎とされているのが仏塔の問題ではないでしょうか。
2009年/平成21年に発行された文化庁の発掘調査報告書「史跡 末松廃寺跡」によると、塔を乗せる基壇の大きさは一辺の長さが10.8mあります。塔の部分は方三間と言いますから、一辺の柱の数は4本で、柱の間が3カ所あるということです。柱間の広さは3.6mとなっています。単純に数字を当てはめれば七重塔の威容を示していますし、基壇も塔を乗せるには十分な大きさである、としています。予想を超える余りの大きさに、西に隣接する金堂に接近しすぎる配置となって、伽藍全体では手狭な印象を与えているのです。
ここで、最大の謎が生まれます。古代の寺院における塔の建築方法は、まず塔の中心を貫く心柱(しんばしら)を建て、最上部に法輪と金属製の台である露盤を置きます。次に最上階の屋根から順次、心柱に取り付けて、吊り下げてゆくのです。言い換えれば、心柱一本で七重の屋根のバランスを取りながら支える構造になっています。
高くなればなるほど、当然のように心柱はふらついてきます。このふらつきを抑えるために各屋根の上に瓦を葺いて重量を重くし、下へ抑え付ける力を増すことで安定させているのです。塔の外壁を取り巻く柱は補助的な役目でしかありません。
末松廃寺の場合は、塔の周辺からは全くと言っていいほど瓦が出土していません。西隣の金堂周辺からは大量の瓦が発掘されているのとは対照的です。瓦がなければ七重塔は立ちません。綺麗好きな誰かが居て、周辺の瓦を片付けたのでしょうか。
さらにもう一点、瓦に続く難問です。塔の屋根を吊り下げる心柱ですが、この柱を支えるための土台、心礎(しんそ)と呼ばれる石を塔基壇に据えます。末松廃寺の場合は手取川の転石である安山岩を使っていますが、心礎の上部を心柱の太さに合わせて穴を穿(うが)っています。穴の直径は58㎝でした。全国の塔を調査した結果から導き出されたデータは、直径の約40倍が塔の高さと言っています。つまり末松廃寺の塔の高さは23.2mにしかならず、これは三重塔の高さです。三重塔であれば瓦を葺かずに建設することは可能ですが、七重塔を支えるには細すぎます。ちなみに、現存する三重塔の中で最古のものは、末松廃寺の伽藍配置様式モデルとなっている法起寺の三重塔で、706年/慶雲3年に完成し、高さは約24mとなっています。
また、塔の北東側から幢竿支柱(どうかん・しちゅう)の跡が検出されています。幢(どう)とは仏事に使う旗で、竿(かん)とは装飾した旗を下げる竿(さお)のことです。この旗竿を立てる時には竿(さお)の左右から支柱を添えますが、この支柱の穴が見つかったのです。仏事が未完成の寺院で執り行われる、とは考えられませんので、末松廃寺は完成していたのではないか、と思われます。つまり、中心伽藍である塔も建立されていたのです。
ここからは、FM-N1末松廃寺取材チームの推理になりますが、塔基壇と塔の底部は七重塔の規模で、高さが三重塔の姿ではなかったか、ということです。三重塔でありながら屋根は横に大きく張り出した姿です。安定感があるというか、縦方向に押しつぶされたというか、独特な形を想像するのです。
当初は七重塔を企てながら、結果としては三重塔にならざるを得なかった、と思うのです。では何故なのか。下手な推理が続きます。
末松廃寺の建立は西暦660年から始まり、完成が675年頃とされています。七重塔の謎を解く鍵は完成直前の672年にあります。古代における最大の内乱と言われる壬申(じんしん)の乱が起きています。時の政権は奇しくも、手取扇状地の開墾に総力を挙げていた天智朝でしたが、天智天皇の長子である第39代弘文天皇と天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのみこ)が戦い、勝利した大海人皇子が第40代天武天皇となります。
673年/天武2年には、飛鳥の川原寺で一切経、つまり全仏典の写経事業を起こしています。各地の豪族に氏寺造営を命じています。
天智朝との関係が深く、手取扇状地開墾に加わった江沼、加賀郡の豪族たちも好むと好まざるとを問わず、壬申の乱によって天武天皇の敵方となってしまった訳です。恭順の意志を示すため国家鎮護をうたう氏寺の造営に従ったとしても責められることはありません。
特に江沼郡の豪族たちに注目してみましょう。江沼郡の江沼平野は柴山潟の南に広がる地域ですが、末松廃寺と同時期の白鳳寺院が三カ寺集中しています。末松廃寺と同様の瓦を使った忌浪(いんなみ)廃寺、平野の南部に位置する津波倉(つばくら)廃寺、大聖寺川東岸の保賀(ほうが)廃寺です。
末松廃寺は、周辺に豪族の住居跡を伴わずに、扇状地開拓に特化した寺院の様な印象を与えますが、江沼の白鳳寺院は三カ所とも各豪族の拠点周辺にあり、いかにも氏寺との印象を与えています。これが天武天皇の仏教普及の政策と一致するものなら、それまで財部造(たからのみやつこ)から末松廃寺に供給されていた瓦の提供は、寺院完成を目前に、途絶えることも止むを得ません。
瓦が無ければ七重塔は建たず、三重塔にならざるを得ないのです。手取扇状地には飛鳥から無情の風が渡って来たのです。
写真/七重塔の末松廃寺想像図。ひところは野々市市文化会館フォルテなどにこの写真が展示されていました。柱を支える塔心礎の直径からすると、高さが23メートルほどの三重塔になります。
2023年特集「大地有情、風に事情」第10回 開発の決意 6月5日放送
2023年6月5日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第10回(令和5年6月5日放送) 「開発の決意」
先月5月24日、ユネスコの執行委員会が開催され、白山市から申請されていた「白山手取川ジオパーク」が世界ジオパークとして登録されました。テーマが「水の旅」「石の旅」とロマンチックな響きがありますが、その実、自然の猛威にさらされてきた人々の営みの苦労でもありました。
この加賀立国1200年と手取川ジオパークに寄せて~というメモを書いている私の亡くなった母から、昔話を聞いたことがあります。母は旧松任市生まれの松任育ちでしたが、「小学生の頃に手取川が大氾濫して、学校の屋上に上がってみたら、目の前一面に石ころだらけの原っぱが広がっていた」というものでした。年齢などから推測すると、それは昭和9年7月11日未明に起こった手取川大水害の話のようでした。
いくら大洪水と言っても、松任あたりまで被害が及ぶというのは大袈裟ではないかと思って話を聞いていた覚えがあります。
しかし、国土交通省金沢河川国道事務所のホームページを開くと、記載されているデータからも大袈裟な話ではないことが実感できました。例年にない大量の雪解け水と400㎜を超える豪雨が重なり、発生した崩壊土砂が下流河川へ土石流となって流れ下った。上流から河口までの流域のほとんど全域にわたって被害が発生した、と紹介されていました。
氾濫地域は白山市・松任の南側から小松市の梯川にまで広がっています。手取川の上流部分では河床が最大で12m上昇したとも記載されています。何しろ白山市白峰にある百万貫の岩が上流の宮谷川から転石となって流れ出した程なのです。
こうした場合の百万貫というのは概数であって、人を驚かすためか印象付けるため実際よりは大きめに言われる場合が多いのですが、実際の重量は129万貫・約4800㌧あり、高さは約16m、周囲は約52mもあって、さすがに世界ジオパーク、と変に感心したりしました。
この手取扇状地に、最初の治水事業を施し、耕作地に開発しようとしたのが7世紀中頃の斉明天皇・天智天皇、いわゆる天智朝の頃でした。この事業には二つの側面がありました。一つは、660年に建立が始まった末松廃寺の建築事業であり、もう一つは、地下水位が低くて乾燥しがちな扇状地に灌漑施設を巡らす土木事業の面です。
飛鳥・白鳳時代ではどちらか一つの事業をとっても大事業なのですが、文化の先進地である都を遠く離れた地方において、寺院建立、扇状地の灌漑事業を並行して実施するには困難が予想されます。当時の先端技術が地方に集積されているわけでもなければ、二つの大事業を推進するための人出、人口が多数有り余っていることも想像できません。
まして、開発地である手取川北側の扇状地が在地豪族・道君の支配も徹底せずに権力の空白地域であったと思われます。
2009年/平成21年に発刊された文化庁の発掘調査報告書「史跡 末松廃寺跡」によれば、江沼郡など隣接地域からの移民のほか、渡来系を含む遠方からの移民を主体とする開拓村がつくられ、依存した比率が高いと記されています。
渡来系の移民とは、当時の最先端を行く灌漑技術を持った秦(はた)氏などを含む琵琶湖周辺からの移民を指しています。特に灌漑技術を伴う開拓の本丸と言える旧石川郡内の扇状地に痕跡が多く残るとされています。
また前回の「不思議の瓦」でお話したように寺院建立の建築技術や製鉄技術を持つと思われる移民も渡来系の人達であって、手取扇状地の開拓に先立って琵琶湖周辺から江沼郡の三湖台(小松市木場潟の西側)に移住してきています。そして末松廃寺の周辺で発掘される須恵器などの生産地が加南地方つまり、江沼、能美郡が圧倒的に多いことは、多くの開拓移民が江沼、能美郡から来ていることの証明になります。
肝心の、地理的に近い道君の勢力圏からは、犀川河口付近の古代港湾都市辺りからは少ない数の移民でしかなかった、という表われではないでしょうか。
こうした状況から、手取扇状地の開拓は在地豪族によるものではなく、加賀の国の立国前、越国(こしのくに)石川郡を対象にして、天智朝が全力を傾けて行った国家的大事業であったといえます。新しい政治形態である天皇中心とした政治、天皇親政の遂行を保証する乾坤一擲の事業であったと言えます。
この頃、646年の大化の改新による詔(みことのり)、これは後年になって編纂されたという説が有力ですが、その第3条で戸籍作成が命じられています。670年/天智9年には、日本最初の戸籍となる「庚午年籍(こうご・ねんじゃく)」が完成していますから、手取扇状地の大規模開発の移民管理を徹底するため、律令的集落の単位である五十戸を一里(いちり)あるいは一郷(いちごう)とする体制をとっていたのかもしれません。
私達のふるさと・手取扇状地は既に律令制の集落として運用されていたのかもしれません。そして7世紀後半から8世紀初めにかけて人口大爆発の時期を迎えるのです。
写真/百万貫の岩(白山市文化課提供)。左下に写る人の小ささから岩の巨大さがわかります。白山市白峰地区にあり、重さは約4800トン。手取川が氾濫して暴れ川となる、そのすさまじいエネルギーを感じます。
ジェームス・テイラーのPMCでみつけた!The Sugarhill Gang「Rapper’s Delight」
2023年6月1日
The Sugarhill Gang 「Rapper’s Delight(ラッパーズ・ディライト)」(1979年)
年代後半にディスコ音楽への反対ムーブメントがピークになりましたが、ディスコの影響が続けていました。特に一つのバンド、シック、はメンバーが知らない方法でも他のアーティストへ大きな影響を与えました。
年月日にシックは「グッド・タイムズ」のシングルをリリースしました。「グッド・タイムズ」は目立つなベースのメロディーがありました。ヶ月後、違うアーティストが違う曲で全く同じベースのメロディーを使ってシングルを出しました。それはシュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」でした。
「ラッパーズ・ディライト」の面白いポイントは、ディスコもロック曲ではなくて、新しいジャンルのヒップホップ曲でした。ヒップホップはニューヨークの道で若い人たちが自分でコンポを持って踊ったり歌ったたりしたで誕生しました。本当の話かどうか分からないですが、年でチックがニューヨークでライブを演奏したとき、「グッド・タイムズ」のイントロの部分でシュガーヒル・ギャングのメンバが勝手に壇上にあがってラップをしましたというハプニングがあったらしいです。数週間後、シックのメンバーの一人のナイル・ロジャースがクラブで同じベースのメロディーを使ってちがう曲を聞きました。その曲は「ラッパーズ・ディライト」でした。
現在こういう盗用のやり方は「サンプリング」と呼ばれています。ヒップホップやラップには大切なことですが、あの時には普通ではなかったから、シックのメンバーはシュガーヒル・ギャングのメンバーを訴えました。その結果でシックのメンバーも「ラッパーズ・ディライト」の作曲者になりました。
「ラッパーズ・ディライト」は世界初のヒップホップレコードではなかったけど、初めてメインストリームで注目されたヒップホップ曲でした。今、シックはライブで「グッド・タイムズ」を演奏するとき、「ラッパーズ・ディライト」の歌詞も使います。これで「グッド・タイムズ」と「ラッパーズ・ディライト」はお互いに影響を受けました。
KITPMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。
全て寄贈されたレコードで構成され、27万枚を所蔵している。
ジェームス・テイラーは毎月第火曜日夕方時分~
「課外授業の進め:ロスト・イン・ミュージック」のパーソナリティーです。
The Sugarhill Gang – ‘Rapper’s Delight’ (1979)
Although the backlash against disco music reached its peak in the late 1970s, the influence of disco continued. One band in particular, Chic, proved to be hugely influential not just through the members’ work with other artists, but even without their knowledge.
Chic released the single ‘Good Times’, with its distinctive bassline, on 4th June, 1979. Two months later, another single with the exact same bassline was released. The song was called ‘Rapper’s Delight’, and it was by the Sugarhill Gang.
What’s interesting about ‘Rapper’s Delight’ is that it was not a disco song or a rock song, but a new genre: hip hop. Hip hop had grown organically on the streets of New York, as young people would gather and dance to music played on stereos. There’s a story that when Chic played ‘Good Times’ at a concert in New York in 1979, members of the Sugarhill Gang entered the stage and began freestyling lyrics over the intro. Shortly afterwards, Chic member Nile Rodgers heard the same bassline on a different record at a nightclub, which turned out to be ‘Rapper’s Delight’.
This kind of appropriation is now known as sampling, and is an integral part of hip hop and rap, another genre that ‘Rapper’s Delight’ – and by extension, ‘Good Times’ – helped to kick start. At the time, Chic sued the Sugarhill Gang, and as a result they were named as co-writers on ‘Rapper’s Delight’.
‘Rapper’s Delight’ was not the first hip hop record, but it was the first to go mainstream. Nowadays, Chic actually incorporate lyrics from ‘Rapper’s Delight’ into live performances of ‘Good Times’. This is an interesting twist that shows how ‘Good Times’ influenced, and then was influenced by, ‘Rapper’s Delight’.
* The Popular Music Collection (PMC) is located in Kanazawa Institute of Technology’s Library Center, and is the home of 270,000 donated and catalogued LPs, which are available for listening.
James Taylor
James Taylor presents ‘Lost in Music’ at 5.30 PM on the third Tuesday of every month.
2023年特集「大地有情、風に事情」第9回 不思議の瓦 5月29日放送
2023年5月29日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第9回(令和5年5月29日放送) 「不思議の瓦」
1965年/昭和40年から始まった野々市市末松の末松廃寺発掘調査は、驚くべき結果の連続でした。一つは、当初から予想されていた通り仏教寺院の遺跡には違いなかったのですが、出土した須恵器の年代から、建立時期が660年、つまり白鳳時代に当たることでした。日本最古の寺院は、奈良県明日香の飛鳥寺とされており、時の権力者であり、仏教を受け入れた蘇我氏の氏寺として建立されました。しかし、蘇我本宗家が滅ぼされた645年の乙巳(いっし)の変ごろには、国家の寺としての官寺の扱いを受けています。
全国各地の豪族に対して、仏教を広めるため氏寺を建立するように詔(みことのり)が発せられたのが673年/天武2年ですから、末松廃寺は詔に十年以上も先行することになります。北陸では最古級の仏教寺院になりますが、一体、この寺は誰が立てたのか? そして氏寺だったのか官寺(かんじ)だったのか、大きな謎が残りました。
末松廃寺が仏教寺院であると分かったのは、中心伽藍である金堂跡から出土した瓦の文様によるものです。建造物の軒先を飾る軒丸瓦(のきまるがわら)の文様が素弁六葉蓮華紋(そべん・ろくよう・れんげもん)だったからです。素弁の数は違っても蓮華の花を模したデザインは、朝鮮半島の三国時代に起源をもつことが分かっており、先に紹介した飛鳥寺でも軒丸瓦の意匠として用いられています。
末松廃寺と同様の素弁六葉蓮華紋の軒丸瓦を使っている寺院が奈良県大和郡山市にあります。大和の豪族であった額田部(ぬかたべ)氏の氏寺で額安寺(かくあんじ)と言います。調査・研究によると創建時の瓦ということで、7世紀第2四半期とみなされています。末松廃寺の少し前ということになり、同廃寺の創建660年とも符合します。
もう一つの驚きは、末松廃寺の瓦が焼かれた登り窯が手取川対岸の旧辰口町(現能美市)湯屋(ゆのや)で発見されたことです。メモを書いている私も、その窯跡のうちの発掘現場1か所を見学したことがありますが、窯の内部には素弁六葉蓮華紋の軒丸瓦や平瓦などが混じって出土していました。しかし窯の規模は小さく、現地説明に当たっていた能美市の文化財担当職員によると、末松廃寺金堂の瓦は瓦でも、補修用の瓦を焼いた窯であるとの見解でした。金堂を葺いた大量の瓦を焼いた本窯は、まだ未調査となっている辰口古窯群だろう、と話していました。
さらに気になる点を挙げれば、補修用の軒丸瓦と同じ木型から生産されたと思われる瓦が加賀市のJR加賀温泉駅に近い弓波遺跡から出土していることです。能美市の湯屋も加賀市の弓波遺跡も白鳳時代でいえば、財部造(たからのみやつこ)の勢力圏です。
加賀郡の郡司である道君の勢力圏で仏教寺院を建てるなら何故、加賀郡内で瓦を調達しなかったのか。道君の本貫地である金沢市森本地区には観法寺窯があり、河北潟の水運を利用して野々市まで大量の瓦を運搬することも可能だったはずです。
この疑問を解くために大胆な仮説を立ててみることにしました。実は、古代における石川県で、最初に創建された仏教寺院は道君の勢力圏である加賀郡の末松廃寺ではなく、財部造(たからのみやつこ)の勢力圏にあった能美郡内だったのではないか、という事です。まだ、知られざる古代仏教寺院が眠っているのではないか、という事です。
前にもお話しましたが、財部造(たからのみやつこ)という地方豪族は、皇族であった宝皇女(たからのひめみこ)、つまり第35代皇極天皇(重祚して第37代斉明天皇)に奉仕する一族として、朝廷から定められていた可能性があります。
皇極天皇とは、第33代推古天皇のあとを受け、非蘇我系の天皇となった第34代舒明(じょめい)天皇の皇后です。舒明天皇は日本で最初の官寺である百済大寺(おおでら)を創建しました。一旦、焼失しますが642年/皇極元年に、皇極天皇が再建に乗り出します。日本書紀によると、再建には近江と越の国から徴発した公民を使役した、と記されています。
蘇我氏を代表とする大豪族による政治体制から天皇親政の政治体制に大転換を図ろうとした天智朝が、新たな財政基盤を、自らの支配下にある地方に求めるのは当然の帰結かもしれません。それが能美郡の財部造であった可能性は高いのではないでしょうか。百済大寺再建のために徴発された越の国の公民の中に能美郡の出身者がいたかもしれません。
そうだとするならば、末松廃寺に先行して、官寺の性格が色濃い仏教寺院が存在しても不思議ではないでしょう。
もしも、この仮定が真実であったとしたら未発見の寺院も、末松廃寺も地方豪族の氏寺など私寺ではなく、実質的に官立の寺院、官寺(かんじ)と言う意味の原義である「大寺(おおでら)」という事になります。まさに「白鳳の大寺」なのです。
古いデザインの素弁六葉蓮華紋の軒丸瓦が謎解きをしてくれるよう祈っています。
写真/末松廃寺の軒丸瓦。素弁六葉蓮華紋という珍しい意匠で、こうした蓮華のデザインは朝鮮半島の三国時代に起源があります。
2023年特集「大地有情、風に事情」第8回 未(いま)だ大寺見えず 5月22日放送
2023年5月27日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第8回(令和5年5月22日放送) 「未(いま)だ大寺見えず」
823年/弘仁(こうじん)14年、加賀立国の直接の契機は、これまでも説明してきたように、当時の越前国司・紀末成(きのすえなり)が、配下の加賀郡司である道公(みちのきみ)が横暴で手に負えない、と朝廷に対して越前国からの分離・独立を上奏した事でした。
この立国からおよそ170年前のことになります。地方豪族・道君の一族から、越道君伊羅都売(こしのみちのきみの・いらつめ)が天智朝の後宮に入るため旅立ちました。特に文字資料が残されているわけではありませんので、ここからの件(くだり)は想像になりますが、伊羅都売は河北潟の一角、犀川河口にあった古代港湾都市の港から、船に乗って奈良・飛鳥の都に向かったのではないでしょうか。
船は、霊峰・白山を望みながら手取川の河口を過ぎて行きます。今ならば、白山手取川ジオパークとして「水の旅」「石の旅」をテーマに、ユネスコの世界ジオパーク認定を待つばかりなのですが、当時の伊羅都売の目には荒々しい水のうねりと、石くれだらけの河原しか映らなかったでしょう。
10年ほど後には天智朝の国家事業として、道君と、手取川対岸に勢力を張る財部造(たからのみやつこ)を協力させて手取扇状地の開墾に乗り出すとは想像もできなかったのではないでしょうか。海岸から直線距離で6、7キロ離れた野々市市末松には、開発のシンボルとなる大寺・末松廃寺は未(いま)だ建立の着手を見てはいませんでした。
手取川を過ぎた伊羅都売は越前国の敦賀に至って下船、古代北陸道(ほくろくどう)を進んで今立の山を越え、今はまだ設置前の愛発関(あらちのせき)から畿内に入った、と想像できます。愛発関とは、東海道は伊勢の国の鈴鹿の関、東山道は美濃の国の不破の関と並ぶ三大関所であり、奈良時代になって設置されました。
畿内に入った後は琵琶湖の水運を利用、大津からは山城の国の南部、木津川から奈良盆地に入って飛鳥に至ったのではないでしょうか。
もう一つ可能性があるとすれば、伊羅都売は敦賀で上陸せず、若狭の国まで船旅を続け、そこから琵琶湖に抜けたルートもあるかもしれません。
ともかく、越道君伊羅都売が後宮入りを果たした後、660年/斉明天皇6年ごろに、現在の野々市市末松で白鳳の大寺である末松廃寺の建立が始まるのです。660年といえば、飛鳥板葺きの宮で、後に天智(てんじ)天皇となる中大兄皇子(なかのおおえのみこ)らが乙巳(いっし)の変を起こして蘇我本宗家を滅ぼし、天皇親政の政治体制をとってからまだ15年しかたっていない頃です。その間、第36代孝徳天皇による難波宮(きゅう)への遷都、655年には再び都を飛鳥に戻すなど、新政治体制を安定させるまでの激しい動きがありました。
また660年の朝鮮半島では、日本と友好関係にあった百済が、隣接する新羅と中国の唐との連合軍に破れて滅亡した年でもあります。天智天皇の時代となった663年には、百済の復興・再建を狙った軍を派遣しますが白村江(はくすきのえ)の戦いで、一敗地に塗(まみ)れてしまいます。668年になると、高句麗がやはり新羅・唐の連合軍に破れて滅び、半島の三国時代は終わりを告げて新羅によって統一されるなど国際的にも大変動が起きました。
天智朝にとっては、権威と権力の足固めとなる事業が手取扇状地の開墾事業だったのです。しかし、白山手取川ジオパークの原型ともいえる荒々しさを留める河原を手なずけるには一筋縄ではいかないことは分かっていました。当時の国内にあった最先端技術を動員するしか方法はありません。地方豪族の手におえる話ではありません。
そして最先端技術を象徴するのが仏教寺院だったのです。開墾事業だけではなく並行して白鳳の大寺を建立することが朝廷の権威を示して、豪族を恭順させていくことにつながるのです。
しかし、時代が下るとともに壮大な開墾の事績は人々の脳裏から失われて行きました。再び脚光を浴びるのは1965年/昭和40年のことです。野々市市末松で、地の底から湧き上がってきたのは舟木一夫の「高校三年生」の歌声でした。2年前に発売され、大ヒットしていた歌謡曲です。地元のボランティアをはじめ、遺跡の発掘作業で地面を掘り進めていた人達が誰からともなく歌い始めたのです。発掘に携わった考古学の先達からお聞きした話です。つられてニッコリと頬を崩したことを思い出しました。
寺院跡であるとは分かっていましたが、まだ見ぬ白鳳の大寺が埋まっているとは知る由もない時です。
写真/白鳳の大寺・末松廃寺。現在は塔心礎と金堂の跡を残すのみですが、発掘調査が今も続けられ、新たに遺物遺構などが発見されています。
2023年特集「大地有情、風に事情」第7回 運命の二豪族 5月15日放送
2023年5月26日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第7回(令和5年5月15日放送) 「運命の二豪族」
突然ですが、あなたはベートーベンの交響曲第5番「運命」の出だしを知っていますか。ジャジャジャジャーンという、あの音です。通説ではベートーベンが「このように運命は扉をたたく」と言ったという事ですが、別の説もあるそうです。
歌謡曲で言えば、1951年/昭和26年に発売された菅原都々子の「憧れは馬車に乗って」を思い出します。いささか古くなって恐縮ですが歌詞はこのようです。「春の馬車が来る/ 淡い夢をのせて/花のかおる道を/はるばると/おどる胸を寄せて/行こう山のかなた/わたしのあなた/あなたのわたし…」と続いてゆきます。
予期せぬ運命とはどのような形をとって人々の前に姿を見せるのかは、当事者にとっては想像もつかないのは当たり前のことでしょう。古(いにしえ)のふるさと、暴れ川である手取川がちょっとやそっとで人々を近づけないように猛威を振るい、川の左右両岸にいた古代豪族は扇状地を前に、為す術もなく頭を悩ませていた頃、その頭上遥かには、奈良・飛鳥から運命的な天皇親政の風が吹いているとは、知る由もありませんでした。
運命が先に訪れたのは、左岸に本拠地を構えていた野身氏でした。同じ江沼郡にありながら、地理的にも都に近い江沼臣(えぬのおみ)は、飛鳥で最大の権力を振るっていた大豪族の蘇我氏を先祖に持つ、という系図を主張していました。言い換えれば、ここまでが蘇我氏の勢力圏にあり、隣接する野身氏までは影響力が及んでいなかった、とも考えられます。
それでは、と言うと、野身氏は皇族の一員であった宝皇女(たからのひめみこ)に奉仕する豪族として財部造(たからのみやつこ)と名乗っていました。第30代敏達(びたつ)天皇のひ孫に当たり、蘇我氏全盛の時期にあって蘇我氏の血筋を引かない皇族として知られていました。後に第35代皇極天皇、重祚(ちょうそ)して二度目の第37代斉明(さいめい)天皇となる方です。
もう一人の豪族は手取川の右岸、河北潟を中心とした古代港湾都市に依って勢力を養っていた道君(みちのきみ)です。何よりも重要なのは、道君の一族の娘である越道君伊羅都売(こしの・みちのきみの・いらつめ)が皇極天皇の皇子(みこ)である中大兄皇子(なかのおおえのみこ)、つまり第38代天智(てんじ)天皇の後宮に入り、志貴皇子(しきのみこ)をもうけた事でしょう。つまり、道君は皇室における外戚の地位を得たことになるのです。
道君が国史の上に登場したのが欽明31年/西暦570年。高句麗の使節に対して「自分がこの国の王である」と偽った詐称事件を起こしてヤマト政権に服属してから80年程で皇室の外戚にまで上り詰めるとは、運命のいたずら、という他にはないのかもしれません。
宝皇女(たからのひめみこ)であった皇極天皇と中大兄皇子は645年、乙巳(いっし)の変によって蘇我蝦夷(えみし)、当時の大臣(おおおみ)であった入鹿(いるか)の親子を討って天皇を中心とした政治体制を築きました。朝鮮半島では唐と新羅の連合軍に滅ぼされた百済(くだら)の国を回復するために663年/天智2年、日本と百済遺民の連合軍は朝鮮半島に出兵しましたが白村江(はくすきのえ)の戦いで敗れてしまいます。
こうした内外情勢の中、斉明天皇と天智天皇の二代に渡る治世、これを便宜的に天智朝とするならば、天智朝はまだ、飛鳥の大豪族に抑えられていない地方豪族と手を結んで勢力拡大を図ったのではないでしょうか。
そうした一面がのぞくのが天智天皇の皇后、妃(ひ)、皇子(みこ)、皇女(ひめみこ)の顔触れです。皇后の倭姫王(やまとひめの・おおきみ)は皇族ですが子供がいません。有名な皇女であり後に持統天皇となる娘らの多くは母が蘇我一族の出身です。長男である大友皇子(おおとものみこ)は第39代弘文天皇となりますが母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)で、伊賀郡の地方豪族の娘です。
また、第七皇子にあたる志貴皇子(しきのみこ)の母は越道君伊羅都売(こしのみちのきみの・いらつめ)と系図に記されていますが、何を隠そう、私達のふるさとである加賀郡の郡司・道君の一族の娘です。弘文天皇の母と同様に、采女(うねめ)として天智朝の後宮に入ったものと思われます。
律令体制が整う前の采女というのは、食事も含めて天皇・皇后の身辺の世話をするものであって、子を生(な)すこともありました。越道君伊羅都売は皇后、妃(ひ)に次ぐ第三番目の地位にあたる夫人(ぶにん)とされていたようです。
また、采女の性格としては地方豪族が朝廷に服属する証でもあり、人質的な側面も持ち合わせていたようです。
そしていよいよ、天智朝と深いかかわりを持つ道君と財部造(たからのみやつこ)は協力して、暴れ川であった手取川の耕作地開拓に乗り出してゆくのです。
写真/秋常山古墳(能美市)は全長140メートル、北陸最大級の前方後円墳です。埋葬されているのは、手取川左岸を代表する古代豪族・財部造(たからべのみやつこ)が有力視されています。
2023年特集「大地有情、風に事情」第6回 一衣帯水の手取川 5月8日放送
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第6回(令和5年5月8日放送) 「一衣帯水の手取川」
一衣帯水(いちいたいすい)という言葉を覚えたのは昔、中学校の社会の時間だった。九州と朝鮮半島の間に横たわる対馬海峡を指していました。海峡を挟んで向かい合う両岸の地域や国同士の関係を示す言葉である、と教わりました。古代は風俗、習性が似た人々が住んでいる、という事のようでした。
今、血液型の研究などが進み、日本列島に人が最初に住み始めたのは旧石器時代の3万年以上も前という説が有力です。シベリアのイルクーツク辺りから南下し、一つは韃靼海峡、つまり間宮海峡を渡ってサハリンから北海道へ渡るルート。もう一つは沿海州を経由して朝鮮半島から対馬海峡を渡って九州に至るルートが主な道筋であるとされる。その後、縄文時代の海水面上昇に伴って、列島と大陸との交流が疎遠になっていたとされます。
旧石器時代に海を渡って来て日本人となった人達を想うとき、いつも一編の詩が頭をよぎっていきます。安西冬衛(あんざい・ふゆえ)の「春」です。「てふてふ(読み=ちょうちょう)が一匹韃靼海峡を渡って行った」。一行詩なのですが、日本の始まりを示唆しているようで、強い印象を与えてくれます。
対馬海峡で言えば、九州に渡って来た人達と朝鮮半島の南部に残った人達がいたのではないかと思います。旧石器時代の後、縄文時代を通して半島を下って来た人の痕跡がほとんど見られないことから、古代に半島南部にあった任那(みまな)などの伽耶諸国は同じルーツを持つのかもしれません。
一衣帯水という四文字熟語の語源が中国の隋の時代の故事から生まれた事を知ったのは最近になってからです。それによると「帯水」とは海峡だけでなく幅の狭い河川などにも使われる、ということです。
身近なところ、石川県内で探せば差し詰め手取川が該当するでしょうか。よく耳にするのは手取川の北側・金沢方面と南側の小松方面では住民の気質が違う、ということです。私はそんなには感じない、というのはいささか鈍いのかもしれません。ただ、それぞれの土地柄に誇りを持っているのは感じます。
例えば、手取川とは関係なく能登と加賀でも違うでしょうし、小松と加賀市の大聖寺ではまた違います。金沢市と旧の石川郡では対抗意識があるようにも思います。これは戦国時代の一向一揆を起こした側と、鎮圧した側の因縁だと、まことしやかに語られたりもします。
しかし、暴れ川が両岸の人々の行き来を妨げていた古代にあって、在地の豪族が協力し合う歴史もありました。823年/弘仁14年の加賀立国以前の物語です。まだ石川郡や能美郡はなく、加賀郡と江沼郡の二郡に分かれていた頃です。
加賀郡側の豪族は、汽水湖(海水と淡水が混じり合った潟)である河北潟を中心に古代港湾都市を形成しつつあった道君(みちのきみ)。河川が流入する河北潟周辺は低湿地であっても耕作地が広がっていた可能性が高く、犀川左岸や手取川扇状地の扇端には縄文時代から大規模な集落遺跡の御経塚遺跡、その出村で環状木柱根列の出土で有名なチカモリ遺跡があるなど人口が集中していた地域です。
一方の手取川左岸・江沼郡側の豪族は財部造(たからのみやつこ)として知られる野身氏です。能美市内の丘陵地一帯に展開する古墳群、とりわけ北陸最大級の前方後円墳である「秋常山(あきつねやま)古墳」の存在は古墳時代から飛鳥時代まで、この地で強大な力を誇って来た一族であることを証明しています。
古代港湾都市を築いて海上交通に卓越した道君と、陸の覇者たらんとした財部造。一見、独立した存在とで共通点がないようでしたが、実は思わぬ縁で結ばれていたのです。日本の歴史を揺るがすような激風が奈良・飛鳥の都から吹いて来ていたのです。
天皇を中心としながらも実際は、蘇我氏など飛鳥地方の大豪族が政治の実権を握るヤマト政権から、天皇親政の政治体制に移行しようとする激動の舞台が幕を開けようとしていたのです。
女帝であった第35代皇極(こうぎょく)天皇の時、その皇子(みこ)であった中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は、645年に起こした乙巳(いっし)の変で、権力を振るっていた蘇我本宗家(ほんそうけ)を滅ぼし、大化の改新を断行し、天皇親政を成し遂げました。飛鳥地方の大豪族に頭を抑え付けられていたかのような天皇家が頼りにしたのが地方の大豪族の力だったのです。その中に加賀郡の道君、江沼郡の財部造(たからのみやつこ)がいたのです。
写真/獅子吼高原上空から手取川(左)と七ケ用水を眼下に。いにしえの加賀の人々は左岸、右岸を問わず、力を合わせて暴れ川を開拓し豊穣の扇状地に変えたのです。
2023年特集「大地有情、風に事情」第5回 古代港湾都市 5月1日放送
2023年5月25日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第5回(令和5年5月1日放送) 「古代港湾都市」
野々市市の国指定史跡である末松廃寺。その創建年代は7世紀の第3四半期、西暦660年から670年ごろと見られています。時は白鳳時代、ここ加賀の地で活躍していた豪族が道君(みちのきみ)です。
前回では、道君の本貫地(本拠地、活動拠点)が、現在の金沢市北部の森本地区で、河北潟や日本海の水上交通を活用した古代港湾都市の指導的な役割を担ったことを見てきました。
一族の娘が天智天皇との間に子をもうけ、中央と結びついた道君が古代の加賀で大きな力を付けたことから、森本地区からかなり離れた野々市で、道君が大きな寺を建てたとしても決して不思議ではありません。
しかし、最新の考古学的な知見から、この「道君単独創建説」は否定されるようになりました。
その根拠のキーワードは、手取川です。
FM-N1では、これまで末松廃寺の特集番組をシリーズで放送する一方で、発掘や研究の新しい成果が発表される度にお伝えしてきました。
10年以上前、私たちが取材をし始めた時は、「末松廃寺の塔心礎は戸室石で作られた」が通説になっていました。戸室石とは、犀川上流にある医王山(いおうぜん)連峰の戸室山から採れる石です。史跡公園を訪れて末松廃寺の塔心礎をご覧になった方はわかるでしょう。長さが2メートルを超える巨大な石を、およそ20キロメートルも離れた戸室山から運び込む作業は、大変な労力が必要です。
ところが、最近になって、塔心礎の成分を分析した結果、石が手取川にある安山岩であることがわかったのです。「手取川から末松廃寺までの距離は遠いじゃないか?」と、思われる方も多いでしょう。
しかし、古代の手取川は今よりもずっと北寄りに流れていて、現在の手取七ケ用水の一つである大慶寺用水あたりを流れていました。なんと、末松廃寺から3キロほどの近い距離のところに手取川が流れていたのです。
末松廃寺の塔心礎は、手取川の安山岩だった、というわけで、末松廃寺と手取川の強い結びつきがわかります。
もう一つ、「末松廃寺を建てたのは道君だった」という説に以前から疑問が呈されていたのは、瓦です。末松廃寺から発掘された瓦は、現在の能美市、旧辰口町にあった「湯屋古窯跡(ゆのやこようせき)」で焼かれました。
手取川の右岸に勢力を持っていたのが道君。そして、古代の手取川左岸では、財部造(たからべみやつこ)などの有力豪族がいました。道君がわざわざ手取川を越えて、勢力範囲の外である左岸から、寺の瓦を調達することに疑問があったのです。
では、末松廃寺は誰が何のために建てたのか、についてですが、「手取扇状地を開拓する国家プロジェクトのシンボルとして末松廃寺が建てられた」というのが最新の知見です。当時の政治の中枢・天智朝が主導して末松の大寺を建立したわけで、この国家プロジェクトに道君や財部造といった地方豪族も協力したと思われます。
そして、手取扇状地開拓の目的は米づくりです。米作は、水はけの良い乾田の方が湿田よりも生産性が高く、野々市市のある手取扇状地の扇央部はまさにそうした乾田に適していました。
こうした豊穣の土地である手取扇状地の恵みと、日本海と河北潟の水上交通のネットワークを生かした古代港湾都市が、道君の力と富のみなもとになったのでした。
写真/郡家神社(金沢市吉原町)近くの高台から河北潟を眺める。戦後に干拓される前の河北潟は今より五倍以上の広さでした。最新の研究から、その河北潟と日本海、北陸道の水陸交通が一体になった古代港湾都市の全体像が明らかになってきました。それは、まさしく加賀百万石より千年も前に栄えた大都市でした。
2023年特集「大地有情、風に事情」第4回 河北潟と郡家神社 4月24日放送
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第4回(令和5年4月24日放送) 「河北潟と郡家神社」
FM-N1末松廃寺取材チームの一人が古代豪族・道君を取材するため、考古学者の話を聴いていた折のことです。
「古代豪族の道君の本貫地(ほんがんち)、つまり、活動拠点は金沢市北部の森本周辺と思われます。加賀郡の郡と家と書いて、郡家(ぐうけ)神社という名前の神社があることからも加賀郡のなんらかの施設があったと考えられます」。
大げさではなく、体に電気が走ったような衝撃が走りました。
実は、取材者は金沢市の森本地区に生まれました。もっとも生まれた時はまだ森本地区は河北郡の一部で、金沢市に編入されたのは、昭和38年(1963年)のことです。
生まれ育った家のすぐ近くに郡家神社があり、その境内は子どもたちには格好の遊び場でしたし、春と秋の神社の祭りは何よりの楽しみでした。今は住宅が建ち並んでいる神社の一帯は昔の面影は全く残っていませんが、昔は田圃や畑が広がっていて、学校から帰ってよく走り回っていました。その田圃などで時折、赤茶色に錆びた鉄の塊を見つけました。後年、それが矢じりであることを知りました。
そのことを考古学者に伝えると、偶然の縁に驚き、森本地区にはかつて古墳がいくつかあり、なぜ森本地区が道君の本貫地(ほんがんち)だったのかを教えてくれました。
その答えは、河北潟に面する森本地区が「交通の要衝」だったことです。河北潟は現在では4キロ平方メートルほどの面積ですが、60年前の1960年代に干拓が完了する前までは、今より5倍以上もある広さでした。そして、この広大な河北潟を囲むように、南は現在の野々市市、白山市から、金沢市を含め、北はかほく市、津幡町に至る古代の港湾都市があったことがわかってきました。
古代のここ加賀は、日本海を通じて大陸や半島と交流し、河北潟の水運や越前、越中をつなぐ北陸道(ほくろくどう)と併せて、海と湖、川の水上交通と陸上交通が一体になって多くの人が行きかって栄えた土地だったのです。
車や電車が発達した現代では想像しにくいのですが、古代や中世で人やモノの移動は水上交通が大きな役割を果たしていたことを忘れてはなりません。そして、加賀の古代港湾都市を押さえ、国内外の交易をもとに富を蓄え、力を持った古代豪族が道君でした。
道君がどのような豪族だったのかは、いまだにわからないことが多いのですが、道君の名が史料に初めて登場するのは日本書紀です。日本書紀には、「欽明31年(570年)、越の国に高句麗からの使者が着いた時に、郡司(ぐんじ)の道君が大王と偽って使者をもてなし、貢物を受け取った」との記録があります。さらに、時は下って、天智(てんじ)7年(668年)には、同じく日本書紀に「天智天皇と越道君伊羅都売(こしのみちのきみのいらつめ)との間に志貴皇子(しきのみこ)をもうける」と記されています。
伊羅都売(いらつめ)というのは、固有名詞ではなく「娘」の意味です。越の国の道君から宮中に入った女性が天智天皇との間に男の子を産み、その子・志貴皇子は万葉歌人として名高く、さらに時は下って、志貴皇子の子が第49代天皇の光仁(こうにん)天皇になります。
さきほど話した「欽明31年、高句麗からの使者の貢物を自分は大王だと偽って横取りした」という日本書紀の記録について補足します。この出来事は加賀の国ができる250年も前のことです。道君はその当時、飛鳥朝廷に組み込まれているわけでもなく、あくまでも独立した地方の代表者でした。その道君に対して、高句麗の使者が大王(天皇)だと信じてしまうほどに道君のもてなしが豪華で、権力を持っている人物に映ったということです。
その後、7世紀後半に一族の女性が天智天皇と結ばれて子を産み、中央と直結して加賀の地でさらに力をつけた道君ですから、同じく7世紀後半に創建された末松廃寺の建て主は道君に違いない、と想定されても当然と言えば当然でしょう。
写真/金沢市北部の吉原町に所在する郡家神社。森本地区のこの地域は、古代豪族・道君の本貫地があった地域とされています。確かに、北陸道と河北潟に面して、国内外の交易には最適の場所です。
2023年特集「大地有情、風に事情」第3回 道君デビュー 4月17日放送
2023年5月24日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第3回(令和5年4月17日放送) 「道君デビュー」
823年・弘仁(こうじん)14年の加賀立国の要因となり、加賀国司を兼務していた越前国司の貴族・紀末成(きのすえなり)を悩ましていた「横暴な振る舞いをしていた加賀郡の郡司・道公(みちのきみ)」とは一体、何者なのか、ということを今回は見ていきたいと思います。
いきなりですが、実は道君の正体を特定するには資料が少なく、はっきりとは分かっていません。謎に包まれた地方豪族と言ってもいいかもしれません。
道君(みちのきみ)が国史の文献に登場したのは日本書紀の欽明31年(570年)のことです。簡単に言えば、加賀に高句麗使節の船が来着し、当地の豪族であった道君が大王と称して貢物を奪いました。飛鳥の欽明朝は軍隊を派遣して道君を服属させると同時に、高句麗使節を飛鳥に迎えた。朝廷と高句麗の初めての接触となった、というものです。
ここで言う「加賀」とは加賀立国以前の加賀のことです。一般的には大王を詐称した、つまり騙(だま)したという事になっていますが、それは飛鳥の朝廷側からの見方です。道君側からみれば当時、自分は飛鳥の朝廷に服属しているわけではないので「大王」と名乗ることに違和感は無かった、とも考えられます。
それでは、どうして道君の詐称事件が朝廷の知るところになったか、ということです。それは江沼臣(えぬのおみ)裾代(もしろ)が朝廷に報告したからです。既に江沼臣は飛鳥の朝廷に服属していたことが分かります。570年当時、手取川から南の地域は朝廷の勢力圏にあったことが伺えますが、これ以降は加賀郡も朝廷の一員となって行くのです。
いよいよ歴史の上で、道君はデビューを果たしたことになりますが、これは朝鮮半島などを含めた極東の歴史上でも一つのエポックとなった出来事でした。
高句麗といえば、朝鮮半島北部から中国の満州地方にかけて勢力を張っていた古代の大国です。半島南部には百済、新羅、日本府が置かれていた任那(みまな)など諸国がありました。大王詐称事件の8年前、欽明23年には任那が新羅に滅ぼされ、政治権力は百済に引き継がれます。以後、半島では三国時代に入って、飛鳥の朝廷も関係する中で、合従連衡が繰り広げられます。
時には、百済と新羅が手を組んで高句麗に対抗しますが、高句麗の悩みは中国の南北朝などの王朝も脅威であり、軍事的には常に中国と半島南部の二正面作戦を強いられていたことです。そうした情勢の中、高句麗としては中国の王朝から独立した政治体制を取っていた飛鳥の朝廷、半島で敵対する新羅を牽制する多ために、新羅の背後に位置する飛鳥の欽明朝と手を組むことが死活問題になっていたことは想像に難くありません。
その最初の高句麗使節を横取りする形になったのが加賀地方の豪族・道君であったわけですから、世の中、大騒ぎになったのでしょう。以後は道君も飛鳥の朝廷に組み込まれて行く事になります。
大王詐称事件の11年後には隋が中国を統一しました。598年、614年と二度にわたって隋と高句麗の間で戦争が行われています。660年には百済が中国の唐と新羅連合軍に滅ぼされ、668年には高句麗がやはり両国連合軍に滅ぼされてしまいます。残された高句麗の臣下は沿海州付近に逃れて渤海国を建国することになります。
最後にもう一点、考え直すことがあります。加賀地方の豪族であった道君が起こした出来事を簡単に「大王詐称事件」と片付けて仕舞いがちですが、もしも道君が貧相な豪族であったとしたら高句麗使節も騙されなかったのではないだろうか、という事です。相手も一国の使節です。騙せるだけの威容を道君が誇っていた可能性も大いにあると思うのです。だとしたら、道君の力の源泉は何で、本拠地を何処に構えていたのか、という問題です。今回のメモの冒頭でお話した謎というのがこの問題なのです。
しかし突如、目の前に現れた高句麗の使節を我が意のままにしようとした道君は、加賀地方の大地を治める豪族としては当然の実力行使であったのでしょうが、激動する極東の世界情勢の旋風が吹いているとは、知らなかったのではないでしょうか。
写真/10年ほど前まで「末松廃寺を創建したのは道君」との説が有力でした。「当時の加賀でこれほどの大寺を建てられる豪族は道君しかいない」と考えられていたからですが、最新の知見では「地域の豪族が協働して天智朝の国家プロジェクトとして建てた」が有力になっています。