2023年特集「大地有情、風に事情」第18回 北陸戦線異状あり~中世・加賀武士団の盛衰~ 7月31日放送
2023年7月31日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第18回(令和5年7月31日放送) 「北陸戦線異状あり~中世・加賀武士団の盛衰~」
石川県から車で国道8号線を富山県方面に走ると、県境は倶利伽羅トンネルの中にあります。トンネルは標高277メートルの砺波山を貫いています。トンネルができる前の国道や古代の北陸道は倶利伽羅峠を尾根沿いに通る山越えの道でした。
この山で、中世において大きな戦いが二つありました。一つは平安時代末期の源平合戦における倶利伽羅峠の戦い、またの名を砺波山の戦いと言います。もう一つは鎌倉時代になってからの承久の乱における、幕府軍と京方の官軍との戦いです。
10年ほど前に、この旧北陸道の倶利伽羅峠を歩いてみたことがあります。木曽義仲が平家の軍勢を崖から追い落として勝ったとされる「火牛(かぎゅう)の計」が、本当にあったのかどうか確かめたかったのです。牛の角に松明(たいまつ)を取り付け、その松明に火をつけて走らせた、というゲリラ戦法です。
結論は、「火牛の計はあくまでも伝説で、実際はなかったのだろう」です。倶利伽羅峠を歩いてみると、思っていた以上に道が狭く、登り下りの勾配もきつく、たくさんの牛を動かすことは難しい、と感じたからです。
さて、加賀の国が越前の国から分離独立したのは、弘仁(こうじん)14年、西暦823年でした。この頃になると、古代豪族・道君の名前は史料などから姿を消します。絶頂期を誇った者もいつかは力が衰えるという栄枯盛衰の歴史です。
そして、12世紀末の中世になると、加賀に富樫氏や林氏といった武士団が台頭します。野々市の歴史で有名なのは、じょんから祭りでもおなじみの守護・富樫氏ですけれども、富樫氏の前に大きな勢力を誇ったのが林氏です。野々市市に現在、上林、中林、下林といった林の付く地名が残っているように、野々市市の南部から白山市の旧鶴来町にかけて、林氏の領地「拝師(はやし)郷」が広がっていました。
林六郎光明(はやしのろくろう・みつあきら)や富樫入道仏誓(とがしにゅうどう・ぶっせい)らの名は平家物語に登場します。時は寿永2年、西暦1183年。平家追討に立ち上がった源氏の武将・木曽義仲に味方して、光明らは越前の「火打ちが城」に立てこもりましたが味方の裏切りに遭って、城が落ちたため、光明らは加賀の地に退いた、とあります。
この時はまだ信濃にいた木曽義仲が都を目指して北陸路に入り、越中と加賀の境にある倶利伽羅峠と、その後の篠原(加賀市片山津温泉の近く)の合戦などに勝利して京に入り、平家を都から追い出しました。
加賀武士団の林六郎光明(はやしのろくろう・みつあきら)や富樫入道仏誓(とがしにゅうどう・ぶっせい)も木曽義仲に従って、都に入っています。
平家物語の冒頭にある「盛者必衰」「諸行無常」の言葉通りに、平家を京から追いやった木曽義仲でしたが、源頼朝の命を受けた源義経に討たれます。その義経も頼朝に倒されます。頼朝も鎌倉幕府を開いたものの、狩りから帰る途中に不慮の死を遂げます。
時は流れ、源頼朝の死から20年ほど過ぎた承久3年、西暦1221年に、再び国を二分する大きな戦いが起きました。承久の乱です。後鳥羽上皇は五畿七道の国々に対し、敵対する鎌倉幕府の執権・北条義時追討の宣旨(せんじ)下したのです。受けて立った幕府は東海道10万騎、東山(とうさん)道5万騎、北陸道へ4万騎を向かわせます。
合わせて19万騎もの大軍を前に、後鳥羽上皇の京方は敢え無く敗戦。後鳥羽上皇は隠岐に流されます。
鎌倉幕府の公式文書である吾妻鏡その6月8日の条によると、北陸道に向かった4万騎を前に、「官軍の加賀の国の住人である林次郎(はやしのじろう)らが降伏した」とあります。林次郎らが加わった官軍と幕府軍が合戦を行ったのは、現在の砺波市から倶利伽羅峠にかけての地点です。40年ほど前の源平合戦で木曽義仲と平家軍が戦った場所でもあります。野々市に勢力を持った豪族の林氏が倶利伽羅峠で、中世の二大決戦に参戦して勝利の勝鬨(かちどき)と敗戦の憂き目を見たことは、何か歴史の因縁を感じざるを得ません。
倶利伽羅峠の源平合戦では林氏とともに富樫氏が加わっていましたが、承久の乱では富樫氏の名前が見えません。ここから、加賀で勢力を誇った二つの豪族の分かれ道になります。俗に、「林氏が官軍の後鳥羽上皇側に付いたため鎌倉幕府から罰せられ、富樫氏との立場が逆転した」と言われていますが、このことを明確に記した史料はないようです。
専門家によると、中世に編集された家系図である「尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)」という史料には、「承久の乱の折に、(官軍に組みした林次郎と言われる)林家綱・家朝(いえとも)親子が一族内の対立で遠縁にあたる板津家景を殺害。これが私的な戦い、利益追求に当たるとして鎌倉幕府から死罪にされた」とあります。
この処分によって、林氏が没落する一方で、富樫氏が台頭し、室町時代には加賀の守護として権勢をふるうようになります。
写真/倶利伽羅峠を歩くと、源平合戦の古戦場跡をはじめ、北陸を訪れた松尾芭蕉の句碑などを目にします。「あかあかと 日は難面も あきの風」。芭蕉も北国街道を通って加賀を往来しました。
2023年特集「大地有情、風に事情」第17回 武士団の誕生 7月24日放送
2023年7月24日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第17回(令和5年7月24日放送) 「「武士団の誕生」
末松廃寺の建立と本格的な手取扇状地の開発が始まる前の7世紀前半、第33代推古天皇の頃には既に、末松廃寺の周辺に小規模な集落が進出していました。この後、天智朝も開発というより、まず末松廃寺建立の拠点として廃寺の北東側に小集落を開いていったようです。
廃寺が完成して、墾田化事業が軌道に乗り始める7世紀末から8世紀前半にかけ、拠点集落は規模を拡大するとともに、廃寺から東へ約400㍍離れた微高地に、新しい大規模な集落が誕生して行きます。南北900㍍、東西100~150㍍の自然堤防帯に展開することから分かるように短期間のうちに、扇状地開発に当たった移住民の人口が爆発的に増えたことが分かります。奈良・飛鳥では藤原京から平城京にかけての時代で、末松廃寺が一旦、廃絶した時期でもありました。
最初の墾田開発は、現在の手取川七カ用水で言えば郷用水を中心にした開発ということになります。東方の微高地に開発拠点を移した移住民たちは、更に微高地の背後地にあたる富樫用水の上流域へと進出します。現在の上林、新庄地区に当たります。
奈良時代の743年/天平15年、第45代聖武天皇によって墾田永年私財法(こんでん・えいねんしざいほう)が発布されます。新たに墾田を開拓した豪族、寺社はその墾田を私有化できる、と定めた法律で、後の荘園成立の導入口になっていきます。
墾田私有が認められるとなれば、手取扇状地の開拓に拍車がかかったことは容易に想像できます。8世紀半ばを過ぎると、上林、新庄地区の大集落は更に粟田、中林地区へも拡大されて行きます。開拓民の指導者の権限は増々強くなっていったことでしょう。この勢いは9世紀末ごろまで続きます。
世の中は奈良時代から平安時代へと移って行きます。藤原氏の摂関政治が華やかなりし頃、律令制における公地公民、班田収授法は有名無実化して、白山市横江から金沢市上荒屋にかけて広がっていた東大寺領横江荘も姿を消してしまいます。823年/弘仁(こうじん)14年の加賀立国の後も勢力を誇った在地豪族の道君の姿も消えて行きます。
残されたのは、末松廃寺建立を契機に手取扇状地を豊かな乾田へと開拓してきた移住民の子孫たちで、開発領主を中心に新興勢力として多数の集団が形成されてきました。
その中でも頭角を現してきたのが、古代の行政単位であった拝師(はやし)郷、現在の野々市市上林、新庄地区に当たりますが、この拝師郷に本拠地を構えた林一族だったのです。
「拝師」の名前が文字資料として残るのは平安時代の789年/延暦8年~792年/延暦11年の頃、第50代桓武天皇ですが、平安京に都が遷る前の長岡京から出土した木簡に記されているのが最古で唯一の資料です。
現在の野々市市上林3丁目に「林郷八幡(はやしごう・はちまん)神社」があります。「拝師」と書かれた木簡から222年後の1013年/長和2年の創建になります。時代は藤原道長が実権を握っており、世界最古の小説と言われる「源氏物語」を書いた紫式部、随筆「枕草子」で知られる清少納言が活躍して宮廷文化が華やかな頃でした。
拝師郷の総社だった、と伝わり、祭神は応神天皇、神功皇后、三条天皇です。三条天皇は第67代天皇で、林郷八幡神社が創建された長和2年当時の今上天皇ですが、即位に当たっては藤原道長の同意を得なければならない立場であり、林一族が祭神に勧請する、つまり神として招くことで朝廷なり藤原道長の後ろ盾を得ることに成功した、と思われます。
手取扇状地の開発領主のなかでも棟梁としての地位を築き上げたのです。
一般的に、応神天皇と神功皇后を祀る八幡神社は武家の神社とされています。林郷八幡神社は郷用水沿いにあって、同用水並びに、下流で合流する安原川に沿っても多くの八幡神社が鎮座しています。古代における手取扇状地の開拓の中心地が拝師郷であり、郷司であった林一族が武家の性格を強くしていったことは、扇状地の一角に武士団が誕生した事実を示しているのではないでしょうか。私有地を持ち、荘園を管理する地頭から武士団の棟梁としての姿を現すことになります。
平安時代から鎌倉時代にかけて、手取扇状地には林一族の末裔と称される武士団が居ましたが、詳細については解明されていない点が数多く残されています。ここで林氏系図から、林氏に連なりますが、異なる名前の一族を拾ってみます。
大桑、豊田、松任、安田、横江、近岡、板津、倉光、白江、石浦の各氏がいます。源氏となる武士団です。
写真/野々市市上林に鎮座する林郷八幡神社。境内のすぐ東側に林口川(富樫用水・下流の名は十人川)が流れ、架かっている橋の名は「拝師橋」。林氏が治めた林郷は古代では「拝師郷」と記されていました。
2023年特集「大地有情、風に事情」第16回 古代の金融事情 7月17日放送
2023年7月17日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第16回(令和5年7月17日放送) 「古代の金融事情」
奈良時代の731年/天平6年、第45代聖武天皇の頃で、加賀が立国される92年前です。加賀四郡のうち最北に位置する加賀郡では、当時の税金である稲を徴収する地方役人の国司は5人いて、最上位の大領を含めて3人が道君一族でした。
国家的事業としての手取扇状地開拓にあって当初から、開拓事業の管理を任されていたと思われる地方豪族・道君は、律令制の政治体制に替わっても、石川郡における最大の権力者、実力者として他の追随を許さない存在だったことが分かります。
権力者としての力の源泉は、圧倒的な税の徴収能力にあったと思われます。当時の稲作の最大の特徴は、全ての種もみを郡司が管理していることでした。農作業にあたる開拓民一人ひとりには法律で定められた一定の広さの墾田が割り当てられ、春になると郡司から貸し付けられた種もみを受け取ります。秋になると郡司は収穫された稲から3%分を税として徴収します。
当然、貸し付けた稲より多くの量が収穫されれば、税や来年分の種もみ、開拓民の食料などを差し引いても、余剰の米は郡司の手元に残ります。これを利息としての稲、利稲(りとう)と言いますが、利稲は郡の行政運用費用、地方役人の給与、食料などになっていきます。この制度を出挙(すいこ)と呼びます。稲がお金とするならば、現代で言えば銀行業務に似ています。お金を貸し付けて利息を取り、増えたお金でまた貸し付ける。金融機関です。
ここで注目すべき点は手取扇状地の墾田では単収が高かった可能性があることです。
暴れ川・手取の流域は元来、玉石などが敷き詰められたように広がって、その上に薄い表土が乗っているため水はけが良すぎて保水力が低く、稲作には向いていませんでした。そこで当時の最新技術を導入して河に堰堤(えんてい)を築き、取水口から引いた水を墾田に張り巡らせ、必要な時だけ水を流せる灌漑設備を整えることで耕作が可能となりました。
それまで、扇状地の稲作は水が湧き出る扇端部分や中小河川の周辺の湿田が中心でしたが、灌漑用水が出来たことで墾田は乾いた田、つまり乾田化することで肥沃度が高まり、単収が飛躍的に上がったと思われます。
出挙(すいこ)制度の元となる班田収受(はんでんしゅうじゅ)の法で言えば、6年に一度の戸籍作成、田地の計測では帳簿の数字と収穫の実態が合わなくなります。次回の調査までの6年間は必然的に、郡司の手元に残る利稲が増えることになります。朝廷に送る税収である稲の量を管理するのは郡司の仕事ですから、正確な数字を報告しなければ更に利稲は増えるばかりです。道君がこの利稲を利用して、戸籍から外れた農民を集め、帳簿に載らない新田を開拓すれば、稲を私物化することが出来ます。朝廷の公の出挙を公出挙(くすいこ)と呼ぶのに対して、郡司が私の立場で稲を貸し付けることを私出挙(しすいこ)と呼ぶのです。
今度は加賀立国の62年前、天平宝字5年/761年の石川郡の様子です。前に説明した加賀郡司5人のうち3人が道君だった時から30年が経っています。奈良時代の正史を伝える「続日本紀(しょくにほんぎ)」によれば、郡司の次官である少領だった道君勝石(かついわ)が自分の持つ稲6万束を利用して私出挙を行ったことが判明して、利稲3万束を没収されています。ここで言う1束とは両手でつかめる稲の量です。稲6万束といえば加賀郡の公出挙と同量の稲になります。現在では米約180㌧に匹敵する量ですが、郡司の次官レベル1人で公出挙と同量ですから郡司5人分ではどれだけの量になっていたのでしょう。恐ろしい数字ではないでしょうか。
しかし、これだけの罪を犯しながら罰金だけの軽い罪で済んだことは、反対に道君の存在の大きさを示すには十分、と言えるかもしれません。
遂に823年/弘仁(こうじん)14年がやって来ます。越前国の国司・紀末成(きのすえなり)が「道君の横暴が続き、収奪を繰り返している。加賀郡は国府(現在の福井県越前市)から遠くて巡検もままならない。民の訴えも聞くことができない」と朝廷に訴えます。道君はますます実力を蓄えていたのでしょう。たまりかね、日本では最後の立国となる加賀の国が誕生したのです。
実態と合わなくなってきた班田収授の法は衰退し、土地の一部は郡司や開拓民の私有地となり、また皇族、貴族、寺社などの荘園に姿を変え、在地の有力者が荘園の管理者となっていきます。今風に言えば「公的金融機関の崩壊」です。中央政権の支配から離れた私土地が増えれば増えるほど、公(おおやけ)の権限も縮小して行きます。
手取扇状地でいえば、公の威光を背にして勢力を伸ばしてきた道君も、私有地の横行によって管理する土地の面積が押され始め、勢力が衰えていく運命をたどったようです。次第に歴史上から名前が消えて行きます。
東大寺領横江荘の荘園も10世紀に入る頃には姿を消してしまいます。荘園の地頭として頭角を現してきた在地勢力の支配下に置かれたのかもしれません。
写真/野々市市末松から望む白山。末松地区は古くから米の産地として栄えてきました。手取扇状地を開拓してきた先人たちの努力の賜物です。
2023年特集「大地有情、風に事情」第15回 再建末松廃寺の頃 7月10日放送
2023年7月10日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第15回(令和5年7月10日放送) 「再建末松廃寺の頃」
前回の末松廃寺取材メモ「大地有情、風に事情」では白山市横江から金沢市上荒屋にかけて広がる「東大寺領横江荘」に触れ、第50代桓武天皇の皇女・朝原内親王が所領とした荘園が東大寺に寄進され、10世紀半ばまでに消滅したことをお話ししました。それは都における道君一族の物語でしたが一方、現地である手取扇状地では、開墾開始からその300年間に何が起っていたのでしょう。
手取扇状地の開拓は、琵琶湖周辺に居住する渡来系の技術集団を中心に、加賀立国後でいうところの能美、江沼両郡からの移住民が主力となり、道君が支配していた加賀郡からの転入者が墾田化を推進しました。通常は農業用水の取り入れ口付近に、開発成功を祈願する寺院が在地豪族の住居と接するように建てられるのが常ですが、末松廃寺では豪族の屋敷と見られるような住居跡は発掘されませんでした。
豪族による開拓ではなく、天智朝による国家的事業であったため管理者には越道君伊羅都売(こしのみちのきみの・いらつめ)の後宮入りで天智朝と外戚関係にあった加賀郡司の道君が任命されていた、と思われます。道君の本拠地は河北潟周辺であったため、末松廃寺近くに住居は構えなかったのでしょう。収穫された稲は全量、現地で保管、管理され、税に相当する石高だけを朝廷に送っていたのでしょう。
当時の輸送網は水運が主流でしたので、運河や犀川支流を経由して犀川河口まで運ばれ、海上輸送の積み出し港になっていた河北潟沿岸の港湾都市に保管倉庫が置かれていた可能性が出て来ます。
従って、日常的に末松廃寺の管理、運営は道君ではなく、扇状地開発に直接関わり、最新技術を持った渡来系の移民であった可能性が高いと思われます。
末松廃寺が完成したのは672年/天武元年に起きた内乱・壬申(じんしん)の乱前後とみられています。中央政権の権力を握った天武天皇は、全国の豪族に対して、仏教普及を図るために氏寺の建立を命じます。事情は能美郡の財部造(たからのみやつこ)も同様で、後の加賀立国にあたって国府が置かれた小松市国府台地の西南に当たる江沼平野を中心に、領主層の居宅と隣接する形で次々と白鳳寺院が建立されて行きます。
寺院ブームの到来は当然のように瓦不足を招きます。天智朝の命令で末松廃寺用の瓦を生産していた財部造からの供給は絶たれてしまったのでしょう。末松廃寺の夢のような七重塔の構想も泡となって消えたのではないか、というのが私達、末松廃寺取材チームの推測でした。
一方、手取扇状地開拓の監督官だった道君は、壬申の乱後の700年頃、時代は第41代持統天皇の治世、飛鳥京から藤原京への遷都が行われた時に当たりますが、広坂廃寺を建立しています。現在の金沢21世紀美術館から金沢市役所あたりになりますが条里制に基づいた寺院を建てています。方1.5町と言いますから約163m四方の敷地を掘立柱塀で囲み、金堂、仏塔、講堂、門を備えた白鳳寺院だったとみられています。
越道君伊羅都売の皇子(おうじ)・志貴皇子(しきのみこ)が「采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く」の和歌を詠んだ直後にあたります。
さらに、都が平城京に遷った730年代から740年代頃にかけて平城宮式の瓦当文(がとうもん)で飾った軒丸瓦で広坂廃寺を葺き替え、威容を増しています。立地場所が小立野台地の先端にあたり、現在の香林坊、片町のビル群が無いと想像してください。日本海までが見渡せ、まさに郡司・道君にとっては領地を一望できる国見の丘に建つ氏寺となります。
では、氏寺になり得なかった末松廃寺の運命はどうだったのでしょうか。2009年/平成21年、文化庁発行の「発掘調査報告・末松廃寺跡」によると、理由は分かりませんが末松廃寺は8世紀初頭までに一旦、廃寺となっていたようです。奈良では藤原京から平城京に遷る頃です。
末松廃寺が再建されるのは8世紀半ば、奈良時代に入ってからです。金堂は茅葺きか板葺きかは分かりませんが瓦の乗らない主堂となり、その東側には小ぶりな堂舎を配置する伽藍様式になっています。堂舎の中に塔をかたどった陶器製の瓦塔とよばれる模型が置かれていました。仏舎利の信仰様式から本尊信仰へと変わっていった、と発掘調査報告書に書かれています。日本で初めての発掘となりますが、天女像を掘った瓦塔の破片も見つかっています。創建時と変わらずに、手取扇状地開拓民の心の拠り所としての寺院の役割を果たしていたと思われます。
奈良・正倉院に、加賀立国前の731年/天平3年の「越前国正税帳(えちぜんのくに・しょうぜいちょう)」が残されています。正税とは税金のことで当時は稲の石高で表されていました。律令制のもと、中央官僚である国司に従って郡の行政、税の徴収にあたる地方官が郡司の役割になっていました。
郡司の身分は四等官(しとうかん)と言って4階級に分かれ、上から順に「大領(だいりょう)」「少領(しょうりょう)」「主政(しゅせい)」「主帳(しゅちょう)」と呼ばれていましたが、正税帳には大領として道君、主政として道君五百嶋(いおしま=読みは不正確かもしれない)と大私部(おおきさきのみやつこ)上麻呂(うえまろ?)の二人、主帳として道君安麻呂(やすまろ?)と丸部臣(わにべのおみ)人麻呂(ひとまろ)の2人が記録されています。
郡司5人のうち3人が道君であって、大私(おおきさき)と丸部(わにべ)両氏が道君傘下の小豪族であることを思えば、加賀立国以前の加賀郡における道君の勢力の強さの一端が窺い知れるのではないでしょうか。
写真/女子像が線刻された瓦塔が2018年に末松廃寺跡から発掘されました。全国初の発見で、一度は廃れた大寺が8世紀半ば以降に再建されたことを物語っています(写真は野々市市教育員会所蔵のレプリカ)。
2023年特集「大地有情、風に事情」第14回 朝原内親王の田 7月3日放送
2023年7月3日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第14回(令和5年7月3日放送) 「朝原内親王の田」
7世紀中頃、手取扇状地の開拓と引き換えるように越道君伊羅都売(こしのみちのきみの・いらつめ)は天智天皇の後宮に入りました。しかし672年/天武元年に起きた古代最大の内乱・壬申(じんしん)の乱によって子供の志貴皇子(しきのみこ)や孫の白壁王(しらかべおう)らは天武系の政権から圧迫を受けぬよう細心の注意を払いながら身を守りました。そして壬申の乱からおよそ100年後に、白壁王は即位して光仁(こうにん)天皇となり、天智系の血脈が皇統に蘇えることになったのです。
それでは、天智朝が国家的事業として開始した手取扇状地の墾田は一体、誰の手に渡っていったのでしょうか。
ここに手掛かりとなる東大寺正倉院文書(もんじょ)があります。818年/弘仁(こうじん)9年の日付から、加賀の国が越前の国から分離されて立国され、加賀国府が小松市南部の古府台地に置かれる5年前の古文書(こもんじょ)ということになります。
内容は、光仁天皇の子に当たる第50代桓武天皇の妃(ひ)・酒人(さかひと)内親王が、桓武天皇との間にできた朝原内親王が亡くなった際に、朝原内親王の遺言に従い、墾田186町余り、今でいえば約186㌶を東大寺に寄進した、というものです。
手取扇状地の墾田開発は、660年/斉明6年に始まった末松廃寺建立と期を一にしているので国の所有となるべきものですが、その一部は約150年後には皇族の荘園へと変貌を遂げていたことを意味しています。この818年に寄進された荘園もおよそ130年後の950年/天暦(てんりゃく)4年における東大寺荘園帳には名前が見当たらず、経営が放棄されたものとみられています。
1970年/昭和45年、松任市(現在の白山市)横江町で、掘立柱建物6棟と「三宅(みやけ)」と墨文字で書かれた須恵器が出土したため、これは朝原内親王の所領となっていて死後に東大寺へ寄進された荘園を管理する荘家(しょうけ)跡と断定されました。
この後、荘家跡の周辺からは稲穂を管理するため条里制に基づいて配置された倉庫群、土地を区画する溝跡、小型の舟が入ることのできる運河跡と倉庫跡、管理する荘家跡、大量の墨書土器や木簡、まじないに使う人形(ひとがた)などが発掘され上荒屋遺跡と呼ばれました。
2008年/平成20年になると、荘家(みやけ)跡と上荒屋遺跡の中間点で、南北両側に約50mの回廊を伴い、南側に門を構えた建物跡と新たな倉庫群が発掘されました。建物は中央に庇(ひさし)をもった7間×2間の規模で、五重塔を模した陶器や高級な香炉、鉄鉢(てっぱつ)などの仏器も見つかっています。現在は、この中央地区の遺跡と上荒屋遺跡、横江の荘家(みやけ)跡の3カ所を合わせて国指定史跡「東大寺領横江荘遺跡」と呼ばれるようになっています。
しかし、東大寺領横江荘も750年/天暦(てんりゃく)4年、第62代村上天皇の時代までに東大寺は経営を放棄してしまうのです。荘園領主が都に居たまま、在地の郡司、有力豪族などを荘官(しょうかん)として荘園管理に当たらせ、年貢を納めさせていても実態としては、郡司や荘官の意のままにならざるを得ないのが世の中、というものかもしれません。
鎌倉時代になると、郡司、荘官は地頭(じとう)と呼ばれるようになり、源氏の棟梁で征夷大将軍だった源頼朝が任命権を持つことになって行きます。
この村上天皇という方は、中世の武士団・村上源氏の祖にあたり、村上源氏は以後の宮廷政治に大きな影響力を持つことになります。
ここまでは、手取扇状地が7世紀半ばから、天智朝の手によって墾田開発が行われ、その一部が天智天皇と越道君伊羅都売の子である志貴皇子を経て、光仁天皇、桓武天皇という天智系の皇族が所有する横江荘園となり、3世紀後の10世紀半ばには東大寺領横江荘が消滅してしまった事実を振り返ってきました。
志貴皇子の孫・桓武天皇の皇女である朝原内親王の所領となっていた横江荘が東大寺に寄進されたのは加賀立国の5年前とお話ししてきました。そこで、加賀立国の理由として当時、越前国の国司・紀末成(きのすえなり)が挙げた内容を思い出すと「加賀郡は越前国から遠いため郡司や郷長による恣意的な収奪が行われている」というものでした。
つまり、少なくとも朝原内親王の荘園を除く手取扇状地のほかの墾田は、越道君伊羅都売の後宮入りによって天智朝と強い紐帯で結ばれた道君一族が、在地豪族として管理していたことを示しています。これは、壬申の乱によって中央政権が天武朝に代わっても、律令制の下で形を変えながら郡司としての力を蓄え、継続してきたことをうかがわせます。
これが手取扇状地開拓と末松廃寺建立から始まり、東大寺領荘園の消滅に至るまでの300年間の出来事だったのでしょう。その後は、道君の名前も歴史の上からは消えて行き、いよいよ手取扇状地にも武士団が登場してくるのです。
写真/東大寺領横江荘遺跡(白山市横江町)。大型商業施設「白山イオン」の真向かい、横江工業団地の一角にあり、史跡公園も整備されています。
ジェームス・テイラーのPMCでみつけた!Diana Ross「Diana」
2023年7月1日
ダイアナ・ロス「ダイアナ」(1980年)
先月と2ヶ月前のブログでシックと彼らのディスコとヒップホップへの影響について書きました。今月はシックがポピュラー音楽へ影響を与えたもう一つの話をします。
ダイアナ・ロスは1960年代にザ・スプリームスのメンバーとして有名になりました。どんだけ有名になったかというか、バンド名が「ダイアナ・ロス&ザ・スプリームス」に変更されたほどです。1970年代に入って、ダイアナ・ロスはソロアーティストの活動しましたが、だんだんレコードを売れなくなり、楽しさもだんだんなくなっていました。1980年でキャリアのブーストが必要でした。
その時にシックのメンバーのナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズと共に
ダイアナ・ロスは人で1980年リリースの「ダイアナ」というアルバムを制作しました。「ダイアナ」はディスコ音楽の定番のアルバムです。そして、今までダイアナ・ロスの一番売れているアルバムです。
「ダイアナ」は8曲収録ですが、全部の曲でナイル・ロジャースの目立つギタースタイルとバーナード・エドワーズのユニークなベーススタイルを聞くことができます。1曲目の「アップサイド・ダウン」は世界中にヒットになって、年前からなかったアメリカのチャートでナンバー1になりました。「アイム・カミング・アウト」はLGBTQのコミュニティで人気な曲です。なぜというと、英語で「カミング・アウト」は自分のセクシュアリティやジェンダーアイデンティティについてを発表するという意味ですから。この二つの曲は今でもナイル・ロジャースとシックがライブで演奏します。
僕はこのアルバムについて調べていた時に分かったことがあります。このアルバムのリリースの前に、ダイアナ・ロスはロジャースとエドワーズの仕事で満足してなかったから、その二人に知らせず、他のプロデューサーがリミックスをしました。それでも、「ダイアナ」シックの目立つ音楽とヒット曲を作る才能を分かって、ダイアナ・ロスのソロキャリアを生き返らせました。
KITPMCとは:金沢工業大学がライブラリー・センターに設置しているレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション」の頭文字をとった略称。
全て寄贈されたレコードで構成され、27万枚を所蔵している。
ジェームス・テイラー
ジェームス・テイラーは毎月第火曜日17時30分~
「課外授業の進め:ロスト・イン・ミュージック」のパーソナリティーです。
2023年特集「大地有情、風に事情」第13回 二代の光陰 6月26日放送
2023年6月26日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第13回(令和5年6月26日放送) 「二代の光陰」
先週は、万葉歌人としての誉れが高い志貴皇子の和歌のうち、万葉集巻第1に収められている「采女(うねめ)の 袖ふきかへす 明日香風 都を遠み いたずらに吹く」を紹介しました。歌の中の「采女」とは天智天皇に嫁いで志貴皇子を産んだ越道君伊羅都売(こしのみちのきみ・いらつめ)ではないか、とお話をしました。694年/持統8年に藤原京に都を移した後、遷都前の都であった飛鳥浄御原宮(あすか・きよみがはらのみや)に立ち寄った志貴皇子が、母親を思って読んだ、という解釈をしました。
時代の趨勢は天智系から天武天皇系に移りましたが、皇族を中心とした政治を行いたい、とした天武の意志によって、天智系であった志貴皇子ら2人も政権に加わることになりました。しかし、他の皇子達と比較して志貴皇子の位階は低く、出世も遅れていましたが、歌人としての名声は上がる一方でした。
これにより、天武系の皇族達による後継天皇をめぐる争いには巻き込まれず、命脈を保つことができたのかもしれません。
志貴皇子が亡くなったのは、藤原京から更に平城京へと遷都された6年後の716年/霊亀2年のことです。生まれた年が不詳ですので享年はわかっていません。
660年/斉明6年、天智朝の強い意志によって、白鳳の大寺・末松廃寺建立事業と共に開始された手取扇状地の開拓は、天武天皇が天智朝側を破った672年の壬申(じんしん)の乱によって何か変化が起きたのでしょうか。この問題を考える前にもう一度、奈良時代の都・平城京に戻って、越道君伊羅都売から志貴皇子へと続いた家系、子孫はどの様に生き抜いて行ったのかを、見てみましょう。
志貴皇子には二人の妻がいました。一人は託基皇女(たきのひめみこ)と言い天武天皇の皇女でした。もう一人は紀橡姫(きのとちひめ)と言って飛鳥時代末期から奈良時代にかけての豪族の娘でした。紀橡姫の子で志貴皇子の第六皇子に当たるのが白壁王(しらかべおう)でした。白壁王は8歳の時に志貴皇子を亡くし、ただでさえ出世が遅かった父という後ろ盾さえ失ったからか、皇族として位階を受けたのが29歳の時と、非常に遅い時期でした。
また父と同様、天武系の政権内で繰り広げられる皇位継承に絡む政変から身を護るためか、竹林に入り込んで酒浸りになる姿を見せつけ、権力への無関心を装っていました。
結婚も白壁王45歳の時で、後の皇后となる正妻には第45代聖武天皇の皇女で、既に38歳になっていた井上内親王を迎えます。皇位も聖武天皇の皇女であった第46代孝謙天皇に移り、権力争いも落ち着きを見せていたこともあったのでしょう。50歳の時に、井上内親王との間に他戸(おさべ)親王が生まれます。天智系と天武系の両方の血を引く親王と言うことになります。
770年/神護景雲(じんごけいうん)4年、第48代称徳天皇(孝謙天皇が重祚=ちょうそ=)が亡くなると、これまでの度重なる政変によって天武天皇嫡流の男系皇族が少なくなっており天武系、天智系の両方の血を受け継ぐ他戸(おさべ)親王が後継天皇の候補の一人に上がって来ました。そんな思惑が働いたのか、白壁王を他戸親王が成人するまでのつなぎ役とするためか、第49代天皇の座が回って来たのです。
白壁王は光仁(こうにん)天皇として即位、62歳になっていました。歴史上も最高齢での即位となります。光仁天皇はその後、天武天皇の血を引く皇后の井上内親王と皇太子の他戸親王を共に、大逆の罪を図った、との密告を受けて、廃位してしまいます。
替わりの皇太子には山部親王が立てられます、母は百済の渡来系豪族の一族の娘で、光仁天皇の妃(ひ)となっていた高野新笠(たかの・にいがさ)です。山部親王は後の第50代桓武天皇となります。
672年の壬申の乱から約100年、皇統は天武系から再び天智系へと戻ります。越道君伊羅都売の子の志貴皇子、そして光仁天皇はおよそ1世紀の間、天武系の政争の嵐に耐え、頭を低くして難を避けて来ました。桓武天皇は、光仁天皇の一周忌の法要「光仁会(こうにんえ)」を奈良・大安寺(だいあんじ)で執り行いました。この祭は、光仁天皇が白壁王時代に、竹林の中で酒を飲んで周囲の目を欺いてきた故事に倣って今も「光仁会(癌封じ笹酒祭り)」として大安寺に受け継がれています。
志貴皇子は光仁天皇即位の後、春日宮御宇天皇(かすがのみやに・あめのしたしらしめす・すめらみこと)の追尊(ついそん)を受けることになります。実質的に男系はつながっていても、天皇の子が天皇になる、という不文律の伝統を守るための追尊でした。こうして天智系の男系が現在の皇室につながっているのです。このドラマを生み出したのが白山手取川ジオパークの舞台でもある手取扇状地の開拓にあったことは、この故郷(ふるさと)に生きる私達も記憶に留めておきたい事の一つではないでしょうか。
世界ジオパークの大地に、歴史の哀歓を乗せた風が吹き渡っているからです。
写真/志貴皇子を祀る奈良豆比古神社(奈良市)。毎年10月8日、氏子が集まって宵宮祭が開かれ、翁舞(国指定重要無形民俗文化財)を上演しています。
2023年特集「大地有情、風に事情」第12回 万葉歌人の心 6月19日放送
2023年6月19日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第12回(令和5年6月19日放送) 「万葉歌人の心」
白山手取川ジオパークの舞台である手取扇状地の開拓は、白鳳時代に始まりました。西暦660年/斉明6年の末松廃寺建立の開始により、暴れ川の原因とみる在地の水神の祟りを取り除くため、仏教に基づく新しい神を祀(まつ)ることが必要だったのです。ジオパークでは白山から日本海へ下り降りる「水の旅」と表現されますが、大自然と開拓民の間で必死の戦いが繰り広げられたのです。
そして672年/天武元年の壬申(じんしん)の乱によって、開拓を始めた天智朝側が天武天皇側に敗北したことにより、手取川開拓のその後の運命も変わっていった可能性が考えられます。
それは、遠く離れた飛鳥の地においても同様のことが言えたのではないでしょうか。
天智天皇と古代・加賀郡から天智朝の後宮に入った越道君伊羅都売(こしのみちのきみの・いらつめ)の間に生まれた志貴皇子(しきのみこ)の運命も変わっていったのです。
壬申の乱に勝利した大海人皇子(おおあまのみこ)は第40代天武天皇となりました。壬申の乱から7年後、679年/天武8年、天皇と皇后の鸕野讚良(うののさらら=後の第41代持統天皇)は、天智と天武両天皇の皇子(みこ)合わせて6人を連れて吉野に行幸し、皇后の皇子である草壁皇子を次期天皇とすることを誓わせました。6人の皇子は草壁を含めて天武系が4人、天智系が2人で、いずれも母親が違います。鸕野讚良皇后の皇子は草壁皇子だけでした。皇位継承の有力豪族となり得るそれぞれの母系を代表している、とも言え、天武・持統直系の皇統に対する忠誠を誓わせるための行幸でした。
天武天皇は皇族を中心とした政治体制、つまり皇親政治を目指していたので天智系も含まれていましたが、6人は互いに争わずに協力し合うことを求められました。いわゆる「吉野の盟約」と呼ばれるものです。しかし、7年後には草壁皇子の1歳違いの弟である大津皇子は、盟約があるにもかかわらず、鸕野讚良皇后に謀反の疑いを掛けられて死に追いやられてしまいます。
一方、天智系の皇子で盟約に加わったのは川島皇子と志貴皇子の二人です。志貴皇子の名前が歴史資料に登場するのは、吉野の盟約の場面が最初のことです。余り目立つ存在ではなかったのかもしれません。その後の持統朝でも要職につくことはありませんでしたが、大津皇子の死を思うと、それだけ身の安全が保たれたのかもしれません。
叙位ではありませんが、志貴皇子の地位を示す記録があります。吉野の盟約に参加した他の皇子5人が冠位四十八階の制定によって叙位を受けるのですが、志貴皇子だけ名前がありません。代わりに、翌年の686年/朱鳥(あかみとり)元年、給料にあたる封戸(ふこ)200戸を与えられています。
それでも、皇族としては最下級の四品(しほん)にしか当たりませんが、叙位を受けたのは封戸を受けた15年後、701年/大宝元年のことです。この年、天武系直系のひ孫になる首(おびと)皇子が生まれています。後の第45代聖武天皇です。天武直系の皇位継承者が誕生した安心感もあったのか、志貴皇子にも少し陽が当たったのかもしれません。
志貴皇子は政治家としてよりも万葉歌人としての名声を高めて行きます。万葉集には六首が選ばれています。
万葉集巻第8の巻頭歌が有名な一首です。
「石(いわ)ばしる 垂水(たるみ)の上の さ蕨(わらび)の 萌え出づる春に なりにけるかも」
冬が去り、春の到来を告げる歌、というのが定説のようになっていますが、早蕨が芽を出すのは4月の終わり頃です。春の到来と言うより春爛漫の喜びを歌っているのが自然な解釈はないでしょうか。
釈然としない気持ちでいると、以前の取材で、ある万葉研究者から「この和歌は、志貴皇子が宴席で、早蕨が描かれた屏風の絵を見て作った歌だ」という話を聞かされたことを思い出しました。改めて調べ直すと、大妻女子大の先生で、川上富吉(とみよし)さんの論考に行きつきました。2000年/平成12年に書かれたものでした。
それによると、歌が作られたのは703年/大宝3年正月のことで、吉野の盟約に加わっていた天武天皇の皇子・忍壁(おさかべ)皇子が知太政官事(ち・だじょうかんじ)に任命されたことを祝う宴席に出席した時のことだそうです。志貴皇子の正妃であり、忍壁皇子の一番下の妹である多紀(たき)皇女と一緒に祝いの席に出ていた、と結論付けています。
忍壁が官僚のトップに就いた事、つまり忍壁にとっての「我が世の春」を祝ったとも取れます。
天武・持統朝の中で生きる天智の皇子が、天武系の皇族とも血縁で結ばれながら、頭を低くして恭順の意思を示して苦労を重ねる姿が浮かび上がってくるようです。
最後に万葉集巻第1に載せられている和歌を紹介しましょう。飛鳥の宮から藤原宮(ふじわらきゅう)に遷都した後、飛鳥を訪れた時の一首とされています。
「采女(うねめ)の 袖吹きかえす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く」というものです。
「采女」というのは天皇の身近で、食事などの世話をする女官のことです。一般的な解釈でも「女官の 袖を吹きかえす」と解釈されていますが、これは志貴皇子が、母親である越道君伊羅都売(こしのみちのきみの・いらつめ)を詠んだと思えてなりません。末松廃寺建立の前、加賀郡から天智朝の後宮に入った時の身分は「宮人(めしおみな)」です。宮に人、と書きますが、采女のことです。律令が定められた後は第三夫人の地位を示す「夫人(ぶにん)」と称されることになります。
「采女であった母親が天智の下に嫁いで来た時、豪壮な宮で、艶やかな姿を見せつけるように明日香の風が衣の袖を翻させていた。藤原京へ都を移された今は古い飛鳥の宮に人影も無く、新しい都を遠く見て、風が虚しく吹いているだけです」
この和歌が、手取川開拓に賭けた朝廷と、その一翼を担った地方豪族の思惑が籠っているとするならば、手取扇状地を故郷にする私達には、また違った感慨がこみ上げてくるのではないでしょうか。
飛鳥宮(きゅう)と藤原宮(きゅう)は直線距離で3.4㌔ほどです。志貴皇子は飛鳥生まれです。わずか指呼の間、手をかざせば新しい宮殿が見える距離です。
明日香風も古代の事情を乗せ、時代を超えて白山手取川ジオパークの故郷に吹いて来るようです。
写真/平山郁夫筆の藤原京絵図(高岡市万葉記念館)。藤原京に遷都する前の旧都・飛鳥の地に立って、志貴皇子は万葉歌「采女の 袖吹きかえす 明日香風~」を詠みました。その胸の内には母への想いが流れていたのでしょうか。
扇が丘キャンパスで見つけた!ニュートンのリンゴの木
2023年6月14日
今年もキャンパス内にある「ニュートンのリンゴの木」(子孫です)にたくさんの実がなってます(^^♪
まだまだ青いけど、これが真っ赤になるのが待ち遠しい~
大学内なので、採っちゃだめですよ!
でも見るのは全然大丈夫だから、どこにあるのか言わないので、探してみてね
(なかにしみき)
2023年特集「大地有情、風に事情」第11回 無情の七重塔 6月12日放送
2023年6月12日
加賀立国1200年・白山手取川ジオパーク世界認定記念特集
「大地有情、風に事情」~FM-N1末松廃寺取材チーム・メモ~から
「永瀬喜子の今日も元気で」(毎週月曜9:00~10:15)で4月から放送中
第11回(令和5年6月12日放送) 「無情の七重塔」
ユネスコによる白山手取川ジオパークの世界遺産認定は、とりもなおさず扇状地流域の開拓に難題を突き付けてきた故郷(ふるさと)の苦闘の歴史も認定した、と言ってもいいのではないでしょうか。野々市市の末松廃寺建立をシンボルとして、律令政治が確立する直前に中央集権国家の意思を持って、荒涼とした扇状地の耕地化を成し遂げた記念碑的事業でもあったと思います。
1966年/昭和41年から、国の手によって開始された末松廃寺の発掘調査は、廃寺の全貌を知るために現在も続けられています。660年/斉明6年から建立が始まった末松廃寺は7世紀の第3四半・675年頃までには完成して、8世紀の初めには一旦、廃絶しています。その後、8世紀の中頃には再建された、と見られています。
仏教寺院の中枢伽藍は本尊を安置する金堂と、お釈迦様の骨を納める塔とされています。末松廃寺は西に金堂、東に塔を横一直線に並べた伽藍様式から法起寺(ほうきじ)式の寺院とされていますが、その中で、最大の謎とされているのが仏塔の問題ではないでしょうか。
2009年/平成21年に発行された文化庁の発掘調査報告書「史跡 末松廃寺跡」によると、塔を乗せる基壇の大きさは一辺の長さが10.8mあります。塔の部分は方三間と言いますから、一辺の柱の数は4本で、柱の間が3カ所あるということです。柱間の広さは3.6mとなっています。単純に数字を当てはめれば七重塔の威容を示していますし、基壇も塔を乗せるには十分な大きさである、としています。予想を超える余りの大きさに、西に隣接する金堂に接近しすぎる配置となって、伽藍全体では手狭な印象を与えているのです。
ここで、最大の謎が生まれます。古代の寺院における塔の建築方法は、まず塔の中心を貫く心柱(しんばしら)を建て、最上部に法輪と金属製の台である露盤を置きます。次に最上階の屋根から順次、心柱に取り付けて、吊り下げてゆくのです。言い換えれば、心柱一本で七重の屋根のバランスを取りながら支える構造になっています。
高くなればなるほど、当然のように心柱はふらついてきます。このふらつきを抑えるために各屋根の上に瓦を葺いて重量を重くし、下へ抑え付ける力を増すことで安定させているのです。塔の外壁を取り巻く柱は補助的な役目でしかありません。
末松廃寺の場合は、塔の周辺からは全くと言っていいほど瓦が出土していません。西隣の金堂周辺からは大量の瓦が発掘されているのとは対照的です。瓦がなければ七重塔は立ちません。綺麗好きな誰かが居て、周辺の瓦を片付けたのでしょうか。
さらにもう一点、瓦に続く難問です。塔の屋根を吊り下げる心柱ですが、この柱を支えるための土台、心礎(しんそ)と呼ばれる石を塔基壇に据えます。末松廃寺の場合は手取川の転石である安山岩を使っていますが、心礎の上部を心柱の太さに合わせて穴を穿(うが)っています。穴の直径は58㎝でした。全国の塔を調査した結果から導き出されたデータは、直径の約40倍が塔の高さと言っています。つまり末松廃寺の塔の高さは23.2mにしかならず、これは三重塔の高さです。三重塔であれば瓦を葺かずに建設することは可能ですが、七重塔を支えるには細すぎます。ちなみに、現存する三重塔の中で最古のものは、末松廃寺の伽藍配置様式モデルとなっている法起寺の三重塔で、706年/慶雲3年に完成し、高さは約24mとなっています。
また、塔の北東側から幢竿支柱(どうかん・しちゅう)の跡が検出されています。幢(どう)とは仏事に使う旗で、竿(かん)とは装飾した旗を下げる竿(さお)のことです。この旗竿を立てる時には竿(さお)の左右から支柱を添えますが、この支柱の穴が見つかったのです。仏事が未完成の寺院で執り行われる、とは考えられませんので、末松廃寺は完成していたのではないか、と思われます。つまり、中心伽藍である塔も建立されていたのです。
ここからは、FM-N1末松廃寺取材チームの推理になりますが、塔基壇と塔の底部は七重塔の規模で、高さが三重塔の姿ではなかったか、ということです。三重塔でありながら屋根は横に大きく張り出した姿です。安定感があるというか、縦方向に押しつぶされたというか、独特な形を想像するのです。
当初は七重塔を企てながら、結果としては三重塔にならざるを得なかった、と思うのです。では何故なのか。下手な推理が続きます。
末松廃寺の建立は西暦660年から始まり、完成が675年頃とされています。七重塔の謎を解く鍵は完成直前の672年にあります。古代における最大の内乱と言われる壬申(じんしん)の乱が起きています。時の政権は奇しくも、手取扇状地の開墾に総力を挙げていた天智朝でしたが、天智天皇の長子である第39代弘文天皇と天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのみこ)が戦い、勝利した大海人皇子が第40代天武天皇となります。
673年/天武2年には、飛鳥の川原寺で一切経、つまり全仏典の写経事業を起こしています。各地の豪族に氏寺造営を命じています。
天智朝との関係が深く、手取扇状地開墾に加わった江沼、加賀郡の豪族たちも好むと好まざるとを問わず、壬申の乱によって天武天皇の敵方となってしまった訳です。恭順の意志を示すため国家鎮護をうたう氏寺の造営に従ったとしても責められることはありません。
特に江沼郡の豪族たちに注目してみましょう。江沼郡の江沼平野は柴山潟の南に広がる地域ですが、末松廃寺と同時期の白鳳寺院が三カ寺集中しています。末松廃寺と同様の瓦を使った忌浪(いんなみ)廃寺、平野の南部に位置する津波倉(つばくら)廃寺、大聖寺川東岸の保賀(ほうが)廃寺です。
末松廃寺は、周辺に豪族の住居跡を伴わずに、扇状地開拓に特化した寺院の様な印象を与えますが、江沼の白鳳寺院は三カ所とも各豪族の拠点周辺にあり、いかにも氏寺との印象を与えています。これが天武天皇の仏教普及の政策と一致するものなら、それまで財部造(たからのみやつこ)から末松廃寺に供給されていた瓦の提供は、寺院完成を目前に、途絶えることも止むを得ません。
瓦が無ければ七重塔は建たず、三重塔にならざるを得ないのです。手取扇状地には飛鳥から無情の風が渡って来たのです。
写真/七重塔の末松廃寺想像図。ひところは野々市市文化会館フォルテなどにこの写真が展示されていました。柱を支える塔心礎の直径からすると、高さが23メートルほどの三重塔になります。